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2019年2月に「八王子のおまじない」という特別展を見に行った郷土資料館。
そこがいつのまにか閉室しており、さらには移転して別の施設になるのだとつい先日知って、驚いた。
新しい展示場には桑都日本遺産センター(八王子博物館・通称はちはく)の名称が用いられ、JR八王子駅横、サザンスカイタワーの三階に4月下旬ごろ開館する予定だったそうだが、緊急事態宣言の影響により延期していたらしい。
移転が完了した暁にはさっそく足を運びたいもの。
この記事には、郷土資料館での展示がまだ行われていた頃に鑑賞したものの中から、特に興味のあったもの(主に近代、明治・大正・昭和初期の物品)の写真を抜粋して掲載する。
目次:
特別展示「八王子のおまじない (2019)」より
この小規模な特別展は、八王子という土地に伝えられてきたまじないにまつわる資料を通じて、人々が何に、どんな願いを託してきたのか探ろうとする主旨のものだった。
鮮やかな赤に塗られた顔と金色の歯が目立つ、越野観音講が所蔵する「風邪除けのオシシサマ」はいわゆる獅子舞の仲間だ。日本全国、地方によってその形もご利益も少しずつ異なり、展示室にあったものは名称のとおりに風邪を避ける効果が期待されていた。
大きな目を正面から見ると恐ろしいようだが、垂れた耳は可愛らしい。時期になると、越野の民家を順に巡りながら、老若男女の頭を噛んで舞っていたのだろう。
人々がまじないを頼る動機には、上のように失せ物の所在や人相、今後の運気を尋ねるようなものから憑き物落とし、そしてより規模の大きい天災や疫病を避けようとするものまであって多様だ。
なかには特定の形に切り抜いた紙を焼いた灰を依頼者に飲ませる手法もあって、使った後は破棄されてしまうものが多いため、現在に至るまできちんとした形で残っている資料は珍しいと聞く。
民間に細々と伝えられてきた術のほか、時に難しい問題を扱う場合、修験者と呼ばれる専門家に頼んでまじないを施してもらう例も紹介されていた。その姿を描いた絵や、金剛杵(こんごうしょ)や草鞋に袈裟などといった道具が展示室で見られた。
また、季節ごとの祭りや、それに際して行われる行事・風習にも興味深いまじないの存在が顔を覗かせる。
11世紀の頃、源頼義と義家の父子が、奥州安倍氏との戦に際して大國魂神社に祈願した出来事に起源をもつ「すもも祭り」もそのうちの一つだった。毎年7月20日に行われる夏の風物詩である。
当日に神社境内で配布される「烏(からす)団扇」は、あおげば害虫駆除、病気の平癒などの効果をもたらすとされ、門口にさしておくことでも病気や災難を防いだり、幸運を呼び込んだりできると信じられていた。
これがどうしてカラスなのかといえば、神道に関係する平安時代の資料「古語拾遺」に記載されている出来事に由来を見つけられるのだそうだ。
遥か昔、田植えのために働いた者たちへ大地主神が牛肉を振る舞った。
だが、牛肉はかつて通常食べるべきではないものとされていたため、御歳神からの祟りを受けてしまう。それで困った大地主神が卜者に尋ねたところ、その怒りを鎮める方法を教えられ、実践して無事に許しを得た。
その許しのついでに御歳神から授けられたのが、カラスの団扇で田畑を仰ぎ、害虫を駆除するまじないだったらしい。
以来、すもも祭りの一環で長く民間に受け継がれている。
常設展より
原始から古代、近現代に至るまでの八王子にまつわる収蔵品の中から、ここで普段よく言及する明治・大正・昭和初期の物品で気になるものをいくつか選んだ。
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越中富山の薬箱
表面に「都藥 越中富山 御藥品々入 優良醫藥品」と書かれている、常備薬(置き薬)を入れておくための木箱。
おそらく素材は桐だろうか。似たような意匠で紙製のものはたまに見かけるが、写真のようなタイプで、しかも状態の綺麗な箱にはあまり遭遇したことがない。やはり収蔵に値するだけの貴重なものなのだと推測される。現代人からすると、レトロな佇まいがいっそう魅力的に映った。
そもそも、どうして富山の薬なのか? 恥ずかしながら、私はかの土地が製薬および売薬で名を馳せたのだという事実を最近になって知った。発端は江戸時代初期、前田正甫が富山藩の二代藩主だった頃にさかのぼるという。彼は薬品に精通しており、関連する事業を積極的に保護した。
また明治大正期に入ってからは、薬の容器としてガラス製品の生産が盛んになり、戦前までは多くの工場が富山に軒を連ねていたそうだ。興味深い歴史である。
近代遺産好きとして、これから現地を訪れないわけにはいかなくなった。
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がんどう(龕灯)
漢字にするとずいぶん画数の多くなる道具、がんどう(龕灯)。
ちょっと不思議な見た目だが、実は江戸時代の頃に生まれた携帯用の照明器具なのである。洋灯のランプシェードを横倒しにしたような円錐台の内部には、何やら金属のベルトのようなものがあるが、その途中に蝋燭を固定するための場所も見つけられた。後ろには持ち手がある。
要するに傘の内部から一つの方向を照らす、アナログな懐中電灯だと思ってもらえればいい。
龕灯の面白いところは、取手を持ってその向きをくるくる変えても、必ず蝋燭の炎が上を向くような造りになっているところだ。さらに、炎の真上には煤を受ける部位が来るようにもしてある。一見すると造りは単純でも、よく計算された美しい道具だと感じた。
周囲に光を拡散させず特定の方角を光線で明るく照らすため、暗闇でも目立たない方が都合のよい任務につくとき、重宝されたと言われている。
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ライオン歯磨き粉
「商標登録 獅子印ライオン歯磨」の文字がくっきりと印刷されている、歯磨き粉の外箱。黄のかった色味が実際のたてがみを連想させる爽やかさ。
トレード・マークと小さく英語で書かれた下には文字通りにライオンのイラストがあって、目と口を開けてどこかを見据えている。他に確認できる表記の中に「小林商店」の名前があるが、これは現在ライオン株式会社として知られているものの前身、株式会社小林商店のことである。
同商店は大正7年の頃、イギリスのロンドンにある衛生試験所からライオン歯磨に対する、品質証明書を取得した。
当時、衛生品質を審査する機関としては最高峰だった組織からお墨付きをもらえたことは、その後の製品の発展や、関連する業務の開拓にとって大きな後押しとなったことだろう。
創始者が明治24年に開設した小林富次郎商店が、やがて大正期に小林商店とライオン石鹸株式会社の二つに枝分かれし、昭和55年にふたたび統合されて現在のライオン株式会社が生まれたのだ。
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ガラス式および回転式ハエ取り器
人が住居へ侵入してくる羽虫に悩まされていたのは、今も昔も変わらないようだ。
ランプか何かのように見えるガラス製の器具は、下部に囮となる餌を置き、ドーナツ状になったくぼみに酢などを混ぜた水を入れておくもの。そうすると首尾よくいけばハエは水に落ちるというわけ。外観がお洒落で、置き物にもよさそう。
隣にはさらに気になるものが展示してあった。回転式ハエ取り器、とある。
これは大正時代に名古屋の尾張時計株式会社が特許を取得し、「ハイトリック」という商品名で売り出した、からくりのハエ取り装置。ゼンマイによって回転する柱がハエを箱の中に誘導し、そのまま閉じ込めておける画期的な仕組みで、使用者の評判もよかったそうだ。
箱の横に窓が取り付けてあるのは、ハエが明るい方へと呼び寄せられる習性を利用する意図があるが、見た目だけなら小物入れのようで、捕獲したハエの姿が外から伺えない点もかなり良いと思う。
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氷冷蔵庫
木製の氷冷蔵庫(冷蔵箱)は昔の喫茶店などの一角を彷彿とさせる。電気を用いずに、文字通り氷の冷気だけで食材や飲み物を冷やした。
日本で初めて電気式冷蔵庫が発売されたのが昭和5年のことだから、私が想像していたよりもずっと最近まで、氷冷蔵庫は一般的な存在だったことが伺える。上の扉に切り出した氷を入れて、下に冷やしたいものをしまうやり方。なので、溶けた後の排水を取り除くための皿や蛇口も設けてある。
氷売りが家の前まで来るのを待っていて、買った大きさの分だけ、のこぎりで切り出してもらう。それを受け取って運び込むのが毎朝の日課。手間がかかるそんな生活を、ほんの一週間くらいだったら体験してみたいものだ。
ちなみに古い邸宅を尋ねると木製の冷蔵箱が展示されていることも多く、以下の旧柳下邸を見学した際にもその感想を書いた。
機会があれば読んでみて欲しい。
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沖電気の電話機
昭和5年に造られた、沖電気工業株式会社(現在の通称・OKI)の電話機。
金属棒の上に横たわるダンベルみたいな受話器は、グリップ部分に彫刻が施されている。土台となる木箱の横から出ているのはハンドルで、雰囲気はどこか手品の道具じみているが、以前はこれを用いて人と人とが遠隔の会話を行っていたわけだ。
近代の日本において、電話線の架設に最も大きな影響を及ぼした出来事は、なんといっても大正12年に発生した関東大震災だろう。有線だとどうしても物理的な要素に通信が左右されるため、復旧工事や、その後似たような天災に見舞われた際の対策など、製品やサービスを提供する側が頭を悩ませたことは想像に難くない。
その経験を活かし、やがて大正15年には電話の自動交換が実現する(昔は手動で電話局の交換手が行っていた。相手の番号を告げる→交換手が繋ぐ→実際に電話がかかる、の順)。
今では携帯電話機とSIMカード、各種アプリのおかげで、電波があればどこでも誰かと会話ができるようになった。かつての人が聞いたら嘘のようだと思うだろうか。
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占領時代のピアノ
金の竪琴と薔薇の紋様と共に "Meiji Grand" の文字が見える。
この可愛らしいおもちゃのピアノの一体何が特筆すべき部分なのかといえば、記載されている製造国の表記だ。MADE IN OCCUPIED JAPANとあるが、要するに第二次世界大戦後、米国(連合軍総司令部のGHQ)によって日本が主権を奪われ占領されていた頃に作られたことを意味している。
民間での貿易が再開されたのは昭和22年、そしてサンフランシスコ講和条約が発効したのが昭和27年のこと。なので、この5年間に製造・輸出された製品のすべてには、このMADE IN OCCUPIED JAPANの表記がなされるように義務付けられていたのだ。
2016年には世田谷の文化生活情報センターにて、この刻印がある陶磁器に着目した展示も行われていた。
当時の複雑な情勢を喚起させる表記だが、いわゆる「里帰り品」として、コレクターや愛好者の間では重宝される傾向がある。
身の回りにあるものの中でMADE IN OCCUPIED JAPANの製品がないかどうか探してみるのも面白いかもしれない。