chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

家伽噺 (Ⅰ)

 

f:id:chinohirose:20200717011739j:plain

 家伽話(いえとぎばなし)と読みます。

 童話のようなものを書いてみたくなったので始めました。些末かつ取り留めのない文章のため、物語に興味がある or 時間に余裕のある方向けです。いつも当ブログの記事を読んで下さりありがとうございます。

【家伽話】

 開け放った障子のそばに座り、淑やかな雨の音を聴いていた。

 厚い雲越しに感じる昼の陽光は、絹で漉したように柔らかい。日頃、空から絶え間なく雫の落ちてくる天気は本当に煩わしいと思っているが、こうして髪や服の濡れない屋内にずっと居られるのなら、話は全く別だった。片手をふさぐ不快な傘をさす必要がないし、撥ねた水で汚れた靴もなく、湿った袖口に惨めな気分を重ねなくても良い。

 ここはいつでも雨だ。加えて僕は家の中から出ないことにしている。そのように、決めている。思い通りにならない物事と自分とを隔てる膜がある場所こそ、忘我に耽るのには最適だから。

 玄関の開け方を覚えてから、学校に居ても、電車に乗っている時でも、必要があればいつでもこの家に戻ってくることができた。

 降りしきる雨の他に音はない。だが、ふと、耳朶に感じる空気が揺れた気がして——ゆっくりと気怠い瞼を開く。

 畳の間がぐるりと細い廊下に囲まれた、入側造の小さな部屋。中庭に面した引き戸の手延べ硝子を透かして、わずかに歪んでぼやけた青く背の低い茂みが見えた。その間に目立つのは、大きな石灯籠と魚のいない丸池、上にかかる赤い太鼓橋だ。

 これこそが何の変哲もない、いつも『自分の頭の中にある家』の風景。

 ぼんやりと座ったままで、先ほど揺らぎを感じた方向——横にある床の間の花瓶へ目をやると、あまりに鮮やかな鉛丹色の雛罌粟(ヒナゲシ)が一本活けられているのに気付く。……おかしな話だ。だってさっきまで、そこには薄墨で淡く月の描かれた掛け軸を除いては、何も無かったのだから。

 怪訝に思っていると、かすかに砂糖を焦がしたような甘い匂いが鼻をくすぐった。だが、眼前にある花瓶の花からではないらしい。ぬるい奇妙な風に乗って漂ってくる。網膜に焼き付く花の色も、まとわりつくような匂いも、僕を酷く落ち着かない気持ちにさせた。

 これは一体、何だというのだろう。意味のある現象なのだろうか。

 あまり積極的に動きたくはないが、安息の地であるこの場所で異変が起こっていては困るし、きちんと匂いの出処を探しに行くべきだという気がした。その残滓を辿って、自分自身の足で。

 畳の間を出て家の中を歩き回るのは、随分と久しぶりだと思う。

 ここは心と想像の中だけにある、実態を持たない空間だ。幼い頃は友達を招いて、いくつもある部屋を贅沢に使って遊び回ったものだが、最近ではめっきり一人で過ごしている。家にいる間、意に沿わない事が起こったことは一度として無かったのだが……だからこそ、あの花の出現は不可解でどこか不気味だった。とにかく、嫌でも前に進まなければ原因の究明はできないだろう。

 手掛かりになるかもしれないから、花瓶から雛罌粟を抜き取って片手に握った。

 別の棟へと向かう長い廊下の板は艶やかで、埃一つ落ちていない。その幅は狭く、灰色の漆喰で塗りこめられたざらつく壁には等間隔に正方形の漏窓が並んでおり、申し訳程度に光と外気を招いていた。鎖を図案化したような幾何学模様の意匠を横目に、足を交互に前に出す。

 歩きながら心細く正面を見据えていると、十数メートルほど先の突き当たりで左右に分かれている通路を、さっと左に誰かが曲がって——短い黒髪の頭と、白い上着の端のようなものが壁の向こうに消えた。

 間違いなく人の影だ。

 長身の、おそらくは男性……だったと思う。

 瞬間、いまにもかき消えそうな切なさと、どうしようもない懐かしさが胸を一杯に支配し、喉元のぎりぎりの部分まで不自然な嗚咽がせり上がってくる。かろうじて、声は出なかった。

 空いている手で、胸のあわいから喉元までを押さえてさする。ひきつるような苦しさ。食べ物ではない変なものを飲み込んでしまったような感じがした。

 何故か、足がすくんで動けない。……あれは誰なのだろう。普段この家に出入りできる人間は、僕を除けば誰もいないはずだ。僕自身の精神世界なのだから。自らの意思で誰かを呼び込んだり住まわせたりしてみたことは幾度もあるが、こうして勝手に侵入されたことなどは、過去に前例がなかった。

 加えて——今、ひたすらにこの胸を占めるもの。あの人影は知っている誰かに、似ている気がする。もう一度会いたい、誰かに。

 花瓶に花を活けたのは彼なのだろうか。

 また甘い匂いがして、両足の金縛りが解けた。そこから前のめりで足早に辿り着いた曲がり角、その先の通路には、無数の形が違う木の扉が向かい合わせに並んでいて、まるで手前から一つずつ確かめて回れと自分を促しているように思える。

 後方を振り向くと、来た道から向かって右側にも続いていたはずの廊下が消えて、灰色の壁に変わっていた。

 しきりに違和感のある喉元を往復していた手に、固く冷たいものが触れる。それがカチリと遠慮がちに音を立てたから、そっと握ってもう一度開いた。すると——真新しい銀の鍵束が、鈍い輝きと共に鎮座していた。

 その代わりのように、雛罌粟の花は空間に溶けて消えていった。

つづく: