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彷徨する自由帖

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東京・下町風俗資料館は不忍池のほとり|明治・大正・昭和の庶民生活が伺える模型の数々

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 小野不由美の小説《東亰異聞》で「鰯の頭」という言葉を目にしたとき、それが玄関口に飾る魔除けのことだ、とすぐに分かったのは、上野の下町風俗資料館で展示を見ていたお陰だった。

 私の住んでいる地域にはあまりない風習だったので、それまで存在をほとんど知らなかったのだ。

 

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柊鰯

 強い臭気を発する焼いた鰯の頭に、葉のついた柊の小枝を組み合わせ、鬼を祓うものを「やいかがし」や「柊鰯」と呼ぶ。柊の葉を縁どる鋭い棘が鬼の目をつぶすといわれる。

 古くは平安時代に遡る節分の風習で、地域によって使われる素材には差があるそうだ。

 資料館館内では、そんな人々の暮らしに根差した風習や近代の生活様式を、精巧な実物大の模型を通して知り、感じることができる。両国の江戸東京博物館と合わせて訪れたい文化施設のうちの一つだった。

 

参考サイト・資料:

下町風俗資料館|明治~昭和の下町の資料を展示(公式サイト)

及び、館内で無料配布されている解説紙

 

台東区立下町風俗資料館

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 資料館は上野・不忍池のほとり、むかし東京都電車が走っていた軌道の跡地付近にある。

 入口を入ってすぐの空間から展示は始まっていて、一階部分には、関東大震災以前の大正時代の町の一角が再現されていた。

 最近は漫画《鬼滅の刃》で大正時代の雰囲気に興味を持つ人も増えていると思うが、そういった人々にもとてもおすすめ。劇中に登場する風景がより身近なものとなること請け合いだ。

 まず、眼前に現れた赤い「自働電話」ボックスと人力車に目が行く。内部の電話機は実際に使われていたもので、貴重な収蔵品だった。

 

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 明治33年に初めて登場した公衆電話の模型は、横浜・山手の丘、長崎のグラバー園などにも設置されている、文明開化の象徴のうちのひとつ。あまり知られていないが、人力車も実はこの時代の産物だ。

 当時、誰かに電話をかけるには最初にベルを鳴らし、交換手を呼び出さなければならなかった。自分で番号を押すのではなく、交換手に口頭で告げる。そして料金(5分につき15銭)を投入してようやく相手に繋がるという仕組みだった。

 本格的な設置から翌年に、料金が5銭へと値下げされてから、利用者の数は急増。

 大正15年には自らがダイヤルを回して電話をかけるものが導入され、そのスタイルは現在の固定電話や携帯電話にもつながっている。

 

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 他に、この階にあるのは鼻緒問屋(商家)と駄菓子屋、堂壺屋の実物大模型。そのまま映画の撮影にも使えそうなくらい、細部まで作り込まれていて非常に楽しい。

 そっとお邪魔して壁際に近寄ると、釜や鍋、焼き網、味噌漉しのような調理器具、それから病を避ける縁起物などが並んでいた。

 四面を網の張られた格子で囲う、箱のようなものは何だろうかと手元の資料を見れば、名称は蝿帳(はいちょう)とある。食べ物をここに入れて、保存するための道具だそうだ。網は虫よけの役割を果たしていた。

 また、竹筒の先が細かく割かれたものは簓(ささら)といい、皿などを洗う際に使うたわしのようなもの。普段自分が使っているスポンジと比較して、手に伝わる感触がどう違うか確かめてみたくなった。

 

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 平屋作りの駄菓子屋には、多種多様な品物が並んで子供たちの目を楽しませる。多くのお菓子や玩具は1銭程度で売られていたが、中には甘いキャラメルなど、10銭ほどする高価なものもあった。

 関東大震災以前はこのような長屋が下町に多く見られ、隣人との近い距離を考慮し、特徴的な生活様式が形作られていったそうだ。

 井戸や物干し竿、路地を共有しながら暮らす中で、いわゆる「下町らしい」親しみやすさや気安さが重宝され、皆で協力して毎日を送っていたのだろうことが伺える。

 手洗いは各棟に一つずつ普及していたものの、ガスや電気はまだ庶民生活に縁遠かった時代、主な熱源は炭だった。使えば煙が出るし火事の心配も生まれるため、下町ではひときわ火の扱いに注意していたほか、場所によっては火伏のご利益がある社を設けてもいた。

 

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 この資料館内にも模型の稲荷社がある。もともとは農耕の神様であったが、後の世になるにつれ様々なご利益が付加され、より広く信仰されるようになった。江戸時代に建てられた膨大な数の稲荷神社は、未だに東京の町中に点在している。

 加えてその隣には銅壺屋、職人一家が暮らす家を想定した空間。

 隣り合う仕事場と生活の場を比べるのが面白い。熱で銅を溶かし、型に流し込んだり叩いて伸ばしたりしてものを形作り、時には修理もする。下町の生活には欠かせない仕事のうちの一つだ。銅壺屋と呼ばれる場合はもっぱら銅を扱い、鋳掛屋とは区別されていた。

 部屋の中に置かれている火鉢は「長火鉢」で、丸いものや正方形のものと少し様子が違う。端にある、物を乗せる板の部分に猫が寄り付いたことから、別名を猫板ともいったそう。あまり関係ないけれど、猫と一緒に暖を取る小説家・室生犀星の写真を思い出した。非常に可愛らしいのでぜひ検索してみて欲しい。

 

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 建物外の路地の一角、ほおずき市で売られる病避けの鬼灯を横目に、資料館の二階へと進んだ。

 明治から昭和にかけて年代を問わず、特に資料館のある台東区周辺で集められた展示品や、年中行事に関する資料が集められている。

 

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 この階の展示の目玉は、何といっても銭湯の番台。昭和25年頃に使われていた本物だ。書かれている女湯、男湯の字が味わい深く、木の衝立や磨り硝子の戸などもかなり魅力的。番台の席には実際に座ってみることもできる。

 横にある家の戸口にはこれまたレトロで可愛い牛乳箱と、記事の冒頭で説明した柊鰯がある。

 また、私が資料館を訪れた際は不忍池に関する特別展が行われていた。下町に暮らす庶民たちは以前から不忍池を訪れ、花の名所として、あるいは博覧会や競技観戦を楽しむ場として親しんできたという。

 もとは寛永寺の管轄であるため殺生が禁止されている大池、下町風俗資料館を訪れる際は蓮の花が咲く時期を選んで来るのも良いかもしれない。同館は新型コロナウイルスの影響でしばらく休館していたものの、2020年8月現在、再び開館して人々の訪れを待っている。

 

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