『小澤俊夫の昔話講座③ 昔話のコスモロジー:ひとと動物との婚姻譚 (復刻版)』を読了。
文中でも多く名前が挙げられる、マックス・リュティの『ヨーロッパの昔話 その形と本質』を脇に置きながら。自室の本棚にあってよかった。そもそも『昔話のコスモロジー』の著者と後者の翻訳者が同一人物であった。
物語の比較研究は「こんな遠く離れた場所にも共通点を持つものが……!」という驚きをいつも与えてくれるので楽しい。もちろんこの視点に拘泥しすぎると見えなくなる箇所が多くあり、学生時代に講師から指摘された文化への眼差しを念頭に置きつつ、ここではその話はしない。
今回は特にマケドニアのおはなし〈テンテリナとおおかみ〉の終盤にも "(逃走時に)背後へ投げた粘土が沼地に、くしがいばらの藪に、石鹸が高い山になる" ……という描写があると知れて面白かった。民話〈三枚のお札〉や、『古事記』ではイザナギの逃走時にもみられるその展開を。
このあたりの描写はとても好みだ。例えばまた少し異なるけれども、グリムの編纂した物語のうち『みつけ鳥(めっけ鳥)』の話運びと、せまる追っ手を撒くための3度の変身も思い出した。
また異類婚姻譚で、人間と連れ添う相手がヒトではないとわかり、その生活を続けられなくなるパターンについて。
日本国内の「昔話」にあるその鉄則が、例えばヨーロッパ各地で、性質を異にする「伝説」として取り扱われる部分(妖精との結婚など)に共通性を持つと著者が考える箇所も興味深く……特に後者は、かつて信仰の対象であったがキリスト教により魔性・異端とされた、自然神的存在が描かれていると捉えることもできる。
動物や魚ほか、日本の昔話に登場する「正体を知られたら別れなければならない」者達と同じく、主な信仰から外された存在が経験する断絶。
そして物語である以上、聞き手が求めるドラマとして組み込まれた要素も無視できない。紡ぎ手から、語り手や受け手へと伝播するおはなしは、つい耳を傾けずにはいられれない何かを取り込んで構造を強固にしてゆく。反対に言えば、そうでない物語は時代を超えて生き残る可能性が少ない。
一方、それらの地域によく見られるものと違う形で語られた物語として、紹介されたのがエスキモーの〈かにと結婚した女〉。
この民話では大きなカニと女性との婚姻自体が忌避されることはなく、昼間は「人間の姿になったカニ」が猟に出て食べ物を調達するし、双子の男の子も生まれて、何不自由なく暮らす。ただ、覗いてはならないといわれた夫婦の部屋を夜に姑が覗いたところ、世にも恐ろしい姿の小男(かに、じゃないんだよね……)がいて仰天し、姑は死んでしまう。それだけで、彼らの暮らしはつつがなく続いた。
こうしたカニの文芸上の異形性が、かつてその生物が担っていた信仰上の神聖さの表れかもしれない、と本文では述べられる。
上と併せて面白かったのが、三浦佑之『昔話にみる悪と欲望 -継子・少年英雄・隣のじい- 増補新版』青土社。
秩序の枠に収まらない「横溢する力」の持ち主が共同体から追放される、その性質は善良とも邪悪とも言いがたく、ただ日常的な価値基準を超えてしまう点で異常とみなされること。そんな「英雄」の登場人物は宇宙の始まりや国の建立にかかわったり、人間の村落に生まれれば、己の主人を打倒して新たな長となったりする……。
足ナヅチがクシナダヒメを自然神オロチに差し出すのも、文化英雄神スサノヲに差し出すのも、彼にとっては「祀る対象」と契約関係を変えただけだと。無論この場合、娘にとっても生贄になるのと婚姻と、決定に自分の意志が介入していない点では同じことだ。
なかでも私の関心のために重要だったのは、昔話が「音声表現」により伝えられてきたものであり、そこにあらわれる要素を「言語表現の問題」として扱うと指摘されていたこと、大きくはこのふたつだと感じる。記号の話に繋がるところで。
ある物語様式の成立には確かに実際の事象、過去の状況が背景として横たわる。その上で形づくられたものを考えるとき、便宜上現実と呼ばれる領域ではなく、目の前にあるおはなしの領域に降りなければならない。
そこは、声や文字自体、それらによって描写されたもの自体でできている世界。
このものの姿は何を意味しているか、ではなく、なぜその姿で語られなくてはならなかったのか、が往々にして看過される場合が多いと思っていて。
なおかつ狭義の「語り」は、文字に比べてあまり考える時間を費やしてこなかった領域かも、と改めて感じる。もしかしたら今後は朗読にもっと触れてみるのが良いのかもしれない。幼い頃は身近だった、憶えているお話も忘れてしまった(と思っている)お話も……。
語られて残るものと書かれて残るもの、これらの性質の違い。声も文字も受け手がいて初めて継承が行われ、記録さえあれば語り手がいなくなっても、目の前に対象がいなくても、時の流れに運ばれる。けれど文字に比べると「音声そのもの」を残す手段は狭まる。どんな声音で、音の高低で、あるいは息遣いで物語が紡がれたか、これらは代替手段で表現しきれない。
きっと周囲の気温や時間帯のもたらした効果もだ。
生きた語りに直接触れる行為と、離れた場所から見て読み解こうとする行為の間には大きな差異がある。