前回:
飛行機は定刻どおり、17時半頃にバンダラナイケ国際空港に到着した。現地では雨が上がったばかりで、降りた場所から空港の建物に向かうバスの中、窓越しに大きな虹が見えたのを覚えている。
しかし覚えているというのは嘘かもしれない。この旅行記に着手し始めたとき、そんなことは記憶の表層に浮かび上がってこなかった。知ったのは、自分の旅行中のメモに「空港着、虹を見る」と書き残されていたからだ。それで振り返ったら、まあ確かにそうだったような気がした。忘れていたも同然なのに。
過去の私が嘘をついていないとはいえない。ひとは1日の内にも、何度でも無意識に嘘をついている。自分に対しても他人に対しても。そして虹を綺麗なだけでなく、不運や不吉の象徴だと捉える文化圏も地上には多くある。
約9時間半のフライト、機内では映画を鑑賞したり、素晴らしく絵が上手だった昔の友達のお気に入りのアルバムを聴いたりしていた。ほとんど眠らなかったような気がする。目を閉じて眠ろうとしても、いつも上手に眠れない。
睡眠に上手いも下手もあるのかと聞かれたら首を傾げるが、仮にあるのだとすれば、自分はあまり上手な方ではないのだとなんとなく思う。地上でも空中でも変わらず。旅行の際は、鉄道なら下車する直前に最も眠くなるし、バスでも、目的地に近づく頃に最も眠くなる。そのせいで後で疲れるというのに救えない。
バンダラナイケ国際空港の規模は小さく、特に迷うことなどなかった。入国審査を行うフロアの近くにお手洗いがある。出国前にオンラインで記入した入国カードの番号を印刷して控えていたけれど、提示は求められず、ただスタンプを押されてゲートを抜ける。2024年10月時点で、短期観光ならば滞在ビザはいらなかった。
その後、日本円3万円をスリランカルピーに両替したあとで運転手兼ガイドと合流した。名乗り、挨拶をする。今回は移動に車を使うのである。約5日間という短い日数で、ハイ・グロウンからミディアム・グロウンの主要な紅茶の産地をぐるっと巡るのには、これが最適で。公共交通機関のみのでは難しいルートだった。
夕方らしい様相を展開していたうす茜色の空は、青みがかった鼠色に変わって、すぐに黒く、暗くなる。そうして夜が来る。雇った運転手が果たしてどのような人柄か、どのくらい信頼できるのか、どういったコミュニケーションをとるタイプの人間なのかがまだまったく分からないので私は様子を伺っていた。人間。他者。異文化。第二言語。初対面の誰かと同じ空間で過ごすのはとても難しい。
基本的に気楽なひとり旅で大切なのは常に警戒することで、この場合、絶対に眠ってはならない。コロンボからキャンディまで約3時間、まずこの道のりを堪える必要がある。今回のように初めて訪れる国ならまだ簡単なのだ。窓の外を眺めて、視界に飛び込んでくる全てが新しいので、退屈せずにいられるから。
道中で運転手が軽食とライオンビールを買ってくれた。丸くて平たい揚げ物のように見える。噛むほどに染み出る、「苦手な方のエビ」の味……「好きな方のエビ」の味とは違ったが、きちんと食べられたのは幸い。一般的な味がした。
どちらもありがたく受け取るも(どうせ最終日にまとめて支払いをする)、初対面の人間にアルコールを薦めてくる行為は個人的に「減点」案件なのだが……。この時の私の直感は正しく、申し訳ないのだけれど運転手の性格は私と相性が悪かったので、どれだけ向こうに悪意がなく親切にしてもらってもぐったり疲れてしまったが仕方ない。個人で旅行するとは、往々にしてこうなることを意味する。安全に終えられたのだから良しとする。親しみやすさと馴れ馴れしさは違うのだ。
しかし資格を持つガイドさんではあるので、目的地に向かう傍らスリランカについての基本的な情報を簡潔に教えてもらえ、おとなしく耳を傾けているうちにあっという間に到着した。
ここはかつて存在した、キャンディ王国(多くの呼称を持ち、場合によってはカンダ・ウダ・ラタや ウダ・パスラタなどと呼ばれてきた)の首都。ライトアップされているのは仏歯寺——ダラダー・マーリガーワ。世界各地にある仏舎利を安置した寺と同じく、しかしここでは部位として特筆すべき、ブッダの歯(犬歯)が収められているとされる宗教的な聖地である。王権の象徴であったために、当初アヌラーダプタにあったその所在地は後にポロンナルワへと移り変わり、最終的に現在のキャンディへと至った。
寺院の近くにある大衆的な飲食店で食べた名前の分からない料理は、私がこれまで生きてきて口にしたものの中で、いちばん辛い代物だったといえる。カレーソースみたいなものと鶏肉の皮みたいなもの……ありえないくらい辛かった。黒い龍に姿を変え、口から炎を吐き出しながら、街の全てを灰にする寸前にまで意識が到達するくらいには。
もう「辛い」以外の言葉を口に出せないほどなのに、店内を見回せば周囲の人たちも、運転手も、平気な顔をして食べている。しかも量が多い。あれは私の3日分の食事量に匹敵する!! と小声でわめいたらガイドに爆笑された。土地のものをもっとおいしく食べられたら良かったのだけれど。
到着した日にこんな洗礼を受けるなんて酷だと思った。早く、紅茶を飲みたい。紅茶。紅茶紅茶。紅茶紅茶紅茶。そのために来たのだから。
そういうわけで憔悴したが、食事のあと丘の上のホテルにチェックインして睡眠をとり、目を覚まして、窓を開けて見下ろした景色には嘆息した。空港から約120キロメートルの距離、そしてこのホテルがある丘の標高は約660メートル。まあまあ高い場所まで来たのだ。私は山が好きだった。
仏歯寺で早朝のプージャ(お祈りの儀式)を見学後、ホテルに戻って朝食を摂り、少し街を歩く。
朝食の簡易的なバイキングには水牛のヨーグルトが置いてあって、おいしく食べた。甘みよりも顕著な酸味があり、爽やかな感じ。疲れた口と胃が浄化されるような気がする。過去、千葉にある農場兼宿泊施設のKURKKU FIELDSで「水牛のミルク」を飲んだことがあるのだが、それは非常にまろやかで甘かったので、なるほど加工されるとこんな風に味わいが変化するのかと思った。
散策の際に気になったのは街を歩いている野良犬の多さ。どこにでもいる。わんさかいる。いずれの個体もおとなしく、各々気ままに動いたり寝転がったりしていた。通行人も彼らにそこまで構わず邪険にもしない。よくよく観察していると首輪こそつけていないものの、地域犬のように世話されているものもわりといるらしかった。ガイドに尋ねると基本、スリランカではひろく仏教の考えがベースにあるので、生活の中で動物たちを重んじる意識があるのだという。
かくいうガイド氏本人はキリスト教徒らしいが、仏教寺院でもヒンドゥー教徒寺院でも手を合わせていたので、そういうスタンスなのだろう。よく分かる。途中、イスラム教のモスクも見た。幾何学的な意匠が美しく、プレートに1913年と記載されている。エジプトやウズベキスタンでもあまり見かけなかった佇まいだった。
キャンディ中心部にある古い、英国植民地時代に建てられたコロニアルスタイルの宿泊施設はクイーンズホテルという。個人的に好きな「偽物の自然」の風情ある人工池の周辺を歩き回っていると大通り沿いに見えてきて、外壁が白く、規模も大きいのでよく目立った。有名なエサラ・ペラヘラ祭の時期などは特に予約で溢れ、行列が見える部屋の値段も高騰するのだろう。
イギリスとセイロン島との関係はいうまでもなく紅茶産業と密接にかかわっており、その影響は、スリランカ独立後の現在に至っても著しく残る。英語が使用される場合はたいていイギリス英語で、特定の単語の綴りや発音は、何年かロンドンにいた私にとって馴染み深いものだった。センターはcentreと書くし、scheduleはシェジュールと言う。無論、もっと若い世代の人たちはきっとこの限りではない。
かつてセイロンと呼ばれていたこの国では18世紀にオランダがコーヒー栽培を始め、19世紀にイギリスも農園を開いた。そう、1802年にオランダからイギリスへと統治が移り変わった頃、主要な産業と言えば「セイロンコーヒ」ーだった。その13年後にここキャンディ王国が侵攻を受け、栽培に適した数千エーカーの土地がまた新たな農場となったのだが……。
成長著しかった珈琲産業が頓挫し、紅茶の生産へ舵を切るきっかけになったのが1867年頃に発生した「さび病」だったとされる。ここまではよく耳にする歴史の経緯であるが、背景を鑑みるとずいぶん都合よく発生した病だなと思われてならない。購入した本を読みながら思いを馳せる。
それについても考えるために、市街地から南に3キロほど離れたハンターナへ移動した。ここは紅茶博物館(セイロンティーミュージアム)。ちなみに入り口前で寝ていた上の写真の犬、数年前に撮影されたと推測される画像にも写り込んでいたので、ずっと同じ場所に住んでいるらしい。小綺麗でとても可愛かった。
むかし実際に稼働していた4階建ての紅茶工場を改装して作られた博物館では、イギリス製の過去のマシーナリーや動く工場のミニチュア、またジェームス・テイラーにまつわる資料などをガイド付きで見学できる。わりと朝早かったので職員さんに「あなたが今日最初のゲスト!」と言われた。入場料は1000ルピー(2024年10月時点)で、1杯の紅茶付き。
近代遺産&機械萌えの私にはかなり楽しい施設で大満足だったが、現在のセイロンティーについて学びたいのなら退屈と感じる人がいるのも理解でき、アンティークな雰囲気を好む方へ特におすすめする。袋に入った「数十年モノの茶葉(1944年産)」も展示されていて、どうにかして飲めないものかとジリジリしていたら職員ガイドが笑っていた。多分、飲めたものではないのだろう。かろうじて保存してあるだけでだいぶカビていそう。
百年以上前の紅茶製造にかかわったふるいや乾燥機、ローラーほか機械類は「リトル・ジャイアント」といった名前からして楽しいし、具体的に馬何匹分の力を出せたのかなどを解説で聞くことができた。
実際に使用できる、この最高の手動エレベーターに乗って移動しながら考える。さび病の話に戻ろう。
一般に、さび病によってコーヒーの生産が困難になったため「仕方なく」紅茶へと視線向けられたのでは、と思われることも多いが、実際は病の発生後も、1868~72年までのセイロンコーヒーの輸出量を平均すると約4万7280トンあった(合同フォレスト『セイロンコーヒーを消滅させた大英帝国の野望―貴族趣味の紅茶の陰にタミル人と現地人の奴隷労働』(2013) 清田和之 p.67)。ブラジルなど他の地域で起きた大規模な霜害による農園全滅と比較しても被害は比べるべくもなく、やはり生産できなくなったのではなく、あくまでも障害となるそれを渡りに船として茶樹の栽培に舵が切られたと考えられる。
そもそもスコットランド人のジェームス・テイラーが主導したルーラコンデラの農園は、1850年代から紅茶に興味を持っており、その需要の高まりと生産にかかる労力の軽減からイギリスにとってはむしろ歓迎される動きであった。だとすれば、コーヒーの樹を死滅させる病の出現は故意に引き起こされたものではないのかと少し疑ったが、前述したとおりその発生後も豆の生産自体は続けられていたのだから別にどちらだろうと変わらない……というのが結論になりそうだった。
つまりこれがなくても何かと理由をつけて紅茶の生産は推し進められただろうし、さび病のせいでセイロンにおけるコーヒーが作れなくなったわけではないから、遅かれ早かれ転換は行われていた。インドでの機械化・効率化された紅茶製造の技術、近代の植民地における大規模プランテーションがスリランカに持ち込まれ、大規模資本主義的な農園の在り方や労働環境などの問題も顕著になっていく。
それらについて、後日更新するこの旅行記の続きでも言及する。
さて、紅茶博物館の入場料に含まれているお茶は4階で提供されるのだが、私は追加料金を払ってこのTea Thaliも試してみた。味はさておき、いろんな種類のお茶を試せるので参考になる。これから各所でテイスティングもしてみる予定なのでその前置きとしても。ブラックティーのOP(オレンジペコー)、BOP(ブロークン・オレンジ・ペコー)、スパイスドチャイ、グリーンティー、シルバーチップス、バタフライピー、アイスレモンティーなどよりどりみどりで飲み比べ甲斐があった。
一般に、セイロンティーのキャンディ茶葉はあまり強い癖がないのが特徴だといわれる。それゆえブレンドティーやフレーバードティーでベースに使われている場面もわりと見かけるが、どのくらい細かく裁断されているか、どの部位の葉なのか、新芽は含まれているかで風味や香りが大きく変わるため一概にはいえない。けれど確かにストレートかミルクかを問わず、また場面も選ばず飲めるような万能な印象はある。
最近飲んだキャンディではギラガマ(ゲラガマ)茶園のフラワリー・ペコが面白かった。力強いが渋くなく、後に引く風味は軽やかで。もう何度か飲んでみて味の幅を確かめたい。
博物館見学後はここからさらに標高の高い場所、ヌワラエリヤへ。
いよいよ現役の工場を見学する。
記事は(3)へ続く(後日更新)
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