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彷徨する自由帖

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復元された出島の建築物~オランダ・日本間の貿易と鎖国期の面影|長崎一人旅(5)

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 前回の記事の続きです。

 

 昔、小学校の社会の授業内で初めて存在を知った、長崎の出島

 そこは200年以上もの長きにわたり機能した、鎖国中の日本において唯一公的な港だった。特にオランダ東インド会社との貿易の重要な拠点として。またその少し前、島原・天草一揆の勃発する直前には、ポルトガル人を収容していたこともある。

 人や物が通行する扇形の扉であり、牢獄。総面積はおよそ1万5千平方メートルという狭さ。

 

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 明治期に行われた埋め立て事業の影響もあり、出島はおそらく現存していないだろう、と思っていた。でも、島自体や建物の数々が近年復元されていたとは全く知らなかった。実際に旅行で現地へ赴いてみるまでは。

 復元事業は今も進行中のようだ。

 現在再現されているのは、主に鎖国期、幕末、そして明治時代の建築物。入場料はかかるが、当時の文化や風景に少しでも興味があるなら、散策すると楽しいと思う。新地中華街からも近いので足を運びやすい。

 今記事では、実際に見学した建物の中から鎖国期のものを選んで紹介する。

 

公式サイト:

国指定史跡 出島 Dejima

 

復元された鎖国期の建物

 鎖国体制が整う1641(寛永18)年までの間に、平戸にあったオランダ商館は閉鎖され、長崎の出島へと移された。

 資料や遺構から、現地で暮らした人々の様子を伺える。

 

  • カピタン部屋

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玄関前の照明

 出島の中でもかなり大きく、最も目を引く建物が《カピタン部屋》と言っていい。ここでのカピタンという語はオランダ商館長を指す。

 二階への入口に付随する三角形の屋根から、階段の上にも設けられの葺かれた覆いが伸び、ヤジロベエのように両手を広げて建っている。木の表面に塗られた淡い緑色が美しい。出島に住んだオランダ人が好んだ色だと言われているが諸説あり、正確な由来は定かでない。

 一階入り口の両脇に設けられた洋風の照明が趣あって好きだった。

 ここは名前の通りに商館長が居住した他、日本の役人などを迎え接待する、迎賓館としての役割も兼ねた空間だ。特に二階はその雰囲気が色濃い。実際に足を踏み入れてみると、はじめは畳の上に置かれた絨毯と家具の数々や、吊られたシャンデリアに面食らうかもしれない。

 ド派手な壁紙も私の網膜を容赦なく攻撃してきた。

 

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華やかな食堂

 

 

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シャンデリア

 迫力ある35畳もの大広間も慣れてくると面白く、しばらくウロウロしてみると部屋の詳細にも意識が向くようになる。

 どうやら出島内のオランダ人商館員たちは、カピタン部屋に集って一日二回の食事をとっていたのだという。どうりで広いはずだ。また、上の写真では豪勢な品々の模型を用いて祝賀の風景が再現されているが、これは当時の彼らが行った阿蘭陀冬至――すなわちクリスマスの催し

 外部でのキリスト教布教は幕府によって固く禁じられていたため、出島の中の一室だけでひそやかに、けれど仲間内で賑やかに宗教的行事を行っていたのだろう。

 不思議な感じがした。空想をする。出島の堀の外側、名実ともに「日本」の領域に一人で立って、向こう側を覗く。手前の蔵に遮られてよく見えなくとも、カピタン部屋の方から風が吹けばが運ばれて耳に届いた。話し声、歌声、そのどれもが聴きなれない別の国の言葉で。 

 うかつに気を抜くと、自分がここで一体何をしているのか忘れてしまいそうになる。

 

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祝いの席

 別の部屋の机には、赤い液体で満たされた杯が並んでいた。茶器もある。しかし、壁紙の柄を見ているだけで目がぐるぐると回る……。

 重要な事務や商談を行ったとされるこの場所。展示が再現しているのは、前商館長から新任への業務引継ぎを行う場面だという。祝賀会のようなものか。

 ちなみに、カピタンの仕事の中には「江戸参府」も含まれており、鎖国期には4年に1回くらいの頻度で実際に江戸へ赴いていたらしい。目的は、貿易の許可に対する感謝を述べるのと贈り物の献上。その際、使節たちは特定の宿屋に宿泊していた。

 出島ではオランダ人(貿易会社勤務の欧州人、マレー人も含む)だけでなく、後述する乙名をはじめとした、多くの日本人も勤務していたと改めて考えると面白い。僧侶は駄目だが遊女は出入りを許されていた

 また、通訳などが出島から持ち帰る西洋料理は本土の人間に大変珍しがられ、喜ばれたという。

 

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硝子越しに

 幅の広い窓からはお隣《ヘトル部屋》の展望台も見えた。光がたくさん入ってくるので開放感があるが、その実、この場所はあくまでも牢獄のようなものだと格子を眺めて気付く。外国人は許可なく出島の外に出る事、まかりならぬ――。

 今いるカピタン部屋を含む、鎖国期に建てられた出島内の建築物は、何度も改装や建て替えがなされている。

 竣工当初はより「洋風の要素が取り入れられた日本家屋」らしいものだったそうだが、幕末の頃までにはかなり独特な様相をなす形に作り替えられていった。その片鱗にこうして触れられるのは興味深い。

 

  • 一番船 船頭部屋

 カピタン部屋より規模が小さいが、似通った内装を持つのが、斜向かいにある《一番船 船頭部屋》

 オランダ人船長商館員の住宅として機能していた。

 当時の一般的な長崎の町人部屋と同じつくりなので、一見すると何の変哲もない家だが入ってみると違いが分かる。

 

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広くてゆったり

 全体的に風通しの良い感じがあり過ごしやすそう。欄間や障子越しの陽光が柔らかくて心地いい。そして、落ち着いた地味な外観に反してやはり壁紙が派手ぎみ。

 オランダの貿易船が出島にやってくるのは7~8月頃のこと。船は二隻で、先頭を走る一番船の船長が、11月の出航まで滞在していたのがこの建物だった。商館員の部屋もある。説明書きによれば「船員は船で暮らした」とあるので、何らかの会合のある時以外には立ち寄る機会が少なかったのだろうか。

 迎賓館も兼ねたカピタン部屋の玄関とは異なり、ビリヤード台のようなものが置かれていた痕跡はない。オランダでは入り口からすぐの小さな部屋が簡易的な接待の間を兼ねていたと聞いて興味深かった。

 残された資料をもとに再現された家具などの内装のうち、気になったのは寝台。ベッドに大きな膨らみがあり、そこに背を預けて座るように眠ったというから驚き。

 外国人が横たわるにしてはやたら小さいと思った。妖精の布団みたい。

 

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机のある一角

 室内の玻璃の水差しや時計など、小物からも南蛮の生活感が伝わってきて楽しい。

 屋内の家具に関しては、ジャカルタから船で持ち込むか、長崎の職人に作らせるかして手に入れたそうだ。……私も隙あらば、この畳の上にごろごろと臥して日陰で夏を過ごしたいもの。

 暮らしの場である二階に対し、土間を含む一階は主に倉庫として用いられていた。今までに分銅や天秤などの計量器具が発見されている。

 

  • 乙名部屋

 出島における乙名とは、主にオランダとの貿易における事務や監督などを請け負った責任者たちの役職名。

 彼らは島の建設に携わった日本人町人の中から選ばれた。

 その勤務中の拠点となったのが詰所の一つ、《乙名部屋》だ。

 

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笠と提灯

 他の和洋折衷な建築群とは全く趣が異なる内装。置かれた円形の座布団と急須から伝わる、「お爺ちゃんお婆ちゃんの家」のような安心感。展示では照明が薄暗く落とされているのも雰囲気づくりに一役買っている。

 壁に掛けてあるのは提灯で、その前には草鞋があり、巡回中の乙名の風貌が伺えるようだった。

 昼間は船の往来を見張り、陽が沈めば夜警の番人として道を闊歩する。ほとんどこの場所でしか外国人を目にしなかったと推測される人々は、仕事を通してオランダ人たちの生活を垣間見、どんなことを考えていたのだろう。

 好奇心か、敵愾心か、あるいは友好的感情か……。

 乙名部屋を出たところからも他の建物の二階が見えたが、やはり眺望の良い窓というよりは、牢獄の鉄格子という印象を強く受けるのだった。 

 

  • 三番蔵

 砂糖をはじめとした輸入品や、積み荷の一部が収められていたのがこの蔵とされる。

 敷地内には他にも一番蔵と二番蔵があった。

 内部では、当時の様子が再現されているほか、和蘭貿易によってもたらされた品々や文化の展示を見ることができた。

 

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美味しそう

 砂糖菓子の模型が美しい。桃カステラが気になる……。

 当時、出島で生活する商館員たちの様子を間近で見られたのは、前述したように乙名などの役人か、遊女らに限られていた。彼らを通して飲食物のハムやチョコレート、ビール(の空き瓶)ピアノといった楽器、それからカメラやレンズなどの機械類が少しずつ日本にも伝わり、長い時間をかけて普及していったという。

 東京吉原と京都島原に並んで著名だった長崎・丸山遊郭の遊女も、仕事を通してオランダ人の生活を目の当たりにしたり、個人的に贈り物をもらったりしていた記録が残っている。酒宴を行う際には通訳が横についていた。

 国、政府や使節同士がじきじきに行う外交ではなく、いわゆる性風俗系の界隈からもたらされた物事は教科書にも載りにくいため、なおさら興味がわく。

 

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積み荷

 貿易に関しては、当時のオランダを含め、当時のヨーロッパが最も重きを置いていた品物が香辛料だった。その主な産地はインドだ。

 しかし、インドから直接それを持ち帰るには、自分たちの側から差し出せるものがない。ヨーロッパ産の暖かな毛織物はインドでの需要がなかったために。

 そこで彼らは、まずインドから香辛料ではなく生糸を仕入れる。その生糸を日本に持ち込み、銀や銅などの金属と交換したらインドに戻って、綿織物に変えた。さらにその綿織物との交換で香辛料を手に入れ、ようやくヨーロッパへ戻るという具合だったわけ。

 商才に恵まれなかった私の頭で考えると気が遠くなりそうだが、展示を通して貿易の奥深さの片鱗に触れられた気がした。

 

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現在の堀

 往来の厳しく制限されていた鎖国時とはうって変わり、今は訪問客に対して広く開かれている復元後の出島

 散策すれば、外からやってくる観光客に交じって、未だに敷地内を彷徨う船員たちの幽霊に遭遇する機会も、もしかしたらあるのかもしれない。

 もちろん、これは全く個人的な期待に過ぎないのだが。

 

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