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彷徨する自由帖

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ギザの偉大な人面獅子像 - 旅先の風景は、ただそこにある現実|エジプト・カイロ紀行

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 現実とは目の前にあるもののこと。

 その時そこに存在し、確かに感じられる「何か」を指して、現実と呼ぶ。

 客観的な実体ではなくて、認識の話なのだ。

 

 

 なら、旅行先で邂逅した物事や風景というのはすべてが圧倒的な現実であり、瞬間、いわゆる「いつもの暮らし」こそが不確かな幻想へと性質を変える。

 もはや日常生活というものの側がフィクションになる。

 ゆえに旅をしている最中の経験を「非現実的」だと捉えるのはどこか的外れであって、例えば自分の家や部屋、通勤・通学路など、どんなに慣れ親しんだよく知る場所であったとしても、自身がそこから離れている間はまったく不確かなものに変わってしまっているわけだった。

 

 特にどこへも行かず過ごしている期間、ギザの大スフィンクスは、いわゆる現実から遠く離れた存在の筆頭だったと思う。

 幼少期に学習漫画を読んで以来、あるいは数々の考古学、文明の本や番組に触れて以来、長らく心の一角に住み続けていた空想世界の住民。地球上にあることにはなっているけれど、自分の実感からすると、確実でも本当でもないもの。

 箱の中にあって、周囲の皆が「ある」と証言する。しかし箱を実際に開けてみるまでは、きちんと見てみるまでは、そこに入っているのかどうかすら分からない存在……。

 

 

 それは「あった」。

 

 現地に足を運んで、この姿を確かに網膜に映していた数年前のとある日、たった数時間。

 そのあいだ、スフィンクス像の存在はずっと紛れもない「現実」で、確かにそこにあり、私は自分が一体どこから来た誰なのかという要素の方を失念した。もはや日本の空港からギザに辿り着くまで、また、再び自宅へ帰るまでの前後はある一点から切り離され……故郷で寝起きしていた家も、働いていた会社も、すべてが「実際にあるのかないのか分からないもの」の枠に収まっていたから。

 しばらくの月日を経て、こうして当時を振り返っていると、あのスフィンクスは昔よりわずかに現実の側へと寄った空想の世界にいる。

 頭の中には記憶もあるし、写真も残っているけれど、今この瞬間には目の前に実体がない。もしかしたら砂地の上ではなくて、空を飛んでいるかもしれない。報道されていないだけで、あの場所から忽然と姿を消していたとしても、別に驚かない。

 

 

 人はこうして旅行することで「現実」から「別の現実」へと渡り歩く。

 繰り返したいのは、現実と非現実の区別があるのではない、という部分。種類の異なる現実が、並行していたり、ときどき重なり合ったりして同時に存在しているような感じ。なぜなら私が一度も訪れたことがない、名前すら知らない国にも人々は生きているし、動植物もいて、建物も建っている。

 だからこそ、あるはずの遠い土地を思い描き、胸に展開した空想を現実にするのは容易だった。単純に、そこに足を運んでみればいい。

 

 だからだろうか。

 何らかの物語に深く没入する行為を「現実逃避」と言う人も世の中には多くいるらしいが、私にはそう表現することはちょっとできない。なぜなら、そこに待ち構えているのもまた「圧倒的な現実」であって、現実自体から逃避できていることにはならないと考えている……からかもしれない。

 その感触は、逃走をした先に予期するものとしてはあまりに生々しい。

 

 現実と非現実があるのではなく、ある現実から見て、それとはまた違う現実が別の場所にも存在しているだけなのだ。

 ホーガン「星を継ぐもの」のハント博士も言っていたのを思い出す。

 己の背後に残してきたものは非存在と化し、その時対峙しているものこそが、現実でありうるのだと。

 

 

 

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