終わらない夜の思い出
Ⅰ. 夜の村
大通りにも路地にも、人っ子ひとり歩いていない。
「……静かに。隠れていて」
「悪いひとが来るよ、怖いものも来るよ」
村の家という家がそう人々に囁いて、門や戸口のずっと奥に、すべてを鎖し籠めているみたいだった。クリスマスリースの形をした扉の護符とともに。あれは強力な魔除け。棘が特徴的なヒイラギの葉に赤いリボン、あとは小さなベルも添えられて、綺麗な円環に閉じられているもの。
玄関の飾りは、聖書にある「過越」の故事みたいだとも思える。2本の柱と鴨居に血の印をつけておいた家は、神の送り込んだ災いを免れた。
そういうものなのだ。
だから、目的地を持たぬ私たちは、魔除けのせいでそこへ入れない。
単純に扉へ近付くことすら難しい。
村に到着する前、シートベルトにゆるく拘束されて眠っていた私は、隣の運転席から発される男の声で目を覚ました。
意識が浮上したものの目はあけず、体全体に伝わる車の振動と、耳から侵入してくる音だけを追う。ラジオから、Clean Banditの楽曲が流れていた。
さほど寒さを感じないのは車内の暖房に加え、朝に下宿先を出てからかぶったままの毛糸の帽子、羽織ったままのコート、加えて革手袋によるところが大きいらしい。別に、誰かと同じ空間にいるからでは、多分ないだろう。
それにしても、笑い声とは。
隣にいる人間と実際に会うのは当時まだ数回目で、普段からひとりでいるときに声を出して笑う類の者なのか、それとも運転中に何かを見て、または思い出して笑っているのか、判然としなかった。
だから私は首を窓の方に預けたまま、緩慢にどうかした、と尋ねた。
「前、前」
前。
返ってきた言葉には方角以外の情報が何も含まれていなかったので、私は瞼を開く。フロントガラスとその向こうに動く世界が現れる。やがて状況を把握して、文字通りに瞠目し、相手と同じように笑った。
あまりに濃く深い霧でほんの数メートル先も見えない。
剣先のような、白色のヘッドライトが無慈悲にもやもやした壁に吸い込まれ、いかなる獲物もとらえられないまま、ただ向こうへ真っすぐに伸びている。幸いにも道路は崖の縁に位置しているわけではなく、また、仮に対向車がやってきても避けられる程度には幅が広かったので、車の走行は続けられていたらしい。
ひとりで笑い出したくなる気持ちが分かった。そうでもしないと、正気を失いそうな光景だったから。
時計を見ればさほどに遅い時刻ではなく、けれども曇天のせいで周囲は暗く、霧もいっそう濃度を増しているようだと思えた。
こんなに目の前の状態が安定せず、曖昧な場所を走る自動車に乗せられるのなんて、初めてだ。不本意ながら、それが私と、隣の人間との間に横たわっている関係性にずいぶん似ていると考えずにはいられない。
暗中模索どころの話ではなく、本当に、お互いほとんどのことを知らない。
そんな状況がおかしかったから、今度は声や表情には出さず、心の中だけで笑ってみた。
湖水地方の片隅にある宿へ到着する前に、晩の食料が要るので道中でいちど下車した。
掲げられている「メリー・クリスマス」。
空はもう闇色で、どこかに立っている地名のプレートすら見逃したまま、名も知らぬ静かな村を練り歩いた。
欧州のほとんどの地域で最も長期にわたる休暇のさなか、表にこそ誰もいないが、田舎でも大抵の食料品店は8時くらいまでは営業しているものだ。それこそ、クリスマス当日でもないかぎり。近年は特に。
適当なものを買い込んで車に載せ、今度は酒類を調達するため、また異なる店へと向かう背中についていく。
私は嫌いではないもののあまりお酒に興味がないから、ずらりと色とりどりの瓶が並ぶ棚の前で、あのラベルの絵が綺麗だとか名前の響きが面白いだとかしきりに呟きながら、暇をつぶしていた。
そのうち、まあ何でもいいんじゃない、しか言うことがなくなるまで。
購入したものの入ったビニール袋を下げて、私たちはすぐに車に戻らず、なんとなく並んで村内の道を黙々と闊歩する。
目的のない散歩だ。
カーテンの向こう側、窓の隙間から談笑の声が漏れ聞こえてくるかと思いきや、特にそういったことはなく、ほとんどの家には穏やかな時間が流れているようだった。
ドアに取り付けられたクリスマスリース。ぴったりと閉じられた、すべての扉。
私は想像する。みな、この時期に国中の町村を襲う魔物か何かを警戒して、こんなにも息をひそめて夜を過ごしているのだと。あの魔除けの護符が効力を増すように。
だからこそ、こちらは悪辣な襲撃者にでもなった気分で、コンクリートの上では大して響きもしない足音を、無駄にコンコンと立ててみる。
ね、私たち、悪いひとだよ。とっても怖いものだよ。
子どもが夜に出歩いていたら危ないよ。
蒼白、淡黄、軒から吊るされた色違いの電飾はさながら人魂のよう。
プリースト・ホールを店名にしているとは、かなり興味深いレストランだと思った。こんなに堂々と名乗っていたら、文字通りに裏で司祭をかくまっていることがすぐに露見してしまうし、瞬く間に追跡者による捜索の手が伸びるだろう。仮に、16世紀半ばであれば……。
これにはニコラス・オーウェンも涙目になるはずだ。
私はまた、笑い出したくなる。
隣の人間に話しかけたくもなる。
……みんな、扉に護符を下げて警戒しているね。お家に忍び込むのは無理そうだな。間違って外を歩いている人間がいたら、捕まえて食べてしまおうよ。お腹が空いたし。
それとも寒さが気になるなら、この瓶の中身を全部ぶちまけて、おもむろに火を放ってみるのもいいかも。アルコール度数の低いお酒でも、点火すれば普通に燃えるんだって。試してみない。そうしたら、石と木でできた古い建物って、一体どんな風に姿を変えるんだろう……。
ね、私たち、うんと悪いひとになろうよ。とっても怖いものになってみようよ。
森に棲んで、ユニコーンとか狩ったり、その銀色の血を飲んでみたりして。
霧の濃い冬の日はお昼頃に起きて、大きな湖でも見に行こう。
記憶の中ではふたりの人間が永劫に開けない夜を歩いている。
底のない憂鬱を確かに知って、けれども一向に、退屈など覚えぬまま。
Ⅱへ続く