参考・引用元:
秘密の花園(著:バーネット / 訳:土屋 京子 / 光文社古典新訳文庫)
目次:
秘密の花園:フランシス・ホジソン・バーネット著
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あらすじ・概要
そこに入る扉を固く閉ざされ、錠の鍵は地中に埋められ、すっかり誰も立ち入らなくなってしまった庭園がある。
周りを囲む垣根の上からは日毎に太陽の光が射し、雨も降り注いではいるのだろうが、閉鎖されているから当然風通しはすこぶる悪い。手入れのされない木や草花はどことなく灰色のかった茶色で、まだ、かろうじて息をしているのかどうかも判然としない。
そんな顧みられなくなった庭園がひとつあり、同時にそれに似た、すっかり自分だけの世界で完結してしまっている「孤立した心」の持ち主が、ひとりのみならずいた。
悲しみの淵で、これ以上精神が壊れてしまわないように感情を抑え、長らく停滞した時の中に沈んでいる男。
また、誰にも気にかけられることなく、ほとんど放置されて育った傍若無人な子供がふたり。
やがて開かれた秘密の花園の扉と、息を吹き返していく庭の草花と呼応するように、子供たちの心には変化が訪れる。時に厳しくも豊かな自然溢れる土地と、そこに住む人々と、かかわりながら。
そうしているうち、遠く離れた場所でも思いがけない奇跡が訪れ、まるで天啓に導かれるみたいに、旅に出ていた男は自分の家である屋敷へと帰ってくる。
「もうすっかり枯れはてたものと思っていた」クレイヴン氏は言った。
「メアリも最初はそう思ったんだって」コリンが言った。「でも、生き返ったんだ」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.473)
物語を読めば、上の台詞が単純に庭園のみを指しているのではないと、最後にはっきりわかる。
バーネットの「秘密の花園」は、色彩を取り戻す庭園とともに、荒れた部分の多かった人間の心の状態が徐々に変化していくさま、その情景の推移も同時に描き出しているのだった。
しかし、それだけではない。
1911年に発表されたこの作品について、光文社古典新訳文庫版「秘密の花園」に解説を寄せている松本朗氏は、庭園を「コリンの母の死の記憶をつねによびおこす、悲しみを含んだアルカディア」でもあると表現している。
また、これは同作者の「小公女」にも言えることだが、背景にある大英帝国の植民地支配という要素が作品と密接にかかわっていることも無視できない。庭園、という世界で様々な階級あるいは出身の人間たちを前に、将来の屋敷の当主コリンが「科学的発見」についての講義を行うさまは象徴的である……と氏が語るのにも頷けた。
子供たちが秘密の花園……いわば切り取られた自然の中で養い、培っていった感覚は、必ずしも自然と寄り添うものというわけではなく、むしろ他の人間と社会の中へ踏み込んでいく際に必要となるもの(考えてみれば作中に登場する言葉「同情心」や「思いやり」なんてその最たるものだ)も多く含まれている。
「秘密の花園」は、そのタイトルから受ける幻想的でかわいらしい印象よりも、はるかに重層的な意味と構造を持っている物語といえよう。
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幽霊に似た、あるいはそんな風に扱われていた人たち
お話のこういうところが好きだ。
イギリスが舞台の物語にしばしば登場する、幽霊……ではなくて、幽霊を連想させる誰か、の存在が、いつでも私の興味を掻き立てる。
ディケンズ「大いなる遺産」の悲嘆の亡霊ミス・ハヴィシャム然り、C・ブロンテ「ジェイン・エア」においてロチェスタ氏が『あの女』と呼んだ狂人然り。そして、そこにいるのにもかかわらず、親を含む周囲の人間から『いないもの』として看過されていた「秘密の花園」の子供たちにも同じことが言えた。
コレラの病で人々が死に絶えたインドの片隅、廃墟か墓場のようにひっそりと静まりかえった屋敷の、蛇だけが無言で通り抜けていった部屋の真ん中には——今まで「誰も見たことがなかった」顔色の悪い少女が、眠りから覚めて立っている。
メアリ・レノックス。
「どうして、忘れられてたのよ!」
メアリは足をドンと踏み鳴らした。
「どうして、だれも来ないの?」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.17)
一方、ヨークシャーに建つとある奇妙なお屋敷。ミッスルスウェイトにあるのでそのままミッスルスウェイト屋敷、と呼ばれている場所にも、忘れられた誰かがいた。
そこで勤務している女中が言うには、屋敷は気が滅入りそうなほどに大きなもので、竣工からすでに600年以上が経過し、部屋の数は百ほどもあるがほとんど開かずの間となっているそうだ。
時折、泣き声が聞こえる。子供のもの。
亡霊を彷彿とさせるその音を発した「だれかさん」……コリン・クレイヴンがいる部屋には、タペストリーの裏に隠された扉からしか行くことはできない。
男の子はひどくやせて繊細な顔だちをしており、肌は象牙のように白く、目が不つりあいなほど大きく見えた。
(中略)
「だれだ?」男の子が口を開いた。なかばおびえたような小さな声だった。「幽霊か?」
「ちがうわ」メアリのほうも、同じくおびえたような小声だ。「そっちこそ、幽霊じゃないの?」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.199-200)
そしてもうひとり。
若い頃から気難しかったが、最愛の妻リリアスを亡くしたせいでいっそう変わり者になってしまい、妻に似た顔だちの息子コリンを視界に入れるのすら恐れているミッスルスウェイト屋敷の当主、アーチボルド・クレイヴン。
悲しみに侵され、生きているのに死んでいるような状態で、本来であれば務めのある屋敷を頻繁に留守にしては、抜け殻か幽霊のようにヨーロッパ各地を彷徨っていた。
幸せだった人生に途方もない悲劇が降りかかって以来、男の魂は暗闇に沈み、ひとすじの光さえ頑として受け入れようとしなかった。
(中略)
旅先にあっても男の周囲には底なしに暗い空気がたれこめ、その姿がそこにあるだけで周囲の空気が陰鬱に染まるように思われて、他人にまで害を及ぼすほどだった。
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.451)
こんな風に、三者三様に閉ざされた心。
ヨークシャーに広がるムーア(荒野)の風にさらされ、そこで健康な身体を育みながら閉ざされた庭園の再生に熱を上げる子供たちと、奇しくも同じ時期に、少しずつ自然の美しさを受け入れられるようになってきたクレイヴン氏。
幽霊のようだった彼らが、血肉を得て、ふたたび息を吹き返す。ずっと塀に囲まれていて、ひょんなことからその鍵が開かれた、秘密の花園のように。
そもそも身内に先立たれた少女が、田舎の大きなお屋敷に連れてこられて秘密の場所を発見し、謎の声を聞く……という要素からして色々なお約束を踏まえているのがたまらない。
だって……
百もの無人の部屋がある屋敷!
先祖の肖像画が壁にかけられ、見たこともないような珍しいものがたくさん置いてある、謎めいた空間の数々!
それらを提示されて、単純にわくわくしない理由がないではないか。
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主要な子供3人の魅力について
メアリ・レノックス
つむじまがりのメアリ嬢。
序盤でそうからかわれていた彼女の人物造形は、完全に「小公女」セーラをバーネットの描く典型的な主人公として捉えていた幼い私にとって、随分と衝撃的だった。どのくらい衝撃的だったかというと、物語の続きを読むのを躊躇するくらい、である。
そもそも、まだ植民地の屋敷にいた頃のメアリの発言が、これ。
いつものアーヤが戻ってきたら、そういう言葉を投げつけてやるつもりだった。
「ブタ! ブタ! ブタの娘!」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.10-11)
ちょっと泣きたくなるほど酷い台詞である。
これほどまでにメアリが荒々しく、少しでも自分の機嫌を損ねるものに対して敏感なのには、多くの理由があった。その最たるものがいわゆるネグレクト。忙しい父親と、子供に興味がなく自分の社交を優先し、使用人に世話を任せきりにしている母親。
必要なものは全て与えられる。
同時に誰一人として、自分のことを本心から気にかけてはいない。
何不自由なく育つ、という言葉の裏側には様々な要素が横たわっているものだが、メアリの場合、癇癪を起こさないよう意図的に全ての不自由を排除されて育った結果、明らかにそれこそが情緒発達の足かせとなっていた。
けれど興味深いことに、本文中で「同情心のない」とか「思いやりの欠如」とか「気立ての良さや優しさを持ち合わせていない」などと表現される部分は、奇しくも似た境遇で育てられたコリンの激しさと容赦なくぶつかり、かなり面白い反応を引き起こす。
成人してから読むとなおさら、彼らがずっと感じていた孤独や、寂しさが胸に迫ってくる。
そして少しひねくれていて、激しく(これは育った環境のせいだけではなく生来の性格もあるはずだ)、けれど強く真っ直ぐな芯を持つメアリのことが、今ではとても好きである。
「みんなから死んじゃえばいいなんて思われたら、わたしだったら絶対に死んでやらない。だれが、あんたなんか死んじゃえばいいと思ってるわけ?」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.235)
コリン・クレイヴン
メアリに若きラージャ(王様)と形容された、登場からしばらくはひどい癇癪持ちだとして、横柄な人柄に描かれる少年コリン。お屋敷の当主、アーチボルド・クレイヴン氏の実子である。
亡くなった母に面影が似ていることで父から遠ざけられ、かつてのメアリと同じように使用人たちから扱われているのが本当に見ていて悲しい。そのような環境で、一体どうやって、自分や他人を信じられるようになるというのだろう?
光も風もあまり届かない空気の淀んだ彼の部屋は、閉ざされた庭園よりも暗く寂寥としている場所だった。
「ぼくが生まれたときに母親が死んだものだから、ぼくを見ると悲しくて耐えられないんだ。父親はぼくが知らないと思っているらしいけど、ぼくは人が話すのを聞いて知っている。父親はぼくのことをほとんど憎んでいるんだと思う」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.203)
周囲の人間は彼が幼い頃から陰口を叩くし、コリンだって愚かなだけの子供ではないから、きちんとその内容を理解して知っている。
そう遠くないうちに死ぬかもしれない。身体が醜く変形し始めるかもしれない......
誰からも、何からも遠ざけられていた彼がそんな脅迫的な妄想に囚われてしまったのには無理もないと頷けて、だからこそ荒療治のようなメアリとの諍いは、確かに褒められたものではなかったかもしれないが、一筋の活路を開いた。
コリンに対する「聞こえてんの!?」というメアリの恫喝は、恐ろしいのに笑ってしまう。
「ぼく……ぼく、きみと一緒なら外へ行くよ。外で過ごすのも、いやじゃない。もし——」コリンは危ういところで気がついて、「秘密の花園を見つけられたら」という言葉を飲みこんだ。
そして、「もし、ディコンが来て車いすを押してくれるなら、一緒に外へ行くよ。ディコンや子ギツネやカラスに会いたいもの」と言った。
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.289)
これからもずっと魔法を起こし続ける、そう庭園で皆を前に「演説」をする場面では、次期当主として育っていくのであろう彼の素質と、将来の姿を読者にうかがわせる。
きっと今後もミッスルスウェイト屋敷では大人になったメアリと、コリンと、そしてディコンの姿が見られるのだろう。
ディコン・サワビー
屋敷で働いているマーサの弟ディコンは、ムーアで生まれ育ち、動物と心を通わせることのできる、実に稀有な少年。
この「動物」というくくりには実のところ人間も含まれているらしい、というのが物語を読み進めていくうちにわかる。あれだけ他人に対して敵愾心を持っていたメアリが、ディコンには初対面でも攻撃的になる素振りを全然見せなかったし、コリンの方もただうれしさと好奇心に圧倒されていた。
そう、作中でも彼は特別な感じがする。
正直なところディコンの初登場シーンで自分がおぼえる奇妙な胸の高鳴りの正体、突き詰めるとかなり「恋」に近いものになるから(嘘でしょ……)参ってしまう。土屋京子氏の訳、ヨークシャー訛りを意識した台詞もとても良い。
「もし、あんたがヤドリギツグミで、おれに巣のありかを教えてくれたとしたら、おれがだれかにしゃべると思うかい? おれは、しゃべらんよ。だから、ヤドリギツグミと同じに安心していいよ」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.289)
少しも飾らない彼は初対面でもごく簡潔な表現を選び、自分が相手に嫌われるかどうかは全然気にもせず、小鳥に話しかけるように音を発して言葉を紡ぐ。
その周りにはいつも結界を展開するがごとく動物たちが侍っている。キツネもリスもヒツジも、カラスも、コマドリも……。
コリンとメアリに呼ばれ、クレイヴン家の屋敷に彼が入ってくるところなんて本当にすごい。普段からムーアを歩き回るのにゴツい革靴を履いているから、静かに歩こうとしてもその音がドスドスと床を伝って響き、やがてとびきりの笑顔を浮かべて部屋に到着する。堂々として、「腕の中に生まれたての子ヒツジを抱き、小さな赤いキツネを脇に従えている」太陽と草の匂いの少年。
ああ、これには誰も勝てないな、と思うのだ。
メアリも言っていた。もしもヨークシャーに天使がいたとしたら、それは草花や動物のことをほとんど何でも知っている、彼にそっくりな存在であるに違いない、と。
「あんた、おれのこと、変なやつだと思うだろ?
だけど、おれに言わせりゃ、あんたこそ、めちゃくちゃ変なやつさ!」
(光文社古典新訳文庫「秘密の花園」(2007) バーネット / 訳:土屋京子 p.175)
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