chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

旭川遊歩の回想、とめがき【1】出来秋の紅輪蒲公英

※当ブログに投稿された一部の記事には、Amazonアソシエイトのリンクやアフィリエイト広告などのプロモーションが含まれています。

 

 

 

 

 

 晩夏も過ぎた頃の旭川に4日間、いた。

 合計で3度の夜を越したと書こうとして、辞書を引いたら「夜越(し)」なる言葉が存在していたのを知る。その意味のひとつには「夜中に山河を越すこと」があったので、ぼんやり光景を想像し、仮に可能ならぜひともそうしたかったものだと短い滞在を振り返った。

 北海道にある雄大な川や山を、陽が沈み切った後、ただ黙々と越えていく。夜闇に鞄ひとつだけを携えて。

 それは魅力的な行為であり、瞼に浮かぶのは憧憬を誘う一幅の画であった。

 しかし想像できるということは、おそらく現地で私が寝ていた間、半宵にふと身体を離れた心の一部は「実際に」そうしていたのだろうとも思う。本当はもう知っているはずなのだ、夜中に山河を越して往く感覚を。夜に見る山の影は、頭上に広がる空の闇よりずっと暗い色をしていることも、滔々と流れる川の水が、月下では不思議なほど粘性を増したように見えることも……。

 だからこそ辞典のページに挟まっていた言葉を引き当てることになったと考えれば、強引な辻褄合わせになる。

 

 回想をする頭の中で、あの日快晴の羽田空港を出発した航空機は、また雲に覆われた旭川空港に滑り込んだ。自分は上からそれをじっと見る。おもちゃみたいなスケールの翼は力を入れたら折れそうだから、つつきたくなる衝動を抑えた。

 4日間で太陽はせわしなく、顔を出したり、隠れたり。

 けれど総じて雨が多く、ゆえにホテルの部屋へ帰るたび浴室の内側でこうもり傘を広げ、濡れた表面を乾かしたのを憶えている。

 

 

 田では稲刈りを目前に控えた季節だった。

 昔、北海道で米は育たないと言われていた時代の様子を語る本から顔を上げて、空港を出たバスの窓越しに道路脇を眺めた。すると豊かに実り、重く頭を垂れる黄色の穂が視界一面に広がる。寒冷地でも逞しく生きられるよう品種改良された彼らは、風にそよぎながら本州の土地や、あるいは日本列島に稲作が渡来する以前の、大陸のどこかをその夢に見ただろうか。

 房をゆらゆらさせる稲を凝視していると、こちらもつられて眠くなってくる。米に意識が食われるみたいに。

 広大な面積の田畑の切れ間、彼らが私達に見せる夢がさめるところには、点々と民家や倉庫があった。私は倉庫類の屋根の中でも形が半円の「まあるい」ものと、腰折れの「かくばっている」ものが特に好き。

 後者にはギャンブレル屋根という呼称がきちんとあるのを少し前に学んだ。正面から対峙したときの姿が、まるで将棋の駒みたいなやつだ。ここ以外にも本州、北関東から東北地方にかけてもわりとよく目撃できる、雪深い地域の農地および牧場のアイコン。ガラスを挟んでそれらを指でタップしたら、牧草が収穫できるかもしれない。

 

 旭川では、鉄道駅のある市街地中心部に近付いても、ときどき同じ形の建物を見ることができた。

 空港からのバスを降りたら今度はしばらく歩く。

 明治時代に植樹が始まった見本林のあるところまで行って、敷地内の三浦綾子文学記念館に寄り、駅まで戻ってきた。詳細は後で彼女の旧宅(移築復元)に立ち寄った際の記録と一緒に、以下の記事に残している。

 

 

 見本林はなんともいえない不気味さ、怖さもありながら、空気や風の音が美しい場所。

 ふつうのカラスと「ちょっと変わった鳴き声のカラス」が行き交って、言葉の応酬をしていた。彼らの意図や鳴き声の意味を解する能力があったらおもしろそうだけれど、そうしたら多分、人は正気ではなくなる。

 

 

 辿り着いた線路のそば。忠別川を流れる水の色と、そこにかかる氷点橋のそばに植えられていた木の葉の色がよく似ていた。近隣を流れる美瑛川は彩度の高い青色をしているが、忠別川にはまた違った特徴がある。

 翡翠を思わせる、きれいな緑とごく淡い青色の中間色。かつてはこの大地の東、昆布が有名な日高で「日高ヒスイ」と呼ばれる岩石が産出され、大きな注目が集まった時期もあったらしい。旭川とは関連の薄い事柄であるものの、翡翠という石の特徴である色彩は不思議とこの街の印象というか、雰囲気か何かによく馴染んでいる。

 そんなことを考えて旭川市博物館に立ち寄ったところ、現存しない旧市役所の模型に出会い、当時の建物が本当に「そういう緑色」をしていた、と判明したから面白い。

 明治43(1910)年に建てられ、町役場、区役所、市役所と3つの異なる役割を引き受けた木造の建物。下見板張りの外壁と上げ下げ窓、半分に切ったのり巻きを連想させるドーマー窓が特徴で、入口上の塔屋にはおなじみの「五稜星」が輝く。

 

 星の意匠。

 これは漠然とした星の概念ではなくて、かつて和人がこの地に設置した開拓使が使っていた旗の、北辰(即ち北極星)を表す図案から採用されたものである。

 

 

 星は目印になり得るが、この散策は別に、星を指針に据えた旅行の一環なわけではない。

 

 指針といえば。出発前の背嚢にものをどんどん詰めているとき、何を考えていたのか思い出した。

 私にとって荷造りはかなり煩わしい、苦手な作業だけれども、そこには「数日間の遠出に必要なものだけを厳選してまとめる」という明確な目的がある。加えて鞄の容積や、自分が持って歩ける重さの限界など、質量面での制限もあるため、迷うことがあったとしても比較的すぐに諦めがつく。持参できないものは持参できない……と。

 旅先で費やす時間や金銭にも似たような基準が適用できる。私は会社員なので、予算も休日も無尽蔵に湧いてくるわけではない。

 結果、自宅を発ってから帰路につくまでの限られた区分の範囲内で、今日は何をして明日はどうするのか、それだけに注力する必要に迫られる。毎日こんな風に過ごしていては到底生きていられないから尚更、目の前に横たわる事柄のみに取り組む旅行中の「特殊な状態」というのは、貴重なものなのだった。

 

 明後日……数週間後……数年後……あとは老後とか。

 気が付けばこういう、いつか本当に訪れるのかも、存在するのかどうかすらも分からない「後」の展望に翻弄されていることがある。他人や社会から不要な行動を促されたり、無用の概念を押し付けられたりすることも。

 そんな諸々を無視して「次の土地へ向かう列車に間に合わないので」と言い、夜中、背負った鞄と共に空想の山河を越えてゆく感触だけが、確かな真実となる一瞬がこの世にはある。

 

 

 旭川の道端に咲いていた、自宅の周囲では見たことがない花。

 調べたらコウリンタンポポ(紅輪蒲公英)といって、元はヨーロッパ原産の外来種なのだそうだ。果てに位置する土地柄からだろう、北海道内でこれをよく見かけるのは。そこから本州に広がって、東北地方にも分布している様子が見られる。

 神奈川の田舎(森に囲まれた町)育ちだから、知らない野草が生えてるとむしろ気になって凝視してしまう。小学校ではセイヨウタンポポとニホンタンポポの見分け方を教わったし、ワレモコウの葉を揉むとスイカに似た香りがすることも、ホトケノザの花の蜜はわりと多めに吸えることも、実体験を通して知っている。

 コウリンタンポポに関しては幼い頃遊んだ記憶が全くないので、やはり関東、私の住んでいた地域にはあまり生息していなかったようだった。

 

 

 とめがき【2】に続く

 

 このとき「蛾」の大量発生に遭遇した記録: