※18禁BLノベルゲーム「古書店街の橋姫」の本編・後日談・副読本などの内容に言及しています。
公式サイト:
温泉地を散策中、友達から「プレイしてみて」とスマホブラウザ版のURL・シリアルコードが送られてきた(この時点ですでに面白い)ので、少しずつ進めていた「古書店街の橋姫」。
ゲーム中に元ネタとして散りばめられている要素を見つけるのとか、今までに訪れた近代遺産が背景スチルのモデルとして登場するのに気が付くのとか、シナリオ以外の部分でもわりと楽しめた。
公式サイトの「奥付」ページで読める後日談、実際にはもうほとんど本編の一部だよね……と思うなど。
この作品の初出は2016年の夏コミ。
私がプレイしたのはスマホブラウザ版で、他にもNintendo Switch版やPS Vita版など(こちらはいずれもR18シーンがカット)、2022年現在いろいろなバージョンが出ているようす。
目次:
・内容や結末その他あらゆるもの(本編・後日談・副読本を含む)に言及しているので、ネタバレNGの方はお戻りください。
プレイ後感想メモ
-
全体
大正12(1923)年に起こった出来事といえば、もちろん関東大震災。
「古書店街の橋姫」はプレイ開始時の日付がわざわざその前年、大正11(1922)年の6月と設定されていることから、その要素がどうシナリオに絡んでくるのだろうと考えながら読むのが個人的に楽しかった。
副読本で「治司くんは震災で……」という旨がさりげなく記載されていて切ない。
初回の攻略キャラクターが固定で、それをクリア後に順次別ルートが開放されていく……という流れのノベルゲームになるのだが、プレイ後に改めて考えると分岐の選択肢で使われている表現が印象的。
副読本の橋姫に関する記述から、彼女は普段ほぼ無力で、目をかけた者を思いのまま操るほどの力などはない(ただし「災い」をもたらす嫉妬の霊力を除く)のだとわかる。
そして「わずかに動かせるのは手のみ」だとか……。
なるほど、だからプレイヤーである私達が選択するのも「手を取る」「手を払う」「腕を取る」のような、玉森の手が動かせる範囲内の行動に限られているのだろう。
憑依した者の目を通してしか現世を覗くことのできない橋姫の立ち位置は、基本、語り手を通してしかゲーム内の状況を認識できないプレイヤーに少し似ている。
あとで、後日談のタイトルはすべて、夢野久作の短歌集「猟奇歌」に収録されている作品から取られているとわかった。
それぞれ「らしい」なあと思うものから抜き出された一節であるものの、「真昼のやうな満月の下」は特に、元の歌を確かめるとちょっとヒンヤリした感覚を胸に残すのがよい。
文章中の水上が口にする「命は誰かに生かされているんだって」という台詞と符合するので、内容との関係も一貫している。
屠殺所に
暗く音なく血が垂れる
真昼のやうな満月の下
夢野久作「猟奇歌」より
-
キャラ、ルート別
玉森について
寄る辺なくして生きてはいけず。
友を失うことが自分の主体性の喪失と結びついている。
「古書店街の橋姫」店主の台詞より
怠惰で自己中心的かつ見栄っ張り、もっと直球になると「クズ系」とか形容される主人公だけど、全編を通してとても共感できたし好きになれたタイプのキャラ。普通にかわいいと思う。下手にまっすぐなだけの人物より信頼できる部分がまあまあある。
孤独を受け入れがたく、友情という言葉づらや「昔みたいにみんなで」の概念にこだわって奔走したり、相手の死そのものではなく、相手が自分を選ばないことに対して涙したりするのとか……私の側にいてくれれば誰でもよかった、でも、しかし……と内心で零す場面もいいよね!
友の喪失よりも、別の作家への嫉妬が先に立つときの心情が好き。
そして不正規連隊(シャーロック・ホームズが元ネタ)の子供たちに羨望を抱いて、真の友情が何なのかよくわからないまま真の友情を求め、本当に自分の親友ならこうしてくれ、親友なのにどうしてこうしてくれないんだ、と一方的に周囲に求める痛々しい姿、あの感じはとてもわかる。
もし私とお前が工藤くんと鳥羽くんだったら。私がこんな惨めな思いをすることはなかっただろう。加東くんを交えて遊びに行こうと言えば、楽しそうだとどこへでも駆けだしていくだろう。
……わかっている、私たちは大人だ。(中略)
だがそんなのを取っ払ってこの友情を証明して欲しいと思うのは、おかしいことだろうか。
「古書店街の橋姫」本編より
「証明」という言葉は強いし、「友情を証明」というのはさらに痛々しい。友人に対して向けるにはあまりにも。
こういうシーンがあるからなおさら、各キャラクターごとにシナリオが分岐した先、終盤に差し掛かって彼に訪れる変化や、どんな風に自分や他人と向き合おうとしたのかが興味深い。
それで、え、玉森くん……? と思うのは各ルートのラスト。包容力というのとはまた全然違うと思うけれど、いずれのラストでも「細かい部分はどうあれ相手を受け入れる覚悟」のようなものが芽生えているの、純粋にすごいよ。
いやすごすぎる。本当になかなかできることではないので……。
誰でもよかった。私のそばにいてくれれば。
川瀬だって花澤だって博士だってよかった。……でも。
「古書店街の橋姫」本編より
そんな玉森の台詞でダントツ好きなのは「なぜ、私ばかりがこんな目にぃ!!!」です。
水上ルート
けっして悪意からではなく、息をするように嘘を吐く。最後には自ら命を絶ってしまう。
そんな虚言癖のある水上、もとい水前寺水人というキャラクターの基盤になっているのが、夢野久作「少女地獄」だというのを読んでなるほどと納得した。そう、まさにあの姫草ユリ子である。私は彼女のことも好き。
「少女地獄」は手紙の形式をとった短編集であり、『何んでも無い』『殺人リレー』『火星の女』の3つの話で構成されている。姫草ユリ子が登場するのはいちばん初めの物語。彼女が嘘を吐くのは「こんな自分でありたい」という願望の発現であり、それは水上とも共通する要素。
自分は帝大生だと偽るのは単なる一過性の嘘ではなく、毎日毎分、毎秒、嘘をつき続けることだ。バレない限りそれに「なる」こと。
ルートのテーマが純愛小説、しかも出会いは5億年前、と言われてしまえばあぁもう運命というやつだね……と呟くほかなく。いや、運命、の言葉を安易に使いたくはないのだけれど、事実として「何度も何回でも巡り合っている」ことに対して、読者として見出したいものはある。
総合的に玉森は水上と一緒にいるのがいちばん安らかそうだと想像しつつ、遥かな過去の記憶を持った者とそうでない者との相互不理解や、感覚の違い(重ねて言うけど5億年だよ……)は確かに存在していて、そういう障壁も内包して関係を続けていくエンドだなと。
本編の最後、橋姫の力が移ってしまったのを一瞬描写することで、間接的に玉森が相手のために行動していたとわかる演出が良いなーと思う。それから。
「それにとっくに俺は、お前がいなくなったら生きられないよ。……ずっと、昔から」
「……」突飛なことだと、思われていないかな。
水上ルート後日談「真昼のやうな満月の下」より
「少女地獄」の姫草ユリ子は自分の空想に生かされ、自分の空想に殺された。
一方の水上は、己自身ではなく、玉森と玉森の空想に生かされている。この違いが顕著。
川瀬ルート
川瀬ルートのテーマは「探偵小説」だとか。
夢野久作は尋常小学校に通っていたころ、黒岩涙香や押川春浪の作品をよく愛読していたそうだけれど、後にエドガー・アラン・ポーの探偵小説に出会ってかなり読書の嗜好が変化する。なるほどね!
……どうしてそれに言及するのかといえば、何度目かの時間跳躍で玉森が池田邸に赴いた際、例のものを目撃したから。バキバキに折りたたまれて暖炉に突っ込まれた、川瀬の身体。
あれから連想させられる作品がある。
ポーの「モルグ街の殺人」。犯人は伏せるが、この作中での被害者のうち一人は無惨にも……そう、暖炉の煙突に文字通り「詰め込まれていた」のである。ミステリー小説の黎明期を担った作品のオマージュが川瀬ルートにはあるのだと思ったし、正直、暖炉の場面はだいぶ興奮した。
閑話休題。
「……お前はそんなに、恋人が欲しいのか?」
「形式に興味はない」早口に切り捨てられる。
「……ただ最後に、君の気持ちが欲しかっただけだ」
「古書店街の橋姫」本編より
玉森は親友が欲しいのだと言う。
けれど、川瀬が自分に望むものがあるならば、できる限り応えたい……とも。それは愛情と同じ意味を持つ、と告げた川瀬の心情がとても切実である。
綺麗なものを綺麗だとはおいそれと口にできない、あるいはあえて口にしない理由に、後日談で「いつも本当の事を話しすぎると信じてもらえなくなる」思いがあるのだと明示されて、そうかそうかと頷いた。
言葉には効力があるのだと理解している彼の哲学はいい。
ところで、川瀬の本名が「瀬川瑛一(せがわえいいち)」だと知ってから読む池田さんの台詞、「エイちゃんという犬を飼っている」の気持ち悪さは格別。
花澤ルート
後日談、およびその着想である夢野久作の短編「瓶詰地獄」も含めてかなり好きなシナリオ。
あれだけ役割や理想とする人物像に縛られて、すっかり破綻してしまった花澤が連れて行かれたのは、かつて空想物語を読んで夢に見ていた世界に近い場所。玉森が彼に贈った「紀元前の軍人」と置かれた状況としては似ていて——けれどそこは天国ではなく、まぎれもない地獄なのである。
このルート終盤の玉森は「お前を地獄に落とす」とは言わない。「連れて行く」と言う。自分も共に底まで往くという意味で。いやすごすぎる……。
あらゆる規範から解放されて、やがて、共に在ることが「苦しい」という嘘を吐きながら堕ちていくのって素晴らしいと思う。
俺は梅澤家待望の男子だった。
父は子を作るたびに我が息子への理想を高め、俺が生まれる頃には凝り固まった軍人像が出来上がっていた。
……本当の俺は玉森の言う通り、冒険好きの、頼られたがりの、馬鹿な男だった。「まだ、玉森たちと遊んでいたい」
許されるなら、この夢の続きを……。
花澤ルート後日談「誰も帰つて来ない黄昏」より
この部分、「玉森」ではなく「玉森たち」と表記されているのが印象的だった。副読本にあった「川瀬や水上を酷評するのは本心からではなく、嫌わなければ責務をまっとうできないから」を読んだ後だと沁みる。
しかし例のウキハシで好きな相手の脳内を覗いて、自分の姿がなかったら超ショックだよね……わかるよ。
脳内、意識、自我、あるいは夢の領域という概念も明治~大正期にかけて人口に膾炙したもので、それを実際に体験するという行為自体も、きっと私達の想像以上に衝撃的な体験だっただろうと推測される。
そしてこの時代、いわゆる南洋幻想のようなものは日本の軍隊と植民地支配から切り離すことができない話題であり、ゲームの作者さんもそのあたりは意識されているんだと思う(もともと軍オタとのことだったので)。
博士ルート
攻略キャラの中で、唯一特定のモデルが存在しない博士のルート。航時機が登場したり、関東大震災や戦争の勃発を防ぐことができたりする点で、最もユートピア的な印象を残した。後日談にも水上や川瀬や花澤がいて、地震がないから子供たちもみんな生きている。
ルート自体のテーマが「イレギュラーな科学小説」だし、技術の発達が進んでも荒涼としたディストピアになっていない安心感があった。
彼の魅力は、一途で、純真に見えて(もちろん広義の純真さ自体はおおいに備えているものの)かなり打算的なところ、かつそれを自覚している面ではないだろうか。自分のために行動しているから橋姫の災いを受けないわけなので。
とても賢いし、その知略を発揮できるだけの環境も備えているから、厄介であることにも疑いはない……。
「正直でいられない人は……みな悪なのですか」博士は私にそう言った。
(中略)
私は私の欲望に正直で、忠実だ。
だが思い返せば私は自分を善人と思ったことはない。
「古書店街の橋姫」本編より
ここも良いと思う。「何でも本当のことを言い合える存在、それこそが親友」だと信じていた玉森にとって、その問いにぶつかることは必要だったのではないだろうか。
相手のための行動がひいては自分のためになる、そういうラストを迎えた本編なので、失明した世界の博士が「こんなに愛しているのにどうして僕じゃ駄目なんですか」と叫んだ言葉も少しだけ報われた気がした。このシーンで私は泣きました。
それが身勝手な言い分だと理解していても、口にせずにはいられなかったあのシーン、ほんと切ないね!
能面の男ルート
設定からしてにじみ出ている薄暗さと倦怠感がすでに大好きなのだが、これについてはもう本編と後日談(の、カオル視点)で完成されていると思うので、わざわざ後から語ることがあまりない……私はこの世界線が大好きなのでもっと続きを読みたいです。
仮面をつける、はずす。それだけの動作が意味をもつ。妖しくて危うい。
存在からして現実なのか幻想なのかわからない者と一緒にいて、気付けば輪郭まで曖昧になっていきそうな関係、それでもカオルの方には玉森をそういう領域に引き込んでいる自覚はあまりなさそう。
お祭りは
あえないものに
あえる日だからでも
おじさんが連れていかれませんように
カオルルート後日談「ポツンと打つたピリオツド」より
紫式部の源氏物語における宇治十帖、すなわち「橋姫」から「夢の浮橋」までの章に主人公として登場する人物、薫(かおる)。
この部分は作者について意見が分かれるほど異質な章となっていて、ゲームの「古書店街の橋姫」におけるカオルルートの立ち位置もそんな場所にあると思うなど。
自分が育てた子供と……というのも、光源氏と紫の上(「若紫」の章)を連想させられる。
聖地の写真いろいろ
公式Q&Aやゲーム内スチルを参考に、そういえば過去に行ったことあったな、と気が付いた場所のまとめ。
訪問したけれど写真が残っていない場所もかなりある(特に明治村と江戸東京博物館……!)ので、また機会を見つけて記録するつもり。
-
博物館明治村
川瀬の家(池田邸)
-
下町風俗資料館
玉森の部屋
自働電話
-
江戸東京たてもの園
三千堂
キカイ湯
-
江戸東京博物館
凌雲閣(十二階)
-
夢の島熱帯植物館
花澤の夢
-
ほか、似ている場所
博士の家の食堂ぽい
エクレール(喫茶店)ぽい
2022年6月、橋姫コラボカフェでも遊びました。