この記事は長崎市旅行(1) の続きになります。
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港は海の玄関。
そして異なる人々や、文化の交差する点でもある。
私の故郷・横浜もこの長崎の地も同じく、舶来の素敵な品々や、異文化に影響を受けた建物を探すのに、これほどうってつけの場所は他にない。
参考サイト:
長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館(公式サイト)
本の万華鏡(国立国会図書館のページ)
あっ!とながさき(長崎市公式観光サイト)
旧香港上海銀行長崎支店記念館
電気軌道を降り、グラバー園に向かって大浦海岸通を歩いていると、左手の側に灰色をした重厚な、金庫じみた風采の建物があるのに気がついた。
入口のある正面は長崎湾に向いていて、他に目立つものは少ない。その横に立つ、ガス灯を模した街灯のある一角だけを切り取れば、辺りは明治の面影を色濃く残す風景に様変わりする。
そこは、むかし香港上海銀行の長崎支店として機能していた場所。
当時は今のように幅の広い道路が無く、すぐ目の前まで海が迫り、小型中型の船が岸辺に寄っていた。
土産物の絵葉書などを見ると、銀行の左右にも和洋の混じった趣深い建造物が存在していたのがわかる。調べると、両脇に建っていたのは外国人向けの「長崎ホテル」と海運業に携る「ウォーカー商会」の建物だったとの記載を発見した。
建築家・下田菊太郎によって設計され、明治37年に完成した香港上海銀行長崎支店は、彼の手掛けた作品の中で現存する唯一のものだ。
正面(ファサード)にあしらわれたアーチや立ち並ぶコリント式の柱の数々が、優美さの中にも、硬質な銀行らしさを醸し出しているように私の眼には映った。
昭和初期に銀行が長崎から撤退した後は警察署や民俗資料館として活用され、市民の要望によって今でもこうして保存されている。
扉を押して内部に足を踏み入れてみると、窓から適度な量の光が降り注ぐ、落ち着いた空間が広がる。少しきしむ床やカウンター、柱に使われた木のしっとりとした艶やかさが魅力的で思わず嘆息した。花の形をした照明も洒落ていて素敵だ。
全体が洋風の内装なのに、不思議なほど和の空気を意識させられるのは一体何故なのだろうか。
ふらりと歩きながら小部屋の隅の暖炉に近付いて、それが火をたたえていないことに一瞬驚くくらい、自分の心は当時の銀行へと引き寄せられてしまっていた。
写真の奥に見える窓の上部が半円形になっていることがわかるが、これを一般に「ファンライト」という。
日本語で言う欄間(らんま)にあたり、枠には硝子が嵌め込まれていることが多い。
国内の洋風建築にあしらわれているファンライトは、ステンドグラスでカラフルに彩られているものや、硝子にあたる部分を漆喰で塗りこめているタイプのものなど多彩なので、意識して探してみるのも面白いと思う。
さて、ピアノやスクリーンが置いてある多目的スペースの一階を抜けて、展示エリアの二階・三階へと立ち入るには300円の入場料が必要になってくる。
料金を支払って先に進むと、これまた素晴らしい階段に迎えられて嬉しくなった。
上階はかつて住居として使われていたらしい。
これほど濃く鮮やかな赤系の絨毯と緑系の壁の色は、ありそうでなかなか遭遇しない組み合わせで、珍しいと感じた。廊下や各部屋に用意された照明の明るさはかなり絞られていて、その薄暗さが洋館の雰囲気を引き立てている。ただし足元にはちょっと注意。
ここでは長崎の近代交流史に関する充実した展示を鑑賞することができるが、なかでも私が興味を持ったのは国際通信、特に電報についてのあれこれ。
貿易の重要な拠点として横浜、長崎、そして上海が船(三菱商会)の定期航路で結ばれた頃、海底には電信ケーブルがひかれ、上海やウラジオストクなどの遠方へといち早く情報を伝達できるようになったのだ。
とはいえ電報は発信から受信までにいくつかのプロセスを経る必要があり、言うまでもなく、スピードに関しては現在の電子メールに遠く及ばない。インターネットがまだ存在しなかった時代のコミュニケーションなど、想像するだけで途方もないと思うし、まるで別世界の出来事のよう。
だからこそ、面白いと思う。
館内には看板や道具などの展示品がいろいろあった。
電報を送信するには、まず杵鑽孔機を使って、文字に対応した形の穴を紙(テープ)に開ける必要がある。さらに、それをモールス信号へと変換したものが検流機を経由して配電盤から発信され、海底ケーブルを通って受信側にメッセージが届くという流れ。
その仕組みからか、電報の機器類はどこかオルゴールに似ている。これは記号を、音ではなく文字として吐き出す一種の楽器なのだ。
送ることのできた文字は基本的にカタカナ。濁点や句読点も一文字として数えられ、それごとに料金は加算されていくため、電報においては簡潔な文体が求められる。
加えて、日付や時間などを最低限の文字で表すために独特の表現が生まれた。一般に電文、と呼ばれているそうだ。書簡の形式を採用した小説は多くあるが、電報の文面で構成された作品は存在するのだろうか?
気になるので、もしもご存知の方がいればコメント等で教えてください。
こうして色々と調べていると、特に要件もないのに、友人や恩師へと電報で何かを送りたくなってくる。
横の部屋の窓から眺めた長崎湾は、本当に美しかった。
建物を設計した下田菊太郎は当時通っていた帝大工科を中退し、やがてアメリカへと渡って現地の建築事務所で働いた後に米国籍まで取得した、当時としてはかなり異色の経歴の持ち主だ。
日本に帰国してからは、意見の相違があった大学の恩師とのしがらみや、帝国ホテルの設計にまつわる一悶着のさなかに放り込まれるなど、なかなか苦労の多い時期を過ごした模様。
それでも彼の提唱した「帝冠併合式」(主に建物の屋根が日本風で、壁などの本体はコンクリートや石、レンガ等を用いた洋風の形式)の考えや建築デザインは、後の世にしっかりと受け継がれている。
記事のはじめの方で書いたように、下田菊太郎の設計した建物を現在見られるのは日本中を探してもここだけだ。ふと足を止めて、建築に並々ならぬ情熱を注ぎ、日米の垣根を越えて活躍した彼の心中に思いを馳せた。
下田菊太郎について:第2章 建築家たちの競演~建築設計競技|国立国会図書館
銀行からほど近い長崎の山手地区は多くの外国人居住者を抱えていたが、そこでの彼らの暮らしを偲ばせる家具も、ここに幾つか移設展示されている。実際に山手の洋館巡りをした際の記事を追々上げていく予定なので、興味のある方はそちらもぜひ。
外国人居住区に滞在した人物の中には、船員として活動していたものも複数いた――香港上海銀行の横に建物を構えた、ウォーカー商会の中心人物ロバート・ネール・ウォーカーもそのうちの一人。
ロバートの兄であるウィルソンは上海航路で運航する船の船長を務めており、それに追随するような形で来日した彼も、三菱の系列会社で勤務するなど当時の長崎の海運事情に精通していた。
ロバートが設立した清涼飲料水の工場で作られたのが、バンザイサイダーというもの。
港という立地を生かして、各国との貿易によって得られた砂糖を利用し、ご当地らしい味の爽やかな飲み物として売り出されたという。ちなみに、日本で最初に大量生産された飲料がこのバンザイサイダーだと言われている。今では復刻版として味が再現されたものが売られているので、長崎を訪れた際は手に取ってみるのも一興ではないだろうか。
ここ香港上海銀行記念館内では、当時使われていたサイダーの瓶を拝むことができた。
右がバンザイサイダーで左が古田商店のもの。
色も綺麗だし、少し肉厚な感じの硝子がたまらない。どことなく不揃いなのも、昔の製品の魅力だと思う。私は古民家を見学する際も、硝子の気泡や波うちをじいっと見てしまうタイプだ。
そして、日本の洋館探索を楽しむときに注意を引かれる場所といえば、何といっても左官の技が光る漆喰の使われた部分。
型に石膏を流し込むのではなく、コテ一本でぐりぐりと模様を描き、見事な装飾を完成させてしまう職人の技術は本当に素晴らしい。そうして形成されたものはそのまま鏝絵(こてえ)と呼ばれる。
彼らは他にも、漆喰に大理石そっくりの模様を施して重厚感を演出するなど、海の向こうからもたらされた諸外国の様式を自国のやり方で再解釈していたが、建築と素材に対する深い造詣と探求心がなければ到底できないことだ。当時の技術者を本当に尊敬する。
下の写真に写っている照明の中心飾りが鏝絵かどうか......は定かでない(し、これは多分違うと思う)のだが、明治期に建てられた洋館にこのような装飾が施されていたら、それはもしかしたら漆喰によって形成された左官職人の作品かもしれない。
洋館巡りの記事は、長崎市旅行(3)へと続きます。