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フランシス・ハーディングの小説に引き込まれている - 世界から弾かれた者たちの紡ぐ物語

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 最近、自分の胸に深く刺さる傾向があるのは、だいたい広義の「児童書の系譜」に連なる物語なのかなと改めて考えていた。

 それは物語自体もさることながら、読み手である私自身の「好きになった登場人物たちを永劫に忘れず、ずっと心の中に住まわせて歩んでいく」性質と密接に関係してもいて……。

 振り返れば物心ついてから、児童書の世界をろくに知らないのに「他の小説より内容が浅い」「子供だけが読むべき単純な本」などと豪語する人々に多く出会ってきた。実際は大きく異なるのだけれど、説明や説得をするのも面倒だからしない。けれど今後も、そういう者達の言葉を耳に入れた上で、きちんと無視して人生を過ごしてゆくだろう。

 自分の核にあるものだなぁ。永遠のもの。永遠そのもの。

 

 ある日、書店でフランシス・ハーディングの作品と出会った。

 

「わたしたちって幽霊みたい」
(中略)
「現実の世界が――仕事や家族や新聞記事が動いていっても、わたしたちはその外にいる」
「あら、そんなことないわ」ヴァイオレットはむっとして反論した。「あっちが幽霊なのよ。ピアスやセレステやほかの人たちのほうがね。過去にしがみついて……」

 

(フランシス・ハーディング『カッコーの歌』(2022) 児玉敦子訳 創元推理文庫 p.507)

 

 最初に手に取ったのは『カッコーの歌』だった。英国幻想文学大賞受賞、そしてカーネギー賞の最終候補作。

 あらすじに惹かれたのか、表紙が印象に残ったのか……もう覚えていないけれど、とにかく仕事帰りに書店で購入していて、しばらく本棚で寝かせていた。そうしたらBlueskyのフォロワーさんが感想を呟いており、内容に心を掴まれたのですぐ読み始めることにしたのだった。

 結果、本当に好きな物語であったので本当に嬉しい。世界から弾かれた者たちを見つめ、慈しむ眼差しがあり、さらにまぎれもなく児童書の系譜に属する要素を持ったおはなし。

 

『カッコーの歌』の舞台は1920年代イギリス。場所は首都ではない中規模の町で、時代設定に意味を持たせているからこそ、むしろ私たちが生きている現代への目配せが光っていた。魔術の登場する物語としても、広義の「姉妹もの」としてもおすすめできる。

 そう、魔術や魔法。

 あらゆる儀式や古い伝承、おとぎ話などは基本的に、ごく自然に(たとえそれに気が付く場面がほとんどなかったとしても)文化生活の中に息づいているものだと個人的に実感しながら暮らしているので、例えばハーディングと同じ英国の作家だとダイアナ・ウィン・ジョーンズの作品みたいに、それを真摯に扱ってくれるのが好きな作風のひとつかなとも思う。

 魔法や魔術は「非現実的な話」というラベルを貼られがちだが、実のところ周囲に当たり前に存在しているもので、ならば「ごく普通」の世界の物語を書く場合にそれらを組み込まないというのはむしろ不自然なのではないか? と感じる読者であります。私は。だってそこにあるし、皆、いるんだもの。

 

 また作中で印象的だった台詞。

 

「おまえたちは自分の種族を代表してどんな約束ができる、人間の娘よ? エルチェスターの人間は誰も嘘をついたり盗んだり人を誘拐したり傷つけたり殺したりしないと約束できるか? できないだろう。」

 

(フランシス・ハーディング『カッコーの歌』(2022) 児玉敦子訳 創元推理文庫 p.276)

 

 本当にこれなのだ、と思う。

 その「場」になじまない(と、片方の価値観からみなされる)者たちを同じ枠に括り、あなたたち諸悪の根源さえいなくなれば良いのだ、と言いたい勢力はどこにでもある。そして、その分断によって解決できる問題は存在しない。理由は引用の台詞にもあらわれている。

 人間にとっては時に恐ろしくもある種族「ビサイダー」達の描写、非常に良かった。

 

 他にも「腐りかけたリボンで棒を束ねたいかだに乗り、そこにひしめいて海の外からやってくる子供たち」というような、私達の世界で起こっている事象の何を連想させたいのか明確な様子が描かれていて記憶に刻まれた。

 

アンダーベリーにはたしかに恐ろしい人たちもいる。でも、ほんとうにその人たちぜんぶを破滅させたいの?
(中央)
わたしも怪物だ。そして、あの子たちも好きで怪物でいるわけではない。


(フランシス・ハーディング『カッコーの歌』(2022) 児玉敦子訳 創元推理文庫 p.278)

 

 

 これを読み終わった後、同作者による作品の日本語訳がまだあったので、とりあえずあらすじを読まず「作家買い」してみることに。

 続いてページをめくったのは『影を呑んだ少女』。

 これも私の好みに合う、大好きなお話のひとつになった。

 

ポプラの町では、王が邪悪な顧問とカトリックの策略のせいで道を踏みはずそうとしている(中略)、とだれもが信じていた。ところがここグライズヘイズでは、権力に飢えた議会が狂信的なピューリタンによって混乱状態に陥り、正当な王から権力を奪おうとしている、という見方があたりまえなのだ。

 

(創元推理文庫『影を呑んだ少女』(2023) F・ハーディング 児玉敦子訳 p.112)

 

 舞台が17世紀なので歴史ものとして読むこともでき、登場する事物の元ネタを知っていればなお一層楽しめるが、関連知識がほとんどなくても全然問題ない。むしろ主人公の気持ちに近づけて面白いかもしれない。

 幽霊を憑依させることができる特殊体質の少女・メイクピースがその頭にクマを宿し、当時の英国を駆ける。「居場所を追われた者たち」の結ぶ奇妙な縁が、最高……。

 なかでもレディ・モーガン、とても自分の心に食い込んでくる登場人物で、終盤ずっと好き……って思っていた。

 

 

※この先にキャラクターや後半のストーリー詳細への言及が含まれます。

 

 

 レディ・モーガン・フェルモットの背景はおおまかにしか語られないが、シモンドの「女性であそこに加われたのは彼女でわずかに三人目。ぼくらの血筋ですらなく、婚姻によってフェルモット家に入っただけ」という台詞から察するに余りある。

 生涯の全てを捧げて一族に「自分の価値」を示そうと努力してもなお、死後、危険な〈潜入者〉の任務をやらされる立場にやっと置いてもらえただけだった。そんな風にあなたを扱う人達に認めてもらわずとも、世界は広いのだと声をかけてあげたい。

 でも現代ではないあの場所で、どうやって外を知ればよかったのかといえば、他に方法などはなかった。

 

 時代と血筋と伝統、狭い価値観に翻弄されてきたレディ・モーガンの重い過去を踏まえた上で、私には関係ないからとばっさり斬るメイクピースの態度が残酷であり確固たる救いであることが実感できるの、素晴らしく良い。

 そして協力しようと持ちかける少女に対し「はあ?  本当にどうしようもない。妄想がすぎる。どうしてわたくしが、わが一族を裏切ってそなたの味方になるのか?」と言ったり、今度は怪我がないかと問われて戸惑い「そんなことをきかれたのは、ほんとうにひさしぶりだ」と答えたりするの、あまりにも萌えが過ぎる。

 ひねくれていて狡猾で皮肉屋で頭の回転がおそろしく速い女が、頑固な少女に心を許してくれるの萌えすぎる……。

 

「わたくしはあの方たちにお仕えしている。でなければ、すべてを失ってしまうかもしれない。わたくしはそういう世界に生きている」
「じゃあ、その世界が終わるとしたらどうする?」メイクピースは問いかけた。(中略)「一度でいいから、反乱を起こしてみたかったとは思わない?」


(創元推理文庫『影を呑んだ少女』(2023) F・ハーディング 児玉敦子訳 p.443)

 

 

「他人の頭の中にずっといると、宿主の記憶が自分の大切なもののように思えてきてしまう」なんて零す、その感受性を持つ人が潜入者の役割を担わされてすり減らないわけない。

 モーガンが少女に出会えて良かった。それを読者として観測することができて良かった。

 2人が本編後に会話している番外編ください。

 

「あたしのいちばん暗い秘密と悲しみを知ってる。それを使ってあたしを苦しめて、弱らせて、心を打ち砕くことだってできた。でも……」

 

(創元推理文庫『影を呑んだ少女』(2023) F・ハーディング 児玉敦子訳 p.442)

 

 他の仲間たちもさることながら、この二人の関係が特別なのは、モーガンがメイクピース本人も避けていた記憶の部屋に潜んでいたこと。そして、少女は侵入者を母の幽霊かもしれないと少しの間思っていたこと。

 もっと……会話して!!

 大事なのでもう一度同じことを言います。

 ひねくれていて狡猾で皮肉屋で頭の回転がおそろしく速い女が、頑固な少女に心を許してくれるの萌えすぎる……。

 

 この次のハーディング作品は『嘘の木』『ガラスの顔』を読む予定で、また『呪いを解く者』の文庫化も心待ちにしている。

 

 

 

 

 

 

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