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彷徨する自由帖

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白い湖 - 北西イングランド・冬Ⅱ

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前回:

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晴れ間なき湖の思い出


Ⅱ. 白い湖

 

 降りた車に背中を預けて、空のある方角を仰ぐ。

 この様子だと、きっと誰かが半宵に、スノードームだかストームグラスだかをうっかり振ったのだ。それも結構乱暴に。足元から頭上へ舞い広がったきらめく白い粒は、綿みたいな密度を保って浮かび、再び沈殿せず隙間なく天を覆っている。

 球形のガラスの中で水が動くように、周囲で風が巻く。また空気が大きく攪拌された。

 

 昨日の夕刻から漂い続けている霧がいまだ深いせいで、夜が明けても、気象は光を塞いだ曇りのままだった。

 

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 いわゆる「湖水地方」として知られている、イングランド北方の国立公園。

 その一帯の地図をはじめて眼前に広げてみたとき、果たしてどこに湖があるのやら、私にはさっぱりわからなかった。

 視認できる名前はスカーフェル・パイク、ヘルヴェリン、それにフェアフィールド・ピークなど……聳える山々と、比例して深い谷。あとは遊歩道の印。

 それしか無いではないか、と。

 

 しばらくして気が付いた。

 この目は湖を探していたつもりで、その実、自分の中にある湖という名の幻を追いかけていたに過ぎなかったのだ。

 カルデラやクレーターのような楕円ではなく、また、人工のダムにもあまり認められない、極端な細長さを持つ水の蛇がそこらじゅうに横たわっているのにもかかわらず、私は認識できていなかった。見ていたのに、見えてはいなかった。

 

 湖水地方の湖は、大半が氷河活動によって形成されたものである。

 特徴的なリボン・レイク。イギリスで雨上がりの玄関先によく出現するなめくじのよう。山頂の方で生まれ、流れ込む雪解け水も、彼らの這う軌跡にけっこう似ている気がした。そこかしこに小さな滝がある。

 

 細い滝の力で削られた部分には、黒みのかった岩肌が露出している。そして上方から、まるで山の輪郭を押さえつけ、ぼかすように迫りくる、雲。

 

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 草に覆われた斜面には比較的強い風が吹いている。

 不可視のそりで勢いよく滑り降りた先、谷の底に溜まるようにして、湖水は湛えられているのだった。

 

 空気は冷然としていて鋭く、何より素晴らしかったのは、私たちのほかに人間の姿が一切見られなかったこと。

 湖水地方を訪れる時期を選ぶ際、土地の多彩な表情を堪能したければ、特に晴れ間の多い夏にこだわる必要はない。青い空に雲が浮き、人の心が輪をかけて浮き立つような季節でなくとも、湖水地方はすこぶる冴えた美しさを眼前に示してくれる。

 暖かくなってくると、誰もが各地から鉄道駅のあるウィンダミアに殺到するが、それはなんて恐ろしい光景だろう。冬の気候と概念的要素が合わさって生まれる、文字通りに薄氷の静寂があっけなく破られてしまうなんて。

 

 どうか永遠であれと思う。

 あの、理知の湖の中央に座った、雪の女王が求めた唯一の言葉みたいに。

 湖面は白い色をした空を写して、そのせいで一部が雪でできているかのように見えた。

 

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 湖があるのはずいぶんと隔絶された世界だ。どこから、とか、あるいは何から、などとは特に言わない。

 

 私は他人の車に乗せてもらってここまで来たわけだから、もしもこの辺りに置き去りにされてしまったら当然、容易にはロンドンの下宿先まで帰れない。

 その場合、どうにか歩いて人里まで行かなければならないだろう。村や町を見つけて、できればそこの郵便局やパブへ辿り着き、親切な誰かを頼って無事に鉄道駅まで送ってもらえれば御の字。

 出発地点から北西の方角にずっと進んできた道を、今度は反対に辿る。南東へ。

 

 ところで物事が悪化する、あるいは株価などが暴落することを指して使われる英語の慣用表現に "go south(南へ向かう)" というものがあるが、あれの由来は一体何なのだろう。ふと気になった。

 閑話休題。

 

 隣にいる男は、無害な誰かをいきなり置き去りにできるほど薄情ではなさそうだし(また、適当に駄々をこねると大抵は言うことを聞いてくれるため)、相当機嫌を損ねないかぎり、現実には帰り道を見失う心配などしなくてもよいはずだ。

 けれど、思い浮かべずにはいられない。

 一人でここに残ることを。

 

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 晴れたり曇ったり、時間ごとに遷移する天候。湖面の百面相。

 それだけでなく、いま目の前にあるように彩度を抑えている木々の葉も草も、季節が巡れば姿形を変えていく。

 近くの適当な山を選んで山頂に立ち尽くし、まま、湖周辺のすべてを見守り続けるという幻想は、容易に心から払拭しがたいほど鮮烈で惹かれるものだった。冴えた風に包まれて、魂が浮かぶ。身体から抜け出して、静かで荒涼とした風景の中を駆ける。

 何にも縛られず。

 

 一人、ここで暮らそうか。心だけ。もしも置いていかれたら。

 あるいは置いていかれなくても、選んでそうするみたいにして。

 

 旅行をしてからしばらくの年月が経過したけれど、未だにもう一人の私は白い湖のほとりにいる。舗装されていない砂利交じりの、湿った地面をブーツで踏みしだいたときの音が、瞼を閉じればはっきりとわかる。

 柵の向こうに羊がいた。

 傍らには特に誰もいなくて、確かに寂しく、それでいてここにいられる限りはどこまでも自由だった。