このブログ記事のタイトルを見て「お、クリックしてみよう」と思う人は、一体どんな人なのだろう。その時どんな状況に置かれていて、どんなことを考えているのだろう。
今まで色々なことをWeb上に放り投げてきて少し分かったのは、楽しい話と悩みや苦しみの話を横に並べたとき、後者の方が幾分か読まれやすい傾向にある、という事実だった。それは当然のことかもしれない。理由はたくさん思いつく。画面越しの他人がしている苦労なら、娯楽になるから。もしくは、自分よりも不幸でしんどそうな人間を見つけると安心するから、云々。
では、書き手の側の意識はどうだろう。自分にとってお世辞にも愉快とは言えない事物を異様な手間をかけて文字に変え、他人が読みやすいように体裁を整えて、目のつく場所にわざわざ置いておくのは何故なのか。この動機も、人によって本当に千差万別だと思う。共感や同情、救いを求めていたり、注目されたかったり、あるいは不特定多数の誰かに独白を聞いてもらいたかっただけなどと、様々だ。
私の場合は、苦痛だったことや不愉快だった記憶を収集し再構成するのと、本当に大切な部分だけは偽って衆目に晒す行為そのものが、一種の娯楽になっている......ようだった。これが、結構おもしろいと最近気付いた。
というわけで、今日もあえて愉快ではない経験の話をしよう。他人のしんどさや生きづらさが蜜の味だと感じる人も、そうではない人も、楽しんでくれると嬉しい。
何に没頭していても結局人生は虚しいが、身の回りで起こる全てをこうして話のタネにできるとしたら、それを語るのを生きる理由にしてしまっても良いじゃないかと思う。だって理由も無いのに生きるのは、面倒だし詰まらないから。
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連絡先リセット
2019年10月9日に24歳の誕生日を迎えた。それに伴って、イギリス留学中にできた友人たちの連絡先と、今までやり取りしていたチャットやメールの履歴も綺麗に消した。本当につい最近まで、夏休み中に訪れた旅行先の写真や感想を送り合っていて、楽しかったのだけれど。
この数年間を振り返ると、とにかく人間関係がしんどかったなぁと思う。
具体的にその何がかというと、留学中に現地で知り合った人間と関わっていた時間と、その頃抱いていた全ての感情が、だ。特に帰国直前は、彼らの顔を見るのも、言葉を交わすのもひどく憂鬱だった。当時借りていた部屋の大家や、新しいフラットメイトともなるべく接触しないよう、息を殺して生活していた。
思えば渡航から留学2年目程度までは、人との関わりは本当に面白く充実していたのに、どうしてこうなったのだろう?
誤解はしないでほしい。嫌なことは数えきれないくらいあったが、決して特定の誰かと著しく仲が悪かったり、関係が破綻するほど嫌なことを直接されたりしたわけではない。仮にそうだったとしても、他人からの悪意などをいちいち相手にしていたら、未だ人種差別意識の根強く残る地では到底暮らしていけない。だから、そんな些事があってもほとんど気にしなかっただろう。
問題は外部ではなく、自分の不完全さの側にあるのだ。
こうして記事を書きながら、考えていた。もしも私がひとりの人間として、あともう少しだけ心身共にまともな生活を送れていたのならば、今でも変わらず友人たちと近況報告をすることもあったのだろうか。大学を辞める前に何らかの相談をしたり、辞めた後もそれを笑い話にできたりしたのだろうか――と。
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「際限のない劣等感」
人間関係リセットを引き起こす一つ目の要因がこれだ。
生きていると、相手が誰であっても関わりを持つのが苦痛になる時期がある。それは、目の前にいる存在と、自分自身やその置かれている環境を一秒ごとに比べざるをえないような、劣等感に苛まれているとき。何をやっても、どんなに努力しても上手くいかない自分の状況に対して、何もかもが順調に運んでいる周囲の人間たちを横目に見ては吐き気をこらえた。私はどこまでも無能だな、と思っていた。
やがて顕著になった、学びたいこと・実現したいことと大学の授業との間に開いた深い溝。それを最後まで埋められなかったのは、ひとえに自分の努力不足によるもので、成績には問題など無かったが、精神的には落ちこぼれだった。周りの同級生を見渡してみても、似たことで悩んでいる人間は見当たらない。
友人というのは本来お互いが対等な立場にいるべき関係なのに、現地で出逢った人間たちと私の間では、その前提が完全に破綻していたのだ。それは私だけが、他の誰と比べても圧倒的に劣っていたからに他ならない。どう前向きに頑張っても、足掻いても、改善されない現状が目の前にある。
そのうち友人たちと同じ空間に居るだけで気分が悪くなった。普段いろいろなことを話し、相談し、遊びに行くような少なからず親交のある関係なのに――というか、だからこそ、出来損ないの自分は彼らと同じ立場でものを言うのはおこがましいと感じたのだ。最後の方には、もう皆の視界に入り込むのすら申し訳ないと思っていた。
そして紆余曲折、大学中退を決めた私の生活は荒れに荒れ、バッチリと抑うつ状態に陥っていたわけだが、詳しいことは上のような記事でぼやいているので、興味のある方はぜひお時間あるときに読んでいただきたい(そんな方がいらっしゃるのかは分からないが)。
少し立ち止まってみれば、留学中の私の人としてのダメさ――その失敗作としか言いようがない姿は渡航当初から際立っていた。生活の序盤は運よくそれに気付かないまま過ごせていたから良いものの、徐々に自覚的になるにつれ、「今の状態を改善するべきだという意識」と「そうできない現実」との間に軋轢が生じ、最後には全く身動きが取れなくなる。
他人からの支援を受けて、望んでいた勉強に没頭して、それでこの体たらくなら、何も生み出せていない私は速やかに消えた方がいい。そう感じる中で、周囲にいた人間たちは自分と違い、存在に値するだけの正当な理由と価値を持っているように思えた。少なくとも、私の目にはそう映ったのだ。
だんだんと苦しくなってきたので、大学を辞める少し前から、友人たちと交流する頻度は減っていった。
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「誰にも顧みられない惨めさ」
二つ目の要因はこれ。
多くの人間と関わる中で、学業だけではなく日々の生活について思いを馳せたとき、現地にいる私には本当に何も無いのだと改めて思い知らされた。それらを周囲に相談したくても、込み入った話をしようとすると友人と自分の立場の違いが浮き彫りになり、「どうしてそんなことで悩むの?」と一蹴されて、結局は誰とも分かり合えない。まあ、そうなる時点で本当の友達ではなかったのかもしれないが......。
まず、昼間の用事を終えて借りていたフラット(つまり、赤の他人の家だ)の部屋に帰っても、「おかえりなさい」と言ってくれる人間は一人もいなかったのが大分堪えた。始めは何ということも無かったのだが、365日ずっと、悲しい時も辛い時も、誰にも顧みられずに過ごすのはとても虚しい。いくら普段自分のことに集中できるとはいえ、心を許せる人間と1分1秒たりとも接点を持てない状況なんて、全く望んでいないのに。
それが特に顕著に感じられたのは、体調を崩したときだ。一度インフルエンザにかかってしまったときは、高熱と激しい痛みと、肋骨が折れるのではないかと危惧するほどに酷くなる咳で、ほとんど寝床から起き上がれなかった。それでも、必要なものを買いに行ったり食事を用意したりしなければならない。自分を守れるのは自分しかいない。そんな中で、心配して訪ねてくれる人は一人もいなくて。
ふと周りを見ると、体調不良以外でも有事の際は家族や親戚、もしくは近しい人間や恋人が近郊に住んでいて、何らかの方法で助けてくれる――つまり、味方になってくれる存在がいる人間ばかり。私の側には、誰もいなかった。それがとても惨めだった。
たまに友人と会えば相手の口から出てくる、誰かと一緒にコンサートや旅行に行ったとか、地下鉄がテロ疑惑の騒ぎで止まったときに迎えに来てもらったとか、家で誕生日会を開いたとか、自室の壁紙を綺麗なものに張り替えたとか。それらが全て不快だった。至って普通に話題を選んでいるつもりなのだろうが、何の支えも後ろ盾もなく孤独に、他国で、しかも他人の家に間借りして暮らす人間の前で、楽しい思い出を語られるのはうんざりだ。この街では、私に帰る家なんて無いのに。
だから幸せそうな友人たちと関わっていると、際限なく鬱々とした。
ある日、気分転換に料理でもしようかとケーキの材料を台所に出していると、大家に「オーブンが汚れるから生地の膨れるものは焼かないで」と言われたのが駄目押しだった気がする。もちろん、ここは私の家ではないので従うほかない。少しでも元気を出そうと自分なりに行動を起こしたのだが、大きな間違いだったようで、死にたくなった。
こんな風に逃げ場のない状況にいると、明るく楽しそうに笑っている人間が近くに存在しているだけで、本当にしんどい。これに尽きる。現地で友人たちと賑やかに談笑しているとき、私はずっと、心のなかで号泣していた。
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過去の自分と決別する手段
今回の誕生日を機に、留学中にできた友人たちの連絡先を消して、その存在も自分の視界から消したのは、彼らと関わっていると当時の辛い記憶を思い出してしまうからだ。相手は別に悪くない。彼らの存在に付随してくる惨めな思い出と決別したい、私の個人的な問題である。せっかく心機一転、新しく楽しい物事を積み重ねようとしている矢先に、悪意がなくとも冷たい水を差されたくないというだけ。
関わりの痕跡を断つということは、彼らと共に過ごした時間と共に、過去の自分自身をも闇へと葬り去る行為になる。もう二度と昔の可哀そうな自分が蘇らないように。そこから得た学びだけを残して、次は決して誤った行動を繰り返さず、前に進めるように。大学中退後に実家に帰ってきてからは、恵まれた環境と、従来の家族や良き友人たちに囲まれて、本当に充実した日々を過ごすことができている。
何をされたわけでもないのに辛い人間関係というのはあるし、そもそも誰かとの関係を断つのに、立派な理由なんて無くても良いのだと思う。はっきりと言葉にできなくても、心の方が辛いとか嫌だとかを自然に訴えてくるなら、それに従ったほうがその人自身の道理にかなう。
世間一般に不可解だ、もしくは一種の病気だと言われることもある「人間関係リセット行為」だが、それを決意する原因や辿ってきた紆余曲折にこそ目を向けて、自分の心の健康を大切にしたい。