もう使いもしないのにずうっと部屋の中に置いてあるものたち。それらはだいたい、機会があれば潔く捨てようとしているものと、結局は捨てられなさそうなものの2種類に分けられる。
あるいは疎遠になってしまった友達や、知り合い。その気になれば連絡先を探し出すことは容易だが、わざわざ行動を起こしてまで維持したいとまでは思えない類の、関係性。
「いらなくなる」とは、要するにどういうことなんだろうか。
箱根の仙石原を歩いていて真新しい廃墟を見つけた。
レストラン・ペンション、丹清。色褪せた看板によれば、そんな名前をしていたのだと分かる。タンセイと読むらしい。一見するとまだ営業をしていそうな雰囲気を纏っていたから、こんな風に客が訪れない状態になったのも、さほど昔のことではないのだろう。
歩道に面した壁の側からはアーチ状に窓が張り出していて、植わったまま野放しにされている灌木が赤い花や緑の葉のついた枝を伸ばし、ガラス窓の一部を覆っている。特に、割れたり壊れたりしている箇所はないようだ。
窓と窓枠のあいだのところどころには細い蔦が絡んでおり、無理に開け放とうとすれば、きっと抵抗するようにかすかな音を立てて千切れるだろう。
私は近代建築全般が好きでよく建物巡りをするけれど、とりわけ廃墟に関心があるというわけではないので、日頃から抱いている廃墟のイメージと目の前に建っている廃ペンションの状態には大きな隔たりがあった。屋根も壁も、窓も健在で、特にどこかが崩壊しているわけではなく、きっちりと閉ざされている。
そう、閉ざされていて風雨の吹きこまない感じ。それこそが自分の興味を惹いたのだ。
外気というのは建物のどんな隙間からでも入り込むものだが、その程度が著しく少ないと、内部の空間はまるで時間を止めてしまうように思える。首を伸ばして内部を覗き込んだ。磨かれてはいないものの酷く曇ってもいないガラスは、かつてのカウンターや机の姿を比較的はっきりと透かした。
掃除さえすればまだ使えそうな、設備の数々。もう宿泊客を2階へ運ばない階段。外壁の方に視線を戻せば、洋風の瀟洒な照明が入り口の両脇に座す。足りないものは、その芯に灯す光だけのようだ。
屋根の上に半円のドーマー窓を見つけるたび、あぁ目がある、と胸の奥で呟いてしまう。彼らの表情にもいろいろある。眠そうに瞼を開いているもの、見張りのように神経をとがらせているものなど、建物の種類によって無数に。その内側から顔を見せる人間は今ここにいない。
ところでこの建物は、果たして「もういらなくなってしまったもの」なのだろうか。
レストラン兼ペンションであった丹清が廃業に至った理由も、いまだ建物がそのまま残されている理由も知らない。しばらくしたら改装して別の施設に作り替えるのかもしれないし、あるいは解体にも手間と費用がかかるために、放置されているのかもしれない。
いずれにせよ現在、この場所が積極的に必要とされているようには思えず、状態が綺麗であっても打ち捨てられている印象が拭えない。
「そこにあるべき理由が見当たらないのに何かが存在すること」を、どこか不自然だと感じてしまうのは、この身に巣食う一種の病理にほかならない。
だってそうだろう。あらゆる「理由」と呼ばれるものの性質は、結局のところ、人間の勝手な後付けに過ぎないのだから。どんなものでもただ、そこに存在しているから存在しているのである。閑話休題。
たとえ必要ではなくなってしまったものでも、すぐに破棄されるとは限らない。いわゆる廃墟のように、もとからあった場所にずっと放置されているものもあれば、自分の部屋に置いてある不要なものの中で、なんとなく捨てるのが億劫でそのままにしているものもある。
人間同士の関係でもそう。いつの間にか疎遠になって、特に連絡を取ることがなくなった誰かの電話番号だとかメッセージアプリのアカウントだとかを、わざわざアドレス帳から探し出してひとつずつ消していくなんて真似はわりと面倒だ。だから、大抵は放置することになる。
いらないけれど、そこに残しておく。同時に、残してあるからといって、別に必要であるとは限らない。
丹清の廃墟を眺めていて、そういうものは案外身の回りに多いんじゃないかと改めて感じた。
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記事冒頭にも記したように、必要とすること・されることは、つまりは一体どういうことなんだろうかと私は頻繁に考える。
昔読んでいた漫画《ローゼンメイデン》に出てくる印象的な問答がふと脳裏に浮かんだ。第3巻に収録されている、Phase17の扉絵の前に挟まれたものだ。
いらない物は?「壊れた玩具」
嫌いなことは?「不完全なこと」
怖いことは?「欠落すること」
この問答は、姉妹である水銀燈との戦闘で片腕を失った第5ドール・真紅とそのマスター、ジュンとの間で交わされた会話に添えられることで、大きな意味を持つ。
ジュンの発する不器用な慰めに対して、真紅はこう返すのである。
「う、腕なんかなくたってお前はお前だろ。誰だって不完全な部分はあるんだし……」
「でも……私は完全でなくてはならないのよ。それはあなたが人間で、私は人形だから。がらくた(ジャンク)の人形なんて、誰もいらないの」
人形師ローゼンの創りしドール達には明確な目的、存在理由がある。すなわち姉妹とのアリスゲームに勝利し、ローザミスティカを集めることで、唯一の「完璧な至高の少女」アリスに自分自身が成ることだ。
それから物語が進むにつれて彼らの出した結論とはまた別に、私はこのやり取りが好き。ヒトは決して完璧な存在にはなれないから、あらゆる瑕疵や欠点を受け入れて、不完全さを肯定して良いんだとよく説かれる昨今、そうではない性質の問題にもきちんと意識を向けたくなる。
人間にもそういう部分があるだろう。誰かや何かに必要とされるための、いわば条件。そのつど、満たさなければならないもの。
「普通のみんな」のようにはできないことがある代わりに、別の優れた能力で穴を埋めることができれば、才能を認められて脚光を浴びる。もてはやされる。けれど周囲の基準からして有益な能力を持ち合わせていなければ、必要とはされない。
そして判断されるのは、彼もしくは彼女の「できないこと」であり、何らかの「できること」はことごとく見過ごされる。
そういう、うんざりするような世界なのだ、この社会があるのは。
だから私はほとんどの物事に辟易しているし、根拠のない希望をそこに見出すことができない。積極的に、存在を支持することができない。残念なことに。
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あとは、この廃墟の周囲に生えていた名前も知らない灌木。
立ち去るとき、細い枝々が予期しない突風に煽られると、赤い花弁が枝から離れてほうぼうに散った。実際に木が生えている丹清の敷地のみならず、壁を挟んで隣り合った施設の屋根の上にも、さらにそれを超えた歩道の先の道路にも、無差別に赤の点がぽつぽつと落ちる。
否応なしに彼らを視界に収め、眺めて歩きながら思った。
植物は、その葉や花は、そういう頓着のなさが許される存在なのだな、と思ったのだ。