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彷徨する自由帖

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銀のトレーは「特別」の象徴 喫茶チロル - 名鉄インが目の前のレトロ喫茶店|愛知県・名古屋市

 

 

 

 何年も前のストリートビュー写真では「TOBACCO」となっていた右手の看板が、2022年に行ってみると「切手・印紙」に変わっていた。些細なところで確かな時代の流れを感じさせる。そして、明朝体を少し弄ったような字体がレトロで可愛い。赤と朱の中間みたいな色合いもそう思わせられる要因かもしれない。

 ひさしに洋瓦風の飾りと黒い持ち送りが並んでいる下、入り口は左側の扉だった。名古屋のチロルという喫茶店。カウンター席の上部に氷砂糖みたいな照明器具が並んで、洋風の椅子は赤色で統一されていて、明るい印象のこぢんまりとした内装だった。

 早朝は入り口から近い席が賑わっていて、奥側の席が空いている。どこでも適当に荷を下ろそうとしたらその横に心惹かれるものを見つけてしまい、結果的にそちらの方へと収まった。魅力的なものには吸い寄せられる。

 何があったのかといえば、昔の麻雀ゲーム機がそのままテーブルとして利用されていたのである。熱海の喫茶店「パインツリー」でインベーダーゲームのテーブルに出会ったときと、同じときめきが胸を支配する。他は普通の席の方が多いので、ここは特等だ。

 

 

 朝の時間帯にはモーニングサービスが提供されていたチロル。通常のコーヒーあるいは紅茶、カフェラテなどメニューから飲み物が選べて、トーストに関してもプレーンか、上に小倉あんを載せるかどうか等も気分によって変えられる。そこに、ゆで卵がついてくる。

 喫茶店におけるモーニングのセットは何であれ楽しい気持ちを呼び起こすものだが、このとき運ばれてきたものを見た瞬間、俄然、期待を上回るものが現れたのだと知って朝から最高の気分になった。

 銀色のトレー、しかもロープを模した意匠の取手つき。そう。「取手」がついている……!

 トレーは上にかぶさったプラスチックのプレートでさらに区切られていて、ちいさなスプーン、ティーカップ、ゆで卵、紙ナフキンとトーストが整然と配置されていた。この、それぞれが決まった部屋を持っているような様子は、どこか建物の間取り図を連想させられて面白い。私の部屋だよ、僕の部屋だよ、とそれぞれが口にしているように思えて。

 何の変哲もない、だからこそ好ましい淹れたての紅茶が鮮やかに、溶かした宝石みたいに輝いている。卵の殻をさわる前から、その表面が指先に伝える感触を想像してたまらずに微笑む。

 

 

 銀色の取手つきトレーに並べられた食べ物は、昔から「何か特別なもの」の象徴だった。赤い布の張られた木の椅子に腰掛けて、過去に読んだ本の数々を振り返る。色々な物語に出てきた……時にそれが登場するのは、燭台と肖像画のある大きな邸宅だけでなく、教会だったり病院であったりもした……。

 そんな世界の片鱗が目の前にある。朝、喫茶店に入るだけで味わえる。

 紙上に展開された光景ではなくて、今の自分が向き合っている物質世界に、確かに特別な朝食が存在している喜び。こういうひとときに身を置けること、その幸せを享受するのが人生の仕事だとすら思えてくる。

 そっとティーカップを覗き込んだ。水面にぼんやり映っている顔は、不鮮明だけれど確かに自分自身の見慣れた顔。けれど揺らしてみると、銀のトレーを目の前に置くのにふさわしいであろう装いの、古めかしい趣をまとった全く別の人間がここに居るように錯覚できるのだった。