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彷徨する自由帖

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「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」

 

(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(2016) 高橋健二訳 新潮文庫 Kindle版)

 

 ヘッセの『デミアン』が本棚にあるはずだと思ってしばらく探し、見つけられず、そんなはずはないと念のためkindleを確認したら電子版で持っていた。実際に紙で所持している同著者の作品は『車輪の下』と『シッダールタ』で、それらと混同していたらしい。

 卵に関して言及された部分を引用したかったのは、このあいだ外で実際に卵を見つけたから。さほど大きくはない鳥の卵が、枝の巣の中に、ふたつ。

 場所は外出先のビルの一角であった。

 

 

 都市部や住宅街における鳩の卵が非常に厄介者で、歓迎されない存在(この状態にあるものを家主が勝手に撤去できない・不衛生・周辺で騒音が発生する、他……)なのは承知の上で、そこが自分の家ではないというのもあり、面白いと思ってビルのガラス越しにしばらく眺めていた。

 どうやら室外機の置ける空間が階段の踊り場から覗けるらしく、その細長くガラスの嵌め込まれた隙間は、明り取りも兼ねているのだろう、薄暗い建物の内部に光を通している。親鳥はいない。四六時中卵を温めている印象を抱いていたが、そういうわけでもないらしい。

 卵の表面は乾いているのだか湿っているのだかよく分からないなまめかしい質感で、凝視するほどに気になってしまった。殻は薄そうだが、見た感じそれなりの硬さはある。何かの皮のように柔らかくはないはずだ。爪で軽く引っ掻いたら、きっとその表面のごく細かな凹凸が指に伝わる。片手に拳を作って、思い切り振り下ろせば、ふたつともあっけなく割れることだろう。

 

 忽然とそこに配置されたように見える鳩の秘密、何かいけないものを陰からジッと盗み見ている気分になれたのは、楽しかった。野生の鳩の卵を間近で眺める機会はあまりない。本来であれば秘されているものを、不躾にも暴いているという後ろめたさ。それが何かの特権であるかのような、優越感をおぼえる居心地の悪さ。

 そのうちいそいそと巣に戻ってきた親鳥の、これといって表情の浮かべられていない、虚無的な顔や眼も良かった。鳥の多くはそういう表情をしている。彼らは世界が終わる日にも、ほとんど同じ表情を浮かべているのだろうか。

 親鳥は手前のガラスをコンコンと叩いたらかなり迷惑そうにしていた。威嚇として、透明な壁ごしにこちらを攻撃するように激しくつつく。強く。阻まれ、弾かれても、何度でも。

 階段の踊り場にはその音だけが響いていた。私もそのうち鳩の親と同じ無表情になって、ただそこに立ち尽くしていたと思う。

 

 いつのことだかは忘れたけれど。

 いつか、「卵ならば産んでみてもよい」と、口にしたことがあった。確かに。

 人間の形をしたものが人間の腹に収まっている状態はとても衝撃的な絵面で、理科の授業で目玉の解剖すらできない自分には想像するのも耐えられないが、殻付きで楕円形の、白い、つるりとした卵ならばいい……と。そう言った。

 それは寝ている間に口から生まれて、目が覚めたときには、不思議な力で枕の横にそっと置かれているものだ。もちろん、孵化させるには温めなくてはならない。掌で包み込んだり、専用に作ったクッションの上に置いたりするなどして、温度を保つ。

 やがて殻を破って生まれ出ずるものが何者なのか、定かではないところも、大切だった。人間だと最初から分かってしまっていたら、おそらく、事前に抜け目なく準備をしてしまう。何が本当に必要なのか、その存在が果たして何を求めるのか、相手に要求されるまでは決して分からないのにもかかわらず。

 

 私は私の愛する美しい魂の生き物がみな、ことごとく、卵というものから生まれていたらよかったと願っていることに気がついた。

 いや、むしろ、美しいものは、認識されない不可視の卵から生まれてきているからこそ神聖なのだと、思うこともできた。