chinorandom

彷徨する自由帖

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10月9日

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 田園地帯や山間部、海沿いなどを走る電車なら、だいたいは車両の「横」、要するにふつうの車窓から見える風景が面白い。

 そして、比較的大きな都市のただなかを突っ切るような電車であれば、走行中に正面から迫りくる風景を、先頭車両の「前」の窓から眺めるのが面白い。そう思っている。

 この面白さを確かめてみたくなったら、できれば始めて訪れる場所ではなく、馴染みのある街で試してみるのがいい。通勤・通学で実際に歩道を歩いていたり、何度も電車や自動車で通過したりして、見飽きるくらい視界に入れている場所。誰かにそこを知っているか、と尋ねられたら、反射的に「知っている」と答えられそうなところがいいのだ。

 無論、これといって大層なことが起こるわけでは決してない。けれど半信半疑な気持ちを抱えて、先頭車両の正面から都市に視線を注いでみると、彼らはあまりにも素っ気ない仕草で顔の角度を変えて、今まで全く知らなかった表情を惜しみなく見せてくれる。

 

 中央図書館へ行くとき、横浜駅で乗り換える路線は京急線だった。

 各駅停車だと2駅目、エアポート急行だとすぐ次の駅が日ノ出町で、そこで降りる。どういうわけか、こだわりを持たずに横浜駅のプラットフォームへ赴くと必ずエアポート急行がやってくるため、私はいつもそれに乗るのだった。日頃、隙あらば空港まで行ってしまいたい気持ちがあるのを、時刻表に見透かされているのかもしれない。あるいは、身体の方が勝手に合わせているのかもしれなかった。

 ガラス越しに先頭車両の前方を眺める、ほんの数分しかない乗車時間は、いわゆる退屈とはまったく無縁である。

 急行列車が横浜を出発して戸部駅を通過し、日ノ出町に至るまでの区間。ここばかりは、本を開いて手元だけに視線を向けてしまうのが勿体ない区間としか言いようがない。往路と復路、どちらにも違った楽しみがある。

 

 最も印象に残ったのは、地面と線路の起伏。

 想像していたよりもだいぶ、レールが波打っているのだ。左右に蛇行しているのではなく、上に、下に、細かく。視覚からうねりを感じる。コスモワールドの片隅にある、子供向けのジェットコースターを連想させる……と書こうとして、あれは結構急な角度をかなりのスピードで走行するものだと思い出したのでやめた。

「子供向け」が聞いて呆れる程度には激しいアトラクションだったのである。

 けれど列車が川を渡る鉄橋の上を走行する際、一瞬だけ自分が遊園地にいるような気分になったのは、コースターの座席から見える景色とその景色のどこか(具体的にどこかはよく分からないが)に何かしらの符合があるからなのだろう。

 電車といえば横に大きく揺れることばかりに気が取られがちだったから、いつもこんなに車体が上下に動いているものなのかと、はじめてこの先頭車両に乗ったときは感心しきりだった。

 

 正面の窓から見るとさながら等身大のジオラマ、外側だけが精巧に作られたおもちゃみたいな街と、設置してあるだけの人形みたいな人々が、電車のドアから降車したとたんにすべて現実に変わる。

 日ノ出町駅の出口から徒歩数分で、横浜中央図書館の入り口に着いた。

 巨大な6角形の柱をいくつも束ねた、柱状節理のような様相の建物を仰ぐたびに、あのホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」を知っている人が設計したか、アイデアを出すかしたのだろうか? と考えずにはいられない。仮にそうだとしたらまあまあよい趣味、遊び心の一種だと思うだろうし、もしも単なる偶然の一致というならちょっと怖いと思うだろう。

 だって図書の閲覧中、ふと、例の「換気孔」を探しに行きたくなってしまうではないか……。

 

(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。

 

(岩波文庫「伝奇集」(1993) 著:J・L・ボルヘス 訳:鼓直 p.103)

 

 公共の図書館の利用方法は人によって異なる。私の場合は、開館時間になったら目当ての本を探しに行き、本棚から取り出して席に着き、読み終わったら棚に戻してまた別の本を持って来る。それを繰り返して、閉館時間になるまでずっといる、という単純なものだった。

 あるとき、それで空腹にならないのかと聞かれた。

 確かに閲覧室では何時間も黙々と水を飲んでいるだけなので、空腹にはなる。なるけれど、食事をするために数十分の時間を設けるのが、なんだか勿体ないのだった。そういう意味で、感じているのは二重の飢餓であるのかもしれない。書物を読みたいと強く念じるとは、すなわち飢えているということだ。文字か、あるいはそれが並んで表す何かに。

 空腹を満たすために喰らいたい、貪りたい、本を。その明確でいて奇妙なほどに肉体的な欲求を感じなければ、私はここには来ないだろう。

 図書館の利用中に食事目的で席は立たないが、座りっぱなしは身体に悪いしなにより首が限界を迎えるので、読み終わった1冊を戻しに椅子から立ったらしばらく館内を歩き回るようにしている。席に戻ったら首をゆっくり回す。何度か。

 人間、こういうときこそ、必要なパーツを取り換えられるのだったら便利なのに。

 

 ずいぶん足の先が冷えるので、もしかして、とブラインドの隙間から窓の外を覗くと、直感したとおりに雨が降っていた。幸い、勢いはない。予報にあまり意識を向けずに家を出てきたため、傘を持っていなかった。雨粒も空気と同じかそれ以上に冷たいはずだった。改札まで駆ければ、あまり濡れずに済むだろう。

 朝、久しぶりに薄手のトレンチコートをハンガーから下ろした時の喜びを思い出す。

 今は椅子の背中にかけている上着。防寒具があるかぎり、寒さは常に私に味方する。なんて動きやすい季節だろうか。世界に仕掛けられたあらゆる魔法が、適切に働き、とどこおりなく機能する温度。

 狂ったような暑さが鳴りを潜めて、適切に呼吸のできる日がようやくってきた。1年で最も美しいこの時期。

 10月というのは完全に私の領域だし、今日、9日は私の誕生日でもあるのだった。