適切な薄さの白いティーカップを手のひらで撫でまわし、じっと眺めては、陶器に傷などひとつもない方がよいと考える。
わずかなひびでも生じてしまったら最後、にわかに存在自体を受け入れがたくなるのが目に見えているし、食器棚にしまっておくだけでなく視界に収めるのすら嫌になるだろう。よほどの品でもないかぎりは、わざわざ欠けた部分を直して使い続けたいとも別に思えない。
ゆえに捨てるしかない。見るたびさっさとどこかにやりたいなと思いわずらい、ゴミの日に回収されたのを確認して、ようやく胸をなでおろす。
これで「新しいものが欲しい」と大手を振って言える。
でもそれは陶器のティーカップだからできる対処であって、自分とか、他人とか、世界に存在するありとあらゆるもの……そういう類の何かを簡単に捨てたり、代わりに新しいものを買ったりすることは、できない。
そう、できないらしいのだ。大昔はできると思っていた。
重度の回想癖がある。そのせいか過去に遭遇した怖かったこと、嫌だったこと、悲しかったことはどんなものでも苦痛の種となり、とりわけ強く心に根を張って気力を吸い上げてしまうので、できるだけ早く忘れたい。
そもそも存在してほしくない。
癒えるまではするどく、あるいは鈍く痛み、さらには痛みの方が消えたとしてもしばらく痕は残る。だから、傷は嫌い。
ずっとそう感じていた。だから数年前まで、まったく理解に至らなかった。この世界にはそれはもう色々な種類の傷があって、性質も本当に千差万別なのだという事実に。
加えてふとした瞬間、傷が癒えることの悲しみ——すなわち「忘却がもたらす無感覚」が内包している、確かな残酷さ——を、理解した。
したくもないのにしてしまった。
時間
時間は敵だ
ときが経てば傷はいやされる
せっかくつけてもらった
傷なのに
(新潮文庫「すみれの花の砂糖づけ」(2002) 著:江國香織 p.148)
ある種の(ここでは、過去に尋常ではなく心を傾けた対象によってもたらされた)傷。
傷に苦しめられている状態は、自分が「その出来事にまつわる何かを決して忘れていないことの証左」になり、さらにはどのくらい痛むのか、その程度で「出来事の価値の高さ」がおのずと判明してしまう。
すなわち傷は証明になるのであった。
長く残るのならばそれだけ、重大な何かが自分の身に起こったということだ。
人生のあるとき大きな段差でつまづいて、あるいは深い穴にでも落ちて、心の中で世界ひとつを終わらせてしまうくらいの痛みをおぼえていたはずが……いつの間にか涙も流れなくなり、細部を思い出したとしても、化石化した過去としての印象しか現在の自分に与えなくなる。
すでに鮮烈なものではなくなる。平気な顔で部屋から出て、外を歩ける。
あのとき感じたはずの「それ」は、これほどまでに軽いものだっただろうか? と自問する必要に迫られ、振り返るも、何もない。地割れの溝はいつのまにか塞がり、果てのない荒れ野は、めでたく一面の草原となったらしい。花まで咲いて。
もう痛くはないというだけのことが、こんなにも悲しい。
その人はとても回復の見込みのつかない程深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。
同時にその傷が普通の人の経験にないような美(うつ)くしい思い出の種となってその人の面を輝かしていた。彼女はその美くしいものを宝石の如く大事に永久彼女の胸の奥に抱き締めていたがった。(中略)
公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪う代りに、その傷口も次第に療治してくれるのである。
(新潮文庫「硝子戸の中」(1952) 著:夏目漱石 p.26)
生に伴う痛みも傷痕も、当時はどんなに苦痛だろうとやがて消えるのだとわかってしまえば、得ることとうしなうことの価値は驚くほどに貶められてしまった。
だって、どうせ忘れてしまうのでしょう?
出来事自体を憶えていたって、蘇るのは無の感覚でしかないのでしょう。
あんなにも大切だと思っていたはずなのに、それを喪失した、という事実すら、私を永劫に苛み続けることはできないらしかった。真実本当に大切なものなら、うしなってしまった瞬間だけでなく、それから幾星霜が経過してもずっと、同じだけ苦しいはずなのに……。
傷が徐々にうすれて残らないというのは、要するにそういうこと。
あれは自分にとってその程度の価値しかなかったのだ、とはっきり証明されてしまうことだった。
こうなるとはじめの地点に戻り、結局は傷など作らない方が随分とマシではないかと思えてしまう。中途半端に消えていく、あってもなくても大差ない、生命に何の支障ももたらさない程度の傷なんて。
最大の問題は、そんな風に無傷で存在を維持できる者や物など、この世にはひとつとして存在しない事実である。しかも割れた陶器とは違って捨てられない。新しいものにも取り替えられない。
ならばいっそ、全ての感覚を破壊し尽くすくらいの「意味」を持った精神的な痛みを——激烈に燃え上がるものでも、静かに切断する性質のものでも構わないのだ——与えられてから、あるいはそれをはるかに凌駕するだけの何かに衝撃を受けて痛手を負い、いつまでも癒えない痕跡を抱いたまま死んでみたい。
而して「どうでもいい」「些細な」「つまらない」傷痕がすべて、美しく、無に帰せばいいと思う。最後には。