風速が5メートル程度ある晴れた日に、沖から寄せる波が砂浜を噛む音は、少し離れたところに居る人間の声を簡単にかき消すくらい大きいのだと知った。
威嚇をされている。
わざわざ干潮の時間に合わせて行った背景もきちんと見抜かれていたはずで、ざざん、と白く泡立つ海水が飛沫となって顔に触れ、髪や服に染み込むのを砂の上に立ち感じていた。
海に行くのはすなわち、想像も及ばぬほど大きな相手からの無遠慮な侵食を、否応なしに受け入れること。
私は海にあまり好かれておらず、そして浜というのはどうしても自分と潮との距離が近すぎるから、あまりすすんで訪れることはない。人に連れ出されなければ特に赴くきっかけもなく、用心を重ねてこの日も足を運ばなかっただろう。
けれど、不意にきっかけは与えられた。
目次:
初めてのビーチコーミング
横須賀の立石公園近く、秋谷海岸での「ものひろい」に誘われたのだった。
ビーチコーミング(beach combing)の呼称でも知られ、浜や岸に漂着した貝殻や流木、石、あるいは人工の物品やその欠片などを探し、拾い集めて楽しむ行為。
まるで、髪を櫛でとかす(comb)ように浜の上を精査し、じっと目を凝らしたり、少し表面を掘り返したりしながら、色々な「もの」を発見する。
砂上に存在しているものたちは多種多様かつ無尽蔵で、拾う側はそこから何を選ぶかによって、1日の終わりには本人の趣味が反映された「嗜好の手作り標本」を得ることになる。
果たして自分は浜に落ちていたもので何がとりわけ好みだったのか、どんなものに気をとられたのかが、如実に反映された一種の図鑑。
私の場合それらは赤い色をした貝殻や、角が取れて氷砂糖じみたガラス、また陶磁器類の欠片であったわけなのだけれど、中でも赤系の貝殻に心惹かれたのはかなり意外だった。予想もしていなかった。
まずはどこかで出会ってみなければ、実のところ自分は具体的に何が好きなのか、判断するのはかなり難しいのだと実感した次第。
赤い貝殻が好き?
と、仮に誰かから問われたとしても、この日ビーチコーミングに出掛ける前の自分なら「よくわからない」と返していたに違いない。
今は、少し好きかもしれない、と答えられる。
合計4時間くらい砂浜にいて、帰宅する頃にはもう全身が筋肉痛に苛まれるようになっていた。バキバキだ。
海へ出るための交通費と昼食代などを除けば、ビーチコーミングは初期費用0円でいつでも始められる、とても気軽な楽しみだと言うことができそう。
ちなみに海岸で食べたのはハンバーガーだった。
バス停「立石」の目の前に《Hang Loose(ハングルース)》というお店があって、そこでクラシックバーガーとジンジャーエール(辛口)を注文する。バーガーとポテト、共に余計なものが加えられていないシンプルな仕上がりが嬉しく、これは肉やバンズそのものの味をじっくり噛み締めてから、適宜ケチャップやマスタードでより好みに調節するのが良いと頷いた。
・Classic Hanburger ¥1,100
・Ginger Ale(Wilkinson) ¥400
メニューを見ると他にもタコライスやケーキ類を取り扱っているようだった。ベジタリアン向けの商品もあるようす。詳細はスタッフへ、と表に記載。
不定休なので、訪問の際は公式Instagramなどでカレンダーを確認するのが良いのかも。
それではこの場所で拾ったもの、嗜好の標本を整理してみよう。
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File1: Seashells
- 赤い貝殻 -
ある種の貝殻が持つ赤色は鮮烈で、視界に入ったら最後、意識を捉えて離さない。
不思議なことだった。一部を除けば表面の多くはざらついていて、時には目を凝らすと白や灰、紫、橙、黄色などの彩りも細かく散らばっている。絹糸が綾なす錦の紋様のようでもある。放射状に線が入っているものや、ふちから反対側にかけて、徐々に色が移り変わっていくものもあって……どの貝のどの部分を取っても同じとは言い難い。
だからこれは単純な、というか、厳密な意味での「赤」ではないのだろう。そこに均一に彩度の高い赤が塗られているわけではない、様々な色彩の集積。けれど落ちているのを見れば、紛れもなくこれは赤い、と思う。
砂浜で出会うとこれほどまで目を奪われるのに、赤というのは深海において、目立たない色の筆頭になる。
水面から入ってくる光の性質、その反射の関係で、深い場所へ潜るほど赤は暗く黒々と沈み、周囲の闇にすっかり溶け込んでしまうのだった。深海で生きる赤い生物の多くは、それによって巧みに外敵の目をくらましているのだという。
なのに、ひとたび陸に打ち上げられれば彼らは、たちまち鮮やかな姿を人間の前に晒すというのだから、たまらない。手を伸ばさずにはいられない。
引き潮でも海水の残滓を表面に残し湿っている貝殻は、内側から染まったように色づいている。
これが乾くと彩度が落ちて、発見した瞬間よりもかなり色褪せて見えるので(ゆえにニスを塗って鮮やかさを保ってみた)、浜から自宅へ持ち帰る際にはかなりの罪悪感をおぼえることになる。まるで、貴人の誘拐を行うみたいだからだ。
特に少し色のうすい赤色をした、光沢のあるちいさな貝殻だと、きれいな人の爪のようだと思えていつまでも優しく撫でてしまう。
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File2: Sea glass
- シーグラス -
時間をかけて水と砂に削られ、適度に角の取れたガラス、魅惑的なシーグラス(ビーチグラスとも呼ばれる)は幼い頃から明確な欲望の対象だった。これといった理由もなく、ただ欲しいと渇望してしまう存在。
昔読んでいた本に出てきたのが、おそらく人生で初めての邂逅だったはず。物語の中では「三角形をしたシーグラス」だった。一体何の話だったのか、もう思い出せないほどには記憶が遠い。児童文学ジャンルであった気がするのだが。
振り返ると、何故以前からもっと積極的に拾いに行かなかったのだろう……と疑問に思う。
こんなに沢山落ちているものだという認識に欠けていたのかもしれない。確かに大きな一片を見つけることは難しく、場合によっては高値で取引されるほど珍しいものもあるにはあるが、シーグラス自体は砂浜を選んで時間をかければいくらでも手に入るのだと分かった。
今回拾うことのできたガラスは比較的粒の小さな欠片ばかりで、特に白色をしたものはかつて祖母の家にあった、瓶詰めの氷砂糖を思い起こさせる。本当にそっくりだ。驚くほどに氷砂糖と似ている。ごく細かなざらつきがある部分も、空や電灯にかざすと光を透かすところも、ひと粒ごとの重さでさえも。
癖になる独特の手触りを楽しんでいると、ひと思いに口に放り込んでしまいたくなる気持ちが消えない。それで舐めてみたり、ガリガリ、と嚙み砕いたりしてみたくなる。衝動に抗いながらも半ば無心でシーグラスの表面を撫で続ける行為は、さながら危うい綱渡りのようだった。
氷砂糖の他にもシーグラスそっくりの食べ物がもうひとつあって、何かというと、駄菓子屋で見られるフルーツ餅(餅飴)の類である。
仕切りのあるプラスチックの板にお行儀よく並ぶ正方形の餅、さくらんぼ味やソーダ味や青リンゴ味と豊富なラインナップのお菓子は、中身をこっそりシーグラスに入れ替えてみてもすぐには気が付けないくらい、外観が似ている。
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File3: Sea pottery (porcelain)
- 陶磁器片 -
古い陶磁器の欠片が海辺で拾えると分かって、自分がどれほどわくわくしたのかはちょっと説明に窮するくらいだ。本当に、探せば足元に落ちている、その手軽さに驚く。
砂浜に漂着する陶器や磁器のうち、後者は特に江戸から明治・大正・昭和の戦前にかけて流通していた皿か茶碗などが多いようで、近代遺産や近代文化に興味のある身として、時間を超越してこの手が過去の欠片を掴める状況に心を動かされるほかない。
食器というのは、身の周りに存在する中でもかなり生活に根差している品物のひとつだろう。食は暮らしの反映。食べ物や飲み物を抱える器は、ならば暮らしの受け皿そのものである、とも考えられそうだった。
皿や茶碗以外だと壺、甕、花瓶などの道具や美術品が紛れ込んでいる場合もあり、浜の立地によっては鎌倉時代から室町時代にかけてのものとか、もっと古いと中世以前の「土器」も発見されることがあるという。見分け方を調べていて、仮に運よく拾える機会があったとしても、考古学的な観察眼が養われていないと存在に気が付くのは難しいだろうと思わされた。でもいつか出会ってみたい。
近代磁器食器の話に戻ると、その具体的な生産年代を推定する鍵になるのは欠片の厚みや質感、そして描かれた文様なのだそうで、ざっと並べてみただけでも確かに違いがあるのが分かる。茶、緑、青と色の種類も異なるのと、青ならその中でも濃く鮮やかなものがあると思えば、ほとんど水色に近いほど薄いものも。
しかし矯めつ眇めつしているうちに、自分が最も魅力的だと感じているものは、実は模様が取れて無地になった磁器の欠片なのではないかと感じるようになった。
釉薬が剥げて艶のなくなった、まっ白い磁器の手触りはぞくぞくする。破片どうしを軽くぶつけると高い音が鳴り、さらに擦るようにして触れ合わせると、ごく細かい泡のようなしゅわしゅわとした音とともに指に感触が伝わる。
乳歯や素肌を連想させる無防備さ。多分、それに惹かれるのだろう。
そのうち、磁器の欠片の分類をしてみたい。
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