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F・H・バーネット自伝「わたしの一番よく知っている子ども」英国から米国へ渡った作家の想像力の源泉

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「言葉は、いつも十分とはいえないのですが、それに代わるものがないので使っているだけなのです。」


(翰林書房「バーネット自伝 わたしの一番よく知っている子ども」F・H・バーネット 編・訳:松下宏子、三宅興子 p.256)

 

 語り手である子どもの視点が巧みに活かされた「小公女」や「秘密の花園」など、国境を越えて愛される名作を生み出した作家、フランシス・イライザ・ホジソン・バーネット。

 昔から彼女の小説を読み続けてきたが、では著者自身について知っている事柄の数は、と聞かれればそれほど多くなかった。せいぜいが文庫カバーの折り返しに記載されている、簡素な略歴の内容くらい。何を考え、どんな紆余曲折を辿ってきたのかは、遠い国の庭園の奥に隠されていた。

 そんなバーネットは自分自身を振り返る文章を残している。この、自伝である。

 自伝、と一口に言っても色々な種類があるように、彼女の自伝にもある大きな特徴があった。副題に書かれた「わたしの一番よく知っている子ども」……原語でもほとんどそのまま "The one I knew the best of all" と表現されている、「その子 (The one)」こそはバーネット本人。

 この自伝は、彼女が「おぼえている限り最初の記憶」から、あるとき報酬が目的で出版社に送った原稿が採用され、作家としての1歩を踏み出すまでの軌跡を振り返るもの。最も近くでその動向を見守っていた子ども(=自分自身)について、まるで第三者の視点から俯瞰するように、幼少期の思い出が紐解かれていく。

 

書籍:

バーネット自伝 わたしの一番よく知っている子ども(著:バーネット / 編・訳:三宅 興子、松下 宏子 / 翰林書房)

 

 

 バーネットはこの作品について「想像力あふれるどの子にも当てはまる物語」だと語る。

 想像力。

 彼女にとってそれは一体どのようなもので、また、何によって培われたものだったのだろうか。

 本文中で語られる印象的なエピソードが幾つかあった。

 

・人形を変身させるために必要だったもの

・窓から眺める風変わりな隣人たち

・大西洋の向こうの山や森

 

 ……など。

 小さな彼女は身の周りにあるものを、たとえ大人たちの側にはそう思われていなくてもよく観察していたし、耳に入る言葉や音だって、注意深く分析していた。それが当時の家庭の状況や社会情勢など、子どもの力の及ばない事柄に起因するものであっても、色々なことに納得できる説明を見出そうと頭を働かせていたのであった。

 バーネットに限らず、子どもの頃を今でも思い出せる人の大部分はかなり似た経験をしているはず。そんな風にして心の棚に仕舞われたものたちは、後になって取り出されたり、あるいは眠ったままになったりとさまざまだ。

 彼女は時が経ってから、過去の記憶やその只中にいた自分自身……すなわち「小さな子」のことを、独立した一人の人間として思い出すようになったと語っている。

 

 

  • 物語と人形と「独り言屋さん」

 

 物語と、人形。

 この2つはほとんど同時期にバーネットの人生に入り込んできたというが、意外なことに、家族からいわゆる「絵本の読み聞かせ」をしてもらった経験はないのだそうだ。周囲にあった「茶色い聖書」と「小さな花の本」、これで文字の読み方や書き方を覚えるかたわら、どういうわけかいつも途中で終わってしまう乳母の歌の一片を聞き、その続きが聞きたいと躍起になっていたという。

 アルコールやアヘンの中毒にも例えられるほど、物語好き。

 与えられた本の数は少なく、すぐに読み終わってしまうと「それはきちんと読んでいないから」と母に言われ、新しいものはもらえなかったので、常に飢えていたそうだ。あるとき書き物机の中には仰々しい装飾の本のほか、何やらお話のようなものが書かれている本も交じっていると気が付いて以来、勝手に取り出して読むようになる。

 なかでも「詩」は印象的なものだったのか、それに影響を受け、彼女は初めて自作の詩を綴った。

 

 そして人形について。

 当時の人形はどこか不格好で表情に乏しく、胴体からおが屑がはみ出しているものもあって、お世辞にも精巧とは言い難かったとか。だからこそ、そんな代物を「まるで生きているように扱う」ためには強固な想像力が必要だった。

 頭の中で人形をヒロインに変身させて、自分はそれ以外のどんな役割も演じる。

 巧みに「ふり」をすることで想像の世界を現実に顕現させてしまうと、周りの人間には同じものが見えないせいで誤解される場面もあったらしい。人形を階段の柱に縛り付け、ひもでムチ打っている(無論、そういう「お話」の中の一幕をバーネットは演じていただけなのだが)ところを見た母親は度肝を抜かれたに違いない。

 彼女の空想好きは周囲に知られることとなり、やがて「独り言屋さん」とからかわれるようになってからは、あまり他人がこの「ふり」に気が付かないよう用心する習慣がつく。

 それくらい、何かのつもりになるのは大切な行為だったのだ。

 

すべての子どもは、何でも「ふりをする」ことのできる妖精の国に入る権利を持っているに違いありません。

 

(翰林書房「バーネット自伝 わたしの一番よく知っている子ども」F・H・バーネット 編・訳:松下宏子、三宅興子 p.61-62)

 

 

 

  • 煤だらけの街:イズリントン・スクエア

 

 イズリントンという地名はイギリス国内に数多くあるが、ここでバーネットが言及するイズリントン・スクエア(Islington Square)はマンチェスター、サルフォード地区にあったもの。彼女が「エデンの裏庭」と呼んでいた美しい庭のある家から、一家はこの、煤(すす)がうっすらと降り積もる街へ移り住んだ。

 理由の一つに収入の低下が挙げられる。著者が4歳の頃に父親が亡くなって以来、母親は事業の運営に手を焼いていたが、あまり得意ではなく軌道に乗らなかったようだ。

 当時のマンチェスターは綿織物を一大産業に据え、製造の中心地として大変な隆盛を誇っていた。資産家も、中産階級も、労働者も、扱うのはすべて綿。そんな街に暮らし、ときどき「裏通り」の人々を眺めるようになったバーネットは、知らなかった世界がすぐそばに広がっている事実に思い至る。

 飛び交う風変わりなランカシャーなまりの英語や、自分とは違い、まだ幼いのに働きに出なければならない子どもたち。それらに触れて、彼女は認識の世界を広げた。

 

自分とは異なった世界の人びとが大勢住んでいる通りに囲まれて暮らしていると、想像力の糧となるものが沢山ありました。
その世界では、習慣や礼儀作法や言葉が、ある意味で全く異質でした。

 

(翰林書房「バーネット自伝 わたしの一番よく知っている子ども」F・H・バーネット 編・訳:松下宏子、三宅興子 p.61-62)

 

 あるときそこで見かけた印象的な女工の少女は、後にバーネットの小説に登場する炭坑の少女のモデルにもなっている。

 それから近くにあった大邸宅の、ふだんは鍵がかかって放置されていた庭にある日入り込み、内側を探検した経験は読者に「秘密の花園」を連想させる出来事だ。ランカシャーなまりの言葉を覚えたがっていたエピソードからは、クレイヴン氏の屋敷の近くでディコンに出会ったメアリが、彼のヨークシャーなまりに影響を受けた描写も頭に浮かぶ。

 イズリントン・スクエアでの生活は彼女の胸にも特別な時代として刻まれていたことだろう。

 

 ちなみに、私が個人的に好きだったのは広場の真ん中にあったランプ・ポスト(街灯)の話。

 アンデルセン作品の愛読者だったバーネットは、そこに設置されていたランプ・ポストを短編「古い街灯」に登場するものに見立て、いつも見守っていた。ガス灯なので朝と夕、点灯夫がやってくる。明治大正期の日本では点消方と呼ばれていた職業。

 てっきり点消方のように長い棒を使って火を灯すのかと思いきや、あちらの点灯夫は細い梯子をかけてあっという間に駆け上り、芯に炎を宿して地上まで戻ってくる。淡々とこなされている仕事の風景は不思議なくらいに幻想的だった。

 

  • 海の向こう、テネシーの小さな村へ

 

 至るところに「綿業王」が生まれたほど栄えていたマンチェスターの産業は、ある日凋落する。それは綿製品の需要の問題ではなく、材料となる綿花が、イギリス国外……なかでもアメリカ南部から輸入できなくなったことに端を発するものだった。

 最も大きな原因はアメリカ南北戦争。そのあおりを受けて綿花の仕入れは大幅に滞り、工場の操業が停止され、今まであった仕事がすっかりなくなった。「ランカシャー綿花飢饉(Lancashire Cotton Famine)」による恐慌の到来である。幸いにもバーネット一家は戦争の終結まで持ちこたえられたが影響は後を引き、その後、アメリカに住んでいた親戚からこちらへこないかと誘われた。

 一家の長男と次男、2人の働き口を現地で見つけてくれるという申し出は魅力的なもので、悩んだ末に渡航は決定される。生まれ育ったイギリスの地を離れ、バーネットは後にアメリカ国籍を取得して、アメリカ人として暮らした。これがそのきっかけだったのだ。

 

 兄たちの仕事が見つかったは良いものの、収入は相変わらず乏しく、常にお金の足りない暮らしは続いた。それでもテネシー州の村では、イズリントン・スクエア時代よりも必要なものが少なく、なんとかやりくりをしていけた状態だったのだという。

 また、そこには幼いバーネットが初めて出会う広大な本物の森と山、工場の煙とすすに遮られない、太陽の光があった。

 テネシーでは以前と同じように「ふり」をする必要には迫られず、眼前に広がる本当の風景の美しさを享受し、自分が肉体を持った存在であることをすっかり忘れて原っぱを駆けずり回ったと語られる。

 それでも貧困は苦しく、毎日が気楽とは程遠い。

 どうにかして収入を得られないかと策を巡らせた彼女が思いついたのは、雑誌に「物語」を寄稿することで……。

 

 その考えを馬鹿にしない、信頼できる2人の妹・イーディスとエドウィーナの協力も得て、バーネットが執筆して編集部に送った短編「ハートとダイヤモンド」は、喜ばしいことにささやかな原稿料に変わった。

 そこから彼女の作家としての人生がスタートし、ここまで「小さな子」として回想されてきたひとりの少女の物語は、いったん幕を下ろすのである。

 

「子どもというのは、持ち運んでいる小さな品物を悪気なく壊すかたわら、見たり、聞いたりしたことを、本当にはわかっていなかったとしても、納得のいく説明を見つけようと頭を働かせ、あとで参考にしようとして、その幼いこころの棚に、せっせとしまい込んでいるのです。」

 

(翰林書房「バーネット自伝 わたしの一番よく知っている子ども」F・H・バーネット 編・訳:松下宏子、三宅興子 p.8)

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