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彷徨する自由帖

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手に入れた瞬間、もうそれに意味はなくなる - ハガード王への哀歌|ピーター・S・ビーグル《最後のユニコーン》そして《旅立ちのスーズ》より

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 ピーター・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉鏡明訳と、続編〈旅立ちのスーズ〉井辻朱美訳。後者には「二つの心臓」「スーズ」の2編が収録されている。

 いずれもハヤカワ文庫FTから2023年秋に改めて刊行されたものを、読み終わった。

 

 

  • 最後のユニコーン

 

 私は本を開いている間、特に中盤以降ずっと、ハガード王のことを考えていた。

 少し前にマキリップの〈妖女サイベルの呼び声〉を読んで、あのドリード王に延々と思いを馳せていたみたいに。

 あーあ、また「何かを信じられなくなった王様」のこと考えてるよ、この人……って自分に対して呆れていたら、この〈最後のユニコーン〉のあとがきで乾石智子氏が実際に〈サイベル〉の作品名を出したものだから、ちょっと面白かった。

 日本語版は同じハヤカワ文庫FTから出ていて現在絶版なんだけど、復刊しないかな。……閑話休題。

 

『だが、わしにはわかっていたのだ、自分の心を投げ出すほどに価値のあるものはないことを。なぜなら、何物も永遠には続かぬのだから。そしてわしは正しかった。そこで、わしはいつも年老いているのだ』

『それでも、自分のユニコーンたちを見るたびに、いつもあの森の朝のように感じる』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.296-297 ハヤカワ文庫FT)

 

 こんなことを言われたら泣いてしまう。

 その気持ちは……知っている。

 

 嘆きも、諦念も、ある一面では「願望」が反転したもの。そう私は捉える。

 つまり「自分の心を投げ出せるほど価値のあるものがこの世界にはない」と感じることで、かつてのハガード王が自覚の有無にかかわらず、虚しい、と少しでも思った経験があったとすれば、それは「心を投げ出せるほど価値あるものに出会えたらよかったのに」と彼が内心で願っていたことを意味しているはずだ。

 だから王は、ユニコーンを……。

 

 奇しくも、彼が治める街ハグスゲイトの住民たちも、ハガード王と同じく「何物も永遠には続かぬ」を理由として何にも愛着を持てずにいる。

 魔女が城にかけた呪いの予言によって、いかなる事物もどうせ未来に失われることが分かってしまっているから、幸福な状態になることができないのだ。手に入れた喜びが、いつか確実に消えてしまう、と判明している状態で、どうしてそれに心を傾けることができるだろう?

 確実なのは、ハガードがいる限り、現在いるハグスゲイトの民たちは他と違って何不自由なく良い暮らしができ、富むことができるというだけ。予言が成就する前ならば。

 

『自分たちの富の中で――あるいはそれ以外のことの中でも――一瞬たりとも、その喜びを味わったことはないのです。なぜなら、喜びもまた、私たちが失わねばならぬものの一つとなってしまうからです』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.164 ハヤカワ文庫FT)

 

 でも、いつか王の城を滅ぼす者が現れる。

 それは明日かもしれないし、数年後かもしれないし、あるいはもっと先かもしれない。だからそれをどうにかして回避しようとし、皆、暗澹たる気持ちでいるのだった。国の中で、どの都市よりも豊かな暮らしを送っているのにもかかわらず。

 ……ハガード王は夜な夜な街に下りて、コインや割れた皿、スプーン、石、指輪やハンカチなど、色々なものを拾っていくらしい。ある日はその中に1人の赤ん坊がいた。

 王は赤子を育てた経験がなく、ゆえに初めは「心あたたまる気持ち」を胸に宿して彼を腕に抱いていた、とアマルシア姫に述べる。そんな事実を本人から告げられたら泣いてしまう。なのに、その気持ちはあっという間に死に、また空虚な圧倒的現実に意識は立ち返ってしまったという。

 

『わしが拾い上げると、どんなものでも、死んでしまう。どうしてそうなるのか、わしにはわからん。だが、いつだって、そうなのだ。わしが守っている、冷たくも、退屈なものにもならん、ただ一つのものを除いてはな』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.290 ハヤカワ文庫FT)

 

 

 

 

 何かが欲しくて、必死に手を伸ばして、けれど実際それに触れた瞬間、なんだかどうでもよくなってしまった経験はないだろうか。私にはある。

 そしてそこまで大げさではないまでも、普段の暮らしの中で、あるものをいざ所有した瞬間に欲しかった頃の強い気持ちをフワッと忘れてしまうことも、多々ある。ものや人自体は変わらないのに、そこに宿る価値や意味の方が変質してしまうのだ。

 遠くにあるものを見つめている時、それが珍しく、貴重で、美しいものであればあるほど、手に入れることができたらなあと渇望する思い。けれどそれが胸に飛び込んできて実感する。それは、手が届かないほど遠くにあったから、素晴らしいものだったのだと。手が届かないという要素にこそ価値が生じていた、のだと。

 

『だが、それもまた、わしには何の意味もないことだ』ハガード王は続けた。

『昔、おまえは、わしが望むいかなる奇跡もやりとげてみせてくれた。そしてそのすべては、奇跡に対するわしの感覚を損なっていたのだ。おまえの力にあっては、どのような無理難題も手に余ることはない。だがそれでも、驚異が成しとげられたときにも、何も変わりはしないのだ。(中略)魔術の名人も、わしを幸福にはしなかったのだ』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.222 ハヤカワ文庫FT)

 

 色々なものを手に入れて、これは違った、あれも違うな、そしてあぁまたこれも違う気がする、次、と判断し取捨選択することを繰り返していると、だんだん世界が色褪せていくような感覚をおぼえる。

 でも、物と情報に溢れた今の世を生きる私にとっては、それは本当に身近なものだった。ほとんど毎日感じている。同じことを。

 そして、ハガード王に育てられたリーアは彼がいなくなってからこう言った。

 

『呪いは、城を崩壊させるのはぼくだと言っていた。けれども、ぼくがそんなことをすわけはなかった。あの人は、ぼくに、良くはしてくれなかった。でも、それはただ、ぼくがあの人の望む者ではなかったという理由からだ』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.363 ハヤカワ文庫FT)

 

 もう駄目だった。滂沱の涙に暮れながら、何も言うまい、と思う。ただ、この物語の続編という位置づけで存在している〈二つの心臓〉と〈スーズ〉に手を伸ばす……。続きがあるのなら読まなければならない。

 ユニコーンの貝殻色をした角が、今も視界の端にある。

 

 

  • 旅立ちのスーズ

 

『最悪のこととは、心が砕けないことだ。喪失も過ぎ去り、痛みも過ぎ去り――絶望でさえ過ぎ去る。この世で最悪のことは、自分を気遣ってくれる心を傷つけることだ。それが今わかった』

 

(P・S・ビーグル〈旅立ちのスーズ〉(2023) 井辻朱美訳 p.169 ハヤカワ文庫FT)

 

〈最後のユニコーン〉の続編にあたる〈二つの心臓〉と〈スーズ〉が収録されている1冊。

 

 前作で「何かをどうしても信じられなくなった王様」としてのハガードに思いを馳せていたから、〈二つの心臓〉では一方「何かを忘れつつある王様」……かつて王子だったリーアに目を向け、それから「時間」というものが人間(つまり、永遠に生きられるわけではない存在)にどう影響するのかを見た。

 私は〈スーズ〉を読んでいてどこかの地点で一度泣いてしまったのだけれど、振り返ってみると、それがどこだったのか覚えていない。

 17歳になった少女スーズは、妖精に連れて行かれたという自分の姉、ジーニアを探して生まれ育った土地を離れる。けれど……。

 

『スーズ、スーズ。死にたくないわ。永遠に生きられるって言われた……あたしは昔からみんなの女王になるはずだったって』

 

(P・S・ビーグル〈旅立ちのスーズ〉(2023) 井辻朱美訳 p.169 ハヤカワ文庫FT)

 

……「何物も永遠には続かず、故に心を投げ出すほど価値のあるものはない」と述べたハガードが作中で「いつも年老いている」ことと、森の奥に住むドリーミーたちの王が「ほとんどのものより年を取ってる」と説明される意味を思う。妖精郷は子供がいない国で、それは実のところ、あのハグスゲイトの街と同じだ。

 年齢や性別や種族を超越して存在できる。そうジーニアが言うドリーミー達の世界は素晴らしそうなのに、ここでの彼らがそのように描かれていないのはなぜか……。本当に、なぜなんだろう。読んでいると分かるような気がするけれどやっぱり分からなかった。

 取りこぼしているものが沢山ある気がするので、もう少し寝かせてから、この〈スーズ〉をもう一度読む。

 

 人間から生まれた「肉ではなく石でできた」存在、スーズの友達だったラードリアクのダクハウンのことを考えている。