chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

家伽噺 (Ⅱ)

 

前回の続きです:

f:id:chinohirose:20200720003058j:plain

 とりあえず、廊下に並ぶ木の扉をいくつか試しに開いてみて、分かったことがある。

 輪に束ねられた細い銀色の鍵は六本あったが、一度鍵穴にさすと、持ち手から先が取れて使えなくなるようだった。加えて通路を挟んで向かい合う扉は、対の関係になっている。つまり、先に右の扉を開けば左の扉は開かなくなるし、逆に左の扉を開いたあとでは、右の扉はもう決して開かない。

 要するに、どちらを選んでも後悔するようになっているのだ。

 右、左、右、と直感に従って開けてみて、その向こう側にあったのは、いずれも何の変哲もない和室。間取りも調度品もほとんどが同じだった。どこか旅館の客室を思わせる佇まいで、十畳ほどの畳の間の先、広縁の側面に設けられた窓から、雨に湿った中庭の様子が伺える。あの人影やそれに関係ありそうな要素は全くないし、花瓶にも花は活けられていない。

 だから部屋を出てから閉ざされた方の扉を見据え、しばし悩む。自分は連続して「間違い」を犯しているのかもしれない、と。

 もしも反対側の扉を選んでいれば、より実りのある結果が得られたかもしれない。せっかく都合よく与えられた鍵を、思慮が足りないせいで、ただ無駄にしてはいないか。このまま何もなく、使える鍵が一本もなくなってしまったら……。そうしたら僕はどうするのだろう。家の中の他の場所へと行ってみるのか、あるいはもうここに来るのをやめるか。答えは出ない。

 自らの聖域が何者かに侵されている最中だとは、あまり考えたくない。けれど薄々分かっていた。あの苦しいほどの懐かしさを感じてしまった今、きっと自分は彼の後を追いかけずにはいられないのだということを。

 ——あなたは誰で、何故、僕の心の中に居るのですか。

 忘れた頃に感じるのは、砂糖を焦がしたような香ばしく甘い匂い。

 まだ、手の中に残っている三本に視線を落とした。特に細工は施されておらず、表面には細かな傷が散見される、無骨な感じの太い鍵。どんなに力を込めても、思い切り歯を立ててみても形を変えられないのに、一度鍵穴に入れて回したら、ぽきりと折れてしまう。

 そこで、ふと。

(……銀は、とても柔らかい金属なんだよ)

 遥か昔——自分にそう教えてくれた人が居たのだと、唐突に思い出した。

 刹那、足が勝手にズルズルと動いて右側の扉へと向かう。半ば自動的に突き出される腕と鍵。軽い音を立てて、呆気なく錠は回された。鍵は音もなく折れて、残り二本。次は扉を押し開けるのだが、未だ勇気を持てず、しばし身体を無理に硬直させて木の表面を見つめる。

 鮮やかな木目の綾なす模様。川の流れや波、あるいは地層のような、無意識に訴えかける自然の産物を前にして、穏やかながらも鋭く心臓が鼓動している。他の扉とこの扉の間に相違点は全くない。けれど、裏側にあるものは明らかに異なっている……そう感じた。

 確信を持ってゆっくりと、左手で取手を下げようとする。——固い。

 そこで両手を重ね、下がり切ったら肩から半身を押し付けるようにして扉を押す。着物の袖と長い袴が邪魔で、ひどく煩わしく思えたが、足袋を履いていなかったのは僥倖だ。裸足でなければ、かえって後ろに滑ってしまっただろうから。

 力をかけ続けると、ぷつぷつと、しきりに何かが千切れるような音がする。わずかに開いた隙間に目を凝らせば、扉を塞いでいるのはどうやら植物の蔦であるらしいと分かった。病床から見上げる天井のように、嫌気がさすほどの白さを持つ蔦は、解けかけた編み物の糸にも似ていた。部屋の中から少し冷たい空気が流れてくる。

 やがて、身を滑り込ませるのに十分な幅が確保できたから、これ幸いとその中へ転がり込んだ。頭に絡みついた蔦と葉を両手で乱暴に払っていると、背後で扉がパタンと閉まる。暗闇で何も見えなくなる。そこで、一度、二度、三度とまばたきを繰り返すと——最後に目を開けた瞬間に、壁の照明の弱い光に晒された、部屋の全貌が飛び込んできた。

 白い葉をもつ植物の蔓は、扉だけでなく部屋全体に蔓延っていた。おそらくは机やソファ、戸棚であろうものの形がなんとか確認でき、奥の壁には大きめの暖炉が設けられているのが分かる。壁もほとんどが覆われているが、じっと目を凝らすと、桃色の地がかろうじて覗けた。

 ……この部屋は、寒い。入ってきた扉を振り返ると嘘のように消えていて、自分はここで何らかの行動を起こさなければならないのだと、暗に示されている。

 そういえば、さっきまで持っていた残りの鍵はどうしただろう、と着物の袖口を探った。すると指先に帰ってきたのは、金属よりも幾分か温かみのある木の感触。表面は滑らかだ。そっと、取り出してみる。正体は——木製の鞘に収まった、刃渡り十センチほどの小刀だった。これで蔦を取り除けば、何かが分かるのだろうか。

 鞘を払って壁や床に小刀を突き立て、力を込めて引いてみるが、思ったような成果が得られない。切れている、という確かな感触が無いのだ。ひょっとしたら鈍(なまくら)なのかもしれない、そう思って刃の先を左手の親指に向け、軽く押せば、確かに赤い艶やかな珠がぷくりと肌の表面に浮かぶ。きちんと、機能しているようだ。

 ……ああ、また、脳裏に響く声がある。

(——本生燈を見てごらん)

 ぼやけた視界の中、白衣を着た誰かの手が、何かを細く燃える青い火の上へとかざした。

(この炎を、綺麗な赤色に変える方法を教えてあげよう)

 それは、とても……懐かしい人の面影。いつか見た光景。 

 炎の熱をもってすれば、きっと部屋を覆う蔦など、すぐに焼き払えるだろう。——今ここには燐寸も火打石も無いが、何をどうすればいいのかは、もう薄々分かっていた。

 白い蔓と葉に埋もれた暖炉の前に立つ。炉の上に開いた手を差し出して、表面にそっと刃を滑らせ、自らの肌にわずかな粘度のある歪な軌跡を描いた。赤い線は中央から盛り上がって太くなり、やがて決壊したように数滴の雫が零れる。血液は、まるで涙のよう。痛みは予想したよりも強くない。

 血の粒が落ちた先から、薪が爆ぜるようなパチパチという音が聴こえてきた。

 すぐにこぶしの大きさほどの赤い火が生まれ、暖かな風が目の前から背後へと吹き抜けていった、その後には——幻のように全ての蔦が霧散した、端正な洋室が姿をあらわしていた。

つづく