上の写真は夏、真っ盛りのマルタ。私は一体どうして、そんな時期にこの国へと足を運ぶことにしたのだろうか。暖かい場所も海も苦手なのに……。
理由は自分でも皆目分からないけれど、多分、何でもよかったのだ。本当になんでも。
海の綺麗なリゾート地に滞在しながら一度も水遊びはしなかった。滞在中は暑い空気に肺をやられ、水の反射する青には目をやられた。だから、宿に帰って読むためにリュックに詰め込んだ、数冊の本だけが心の拠り所であり安らぎ。
それでも大きな疲労と引き換えにして遭遇できた、数々の史跡や情緒ある街並みはどれも文句なしに素晴らしいものだったと言える。
帰国後の日曜日、ガラガラの通勤電車内で、端の席に縮まりながら静かに目を閉じた。
そうすれば、ゴゾの城塞で時を告げていた軽やかな鐘の音が、今も耳の奥に聴こえるような気がしたから。
参考サイト・書籍:
Visit Malta(マルタ観光情報サイト)
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成田からドバイを経由して
出発前に部屋の引き出しの奥から、最後にいつ使ったのかも定かではない、ユーロ硬貨が一杯に詰まった財布を引っ張り出した。おそらく以前モン・サン=ミシェルへ行ったときの残りだ。
それか、一人あてもなくミュンヘンとベルリンを彷徨った際のものかもしれない。当時の詳細はもう忘れてしまった。
これから訪れるマルタ共和国は、2004年からEUの一員となっており、現在使われている通貨もユーロである。足りない分は空港で両替するつもりで、滞在中の食事代と各施設の入場料、交通費の外に何がいくら必要だろうと考え計算した。あまり思いつくものは無い。
帰国後の職場に持参するお土産、友人達へのお土産、自室に飾る小さな記念品――きっと、その程度で十分なはずだ。
いつものように、搭乗時に預け入れる荷物は特になし。帯同する人間も一人として無し。
なんて、身軽なんだろうか。
エミレーツ航空のCAさんの帽子は本当にお洒落で可愛い。しかし、長時間のフライトには毎度うんざりさせられる。
飛行機自体もそれに乗るのも好きだが、乗り継ぎを含めて片道20時間近い距離となると話は別だ。それ以上なんて以てのほか。お尻が痛くなるし、ろくに眠れないので頭も痛くなる。全乗客の中に発狂する人間が一人もいないのは奇跡だと思えるくらい、とにかくしんどい。
まあ、見たいものが遠方にあるのだから仕方がない、と言われればそれまでで、四の五の言わずに黙って乗るしかない。当然のことながら。
いわゆる「旅好き」な人々の中には、目的地に着くまでの過程まで存分に楽しめるという猛者もいる。
彼らには羨望の眼差しを向けるが、私はきっと、何年経とうともその領域に到達することはできない。そもそも旅行に行く目的が違うのだ。湧き上がる衝動と人生の空虚さをどうにか処理するために、そのためだけに、いつも何処かへ出かけていく自分のような人間とは。
成田空港を出発して、今回の経由地はアラブ首長国連邦の一都市・ドバイ。留学生時代はエティハド航空をよく利用していたので、中東で乗り継ぐ際の空港はアブダビが多く、ドバイ国際空港に降り立つのは初めてだった。窓から俯瞰した埋め立て地パーム・アイランドの人工的な造形にときめきと少しの怖さを感じる。夜景も綺麗。
砂漠を旅する者たちが月や星を見上げるように、私も雲一つない上空から遥かな砂漠を眺め、そこかしこに点在する街の明かりを瞬く星々に見立てた。
マルタ共和国
最終的に降り立ったのは地中海に浮かぶ、本当に小さな島。
イタリア半島がかかとのある長靴(ちょうか)に例えられることは良くあるが、そのつま先で小突かれているのがシチリアで、さほど離れていない場所にあるはずのマルタは、地図上にじっと目を凝らさないと発見できない。
ここは1964年にイギリスから独立した国家であり、国民の9割がローマ・カトリック教徒という、信仰心のあつい人々が住まうところだ。
石器時代の頃には、すでに人類が居住していたとみられる痕跡がある。その後もイスラム帝国、ヴァイキング、聖ヨハネ騎士団と様々な勢力の領土となった過程で、とても興味深い文化を形成してきた。
公用語はマルタ語と英語だが、イタリア語もひろい範囲で通じる。国土を構成する主要な島は三つで、面積の大きい方からマルタ島、ゴゾ島、そしてコミノ島となっている。
到着した夕方、空港から出た途端に迎えてくれるのは青空――と勝手に想像していたのだが、眼前に広がったのは生憎の曇天だった。
この、年間降水量が著しく少ないリゾート地でも、天気が崩れることがあるらしい。ホテルに着いたら周囲を散歩でもしようかと思っていたのに少し興が削がれてしまった。けれど、一向に構わない。私には文庫本という名の、心強い味方がいるのだから。
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宿泊したホテル
お世話になったThe Diplomat Hotelは、首都ヴァレッタから遠くないスリーマ地区にある。
無事にチェックインができた後は部屋へと直行して、さっそく荷解きを始めた。
今回持ち込んだ本は以下の六冊だ。
・ルナール《博物誌》
・サン=テグジュペリ《星の王子さま》
・ボルヘス《幻獣辞典》
・オーウェル《動物農場》
・谷川俊太郎《これが私の優しさです》
・夢野久作《瓶詰の地獄》
中には既読のものも未読のものもある。あまりこだわらずに、ピンときたタイトルを適当に掴んで鞄に入れた結果がこれだった。
ホテルには三泊するから、復路の飛行機とあわせれば、帰国までには全てを読めるだろう。どの作品も素晴らしく、頁をめくるたびに「何かに感動する心を持っていて本当に良かった」という思いがとめどなく湧いてくる。最高としか言いようがない。
異国の片隅で、何にも妨げられず書物に没頭できる、貴重な時間。このために普段働いている、といっても決して過言ではないのでは。
私は、大抵のホテルの部屋に用意されている湯沸かし器と、よく分からない紅茶と珈琲、粉末ミルクや砂糖が並ぶ一角が大好きだ。旅館なら緑茶と急須。
正確には、それらを使って用意した熱すぎる一杯を枕元に用意し、冷めるまでのあいだ(猫舌なのでだいぶ時間を置かないと飲めない)寝台で静かに本を読んだり、瞑想したりする行為が。
それは国内でも国外でも全く同じ。
適切な温度になった、泥水みたいな色のミルクティーを飲み干す。それから疲れを洗い流すように長風呂をした。
長時間フライトが苦手な理由のうちの一つには、途中でお風呂に入れないというものもある。化粧はシートを使って落とせるからまだいいが、全身に貼りつく汗と衣服はどうしようもなく、不快で仕方がなくなってしまう。髪の毛も徐々に油を纏ってぺたんとしてくる始末。
そんな姿で出歩きたくないし、たとえ誰が見ていなかったとしても、自分自身の状態には嫌悪感を覚えるだろう。
一日以上の間をあけてお風呂に入れないことは、怖い。ともあれ、こうして入浴後にすっきりとした気分で床に就けるのだから、今回はいい旅行だ。髪を乾かしてからゴムで束ねる。読書中に、邪魔な髪がパラパラと落ちてくるのが嫌いだから。
眠りにつく直前に気象予報を検索すると、明日は一日を通して晴れると出ていた。それなら青の洞門へ足を運ぶのにはもってこいの天候だと思わず笑みが零れる。
これだけ海には惹かれないと豪語していても、地中海に来てボートの一つくらい乗って帰らなければ、あまりに勿体ない。そう思ったのだ。
翌日、起床してカーテンを開けた。ホテル前の一面に広がる海が、空の色を鮮やかに反射して、ごく薄い霧が地平線を柔らかくぼかしている。手前の街路樹の葉は、日本ではあまり見かけない形をしていた。
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青の洞門(Blue Grotto)
マルタのブルー・グロットは、長い時間をかけ、海水によって石灰岩が削られてできた自然のアーチ。
間近で見るには海岸から船が出ているので、それに乗る必要がある。大人ひとり八ユーロ。ここは最も規模が大きい青の洞門の他にも、小さな洞窟や海水によって形成された面白い形の岩が多く集まっている、一年を通して人気の観光地だ。海より山の方が好きな自分でも、十分に楽しむことができた。
今回は晴れていて海も凪いでいたからよかったが、天候の状況によって船が出なくなる時もままある。その場合は、Panoramaという名のバス停そばにあるスポットから写真を撮ったり、洞門を上から眺めたりして、思い出を残すのが良いのではないだろうか。
この洞門は外からの眺めも圧巻だ。
丘の上から遠くに目を凝らすと、サボテンの向こう側に小さくフィルフラ島が望めた。まるで要塞か、戦艦のように角ばった風体で、60メートルを超える断崖に囲まれている無人島。海軍や空軍の演習の際には目標として用いられていたこともあったそう。
かつては島の洞窟の中に中世の礼拝堂があったものの、残念ながら後の地震によって崩れてしまった。イギリスに住んでいたこともあり、ヨーロッパは地震が少ないという印象を抱きがちだったが、ここイタリア近郊の地域では話は別。
古代都市ポンペイが、ヴェスヴィオ火山の火砕流と灰で滅んだ、と伝えられているのはあまりに有名である。
さて、順番が来たので小型のボートに乗り込んだ。まずは全員がライフジャケットを着用するように指示される。最大九人乗りで結構狭い。
基本的に船頭は安全な運転をしてくれるが、海なので波はあるし、方向転換をする際にはわりと揺れる。カメラやスマートフォンを片手に楽しむ際は、くれぐれも落とさないように注意したい。私はずっとひやひやしていた。
最終的に、船の振動でブレている写真しか残らなかった。
この、水の透明度を見て欲しい。底にある珊瑚礁のようなものがはっきりと透けているのが分かる。そして、滑らかな海面に反射する、宝石のような色。小さい頃によく両親と訪れた沖縄の思い出がふと蘇ってきた。鮮やかすぎて、どこか白昼夢じみている光景だ。
また、岩と水が接している部分に注意を向けると、何か赤黒い苔状のものが付着しているのに気付くことがある。これはシアノバクテリアという、藍藻植物の一種だそう。
言われなければ分からなかった。不思議な色。
ブルー・グロットの高さは最大40メートルを超え、接近して見上げようとすると首が痛くなる。かつては、ここも含めてマルタの島全体が海の中で眠っていたのだから、ただ驚くほかない。
私達の住んでいる場所も、数億か数十億年もすれば海底にあっけなく沈み、アトランティスのような状態になるのかもしれないと思う。後の世に語るものもなく、本当にそこに在ったのかも定かではないような、伝説上の存在に。そうして姿を消した都市がいままで幾つ地上にあったのだろう?
ボートによる洞門周遊の所要時間は、おおよそ20分程度で、想像以上にあっという間。行き返りの道中では爽やかな潮風を感じられる。
ふと視線を向けると、数百年前に設置された見張り台が崖の上で、今でも変わらず私達を見下ろしていた。
参考・青の洞門について:Blue Grotto - Natural Attractions in Malta|Visitmalta
眩い光に満ちた景色にあてられて、少しだけ疲れる。こんなときは切実に古代遺跡の方角へと向かいたくなるもの。
巨人の伝承が語られるマルタの、数多くの謎に満ちた、静謐な石の集積のあるところへ。
マルタ旅行記事その(2)はこちら。