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彷徨する自由帖

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心に注がれる氷のこと / その時によって好む色が変わる

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はてなブログ 今週のお題「下書き供養」

 

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心に注がれる氷のこと

 

 生きて、何かをしようと思い立ったときに発生する意志は流動的だ。

 それは決して触れられないほど熱くはないまでも、ある程度の温度を持っている。たぶん、飲み頃のお茶よりも幾分かぬるいと言えるくらいには。だから注ぎ込む型によってその形状を変えられるし、後でまた、別の型に移して使うこともできる場合が多い。

 少なくとも、自分にとってはそうなのである。意志というやつは。

 

 私は身のうちに「よく分からない厄介なもの」を飼っているらしく、それが何かをきっかけに頭をもたげると、さまざまな形で精神活動に作用する。

 たとえば、上で述べたような流動的な意志から簡単に熱を奪い、一瞬のうちに冷やしてしまう……とか。少し前までは自在に形を変えられたものが、すっかり石の彫刻のように固まって特定の姿へとおさまる。それはそれで使いようもあるのだが、もともとの用途には適していないので、頻繁に持て余す。

 個人的にはその状態を指して、心に氷が注がれる感じだと表現することが多い。

 文字通りに冷めるのだ。あらゆる熱狂も、高揚も。

 世間一般では、飽き性という言葉がよく使われているらしい。的確だとはあまり思えないけれど、他にふさわしい言葉も見当たらないので、誰かと話すときはそんな風に説明する場合が少なくない。

 

 生活の中で何かをしたい衝動が発生したら、それが不可能でない限りは実行に移すようにしている。思い切りよく、躊躇せず。要するに、好きなときに好きなことをやる、という単純な方針である。

 これを「自由」な生き方、考え方だと称される場合がままあるものの、申し訳ないが片腹痛いとしか言いようがない。どこにも自由な要素などない。なぜなら何をやりたいか、そして何をやりたくないのかを、別に自分の意思をもって選んでいるわけではないからだ。

 私の望みとは一切関係なく、私は何かをしたくなる。

 私の望みとは一切関係なく、私は何かをしたくなくなる。

 いずれにせよ突然に。そのたびに方向転換をしなくてはならないので、わりと困っているのである。誰かが本当に自由であるならば、まず、こんなことで頭を悩ませはしないだろう。

 

 心の底から素晴らしいと思えたものが、次の瞬間には全く価値の無いものに変わっている。果たしてこの現象を恐ろしく思わずにいられるだろうか。

 それは、自分の意識が何かを好ましく感じたり嫌悪したりする領域とは、まったく違う次元に存在しているものなのだ。ある日、視界に入った存在、あるいは概念を素敵だと認識して心を傾ける。その状態はしばらく続くが、ふとした瞬間にはもうどうでも良くなっている。

 決して目の前の対象が変容してしまったわけではなく、私自身の価値観が変化したわけでもないのに、胸に飼われている何かがそっと動いただけで心に氷が注がれる。まだそれを好きでいたいと思う意識があっても、すっかり固められてしまったそれは「どうでもいい」の位置から動いてくれないのだ。

 結局、捨てたりやめたりするしかない。

 

 肝心の「その時」が一体いつ訪れるのかが分からないので、常に漠然とした不安を抱えながら毎日を生きている。どちらに向かって舵を切れば良いのか見当もつかない……ただ、あちらへ行きたいと思えばその方角を向き、別の場所に行きたいと思うようになればそちらを向く。その都度好きなところへ。

 何を好きになるか、何をやりたいと思うのか、自分の意思ではどうにもならない。

 私はそれを選んでいるのではない。心が勝手に身体を引っ張るから、そちらへ足を向けざるをえないだけなのだ。

 このどうにもならない不自由さが、はたから見れば自由な生き方の典型のように捉えられるというのだから、あまりに馬鹿らしいと思う。だから一人でいると笑ってしまう。それでひとしきり笑ったあと、何も楽しくないから水で汚れを濯ぐみたいに表情を消して、そのうち悲しくなってきて少しだけ泣く。

 こんな生を生きるのはあまりにも難題だ。

 

 あるとき、数年前に知り合った人へそういう趣旨の話をしたら、太宰治の《トカトントン》という短編を紹介されて、ちょっと面白くなってしまった。

太宰治 トカトントン|青空文庫

 別にこの内容自体にそこまでの共感をおぼえるわけではないが、冒頭の「私はことし二十六歳です。」という一文が、今これを書いている私にそのまま合致するものだったからである。

 ちなみに太宰の作品でとりわけ好きなのは《斜陽》と《女学生》です。

 

 

 

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

その時によって好む色が変わる

 

 ほんとうは、青い靴の方がよかった。

 あれだけ必死に訴えて勝ち取った、布製のきれいな白い靴を見下ろして、真っ先に思ったことがそれだった。

 

 その幼稚園のお遊戯会では、あるお話の主役を二人で分担して演じることになっていた。つまり、幕間を挟んだ前半と後半で、違う人間が同じ人物として舞台に上がる。私はそのうちの片方を担当することになった。

 身にまとう衣装は、厚紙の冠や腕輪も含めて全く同じデザインだが、唯一異なっていたのが靴の色だ。青と白の二色。前半と後半の、どちらがどちらを選んでも構わない。

 私は白を履きたいと言い、もうひとりの子も白を履きたいと言った。

 それぞれ一足しかない靴を二人で同時に履くことはできない。だから、片方はいさぎよく諦めなければならない。それで設けられたのが、簡単なお話し合いの席だった。

 

 何かを選択するという行為は、選んだ先の未来を想像することと同義である。

 脳裏に浮かべた人形に青い靴を履かせ、それから白い靴を履かせて、改めて考える。

 やはり白の方が美しいと思った。いつか絵本で読んだ《白鳥の湖》に出てくる、オデットの羽みたいで。あるいは太陽をはね返してぼんやりと光る雪原のようで。旧約聖書にあるマナも白い食べ物だと聞いたことがある。きっと、どんなものにだって馴染んでくれるそれを選択することが、紛れもない正解だと心から信じられた。

 幸いにも私の願いは聞き入れられて、本番では晴れて白い靴を履けることになったのだが……。

 どういうわけか胸に残ったのは失望ばかり。 

 幼かった当時はただ困惑していたけれど、今ならその理由がよくわかる。

 

 何かを選ぶ行為は、それ以外の何かを選ばないことと同義なのだ。

 要するに、私は白い靴と共にある未来を自分の手中に収めたが、結果的に青い靴を選ぶことで得られたはずのものを、全て捨てたのだと言える。

 澄んだ青。たとえば遠い西国の都、そこに建つ城や教会の窓を飾る色は、きっとこれに似ている。島の入り江から小さなボートに乗ることでしか行けない洞窟の、奥の岩壁に映る海も、青いゆりかごのように揺れているはずだ。鮮血の対極にある深い色彩は、眺めているだけで心を落ち着かせた。

 こんなに素敵な色なのに。

 どういうわけかあのときは、白の方がずっと優れていると思えたのだ。

 

 …………。

 ほんとうは青い靴がよかったのだと冒頭で述べた。けれど考えるほどに、それもまた正解ではないのだと感じられてならない。

 白を選んだ未来は白と共にあるだけではなく、必ず、選ばなかった青の不在と共にある。逆もまた然りだ。こうして生きて、意志をもって何かを選択していくかぎり、そこから逃れることは絶対にできない。どう足掻いたところで。

 この世界ではいつだって、手に入れられないものだけが本当に美しい。

 それを受け入れて生き続けることが、特段、素晴らしいことだとは全く思えない。