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彷徨する自由帖

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【全文公開】白昼の歓楽街、取り残された街

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 以下の文章は2023年1月15日発行、大阪大学感傷マゾ研究会様の会誌『青春ヘラver.6 〈情緒終末旅行〉』に寄稿したものです。

 個人ブログでの公開が可能と告知されましたのでこちらに掲載いたします。

 

《白昼の歓楽街、取り残された街》

 

 特定の種類の場所に旅行で赴くと、必ず、脳裏に浮かぶ出来事がある。


「おい、ハチがいるぞ」

 後部座席の方から低い声が発され、陽が落ちた田舎道を走る路線バスの車内に、困惑の一点が落とされた。

「ハチがいる」

 二回目。今度はさっきよりも、明瞭に響く声量で。

 バスの乗客たちが、にわかに緊迫した空気を醸し出す。どこか危機感のにじむ、擦り切れた畳の表面のように、ささくれ立った思念。この手の雰囲気はいつも、実際には感じ取ることができない独特の匂いと共にある。本来であれば触れられず、嗅ぐのも不可能であるはずのものを、それでもどこかで認識できていると思えるのはとても不思議なことだ。

 やがて、ちらちらと声の出処を伺う人間も出始めた。

 声を発したのが、バス後方の座席に座った誰かであるのは分かっている。低い、おそらくは年配の、男性だった。

 彼が言うハチ……というのは、あの翅で飛び、針で刺す、黄と黒の昆虫「蜂」を指しているのだろうか。順当に考えればそうに違いない。このバスの中にそれがいるとなると、確かに穏やかではないが——。

 吊り革に掴まっていた私は、周囲を探るためにぐるぐる振り回していた視線を、再び身体の正面の窓に定めた。問題は、実際のハチの姿など、どこにも見当たらないということだ。ざっと探した限りは。少なくとも立っている人間たちの腰より上の高さには飛んでいない。ならば足元の方にいるか、座席と座席の隙間などに止まっているかして、こちらが見逃しているだけなのか。……いや。

 それは、本当に存在しているのだろうか?

 彼は目の錯覚で、何か全く別のものを、ハチと認識してしまっただけではないのか?
拭えない疑念の塊が生まれ、そこから緩慢に溶け出した戸惑いが、徐々に勢いを増して血管を流れ出す。ハチは果たして、いるのか、いないのか。

 仮に「いる」とする。そして運悪くもその被害に遭うとする。刺された経験はまだないが、刺された人間の方は見たことがある。相当に痛いはずだ。もちろん医者にかかる必要も出てくるだろう。明日も学校に行かなくてはならず、部活にも出なくてはならないのに、そんな事態は避けたい。

 もしかしたらこのバスの中には本当に本物のハチがいるのかもしれない。気が付かないうちに制服のスカートの下、すねか膝かどこかにしがみつき、皮膚を突き破る針を今にも繰り出そうと狙っている——。

 太鼓の鼓面や、気球のバルーン部分、遊園地で着ぐるみが配っている風船のように、緊張で張り詰めた皮膚。鋭利なものの先端が、それをブッツリとやる。少しの容赦も逡巡もなく。

 もしもこの車内の乗客がみな、人間そっくりの風船だったなら、どうしよう。

 例えば隣にいる学生。私の通う中学校とは別の制服を着ている子だ。

 ハチが彼女の手に止まり針を刺すと、その身体はボン! とあっさり弾けて霧散し、外皮の残滓だけがはらはら床に落ちる。次はその隣、またその隣の人間と、ハチの飛ぶ先々で破裂は連鎖していく。大きなはずの音が不思議と遠いから、もう、私の鼓膜も破れてしまったのかもしれない。最後には運転手も例外ではなく、ひときわ派手に破裂して、バスに乗っていた全員がすっかりいなくなった。

 紙吹雪に似た風船人間の断片が床に落ちている様子は、騒々しいパレードが去った後の街道を思わせる。

 気が付くとバスはさっきの場所にいない。もはやどこでもなくなった場所に移動して、けれどまだ走行を続けている。窓の外は宵の口のはずで、しかし、深更よりもはるかに暗かった。遠くに見えたのは光る動物の目だろうか?

 そんな想像に埋没していた私は、目的の停留所が数十メートル先まで迫っているのに、肝心の降車ボタンを押し忘れていた。ハッと何度かまばたきをして腕を伸ばす。しかし、指先がボタンに触れるより先に、壊れかけのインターフォンそっくりの音が鳴り……車内の各所に設けられた、無数の赤紫色が一斉に「止まります」と点灯した。夕暮れの闇の中、ネオン看板のように光るボタンは、視界に入ると奇妙に存在を主張する。なるほど、私以外にもそこで降りる人間がいるらしい。

 だが、次の停留所で降りたのは、どういうわけか私一人だけだった。

 降車しないのに、いったい誰がボタンを押したのか。

 間違えたのだろうか?

 走り去るバスの背中を呆然と凝視して、ふと巨大な魚の腹から吐き出された、あの人形ピノッキオの気分になった。風が冷たい。外よりも、生暖かい魚の胃袋の中に収まっていた方が、まだマシだったのではないかとすら思える。きちんと降りるべき場所でバスを降りたのに、なぜか「置いていかれた」という感覚が拭えない。

 道路脇に並ぶ街灯を横目に、四角い車体がみるみる遠ざかる。

 ところで本当に、バスの中にハチはいたのだろうか。

 斜め後ろからその羽音が聞こえてくる。これはもちろん幻聴だが、いかに幻といえども「実際に音が聞こえた気がする」と感じられる時点で、もはや単なる錯覚などではありえない。


 どうして旅先でそんなことを思い出すのかというと、バスを降りた場所、昔は毎日のように使っていた最寄りの停留所付近に「昼間は開いていないお店」があったからだ。
ひどく壁が薄そうな、まるで貸倉庫のように並べられた、いくつかの小さな建物のひとつ。あやしい佇まい。道路に面して入口があり、その簡素な扉にはモザイクタイルで楕円形の装飾が施されていて、屋根上からくすんだ緑色のビニールのひさしが突き出ていた。

 横の小さなボードに書かれた、明朗会計、の四文字の意味は幼い頃よく分からなかった。

「昼間は開いていないお店」というのはもちろん正式な名称ではなく、近所に住む子供だった私と、友人の何人かが勝手にそう命名していただけの呼称だ。実際に営業時間が日中ではなく夜なのだから、あながち間違ってはいない——そう、一般に「カラオケパブ」とか「スナック」とか、あるいは「特殊飲食店」だとか呼ばれる店舗である。それぞれの名称によって営業形態は大きく異なるものの、いずれも特定の場所に固まって、ひとつの歓楽街を形成していることが多い。

 どういう因果か知らないが、いつからか私は全国に点在する、パブ・スナック・風俗店が密集している(それか、過去に密集していた)地域をたまに一人でうろつくのが趣味になった。それも営業時間帯の夜ではなくて、朝か昼に。

 現地を散策している最中にときどき、自分は一体どうしてここに来たのだろう、と行動の動機や起源を頭で辿ってみると、さまよう意識はあのバス停の前の店に行きつく。要するに、何らかのきっかけがそこにあるらしい。しかしそれが具体的に「何」であるのかは分からない。雰囲気なのか、存在自体か、別のものであるのか。

 午前中の歓楽街には独特の終末感が漂っている。

 もちろん単純に店が開いておらず、当然、人の影がない状態にも起因しているが、私のような徘徊者にそう思わせる要素は他にもある。理由のひとつに、現在国内に残っている古い歓楽街の多くが、「全盛期を過ぎた」という意味ではすでに終末を迎えている地域がほとんどであることが挙げられる。

 例えば、今年の夏に訪れた山梨県の某所。ここは甲斐絹の産業が興り、隆盛を誇った時期に最も発展した一角であった。

 小さな駅舎を出て大通りを南東に進めば、やがて小さな橋に行き当たるので、それを渡って今度は川沿いを歩く。すると道の片側に並ぶ建物の多くが、かつてはパブやスナックに類するものだったと気が付くだろう。もう少し奥の方にも足を伸ばすと風俗店の名残もある。店名の書かれた看板に、扉を隠すように狭く、奥まった間口が特徴的な建物の数々。たまに寿司店などもあった。

 いずれも営業していないと分かるのは、シャッターが下ろされているからだけでなく、例えば半地下の入り口に向かう階段が花壇のブロックやゴミ袋、パイプ椅子などで幾重にも塞がれていたり、看板に記載されていた電話番号がビニールテープで雑に隠されていたりするからだ。明らかにもう客を招いていない。仮にまだ営業していたとしても自分は客ではないのに、いっそう拒絶されている感じがする。もしくは封印を解除できない探索者の気持ちにさせられる。何か理解できない方法で扉が閉ざされており、あたかも私以外の人間は、みなそれを知っているかのごとく。

 昼間は静かで、おそらくは宵闇に包まれても同じく静かなままの街。当時を偲ぶ凝った意匠の街灯だけが照らす一帯。そこには、確かな「終わり」の空気が満ちている。現役で営業している店を探す方が難しいのかもしれなかった。甲斐絹産業が下火になり、労働者の減少に伴って街もどんどん過疎化し、多くの空洞が残された。

 重要なのはそれが、いわゆる「廃墟」とは大きく性質を異にする部分だろう。

 大抵の元店舗は住居と不可分のつくりになっていて、表に面していない裏側では、以前のオーナーかその家族が普通に生活を営んでいる。店から家に変わったというべきか、いや、建物はそのままに機能としての店だけが、トカゲの尻尾よろしく切り離されたと表現するべきか。どちらも適当ではない気がするが、ともあれ抜け殻と化した領域と未だ生活の拠点となる領域が共存している。人間は確かにその場所で息づいていて、しかし——歓楽街自体が一個の土地として繁栄していたのは、もう過去のことなのだ。

 かくれんぼで鬼をしている最中に肌が検知するのと同じような「不在の気配」が、角を曲がる直前、建物の陰にある。そして、実際に曲がって道の先を見た瞬間、儚くかき消える。このあたりに誰か、あるいは何かがいるのは知っている……ただ、私には姿が見えないだけなのだ(あの、ハチの羽音がする。しきりに頭の周りを飛んでいる)。

 古代遺跡や博物館、とまではいかないが、どこかで時間の脇に取り残され、徐々に風化していくような忘れられた街の印象。現地を散策する際の独特の感触が、癖になってやめられない。


 古い歓楽街に、終末感が漂っていると感じる理由は他にもある。

 冬から春に季節が移る直前の寒い時期、静岡県某所の温泉地に滞在していた。そこにもかつて栄えた夜の街の遺構が残っていて、往時は相当な賑わいを見せていたのだろうと推測できる箇所が多くあったが、やはり基本的には寂れていた。

 中には特殊飲食店の廃業後に居抜き物件として売られたのか、建物だけが過去の特徴そのままに、美容院や服屋、飲食店へと「転生」しているものがかなりあったのも興味深い。擬態というにはいささか堂々としている。別に以前の経歴を抹消するつもりはないとでも言いたげだ。例えば昔の闘争で負った、刃物や銃弾による傷を消さずに残し、同じ場所に留まって、別の仕事をしている者の風貌……。分かる人間には前職が分かる。

 温泉地に隣接するその歓楽街で頻繁に遭遇したのが、特徴的な「形」と「色彩」の数々だった。

 例えばダイヤ形のふたつ連なった窓とか、上の角だけが丸くなった縦長の扉、そして貴婦人のさす傘を思わせる青い半円形をしたひさし。ひさしの縁にはフリル風の飾りもついていたのが、さらに趣深くそれらしかった。ある一角では、ときどき視界にちらつく光を奇異に思って近付くと、正方形をしたピンク色の小さなタイルで表面が覆われた柱だったこともある。あとは二階以上の高さがある建物なら、通りに面した側の窓に、装飾的な模様の欄干が。

 これらの特徴は、意図的にそこが夜の店であり、普通の家とは異なることを示し演出するための、一種の仕掛けなのだった。

 まるで積み木で作った風景か、テーマパークの亜種のよう。

 だから陽が落ちる前に歓楽街を目的もなく歩いていると、あたかもそこが、誰かが組み立てて遊んだ末に片付けるのを忘れた「おもちゃの街」に似ているとつくづく思う。まる、さんかく、しかく、邪気のない指が手持ち無沙汰に生み出した落書きの具現。実体があるのに現実味に乏しく、それでいて繊細さを排除し、必要以上に際立たせた印象は鮮烈だ。作られ、描かれた架空の世界。こうして徘徊している私の他に生きているものなどいない。自分は世界が滅びた後に残された、文明の残滓を見届けている。

 そう、ここは確実に、一度は終わりを迎えた街なのだ。

 前方の景色が柔らかく歪む。ハチの羽音が明瞭に聞こえてきて、意識が後方に遠ざかる。何かを振り切るように足を速めて辿り着いた袋小路で「頭痛 歯痛 ノーチカ」と書かれた古いホーロー看板に迎えられた。残念ながら、この幻聴をどうにかしてくれる類の薬ではないらしい。黄色いコンテナに詰まったビール瓶が並ぶ完全な行き止まりだったので、踵を返して前の道に戻る。

 同じ道を通っているはずなのに、さっきと全く雰囲気が違う気がするのは、錯覚だろうか、それとも?

 改めて考えてみれば、積み木遊びや落書きで、不完全ではあってもひとつの世界を創造し、後始末をせずに放置した場合、そこには半端なまま何かが残されているはずだった。きちんと消し去らない限りは。

 私はふと小路の両脇に注意をやる。軒を連ねる無数のパブ、スナック——気になるのは店名である。「Coco(ココ)」「ちか」「まなみ」「長吉」など、明らかに人名を連想させるものが多い。このおもちゃの街を作り出した誰かは、物語に登場させる人物を考えるだけ考えて、その名前を建物に与え、放置したまま忘れたらしい。名前の付いた建物はどこか生き物の巣穴に似ている。要するに、あの「ココ」にはココという架空の生き物が棲んでいて、「長吉」の方には架空の長吉が棲んでいるに違いない。

 最も衝撃的な例は「魔女の館」だった。

 魔女の館。どぎつい紅色をした看板に、そう記載された店があった。

 私は板チョコレートそっくりの四角い扉の前で立ち尽くす。ここは他と違ってまだ廃業していない。今はまだ明るいが、周囲が宵闇に包まれれば通常通りに営業を開始するのだろう。終焉を迎えたおもちゃの街に残り、未だに店を営んでいる「魔女」とは、果たしてどのような存在なのか? 強大な力を持っているのだろうか? 自分の目で真相を確かめるためにここに残り、時間になったら扉を押し開けたい欲望で、頭が一杯になる。

 けれど決してそんなことをしてはいけない。存在の不確かなハチに刺されて次々と風船が割れ、編まれた幻想がほどけてしまう。

 黙って蛇行する道を進んだ。ちなみに「魔女の館」の斜め向かいにあった店の名前は「パラダイス」。全くふざけている。やはり、誰かの指先で弄ばれているのだ。

 やがて小さな世界の果てが訪れて、日没の前に散策も終わる。

 現在の私にとって、夜は外を出歩くための時間帯ではなく、バスに乗る時間の目安だった。

 

 歓楽街を白昼に徘徊するのは、いうなればどこかで創造され、その後、廃棄されて終末を迎えた(と仮定する)街の幽霊を、実際に取り残されている現実の風景へと勝手に憑依させる行為に他ならないのだった。

 妄想紀行。その依代としての現実、物質の世界。

 

おわり