マストドン上の読書タグの投稿を見て、そういえばこちらのタイトル、確か自分の本棚にも(かなーり前から)放置してあったのでは……と積読していたのを出してきた。
表紙が真っ赤。西加奈子「通天閣」は、果たしてどこで買ったのか覚えていない。
"もう十二年ここに住んでいるが、向かいのそいつの名前を俺は知らない。何の仕事をしているのかも知らないし、話したこともない。ただ知っているのは、俺より前から住んでいたということだけだ。"
(西加奈子「通天閣」(2009) ちくま文庫 p.13)
街、社会、というのは奇怪な場所。
一生関わる機会もなさそうな人間たちが、一人とは言わずわんさかと、恐ろしいほど近くで「私」の周囲に存在している。
通勤の際に電車で読んでいるといっそう、車内で座ったり立ったりしている乗客それぞれの生活を妄想せずにはいられない。あの、個々の身にその時、どんなことが起こっていようと、いかなる背景を背負っていようと、世界に何の影響も及ぼさない「はっきりとした」感じ。
ここがそういう場所であると実感する瞬間、その感触。
生活の途方のなさのようなもの。
他人の人生は、自分にとってはどう足掻いてみてもフィクションになってしまう。通天閣にのぼったことのない私にとって、小説に描かれたその塔が、まったく架空の存在であるように。
読んでいて感じる滑稽さはそのまま誰の生涯にも当てはめられる。
どれほど名を馳せても、無名のまま日々を過ごしても変わらず、終わりが訪れる。そこに何を見出すかには明確に差異が現れるが、その差異すらも、数百年後数千年後には薄れて消える。
ほんの数十年のあいだに感じる、幸福や苦痛、また出会っては別れ、生きては死ぬ人間のことを、さも全宇宙を揺るがす一大事であるかのように捉えて右往左往するのが私達。
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約500文字
以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。