前回の記事の続きです。
1980年、その全体がユネスコ世界遺産に登録された町、マルタ共和国の首都ヴァレッタ。マルタ語での表記はイル・ベルト(Il-Belt)になる。
宿泊していたスリーマ地区の岬に立てば、海を挟んだ向かいにヴァレッタと、カーマライト教会の象徴的な丸いドームを望むことができた。
国の政治の中枢であり、今でも6000人以上の人々が敷地内に住んでいる。
半分廃墟だったゴゾの城塞とも静寂のイムディーナとも異なる雰囲気で、昼夜ひっきりなしに観光客が出入りし、数々の店が軒を連ねる賑やかな場所だ。もとは国防のための城砦として16世紀に建造されたのだという。
私はこんな風に、要塞と他のものが一緒になった史跡がとても好きだ。ノルウェーのアーケシュフース城や、フランスのモン=サン=ミシェルも。
ここを訪れた日に食べたマルタの伝統料理は、ブラジオリ。
ブラジオリはひき肉をさらに薄いベーコンのような肉で巻く、というもので、マッシュポテトと一緒に提供されることが多いよう。トマト系のスープでよく煮られており、柔らかくて食べやすかった。各種ハーブが効いていてその風味もする。
マルタの食品には総じてハーブや香辛料の類が使われているのか、お土産で買って帰ったコーヒーも、かなり独特な味がした(鼻に抜ける香ばしさ、決して嫌いではなかった)。
イタリアやアラブ諸国など、周辺地域の料理の良さが凝縮されたようなマルタの食事は口に合うものが多く、飲食店を探す時も気持ちが楽だ。
10月にウズベキスタン(サマルカンド・タシケント)を旅行した際も、ご飯がおいしいという要素がどれほど重要かを身をもって感じたのだが、これをまた後の記事で書こうと思う。
参考サイト・書籍:
Visit Malta(マルタ観光情報サイト)
ヴァレッタ(Valletta / Il-Belt)
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アッパー・バラッカ・ガーデン
この美しい港グランド・ハーバーで、地中海に対峙する数々の大砲は時報として機能しており、昼の12時と夕方16時になると低い音を町じゅうに響かせる。
南端の庭園で、石のアーチ越しに眺めた海はどこまでも蒼かった。
初夏にエジプトへ渡航した際も観光したのはカイロ周辺で、アレクサンドリア方面には行かなかったから、こうして地中海を実際に目にするのは初めて。恵まれた天候の下にはかわいい猫もいて、港を見下ろせる庭園内を歩くことでとても安らいだ。
それでも胸のうちの焦燥感や虚しさはいつも消えることが無いけれど。
どこへ旅行に行ったところで、根本的な問題が解決されない限りずっとつらい思いをし続ける(しかも私にとって、旅行は「気晴らし」にはならない)。
そんな感傷には一切関せず、晴れた日の庭園は人々の憩いの場となり賑わっていた。
この時は正直、リゾート地に足を運んだことを後悔し始めていた。自分の存在が場違いすぎて。
周りを見渡すと嫌でも目に入ってくるものの数々に、普段は意識しないような領域の孤独に気が付く。空気が澄んでいるのはいいが、それ以上に雑音が多すぎる。ここにいると、必死で何かを追い求めた結果、何も得ることができず私の人生は終わるんだろう……とすら思えて、早く自分が自然体で居られる静かな場所に帰りたかった。
ずっとイムディーナの壁の中を探検していたい。
今後、こういう場所に一人で来るのはやめようと固く誓った。それはともかく、他の人はヴァレッタを訪れたら、まずここに足を運ぶのが良いのではないかと思う。
あるいは周辺を散策し、無数のジェラート屋で購入した美味しいものを持ってから、気の済むまでベンチに座っているのも多分悪くない。
庭園を造った当時の人々も、今と殆ど変わらない景色を瞳に映していたのだろうか。
それとも、いつ何処から敵が攻めてくるか分からない戦々恐々とした状態で、広がる地平線をじっと見据えていたのだろうか。
こうして高台に吹く風を感じながら。
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市街
ヴァレッタの市街を地図や上空からの写真で見てみると分かるが、格子状に整えられた直線的な道の数々が特徴になっている。通路が曲がりくねっていないのでとても見晴らしが良い。
そのかわり、ごく細い路地に迷い込むとあっという間に別の場所へと連れていかれてしまう。少し薄暗いところも多いので危険には遭遇しないよう注意が必要。
真ん中の通り、リパブリック・ストリートに続く入り口の橋からはかつての堀の跡が見え、堅牢な要塞都市として築かれた頃の名残を晒していた。
先の大戦で、空襲による大きな被害を受けたロイヤル・オペラ・ハウスの廃墟は、戦争の記憶を後世に伝えるものとしてそのまま残されている。後の2013年には建築家のレンツォ・ピアノが設計した野外劇場が跡地に建設された。
重厚な壁と屋根に囲まれ、音響の整った劇場も素敵だが、空の下で耳を傾ける音楽というのもまた一興だろう。そんな場でこそ活きる演目もきっと多くあると思う。
陽が照らす通りを歩きながら、両脇にずらりと並ぶ窓を見るだけでも楽しいが、この町全体が廃墟だったらもっと楽しかっただろうという気がする。マルタで産出される石灰岩は特徴的な薄黄色をしていて、こうして多くの建物に使われ、周囲に漂う雰囲気を形作っているのだった。
黄色い石と蒼い空の対比がとても綺麗。
この町に与えられたヴァレッタという名前は、16世紀の頃にマルタ騎士団長であったジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの名前からとられたものだ。
マルタ騎士団――島に上陸する前は聖ヨハネ騎士団と呼ばれていた組織の存在なくして、近世以降のマルタを考えることはできない。
騎士修道会として教皇に認められて以降、キプロスやロードス島、そしてマルタと拠点を移しながら、イスラム圏の勢力と戦い数々の防衛に成功してきた騎士団。その紋章は、現在マルタで発行されているユーロ硬貨にも刻まれていたり、お土産として人気の銀細工のモチーフにもなっていたりする。
かつての彼らの栄華を偲びたければ、以下で述べるヴァレッタの大聖堂に足を運ぶのが一番だ。
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聖ヨハネ准司教座聖堂
外観こそシンプルなものの、ひとたび内部に足を踏み入れれば金色の洪水に眼球を洗われてしまう。
ここには8つの小さな礼拝堂が集まっていて、それぞれのエリアに異なる装飾が施され、聖人の絵画が飾ってある。これ自体も要塞として利用されていた。
建設に必要な労力や用いられた鉱物などの素材を考えれば、当時の騎士団がどれほど大きな力を持っていたかがよく分かる。
華美な内装にかこまれてなお、軽やかさを失わない天井画はマルタの画家マティア・プレッティによるものだった。
現場で注意して見ると分かるのだが、手を挙げた人物が描いてある横の金箔の上から影を描写することで、余念のない立体感の演出が行われている。画家のこだわりが垣間見える。
そして画家と言えば、イタリア人の巨匠カラヴァッジオの作品《聖ヨハネの斬首》が展示されているのを忘れてはならない。
聖ヨハネ斬首の題材は一般に、オスカー・ワイルドの戯曲でよく知られている人気の場面だ。カラヴァッジオは光と影を用いた表現が巧みで、人物や光景をドラマチックに描き出し、バロック絵画の基礎を築いたとも称される人物。
作品自体もさることながら、その存在は美術史においてかなり重要だし、私の部屋にも一冊の画集がある。
個人的に生々しさが誇張された部分を恐ろしく感じる部分はあるものの、まるで目の前で物語が展開しているかのような描写の数々には、ただ息をのむしかない。
この一枚が、カラヴァッジオによる直筆の署名がなされた唯一の油彩画であると言われている。しかも、署名は本人の血で書かれているらしい。恐ろしや。
伝えられるところによると、カラヴァッジオは絵画の腕前とは対照的に素行が悪かったそうだ。喧嘩っ早く、乱闘騒ぎを起こすこともしばしばあり、ある日ついに一人の若者を殺めてしまう。この罪状によりローマを追われた彼はナポリへ移動し、そこからも逃げ出した末にたどり着いたのがマルタ島だった。
そして騎士団に迎え入れられるのだが......結局また投獄されてしまう。誰かに怪我をさせてしまったとか、施設の一部を破壊したことなどが罪状だった。とにかく波乱の多い人生を送ったのが分かる。彼は生前、幸せだったのだろうか――?
絵画室を出て床に目を向ければ、大理石のモザイクによる美しい絵柄が鮮やかに浮かび上がっていた。これらは全て墓標だ。訪問者によって踏まれないよう、柵の内側に保護されている。
普段あまり意識しないのだが、こうした祈りの場、聖なる領域に墓場を設けるというのは神道的な考えと大きく異なっていると改めて気付く。
仏教でもよく寺の敷地内に故人が眠っているが、神道の場合は死が穢れとして扱われるので、墓が神社の敷地内に建てられることは無いからだ。
ロンドンにいた頃も、セント・ポール大聖堂の地下の墓所にはたまに行った。やはり雰囲気が好きだったので。
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騎士団長の宮殿
ヴァレッタ内で、最後に訪れたのが騎士団長の宮殿だった。
かつてはここから組織全体の統率が行われた場所であり、現在は国会やマルタ大統領によって利用されている、緊張感の漂う施設となっている。
聖ヨハネ准司教座聖堂と同じく、外観は至ってすっきりとしていて、あくまでも軍事的な目的の下に造られたのだということを主張しているように思えた。
玉座の間の壁、その上部をぐるりと取り囲むのは《グレート・シージ》の様子を描いた絵画。
これは1565年にオスマン帝国がマルタへ仕掛けた包囲戦のことで、最終的になんとマルタ軍が勝利を収めた歴史的な出来事だ。
死傷者の数はかなりのものになったが、今まで無敗を誇っていたオスマン帝国軍の鼻先を確実にくじく、キリスト教圏の国々にとっての大きな前進であった。説明を読むだけで壮絶さが伝わってくる。
この絵画群の他にも撮影はできないが、別の部屋でインドやアフリカなどの地域を美しく描いた大きなタペストリーが展示されており、一見に値するものだった。そこは作品保存のため光や風のほとんど入らない、夏に見学をするには厳しい状態の部屋。けれど行って良かったと思う。
館内には本物の甲冑や武器が並び、くぐり抜けてきた戦火の一端をあちこちから感じさせられる。
また、今ある天井とシャンデリアは建造当時から変わらないオリジナルだというから驚きだ。仰ぎ見ると折上げ格天井のような佇まいで、建物好きとして、正直かなり興奮した。
ちなみにこの宮殿には、幽霊が出る、とまことしやかに囁かれている。それも人間ではなくて動物の。
ある日英国人の女性が館内を歩いていて、猫と犬が部屋の中で喧嘩をしている鳴き声を聞いたが、扉を開けても何もいなかったとか――。なぜ、この場所で猫と犬なのだろうか。巨大な猫が窓に向かって消えていったという目撃証言もある。まあ、確かにマルタには沢山の可愛い猫がいるが。
閑話休題。
過去に隆盛を誇ったマルタ騎士団だが、ナポレオンがエジプト遠征を失った際、ついに島を奪われてしまう。それでも組織自体は現代まで存続しており、ある程度の影響力を持った団体として、各国やローマ教皇との関わりを続けているのが面白い。
今回はこの辺りで筆を置いておこうと思う。
蛇足として、ヴァレッタ訪問前に少しだけ立ち寄った漁村・マルサシュロックの写真を貼っておく。前述したグレート・シージ(大包囲戦)の際は、ここからもオスマントルコ軍が上陸してきた、という記録が残されている。
今ではその影など微塵もない平和な観光地だが、少し魚くさかった。
それでは、また別の場所で。
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マルタの次の渡航先はウズベキスタンでした。
ご興味ある方はぜひお付き合いください: