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ル・クルーゼの鍋の伝説

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北海道一人旅記録

旭川空港にて

 

ル・クルーゼの鍋の伝説

 

 LE CREUSET

 認識できても意味の判然としない言葉は、石板に刻まれたいにしえの呪文と同じ趣をまとって、視界に入る文字列。また、未知ゆえの謎めいた、奇妙な響きで耳に届く音でもある。

 そんな「ル・クルーゼ」は、私が最近手に取った複数の小説の中に、偶然にも立て続けに登場した道具が冠していた名前だった。あれ、さっき読み終わったやつにも出てきたような……と、本棚の前でページをめくったら、確かに記載されていた。

 いずれも現代が舞台の物語で、登場人物は「ル・クルーゼの鍋」というものを欲しがったり、実際に手に入れて使ったりしている。本文の各場面ごとに、特に品物について説明を必要としていなかった部分からも、それはかなり人口に膾炙している存在なのだと伺えた。

 

 問題は、私がそのことを知らず、ル・クルーゼというのが果たして何なのかを把握できていなかったことで、さながらそれが神話や伝説で語られる類の遠い存在なのだと感じられてしまう部分にあった。

 名前だけどこかで聞いたことがある気がするけれど、具体的にどういうものなのか、さっぱり頭に浮かばない。そういう種類の物品は、幼い頃に色々な本を通して触れた、あれらと似ていた。例えば、聖剣エクスカリバー。ゲオルギウスの槍。アロンの杖。ここではない時代や場所の出来事を記した本に登場する、特別な道具。

 ル・クルーゼの鍋、も、当時の自分にとっては同じような響きを持つ存在であった。

 

 無論、調べれば、ル・クルーゼがフランスにある会社の保有する商標であり、その名の下で調理器具や食器など、幅広い台所用品が製造販売されているのだとすぐに判明する。外観に特徴があるため、画像のサムネイルを見ても「あれ」だと分かった。正式な名前を知らなかっただけで、実際、店頭に並んでいるのは幾度も目にしたことがあったのだから。

 どれも綺麗な色と質感をしている。金属に、いわゆる琺瑯加工を施された道具は、機能的であるだけでなく、見た目も、指先の爪でつついた時の音までも美しい。

 台所に彩りを求める、小説内の登場人物たちがこれを気に入っていたのも理解できた。もしも自宅が完璧に片付いていたら(という部分が、もちろん一番重要で)私もいくつか購入したいもの。そう、通販サイトを眺めていて思った、黄緑色のやつがいいな、と。

 

 旭川空港で黙々と腹ごしらえをしていたとき、不意にそれと邂逅する瞬間があった。

 羽田を発ってからおおよそ1時間半。首都圏から北海道の中心部まで、航路の発達により、どれほど体感距離が近くなったことか。

 到着後、2階にカレー屋があると聞いた私は喜び勇んでエスカレーターに乗って、レジで流れるように注文をし、差し出された呼び出し番号の札をわし掴んだ。カレーが好きなのだ。基本、客が給仕される形式の飲食店にはまず一人で入れないのだけれど、空港や高速道路のSAにあるフードコートはセルフサービスだから、気楽でいい。あの名状しがたい心細さを感じる必要がない。

 幸いなことに、カレーは美味しかった。基本的にまろやか、クリーミーでありつつ、滲み出るようにやってくる辛さの刺激があって、溶け込んだ具材の風味が海老やご飯にもよく絡む。最終的にお皿の上には何も残らず、短時間ですっかり更地になった。

 

 

 おかげで、というべきか、食後にアイスコーヒーを飲んでいた私の目が、突然あの文字列を捉えた。

 LE CREUSET

 宝石のような深い赤色の、食器の表面からぷくりと浮き出すようにして刻印された、アルファベット。円周を飾るシンプルな線の装飾がそこだけ途切れて、文字を納めるスペースになっている。カレーの横に盛られたご飯とサラダに隠れて、今までまったく見えていなかった場所に。

 ル・クルーゼ。

 これはあの、本物の、ル・クルーゼの皿なのだ。

 

 思わずスプーンの先端で文字をなぞった。かすかに金属的な音がする。実に思いがけないところで、伝説の品を発掘した……そんな気分になりながら、私はしばらく座っていた。

 なんとなく記憶を探る。アイスコーヒーのプラスチックカップを意味もなく両手で抱え、福岡市博物館に所蔵されている、かの有名な「金印」を思い出していたのだった。その発見の経緯については資料が少なく、諸説あるが、一応は農作業の最中に水田で見つかったものだとされている。箱の中に納まって、大岩の下に埋められていたのだと。

 金印の発見者も当時はこのような気分でいたのだろうか?

 予想もしていなかった場所から、何かが出土して。

 今回の旭川空港での食事をきっかけに、ル・クルーゼの存在は私の中で、身近なものに変わった。もう神話や伝説で語られる類の遠い存在ではない。どこかで語られていても、どんなものなのだか、すぐ脳裏に描ける。実在し、実際に使われているのだと肌で理解したから。

 

 北海道から帰ったら、試しにひとつ、皿の1枚でも買ってみたらどうか? というお告げかもしれない。

 しかし一体何からのお告げなのか。天なのか。

 そこまでは、あいにく分からなかった。

 黄緑色のお皿かお鍋を買おうかな。

 

 

旭川空港2Fのカレー店: