前回の続きです。
今回の記事で紹介する城や神社仏閣は全て、岐阜駅から徒歩や路線バス1本で簡単にアクセスできる場所にある。
道中には割と古そうな民家や商店なども多く残っているので、適当にきょろきょろしながら歩いてみるのも楽しく、おすすめ。
参考サイト・書籍:
岐阜市漫遊(岐阜観光コンベンション協会)
仏像のひみつ(著・山本勉 / 朝日出版社)
金華山・岐阜城
確かにこの旅行中は世間の三連休だったとはいえ、金華山の麓とロープウェイの混雑ぶりには辟易した。季節にそぐわない強すぎる日差しも、泣きっ面に容赦なくけしかけられた蜂のごとく私達を苦しめる。
列に並びながら、一体どこからこんなに人間が? と疑問に思ったが、もしかしたら新型コロナウイルス蔓延による店や施設の閉鎖で、他に行く場所の選択肢が狭まっていたのかもしれない。
また、当時は外出の自粛が政府や自治体から公式に求められておらず、気軽に外出しようと思う人の数は多かったはずだ。感染の拡大が危惧される今では到底そんなことはできないが……。
後は、NHKで放映中の大河ドラマ《麒麟がくる》の影響も少なくない。史実の出来事は既に決まっているものの、劇中での明智光秀の活躍や、その行く末が気になるところ。
特に斎藤道三と織田信長にゆかりあるこの山と城は、名を変えたり焼失したりしながらも、戦国の時代から続くこの岐阜の地を俯瞰し続けてきた。しかし、美濃を制す者が天下を制す――とまで言われた難攻不落の城といえど、決して不滅ではない。
現在の天守は昭和中期に再建されたものであり、真新しくも町のシンボルらしい姿を衆目の前に示している。まさに象徴としての城という感じだ。
当時のまま残っているものは石垣以外にほとんどないが、人々はそれらしいアイコンを視界に入れることで、歴史や武将たちの軌跡に意識の中で触れられる。
私はそんな、目の前にあるものと知識を結びつけた結果、触れられる実体がなくても想像で繋がれる世界が好きだ。必要な材料さえ揃えば、心はいつだって自由に過去の世界を彷徨うことができるのだから。
たとえ本物ではなくても、史実を元に精巧に組み上げた虚構は有効かつ便利な道具になる。
蛇行し海へと流れ出る長良川が良く見える。今が鵜飼の時期ではないことが残念でならない。その間近に立ち、揺れる水面に反射する燈火を見たかった。
金華山はかつて稲葉山と呼ばれていた。
また、この地も戦国時代までは「井の口」の名を冠していたが、永禄10年に織田信長が本拠地を移すにあたり「岐阜」と改称。中国故事の中で鳳凰が舞い降りた場所・岐山と、孔子の出身地である魯国の都・阜から一文字ずつ拝借して生まれたものだとされているが、諸説ある。
信長から息子へと受け継がれた岐阜城は、孫の代に至って落城した。戦いは苛烈を極めたというが、現在その片鱗は石垣の隙間に染み込んで、ものを言わず眠っている。
正法寺の岐阜大仏
日本における三大大仏と言えば、まず挙げられるのが奈良県・東大寺の大仏。
次に神奈川県の鎌倉大仏が来るが…… 実は三つ目に数えられる大仏は、焼失や倒壊をつど経験し、時代と共に変遷している。
その座の主は現在、富山県の高岡大仏、東京都板橋区の東京大仏、そして岐阜大仏の間で意見が割れているのだった。
岐阜城を後にしてから訪れたのは、中国風の外観で佇む正法寺。宗旨は黄檗宗で宇治の万福寺を本山とする。建物にみっしりと詰まった特徴的な姿から「籠(かご)大仏」と称される県の重要文化財、岐阜大仏に相まみえるためここに足を運んだ。
御託はさておき、下部に掲載する写真をまず見てもらいたい。
入り口が大きくないので、寺の敷居を跨ぐと視界が一気に暗くなる。そこで二、三度まばたきをすると瞳孔が光を拾って、眼前に巨大な人物の像を出現させ、否応なしに視線を徐々に上へ向けざるを得なくなった。
先にあるのは、まぶたのそっと閉じられた何とも言えない穏やかな表情。
果たして圧倒されればいいのか、かえって安心すればいいのか、私は一瞬にして分からなくなってしまった。
雲のような迫力ある光背を背負い、今にも天井を突き破って立ち上がりそうな彼は如来だ。そう、仏像にもいくつか種類がある。
例えば大日如来、菩薩、明王、そして天。なかでも正法寺に鎮座しているような「如来」は悟りを開いた者—―通常は仏教の創始者シッダールタを形にしたもので、螺髪やこぶ、質素な衣服が特徴。後の世には、お経の中で考え出された阿弥陀如来や薬師如来なども登場することになる。
最初は区別がつかずに混乱するけれど、丁寧に見ていくときちんと分類されている。例外もままあるが本題との関連が薄いので割愛。
仏像は素材や製法にも様々な種類があり、この岐阜大仏が採用しているのは乾漆(かんしつ)造りと呼ばれるものだ。上の《大佛断面図》にも構造の詳細が記載されている。木心乾漆造りとは異なり、内部に元となる形を残さない脱活乾漆造りで、布や和紙の上に何度も漆を塗り重ねて形成された。
その際に使用された土地の特産品、美濃和紙の上にはお経がびっしりと書かれているのだとか。耳なし芳一を連想させられて少しだけ緊張する……。
改めて岐阜大仏を眺める。きっと頭の大きさや肩幅、衣の裾の広がりも含めて、見上げた時の印象を強く意識して作られたのであろう仏の姿には余裕がある。柔らかく印の結ばれた手も、微笑みかけるかのような口元も無限の包容力を体現しているかのようだ。古くからここに集う人々が何を求めているのか、その一端を感じられるような気がした。
ちなみにこの本《仏像のひみつ》は美術学生時代、仏像の右も左も分からなかった自分を導いてくれた優しい手引書。文体はゆるめに、かつ内容はしっかりと理解できるような構成で手に取りやすかった。興味のある方はぜひ。
伊奈波神社
かつては稲葉山(金華山)の麓にあった伊奈波神社が現在地に移設されたのは、16世紀半ばのこと。戦国大名・斎藤道三が稲葉城を居城とするにあたっての判断で、旧跡には神社のあった証として大きな烏帽子岩が残されている。
今そこは伊奈波神社の摂社、丸山神社として扱われているようだ。
清らかな領域と「こちら側」の境界を示す大鳥居から、真っすぐに伸びる参道の脇には桜が植えられており、開花の最盛期に訪れればさぞ美しい光景を見られるのだろうと思う。山を背にするように佇む本殿へと向かって歩みを進めると、また何とも趣深い神橋に突き当たった。
これは一般に太鼓橋とも呼ばれる神聖な装置。特筆すべきなのは大きく半円状に隆起した形で、仮に渡るとすれば足を掛けるのも難しいと思えるほどの角度になっている。参道の真ん中にあり、通常は人間が使うものではない。
脇には綺麗な赤い花が咲いていた。
そっと橋の下部に湛えられた池を覗く。水面にも確かにその姿が映っているが、囲いがあるので実際に手足をもって触れることはできない、渡れない橋。視認はできても行くことのできない領域がそこにはある。無理矢理一線を超えようとすればおそらく可能なものの、暗黙の了解で誰もやらない。仕切りというのは身近な異界だと思う。
また、境内をしばらく歩くと、伊奈波神社は小さな清流の流れに寄り添うように建てられているのに気付いた。聞けば、その上流に位置する黒龍社は伊奈波神社が移設される以前よりこの場所に存在し、人々の信仰を集めていた霊験あらたかなものだという。
静かに湧き出る水はまるで竜の胴体のように細く長く、途中で小さな神滝となって流れ落ち、池を形成し神橋の下にも入り込んで、最終的に麓の松尾神社の社にまで至る。その軌道に沿って数々の摂末社が並び、参拝客の求めに応じて加護を授けて下さるのだった。
長良川と岐阜との関わりを考えた際も思ったが、伊奈波神社は、というよりもこの土地と人々は、古くから水と共に歩んできたのだなと心の底から感じさせられた。
時に洪水など大きな水害を被って祈りを捧げたり、時には川の流れのもたらす豊穣に感謝の念を抱いたりしながら。
連綿と続く信仰の系譜に思いを馳せて黄昏時の境内を後にする。
帰りに駅へと向かう途中、160年以上の歴史ある仏具店を見かけたので、思わず看板を撮った。安政二年創業、つまり日米和親条約が結ばれた翌年から事業が続いているとは、いやはや。
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次の記事では岐阜駅を離れて養老へ向かい、混沌の野外美術館へ。
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この岐阜旅行中に発見した、面白いエリア《柳ヶ瀬商店街》について外部メディアで執筆したものになります。