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彷徨する自由帖

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いくつかの道具に見出せる誠実さ

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 あなたのために。

 あなただけのために。

 

 そういった言葉がすっかり形骸化して久しい今、お子様ランチというものは本当に素晴らしい存在だな、とさっきから考えていた。子供だけが実際に注文し、子供だけが食べることのできるメニュー。それが体現する料理。

 まず、名前に「お子様」を冠している。この時点で対象が明白である。

 そして実際に、お子様という特定の存在にしか、基本的には提供されない(期間限定の企画などで大人も食べられる場合は除外しておく)。当然ながら、元来お子様以外のために作られたものではないから。

 それを一種の誠実さだと感じる。

 人間のあいだでやり取りされる多くの物事は、あなたのために特別に用意した、という顔をしておきながら、平気で他の人間に対しても等しく提供される。

 誰にも、誰にでも——そういう種類の平等という病理。万人に同じように与えられるもの、決して特別にはなりえない何か。

 この問題は例えば、あなただけのために贈ります、心を込めたプレゼントだよ、と何かを差し出してくる手が別の日、外観も中身も全く同じものを他の存在に渡している場面を見たいのか否か……という話で、私は単純にいや。

 特定の個に対してではなく、「みんな」にもあげてばら撒いている適当なものを、自分が進んで受け取ろうという気にはなれない。

 ゴミ箱ではないので。

 

 駅の100円ショップできれいな安っぽい銀色の、カニとロブスターのレリーフが付いたカニスプーン(カニフォークともいうのかな)が売られていたのを見て思った。1本買えばよかったかもしれない。

 日頃、カニという生き物を好んで食べないから、それを使う機会はおそらく来ないのだろうけれど……。

 そのカニスプーンに惹かれたのは、柄の装飾のレリーフを見ただけで用途がわかるところと、カニに対して以外は基本的に使わない道具であるという、ふたつの点において。何に対して(どのように、の詳細がわからなくても)使うのかがぼんやり察せられる誠実さと、かなり限定的な用途、ある目的のためだけに作られた道具である誠実さ。

 道具の誠実な在り方。

 何かのために作られて、その何かのためにしか使えない。

 そこに混ぜられたわずかな遊びの意識。

 

 他に考えられるものだと、イチゴスプーン。

 あの平らな部分に文字通り苺の実の表面みたいな、種を模した凹凸が意匠として施されているのも、本当に素晴らしいと思う。きちんと伝わるし意匠としても魅力的で。

 だから、台所に置いておきたくなる。

 そういう道具の誠実さについて考えていた。