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彷徨する自由帖

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7月18日(海の日と、物語の話、貝と人間)

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 仕事に行くのにカレンダーを見たら、海の日だった。

 以前は7月の20日に固定されていたこの祝日。2003年からは改めて第3月曜日と定められており、それ以来、こうして年ごとに異なる日付が海の日となっているようだった。だから2022年は、18日に。

 海の日はいわゆる「海開き」ともまた違うものなので、特に決まって催される行事などもなく、かなり抽象的な祝日だと思う。海、と言われて思い浮かべるものが、人によってまったく千差万別であるように。

 

 

 私の場合、港湾都市に生まれたので昔から海は身近にあった。

 けれどどちらかというと苦手な場所で、その理由は、海に対して感じるものの多くが「癒し」よりも「畏怖の念」に基づくからかもしれない。不用意に生身で近づきたくないのだ、どうしても、油断していると不意に侵食されるような気がしてしまう。特に波打ちぎわ、柔らかな砂浜では、足元から着々と。

 故郷の港町は、わりと早い段階から埋め立てを行い、特に19世紀から大きく発展した都市である。そういう場所で育ったので、地図上の暴力的な直線で構成された海岸の形を見ると、不思議と安心してしまうのだった。海は強く、恐ろしい。容赦なく地を削り呑み込むものだから。人工の地形の方が、私には馴染みがある。

 常よりこう考えているからか、海の方でもあまり私のことを許容してくれる気がないらしく、たまに訪れるとすっかり気力を吸い取られてしまう。要するに海の側から好かれていないので、あまり行かない。

 誰かに誘われたり、偶然にも、自分の見たい何かが海の近くに存在したりしていない限りは……。

 

 そんな私自身の抱いている感覚はさておき「海」が一般的には多くの人を惹きつける場所であり、印象的なモチーフとして、沢山の物語に登場していることには疑いがない。

 つい最近、ブログにもヘミングウェイの「老人と海」を読んだ記録を残した。

 

 

 他にも、海に関係する小説の中で気に入っているものは少なくなく、あの「十二国記」シリーズを構成する「月の影 影の海」もそのうちのひとつ。作中で描かれるのは、こちらの世界の海と、時には異なる世界の虚ろな海、そして何よりも「人が身の内に抱いている海」の姿であった。

 特に好きな箇所を以下に引用してみよう。

 

人は身内に海を抱いている。
それがいま、激しい勢いで逆巻いているのが分かる。表皮を突き破って、目の前の男にそれを叩きつけたい衝動。

 

(小野不由美 十二国記「月の影 影の海」(2012) 新潮文庫 p.187)

 

 これは怒りの描写だ。海として現れる、怒りの。

 

怒りは陽子の中に荒れた海の幻影を呼び起こす。そのたびに自分が何かの獣になり変わっていく気がした。
陽子は波に揺さぶられるまま吐き捨てた。

 

(小野不由美 十二国記「月の影 影の海」(2012) 新潮文庫 p.227)

 

 このとき激情が巡らすのは血潮。その潮の文字こそはまさに海の水を意味する語であり、その満ち引きは、空に浮かぶ天体に影響を受ける。そう、タイトルにも組み込まれている月に。

 私は上の描写がとても好きで、幾度となく読み返すし、事あるごとに引用する。

 

 海に関係する本の中でもうひとつ、数日前に手に取って面白いと思ったものが、アン・モロウ・リンドバーグの随筆「海からの贈物」だった。日本語訳は、吉田健一氏の手による。

 

 

 著者は作中で、普段暮らしている20世紀アメリカの都市部から、キャプティバ島に短期間だけ移り住み、そこでの生活から掬い上げた自らの内的な考えを述べている。

 章のタイトルに象徴的に使われているのが貝で、例えば「ほら貝」の螺旋は思考回路に見立てられ、ぐるぐると巻かれながらその中心、核心へ至る様子の比喩として用いられている。そもそも全編を通して重要視されているのが、自分の精神的な活動、すなわち外的な要素ではなく内側を、いかに充実させればよいのか、という問いでもあった。

 近現代に生きる私達の精神的活動は、社会や家庭など、外的要因によって時に大きく狭められてしまう。そこで、どうすれば活動(仕事・交渉・義務、その他……)をしている最中でも、魂の静寂を得られるか。どうすれば、自分の魂にその糧を与えられるのか、と彼女は思いを巡らせた。

 

(つめた貝は)私が私の核心、また島である性格を失わずにいるためには、一週間でも、二、三日でも、一年のうちに一度は、また一日のうちに一時間でも、五、六分でも、一度は自分一人でいるようにしなければならないことを絶えず注意してくれるだろう。

 

(アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈物」(2004) 訳:吉田健一 新潮文庫 p.54)

 

 理由がなくてもひとりの時間を設け、何をするのでもなく休み、短くてもよいから「精神的な静寂」を得ること。運よく自由な時間を獲得したときに、つい何かしなければならないと考えてしまうものだが、別にそうではなくても構わない。

 何もしない休日には、何もしなかった、というだけでも実に大きな意味がある。そもそもそういった空白こそが実は重要で、あらゆる事柄から解放される瞬間を生活の中に設けることができた時点で、それは次に活動する際の魂の糧になると著者は説く。

 心の泉を枯らさないために、あえて何もしないということ。

 興味のあるものでも、好きなものでも、絶えず追いかけていたら疲れる。虚無感を埋めるかのように何かに熱中する行為は、「もしもそれを取り去ってしまったら、自分には何も残らない」と言ってしまうことに等しいから。

 

私がコネティカットに帰ったならば、私はまた、遠心的な活動のみならず、求心的な活動も多過ぎて、また、気を紛らわせることだけでなしに、やり甲斐がある仕事が、そしてまた、つまらない人ばかりではなくて面白い人も多過ぎて、その下に埋まってしまうのだろうか。

 

(アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈物」(2004) 訳:吉田健一 新潮文庫 p.119)

 

 リンドバーグ女史は、物質や情報が余剰であることや、異様に氾濫していることに対して敏感だったのだと「海からの贈物」を読んでわかる。

 もちろん生き方に正解などなく、答えもないが、現代社会の中で大きな精神的疲労を感じたとき、私達は自分で自分を必要以上に追い回していないか考えてみても損ではないのだと言われているよう。

 私はごく個人的に、どうしても求めたいものや出会いたいもののために奔走しているから、むしろ休んでいるのが苦痛だと思える場面が多い。けれど、上のような思考に割く時間の余地だけは確保しておくべきなのだろうとぼんやり認める。おそらくは、虚無から逃れるように駆け抜けていった先にもきっと、虚無に似たものが待ち構えているのだから、なおさら。

 

 今日は海の日だから、こうして海にまつわる事柄をブログに書いた。

 

波音が私の後から聞えてくる。忍耐、——信念、——寛容、と海は私に教える。質素、——孤独、——断続性、……。しかし私が行ってみなければならない浜辺はまだ幾つもあり、貝殻もまだ数種類もある。
これは私にとって、そのほうへ一歩を踏み出したのに過ぎないのである。

 

(アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈物」(2004) 訳:吉田健一 新潮文庫 p.128)