chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

塔|言葉の残骸

 

f:id:chinohirose:20200123214149j:plain

【塔】

 あの塔が完成間近で見捨てられてからというもの、人間の舌にはすっかり強固な呪いがかけられてしまっている。

 それは世代を超えて繰り返され、より複雑に僕たちの身体に編み込まれ、もう誰も、かつての人々のようには想いを誰かに伝えられない。かつての人々とはつまり、塔の建設を試みる前に生まれ、死んでいった人々のことだ。以降、人類は一つの魔法を失った。

 昔は僕たちも、言葉になる前の概念を月からそっと呼び出し、まるで唄をうたうように使役できたのだという。それに満足していれば良かったのに、無謀にも、直接手を伸ばして触れようと考えてしまった。塔の建設を望んでしまった。

 実体がなければ触れることができない。しかし、本来は形を持たない概念に無理に形を与えようとすれば、必ず歪みが生じる。昔の月は今のようにいびつな風貌をしていなかったらしい。

 やがて人々は、自分たちが一体何を求めているのかを、それぞれの隣に立つ者に伝えられなくなった。空に浮かぶ銀色を指差して叫ばれる音に同じ響きは無く、音になる前の「たった一つのもの」を認識する器官は著しく傷つき、もう元には戻らなかった。そして現在、塔の建設は放棄され、その存在も単なる瓦礫となり忘れられている。これが事の顛末である。

 伝達と共有の手段を失った僕たちは、出鱈目にばらばらにされたものを新しく組み立てていくために、制約を受け入れるしかなかったのだ。いまや記号は籠(かご)で、意味は蝶と化した。飛んでいるそれらを仕方なく捕らえて無機質な籠に入れ、生命をただ交換するだけ。そう、生命。その存在は言葉通りに限りあるものとなってしまった。かつて東の園を追われた、始祖の彼らのように。

 扉を開けば蝶は逃げるし、直接つかんで動かそうとすると鱗粉が羽から剥がれ落ちていく。必要以上に痛々しい感覚を伴って。中にいる蝶が死んだあとは、残りの籠を一体どうするべきなのだろうか? ここ最近、胸を占めているのはそんな問いばかりだ。

 僕は常に呪いへの抵抗を試みた。必死だった。物事の裏側にあるもの、普段は見えないもの、「たった一つのもの」――それをもう一度。自分たち自身の言葉を、舌に乗せて。

 だがこの想いこそが、かつての人々を混乱させた元凶であったという事実に、僕はもっと早く気が付くべきだった。もう手遅れだ。あの衛星は伝承の通りに、いとも容易く人を狂わせる。

 首をかしげて、困ったように眉を下げるばかりの君に、そんな顔などして欲しくはないのだと説明しても伝わらないことは分かっていた。だから僕はこの世界で覚えた中でいちばん醜い、大嫌いな言葉を君に告げる。そうしてようやく得心がいったように優しく笑う君、僕はそれを見て立ち去り、部屋で絶望して泣く。

 たとえ君の笑顔が見られなくなるのだとしても、僕はいつか蝶の死体と瓦礫だらけの地上に塔を建てるだろう。たった一つのものに触れるためではなくて、全ての穢れを捨ててただ清らかな月面へと逃走する、そのためだけに。