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彷徨する自由帖

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9月21日(誰もがいて誰もいない、インターネット)

 

 

 

 

 

 日付が変わる頃、ようやく虫たちの鳴き声がはっきりと聞こえてくる。複数の音が識別できる程度の明瞭さで。

 気が付けば、家の外はすっかり「金属と植物の中間を連想させる音」によって包囲されていた。私は虫の鳴き声をそう呼んでいる。ためらいなく窓を開け放てる気温と湿度になってから、聞こえる音の大きさは顕著になった。

 ふと思い立って調べてみると、屋内でも鳴く虫、というのがいるらしい。

 屋外で彼らが立てる音だけでも相当だと感じるのに、家の中でも鳴かれてしまった日には、きっとカラオケの一室もかくやのありさまが展開するのだろうと想像して、困惑した。だいぶ、うるさそうだ。

 

 本当は、朝にも昼にも夕方にも虫は沢山いるし、それぞれが異なる音を発している。けれど陽が出ている間は、あるいは夜でも宵の口には、私の側が受容する耳を持たないから聞こえない。鼓膜が正しく機能し震えていても、意識と記憶の方に残らないのだから、それは私の世界には存在しなかったのと同じだ。いることが分からなければ。観測が、なされなければ。

 午前0時を迎える前の両耳は、専ら他人の声や、機械の声や、その他のものが立てる音を注意深く拾っている。あるいは伝書鳩よろしく音の方から勝手に飛び込んでくる。

 耳の話だが目まぐるしく忙しい。だから虫の鳴き声に意識を向けられるのは、あらゆる人間や事柄が、すっかり自分の1日を通り過ぎてしまった後になる。これから眠りについて目を覚ますまで、もう、新しい出来事の到来を特に予期しないとき。

 

 虫たちの声は単一ではなく多様を極め、人間でもその違いを識別はできるが、いざ形容するとなるとかなり難しく思われた。「ビ」と「リ」と「ジ」を適当に混ぜ合わせてみたような、あるいは「リ」の右上に半濁点を打ってみたような、文字として書き表すのも音を口で真似るのも困難な音声。

 威嚇か、求愛か、闘争か。

 何か目的のもとに発されている音を、虫たちの側が意図しているようには、人間の側は受け取れない。知らない言語だからだ。音として存在しているものを認識できるので、いるのは判る。おそらくはこうだろうと予想することもできる。少なくとも研究者は仮説を立てるし、それ以外の人間は彼らの説を信じたり、信じなかったりする。

 しかし虫とまったく同じ意識を持って虫の声を聞くことは、今のところ誰にもできない。

 窓の外で音はこんなにもはっきりと聞こえるのに、無数の虫たちが何を言っているのか、明確に把握することはできないのだった。

 なんだか孤独な感じがした。

 

 例えば100の人間に囲まれて、それぞれが何らかの言葉を発しているのに、そこから自分に理解できる音をひとつも拾えないとき。人は、誰もいない場所でぽつねんとしている瞬間よりも、はるかに孤独なのかもしれなかった。

 そもそも、自と他が区別できる場所にしか孤独はないのかもしれない。

 はじめから一つ、一個、一体で存在している生き物が(無論、本当にそんなものが存在できるのかどうかはともかく)いたと仮定して、複数という状態を知ることがなければ、孤独という概念も別段、必要とされない。だからその言葉が生まれる可能性からして、ずっと低くなるだろう。

 

 インターネットの話をする。

 オンライン上のプラットフォームの多くは、不特定で、なおかつ無数の人間が行き交ったり、集ったり、留まったりする場所なのだと昔は思っていた。

 ところが実際はそういうわけでもない。まず、不特定という表現からして虚偽だ。リアルタイムでオンラインに存在している者は、必然的にインターネットに接続できる状態の人間だけなので、そうではないものの存在は自動的に除かれている。

 現在地球上に数十億いる人間の、すべてではなく一部。その点において、実は全然、特定というよりか選別はされているのだった。

 

 しかし実感としては、どんな立場の、どんな年齢層の、どんな性格の人間も彼らの背景や状態に隔てなく、文字通り「誰でも」いるようにときどき錯覚する。常にではなくても、そう感じる瞬間はある。単なる思い込みであったとしても。

 すると興味深いことに、孤独が発生するのだった。

 全人類とは言わないまでも、そこには相当な数の人間がいて、各々が発する言葉を目にできる環境にいるはずなのに、自分とどこかが噛み合う人間を一人たりとも見つけられないとき。それは、初めから誰もいない場所に身を置かれるより、やるせなさを誘発する。

 誰もそこにいないのならば、心の端で何かを淡く期待することも、希望を抱くこともない。でも確実に「誰か」はいるのだ。それなのに……と思わされる。ここではないどこかでなら私の言語が通じるかもしれない、と赴いた先で、皮肉にも選択肢に見えた可能性の分岐がみるみる収束し、閉じていく。その感覚。

 満足に意思の疎通ができないのなら、大勢に囲まれている状態よりも、例えば一人の部屋で本を開いている最中の方が孤独でない、というのは、実に奇妙である。

 奇妙だが事実だった。著者と読者は、書かれたものが存在し、読み手が内容に共鳴するかぎり、どれほど時と場所を隔てても邂逅して会話できる。もちろん時々、両者の間に横たわった、時代や文化という溝の深さを思い知りつつも。

 書物を開いて、この人の言葉は確かに私に通じた、と理解する瞬間。不可視の糸の先が否応なしに結ばれる。

 そのとき人間は孤独ではありえない。望んだとしても、なれない。周囲に誰もいなくても。

 

 反対に、どうしても今より深い孤独を味わいたいという人がもしもいるのであれば、かなり有効な方法は、人間の沢山いる場所に身を置くことだろうと思う。インターネットのように、錯覚であろうと誰もがいそうな空間に足を運ぶ(アクセスする)。そこで長い時間を過ごす。

 すると、孤独は必ずあとをついて回る。

 周囲に誰もがいるはずなのに。

 いや、いるからこそ、そうなるのだった。

 

 

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