chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

近代文学を好きになったきっかけ:私と少女Kのこと

 

 

f:id:chinohirose:20210707175311j:plain

 

 

 日本の近代文学。そこにKという特定のイニシャルを加えれば、脳裏には絞り込まれた無数の作品がぽんぽんと浮かんでくる。

 

 タイトルからして明らかな梶井基次郎の「Kの昇天」か、現代文の教科書でおなじみ夏目漱石の「こころ」か、はたまた太宰治の「秋風記」か。もちろん、他にもたくさんあるだろう。

 私の場合、それらを差し置いてまっさきに瞼の裏へと映し出されるのは、ひとりの少女の面影だ。彼女の名前はKで始まる。いわゆる友人、いや、それ以上の存在。

 互いに本をこよなく愛していたけれど、手に取るものの傾向はことごとく異なっていた。彼女は主に日本の近代文学を愛好し、私はその横で、主にヨーロッパの物語の翻訳を読む……といった具合に。

 

 どんな風にして知り合ったのかはまったく覚えていない。けれど、小学校に入学する頃にはすでに異様なほど固い絆で結ばれていた。当時、幼いなりにどこかへ遊びに行く際には大抵の場合一緒だったと思う。近所の公園、図書館、映画館、動物園、プール、アスレチック、海に山なんかも。

 携帯電話が普及する以前のことだったので、毎日いくら学校で話しても話し足りず、夕方は遊び、家に帰ってから夜に手紙を書き、それを朝の教室で交換した。そんな生活が当たり前で幸せだった。

 互いに妙なこだわりがあって、絶対にこの関係性を「親友」とは呼ばないようにしようと頑ななまでに決めていた。私もKも、あとから与えられた言葉に頼るのが、なんとなく嫌だったのだ。そんな風に表現しなくても、友人としての実績は十分に伴っているのだから。

 

 それから同じ中学校へ進み、高校が遠く離れてもたまに会い、紆余曲折を経て疎遠になってしまうまで気がつけば10年以上が経過していた。

 その期間中、私は彼女以上に心を通わせられるほどの友人関係を他に構築できた試しがなく、自分にとって、Kこそが文字通りに一番であり代替不可能な人間だった。

 

 もうお分かりだろう。私が近代文学に傾倒するきっかけとなったのは、どこまでも不純な動機による行動、としか言いようがない。

 単純に、Kがいつも空き時間に芥川や太宰や賢治などを読んでいたから、それを通じてもっと彼女を理解し、より心の深い場所を覗き見るために、無理にのめりこんだのだ。とにかく胸の奥から彼女への愛が溢れて止まらずに。

 

 はじめは、何がどう面白いのかほとんど理解できなかった。

 その頃は明治・大正・昭和初期に書かれた小説というだけで文章自体も内容もやたらと難しく感じたし、作中で描かれていることの根幹、いや片鱗にどうにか触れるのすら難しく、ほとんど匙を投げていたのを思い出す。

 それなのに、今や夢中になって読んでいるのだから本当に不思議なものだ。

 

 私は誰より心を捧げた少女ではなく、近代文学の方の面白さに囚われて、抜け出せなくなった。

 

 現在はKの発する声の印象や、その顔の造形すらすっかり忘れてしまったけれど……貪るように手を伸ばし頭を突き込んでいた本は、変わらずそばにある。

 考えてみれば、基本的には「そういうもの」の集積で自分の外側、頭からつま先までの表面は形作られている気がする。全体の6割、7割くらいが無意識のうちに影響を受けていて。

 それで、中にある心の半分くらいが、あまり外とは関係のないような荒野にぽつんと埋まっているのだ。

 

 

 ◇      ◇      ◇

 

 

 所属する剣道部の強化合宿が行われていた、某宿泊施設。季節は初秋で、おそらくは中学2年生の頃だったと記憶している。暦の上では秋と表現されるとはいえ、まだほとんど夏だと言っていいほど、しつこく暑さの残る日だったような。

 夕方の稽古と入浴の後、隣に並んだ布団から、Kの小さな頭と少し骨ばった手がひょっこり出ているのを横目で眺めていた。ありがたく冷房の効いた部屋の、黄みのかった照明の下で一枚一枚、緩慢に文庫本の薄いページがめくられていく。

 そこにあるのは、ときどき五線譜に乗った記号を解析する眼球と脳であり、白黒の鍵盤を軽やかに弾く指だ。彼女はピアノの演奏ができた。私にはできない行いに身を投じる姿を、たまに、斜め後ろの方から黙って眺めているのが好きだった。

 とても美しかったから。

 

 何を読んでいるのかと尋ねれば、返ってくるタイトルは誰もが知っている日本の文豪の代表作である。

 さらに面白いの、と聞けば、すかさず肯定の返事。ふうん……と思う。私は読んでみようと思ったことすらない。ネズビットの「砂の妖精」や、モンゴメリの「赤毛のアン」、あるいはバローズの「火星の王女」以上に、私をわくわくさせてくれる物語なんだろうか。それは。

 でも、他でもないあなたの気に入っているものならば、とても興味がある。

 そんな風に考えて、頭の片隅にそれを刻んだだけで私は別の本を読み、強化合宿より帰宅してから付近の書店で一冊の文庫本を買った。

 

 結果、ひたすら頭を抱えることになるとも知らず。

 

 例の小説を読み終わったけれど、感想が何もない。楽しかった、つまらなかった、以前の問題だ。無。文字通りの無。はじめから終わりまで、単純に描かれていることを目で追うだけで残りのページがなくなった。しかも、聞きなれない表現や難解な感じの言い回しに翻弄されて、どっと疲れる。

 Kはこれを面白いと言って読んでいるの?

 一体これの、何が、Kの心を惹きつけてやまない?

 わからない、わからない……。

 

 でも、彼女をもっと知る手掛かりになるものなのだから、絶対にあきらめず追及を続けたい。どうにかして納得をしたかった私は、明くる日の教室で問いかけた。

 

「この前紹介してくれた本、読んだよ! 面白かった~(もちろんこれは大嘘である)。ところでKちゃんはあの話、誰が好きだった?」

「私は……そうだね、〇〇に共感したな」

 

 これで見事、また頭を抱えることになってしまったわけ。

 

 どうしてよりにもよって〇〇なのか。

 だって、そいつは私が作中で最も理解不能だと判断した人物のうちのひとりで、主人公の気を引かんがために、かなり悪辣な行為にも手を染めるような危ないやつだ。儚いのは名前と外見だけで、実のところ気性が荒い。これに共感? Kが? 何かの間違いだとしか思えなかった。

 戸惑い。それは、当時うっすら感じていた自分と彼女との隔たりをさらに大きくするようで、なんとなく落ち着かなかったものだ。

 

 だからこそ私は、さらに躍起になって日本の近代文学を読むようになる。いつかは分かるようになるかもしれないから。そうしたら、もっとKとの関係性を深めることができると思ったから。

 作品自体もさることながら、それが執筆された背景、著者である文豪の性格、代表的なエピソード、またどのような理由で評価されているのかについて、事あるごとに調べた。

 そのうち、読んでいて印象的だと感じた一文とか、本を閉じてもなんとなく頭の中から出ていかない場面などが、徐々に増えていった。ロマン主義、自然主義、幻想文学……ひとくちに近代文学といってもその傾向は多様なようだ。当たり前のことをじわじわと実感する。明治・大正期の文化への理解が深まるだけ、書かれていることにも納得し始める。

 蒸気喞筒、勧工場とか、今では馴染みのない近代のものも、いちど知ってしまえば想像はたやすい。電気はいつからどのくらい一般に普及していた? では、夜の町はどのくらい暗かった? そうやって場面が理解できるようになる。

 難攻不落の要塞が、そのへんの生垣、くらいには変化したような気がする。

 まだ、心からそれらの小説を面白いと思えるほどにはなっていなかったけれど。

 

 なかでも鏡花や鷗外、谷崎、それから一葉にはとりわけ苦戦させられた。はじめに読んだときは外国語で書かれているのかと錯覚したくらいだ。あんなに素晴らしい文章なのに。

 なんとも貧弱な、当時の私の読解力である。

 

 

 ◇      ◇      ◇

 

 

 中学校生活も3年目に至り、私とKではまったく異なる分野(どちらも第一志望の高校の科は普通科ではなかった)を志していたため、自然と会話が少なくなった。お互い、自分の進路のことで本当に忙しく時間がなかったから。

 最も悲しかったのは、以前とは別の塾に通いはじめた彼女と、一緒に帰宅できなくなったこと。向かう方角が違うので必然的にそうなるのだが、なにより衝撃的だったのは、いつものように「帰ろう」とかけた言葉に対して「ごめんね」が返ってきたことで。

 ぴたり、と動きを止めた。そのごめんねって、なんだろう。どういう意味なんだろう。あんまり詳しく知らないな。私が君の誘いを断ったことは過去に何度もあったけど、その反対は滅多になかったよね。

 

 一瞬にして脳内を駆け巡った言葉のすべてをどこかの側溝に流して、そっかぁ、と笑う。また今度ね。じゃあ、今度っていつなんだろうか。

 

 かくして、違う人間と連れ立って塾へ向かうKを見るたび少し落ち込んでしまって、気を紛らわすようにもっと受験勉強と近代文学へ没頭したし、今までまったく興味のなかった周囲の人間ともたまに付き合うようになった。

 そのうちのひとりをSという。

 彼女とも同じ部活で、共に行動していてもあまり居心地が悪くならないという意味では結構貴重な人材だったといえる。けれど、心から楽しいとは思えなかった。Kと一緒にいた方がずっといい。SにはKほどの思慮深さも教養もなくて、会話をしていても、大した喜びは胸に降ってこなかった。本当に退屈な人。

 けっして嫌いなわけではないけれど、たぶん、中学校を卒業したらもうかかわることはないだろう。実際にそうなった。

 

 やがて卒業式の日になって、Kからこんなことを言われた。

 

「君は私といるよりも、Sと一緒にいた方が楽しかったのかな?」

 

 それで驚き、ぜんぜんそんなことはないと否定する。むしろ、酷くつまらなかったよ。君とあんまり話せない毎日はさ。切に会いたかったし、その近くにいたかった。

 意外だった。私がSとたまにつるんでいたことを知っていたなんて。

 

 言葉に耳を傾ける彼女の目線は私ではなくて、地面と校庭のフェンスが接するあたりに向けられている。コンクリートの隙間から、オオバコが図々しく生えていた。

 実のところ、驚愕よりもわずかに爽快な気持ちが勝った。溜飲が下がる。私が、取り残されたような気持ちでKの背中を執拗に見つめていたあいだ、彼女も似たような思念を抱えていたのだと思うと嬉しかったのだ。

 君がいるだけで、この世界が面白く価値あるものになる。私はそう思っていた。

 君の方も、少しはそう感じてくれていたのなら、十分だ。

 

 当時生徒たちの間で流行していた匿名のウェブ日記、そこでこっそりとKのアカウントを特定して、毎夜のように眺め裏側の想いを覗いていた期間も浮かばれる。直接その悩みを聞けないのが歯がゆくて仕方がなかった。何度、いっそガラケーの画面ではスクロールしきれないほど長文のコメントを送ろうとしかけたことか。

 だがそれももう、過去の話だ。

 

 互いの生活範囲や環境は今以上に変化するけれど、これからも連絡を取り合って、たまには遊ぼうね。何を見て、何を考え、何を感じているのか気が向いたら聞かせてね、と約束した。

 

 そのあとに起こった出来事の数々は、この記事の趣旨に関係ないので割愛する。ただ、以前から英語に強い興味を抱いていたKはアメリカのボストンに行き、国内にずっと引きこもって絵を描いていたいと常よりぼやいていた私は、どういうわけかイギリスの首都ロンドンに行った、とだけ。

 数年後に神経衰弱になって帰ってきて、さては大好きな夏目漱石先生に影響されたのかな、とさんざん周囲から揶揄されたのも、もはや笑い話である。

 そんな上の話とは関係なく、今までに出会った数々の著者のなかでも、漱石がいっとうお気に入りの存在となっている。

 

 

 ◇      ◇      ◇

 

 

 とにかくKに近付きたいがために読み始めた近代文学は、いつの間にかそれ自体が私の友人のような存在に変化していた。それこそ、Kと諸事について語り合う際の感覚と、紙上の文字を目でなぞるほどに湧き上がる感覚がそっくりで。

 

 考えてみれば、明治大正期は時代からして興味深い。

 技術の発展や外部の文化および人間の流入、それにより人々の生活が大きく影響を受けただけでなく、それまで世間で信じられていた前提や価値観が、いとも簡単に崩れ去ったり再構築されたりしていたのだ。目まぐるしい速さで。

 だからこそ現代に生きる人間として、自分は一体どこへ向かい、そして何をするべきなのだろうかと悩みながら道を模索していた当時の彼らの思いや、まったく新しい事物に邂逅したときの新鮮な感動や困惑に触れるたび、少し勇気づけられる。

 あるいは作品によって、今も昔も変わらない人間心理や社会の片隅の空洞を示されてみると、その普遍性に嘆息する。時代を超えて長く読み継がれている小説はすべからくそういう性質を持っている。

 

 かけがえのない友人であるKは私を、これまたかけがえのない友人に等しい存在となった近代文学へと繋げてくれた。それではこの次に、数々の文豪たちの手による著作は、私をどこへ連れて行ってくれるのだろうか。

 世界には、一人で何かを考えているだけでは決して辿り着けない場所というのが必ずあって、往々にしてその場所に立ってみてから「そういえばあのとき、あの人やあの本が私の視野を広げてくれたな」と気がつくのだった。

 

 きっと、明日も自分は何かを読むのだろう。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー