ひとりの人間が抱ける限界まで膨らんだ大きな感情。
それが動かされるとき、私たちの眼前に目を瞠るほど美しい紋様を綾なすのは、特定の物語の中だけだ。現実ではありえない。よく似たものはたくさんあるが、残念ながら、そのうち九分九厘は偽物なのである。
物語、のなかには歴史も含まれている。
だからもう生きてはいない故人も、立派なおはなしの世界の住民だ。彼らはかつて実際に存在し、息をして、動き回り、色々なことを考えていたはずだが、その活動の軌跡はもう記録の上だけに残っている。
会ったことはないが自分と似た境遇の、どこかで生きている誰かに共感を抱き、幻想を積み重ねるのはそれなりに危険の伴う行為だ。相手は生きているから喜んだり苦しんだりもする。外観だって変化する。
だが、故人に関してはその限りでない。
もうこの世界にいないひとの場合は、あらゆる材料を集めた結果、幻想しか構築することができない。
たとえば未発見の資料が表に出て、新しい事実が晒されれば、そのひとに対して抱いていた印象や構築された像は揺らぐ。反対に言えば、それだけだ。すでに亡き故人そのものは一切動かない。
動かないでいてくれる、と表現してもいい。
思慕、崇拝、陶酔、敬愛……それら、欲望。
己が求める相手に抱きうる思いのすべて。
生きている人間に向けるには、いささか不都合が多いのだ。自分にとっても、相手にとっても。その矛先が双方に、あるいは一方だけに喜びをもたらすのか、それとも苦しみをもたらすのか、まったく分からない。誰も幸せになれないしできない。
だから私は生身の人間を愛したくない。何らかの感情を、生きているものに対して抱きたくない。
けれどそれは、私が自分の意思で決められることではないらしい。
馬鹿げている、と思う。
まさにこういうときだ。絶望でも悲嘆でもなく、純粋なる嫌厭から死を想うのは。
感情が大きく動かされるとき、目を瞠るほど美しい紋様を綾なすのは、特定の物語の中だけ。
本物の物語の中だけだ。この現実ではなく。
ほんとうに素晴らしいものは一体どこにあるのだろう?
ほんとうに素晴らしい人たちは、一体どこへ行ってしまうのだろう?
長らくそう問い続けて、ある日、尊いものを見つけた。決して手の届かない、また辿り着けもしない場所にある、乾いた海の底に沈んでいた。あらゆる素晴らしい物語はそこから生まれるのだと知った。
限られた人間だけがそこへ行く資格を与えられるらしい。
賢いだけではなく、優しい心根を持つ尊い人たちが、穏やかに暮らせる場所。ほんとうに価値のある人たちが、世界の汚濁から解放されて幸せを感じられる場所。
全部が幻想だ。
ただしこれは、生身の人間を傷つけることのない、許された無害な幻想。
私の、実体をともなう有害な欲望とは違って、誰かを喜ばせたり苦しませたりすることのない……正当性のある幻想。
もちろん、馬鹿げている。
結局、ほんとうに価値のあるものだと感じられる事象を必死で探し続けても、地上では一向にお目にかかれそうにない。
恐ろしいことに、人生が虚しければ虚しいほどに冴え、どんどん美しさを増していく景色というのがこの世界には存在していて、その前でなら膝を折ってもいいかもしれないと、少しだけ思う。少しだけ。
もしかしたら、それが「本物」なんだろうか。たとえそうなのだとしても、私には知る余地がないから、判断ができない。たぶん永劫に。
ならばどうして生きているのだろう。どうして、諦められないのだろう。
私がこうして生きることを選んでいるのは、魂に瑕疵があるからなんだと思う。
瑕疵。致命的な欠陥だ。
だから、ほんとうに素晴らしい人たちのいる場所には、行けない。