同著者の作品を少しずつ読んできた中で、これは〈イルスの竪琴〉3部作に並ぶくらい好きな1冊になった。
アトリックスの心中に思いを馳せるたび涙が滲んだ。
この場で石と化し、狩人の野の暗い記念碑になりたかった。女王の森に戻り、女王の歩む地面にわが身を埋めて、言葉も思考も永久に放棄したかった。だが、意識のないペルシールの王弟をかかえたまま石になることはできない。
(パトリシア・A・マキリップ『アトリックス・ウルフの呪文書』(2012) 原島文世訳 p.310 創元推理文庫)
アトリックス・ウルフの呪文書
あらすじ
カルデスとペルシールの間に戦が起こった。放っておけば、美しき山々と魔法学院を擁する土地ショームナルド……山羊飼いやさすらい人たちの憩いの地も、間違いなく巻き込まれる戦だった。
それを止めるため、通常であれば力のバランスを保つため人界にはかかわらない魔法使いの長老、アトリックス・ウルフはカルデスの陣地に赴いた。自ら王を説得するために。
しかし彼の訴えはカルデス公から退けられる。ただ何かを得るための争いを正当だと思っている王に、それがどれほどの惨禍を生むのか説く、アトリックスの言葉は全く通じない。どころか「我々に手を貸してくれればショームナルドを荒らしはしない」と持ち掛けてきた王に対し、老魔法使いの怒りは爆発する。
結果、雪の中に「闇の乗り手」が現れた。
やみくもに野を横切り、戦場の光景にぞっとする。飢餓と悪夢、血塗られた雪、埋葬もされずに凍り付いた使者、苦痛と恐怖。われを忘れて吠えたける猟犬。そのとき、混沌とした瞋恚が心の中で形をとり、戦よりも冬よりもすさまじい姿を生み出した――両軍ともに敗走して戦を終わらせるような姿を。
(パトリシア・A・マキリップ『アトリックス・ウルフの呪文書』(2012) 原島文世訳 p.19 創元推理文庫)
戦場で実際に何が起こったのかを知る者はない。ただ一人、アトリックス・ウルフを除いては。
20年後、ショームナルドの魔法学院ではカルデス大公リヴェンの末娘ラレースと、ペルシールの王弟タリスが机を並べて学んでいた。
王であるタリスの兄は魔法に対して複雑な思いを抱き、ときどきそれを暴走させる弟に「何度お前に殺されかけたか」と憮然として見せるが、父である王も母の妃も逝去した今、唯一の肉親の弟をとても大切にしていた。ある日、タリスは怪しい呪文書を発見する……。
そんな彼らが暮らすペルシールの城の階下では、毎日のように大量の料理が作られては上に運ばれ、今度は空になって(時には余った食事ごと)戻ってくる。
その台所に、ひとりの鍋磨きの娘・サローがいた。言葉を発することができない彼女は奇しくも過去の戦禍、冬の包囲戦のさなかに城の外に捨てられているのを見つけられ、以来下働きの皆に育てられている。来る日も来る日も鍋を磨き続けるだけのサローだが、どうやら夜になると、水面に映る別の場所の景色を覗いているようなのである。
身元の判明しない娘に宿っている力とは。
……そして、人間ではない者たちの住まう妖精界の森では、森の女王が悲痛な声を上げる。文字通りに「哀しみ(Sorrow)」と聞こえる音は、その腕から失われたものをずっと探していた。
女王はぼんやりした姿でアトリックス・ウルフの夢に現れ、しかし何の収穫も得られずにいたところ、妖精界と人界……隔てられた二つの世界を渡り、彼女の言葉を老魔法使いに伝えられそうな存在をついに見つけた。
名はタリス・ペルシール。
異なる道を歩んでいた彼らは、いったいどの地点で交わるのだろうか。
※ここから先に内容や結末への言及があります
愛すべき器具、眼鏡
かなり雑な感じの(実際は雑でもないのだが)紹介をすると、ペルシールの王弟タリスは、メガネキャラだ。
眼鏡。彼の生活に必要で、周囲の人からもそれがトレードマークだと思われている、人の視力を補強するアイテム。
そびえたつ頂から、風に翻弄されてへとへとになった若者を見おろした。厖大な岩に圧倒されて立ち止まり、その手からすべった眼鏡が岩のあいだに落ちるところも見た。魔法使いは眼鏡を見つけてやり、それほど求めてやまないものを与えた。すると、若者はついにきびすを返し、山をおりていった。
(パトリシア・A・マキリップ『アトリックス・ウルフの呪文書』(2012) 原島文世訳 p.49 創元推理文庫)
この眼鏡というものが作品の中で特別な光を放っている。
もちろん「視る」というキーワードがタリスにとって重要なのはもちろん、レンズはある意味で水面や鏡のようであったり、さらにそれを通してみる世界が肉眼からの情報とは違っていたり……と物品そのものが持つ要素としても象徴的。
実際にタリスが眼鏡を使って魔法を行うというわけではない。けれど、時にそれを指で押し上げたり、ずり落ちてきたら直したり、曇ったレンズを拭いたり、うっかり破損してしまったりなど、とにかく細かな描写が物語のそこかしこに散らされている。
単純にヴィジュアル面の要素でというよりは、本当に「彼の一部」としての扱いを受けており、それがまた大きな魅力なのだった。
これでこそメガネキャラである。そう思った。
血塗られた闇の先に見出されたものは
20年前の戦場で、ショームナルドに危機が及ぶかもしれないと察知したアトリックス・ウルフが、なぜあれほどまでに強い怒りと憎しみを抱いたのか。いかにして森の女王の伴侶までもを無節操に引きずり込み、誰にも対処できないような闇の乗り手を作り上げてしまうに至ったのか。
魔法使いは人の世の戦から距離を置くのが常なのに。
そのことを思うたび、女王が彼にかけた言葉が浮かんでくる。
「それほどの力がありながら」と言う。「自分の命など気にもとめていないのですね。(中略)脅すことができるほどそなたが気にかけているものなどあるのですか」
(パトリシア・A・マキリップ『アトリックス・ウルフの呪文書』(2012) 原島文世訳 p.254 創元推理文庫)
ああなるほど、そうなのだ、と思う。それはお話の終盤でも、はっきりと示される。
自分のためなどではなかった。己のためだけであるなら、決してあのようなものを作り上げはしなかっただろう。森の女王の糾弾に対してもただ、その命を差し出すだけで足りた。けれど彼は心からショームナルドの土地と、その土地で出会ったあらゆるものを愛していた。文字通りに、ほとんどすべての者たちを。
だから過ちを振り返ればこそ、根本的には自分自身などどうなっても構いはしないという投げやりな気持ちがあったのだろう。そして……彼が土地や風、水、動物たち、人々への底知れぬ愛から新しい魔法に「成り果てた」あと、その自我を現世に引き留めたのが若い魔法使いの眼差しだった。
出会っていくばくかも経っていない、長い時間を共に過ごしてきた存在に比べればずっと重要度が低そうな若者、その火のような眼のために、アトリックスは己の名前を取り戻した。彼は「若い魔法使いたちの瞳に宿る、活気に満ちた魔法も愛していた」から。
友人や恋人、教師、君主など、大切に思っていた相手の顔がよみがえる。アトリックス・ウルフ、と語りかけ、ほほえみかけたまなざしを思い出し、ひとみに浮かんだその名を織りこんだ。
(パトリシア・A・マキリップ『アトリックス・ウルフの呪文書』(2012) 原島文世訳 p.314 創元推理文庫)
この箇所から伝わってくる万感も本当に好きだった……。
私たち読者には、もう隠遁生活を送り、ぼろの服を纏って岩山で薬師をしているアトリックスの姿しかほぼ明かされない。峻厳な山々に囲まれて送る生活の中で、動物の治療をし、子供たちに出会い、紡いだ温かな記憶はもちろん沢山あっただろう。
それでいて、途方もない時間の中で、異なる場所に身を置いていた時間も確かに多く存在したこと、過ぎ去りし日の記憶にも大切な人たちがいて、彼の名前を読んでくれていたことがわずかな文章から溢れてくる。
そして、この老魔法使いがこれからも地上に留まってタリスを指導してくれること、また新しい「先生」の職に就いてくれる意思がある、と分かって、嬉しかった。
次に読むマキリップは『女魔法使いと白鳥のひな』。楽しみです。