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彷徨する自由帖

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青雲の下で韮山反射炉を仰ぐ:明治日本の産業革命遺産 - 静岡県・伊豆の国市

 

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韮山反射炉

 睦月の伊豆の国市には、お茶の葉の香りが満ちていた。

参考サイト:

伊豆の国市(静岡県伊豆の国市のホームページ)

明治日本の産業革命遺産(産業革命遺産のサイト)

韮山反射炉

 初めて写真を目にしたとき、何とも言えぬ美しい外観に衝撃を受けた四本の塔。正確には四本の煙突――これは今から160年以上前に造られた韮山(にらやま)反射炉のもので、2015年に「明治日本の産業革命遺産」を構成する一つとしてユネスコに登録された、貴重な史跡だ。

 表面を覆う檻のような鉄帯は補強のために設置されているものだが、後付けのそれすらも、反射炉が持つ造形の魅力を大きく引き出しているように感じられる。まるで装身具みたいだと思った。この表現は、決して適切ではないと思うけれど。

 あと、地名に含まれている「韮」という漢字をじいっと眺めていると、地面から二本の反射炉の煙突が立っているように見えて面白い。

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連双二基の煙突

 鉄(大砲)の製造に必要な動力として、河川のある場所が選ばれた結果、敷地の周囲が水と緑の多い立地条件になっているのもまた魅力的だった。今回は、韮山反射炉が辿ってきた道のりについて知ったことを書いておきたい。

  • 建造の経緯

 時は19世紀半ば。刻一刻と不穏に変化する世界情勢の中で、多くの外国船が列島の周辺をうろつくようになり、鎖国中だった日本は大きな決断を迫られていた。すなわち、対外政策の一環として軍備を強化し、有事に備えることを。

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英龍の銅像

 当時、韮山代官を務めていたのは江川太郎左衛門英龍という人物。別の称号・坦庵(たんなん)の名で呼ばれることも多い。彼は天保の大飢饉によって引き起こされた国内の諸問題(一揆、打ちこわしなど)の解決に奔走する際、民衆を慮りながら自らが率先して倹約生活を行ったり、困窮した自治体に低金利で融資を行うなどして、地元の人々に愛されたという。今でも「江川大明神」の言葉が残っていることから、厚い人望が伺えるようだ。

 そんな英龍は国内の諸事のほか、海防政策にも大きな関心を持っていた。彼の管轄には伊豆や相模、駿河の国など太平洋に面した地域があるため、船による外国からの干渉には敏感になる必要があったのだろう。特に、1837年にモリソン号事件が起こったのを受けて、本格的に蘭学者たちと交流を持ちながら西洋の実情や技術への理解を深めていった。

 調べていて面白かったのが、英龍はかつてポルトガルから伝来したが鎖国や禁教によって普及しなかったパンに着目し、積極的に保存食(兵糧)へ取り入れようとした人物として業界では有名だという事実だ。「パン祖」と言われているらしい。当時のパンは保存食というだけあってか、私たちの多くがイメージする柔らかなパンと違い、かなりカチカチで固いものだったそう。閑話休題。

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大砲

 反射炉を建設する必要性が訴えられたのは、それが純度の高い鉄を精製し、西洋式の強力な砲術を戦力に取り入れる際に重要となるからだった。旧式の脆弱な装備では、列強の国々から日本を守ることができないと考えた英龍。外国の脅威に対抗するため、他でもない彼らの知識を研究し、優れた部分を自分たちのものにしようと学ぶ貪欲な姿勢には、見習うべきところが多くある。はじめは保守派の勢力に疎まれ、幕府の対応にも苦労しながら、水面下で計画は進められた。

 ――やがて1853年、黒船に乗ったペリーが浦賀に来航したことで危機感を募らせた幕府は、同年ついに反射炉の公式な建造を命じる。必要な人材や資材を速やかに集め、すぐ作業に取り掛かることができたのは、ひとえに英龍の周到な準備によるものだったといえよう。

 当初は賀茂郡での着工が予定されていた反射炉だが、距離の近い下田港から外国の兵士が敷地に侵入する事件があり、工事は韮山で行われることになった。ここから完成までに長い期間を要したことで、英龍は竣工を待たずして病に倒れてしまう。彼の死後は、息子の英敏が事業を引き継ぎ、反射炉と周辺の施設を稼働できる状態にまで導いた。

 

  • 反射炉内部とその周辺

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投入口

 下の写真左側の穴は鋳物鉄を投入するためのもので、右が石炭用になっている。外からも少しだけ見えるように、稼働時に千度以上の高温となる炉の内部には、賀茂郡で生産される良質な耐火レンガが使われていた。そもそも反射炉という名前は、発生させた熱を内壁やアーチ状の天井に反射・集中させることで、鉄を溶かし精製する工程の特徴を表したものだ。構造として、熱を発生させる部分と鉄を溶かす部分が離れている。

 韮山反射炉は単体ではなく、周囲の小屋など大砲製造のための設備を含めて、大規模な工場のように展開されていた。鉄の溶解から鋳造、そして砲身のくり抜きに完成後の試射まで、外部に委託せず全てを敷地の周辺で完結できるシステムがそこにはあったのだ。詳しい製造の過程や様子は、反射炉に併設されたガイダンスセンターで見ることができる。多くの労働者が周囲に居住し、最盛期の様相はまるでひとつの国のようだった。

 日本国内では他にも複数の反射炉が造られたが、実際に稼働していた当時のままの姿を現在も保っているのは韮山のみ。山口県の萩では、反射炉の煙突部分の遺構だけが残されている。

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準用韮山古川

 周囲を歩いてみると、せせらぎの爽やかな音が聴こえてきた。反射炉のそばを流れるこの川は韮山古川といい、作業工程に必要な動力だった水車を動かすための、重要な動力源だったのだ。工場で働く人間がいなくなってからも変わらず、川は和やかな風景を構成する一部となって、静かに流れていた。世界遺産に登録されているのは反射炉とその周辺、そしてこの河の一部を含めた、3種類のエリアになる。

 天気は良かったが、丘の上から富士山を望めなかったのは残念。茶畑の周囲では葉のいい匂いが漂っていて、ここがお茶の産地であることを改めて感じさせられた。

 稼働を終了してからも幾度かの補修が繰り返されてきた反射炉本体。当時は漆喰により白く輝いていた表面は、今も面影を残しながら、その下の伊豆石の豊かな表情を覗かせている。

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溶けた鉄が出てくる場所

 国防のため、諸外国の知識を惜しみなく取り入れながら学習し、粘り強い研究を続けた過去の偉人たちへ尊敬の念を抱きつつ、背筋を伸ばして佇む四本の煙突の前で風を感じた。浮かんでいた雲は、煙突の先端から流れていく煙のようにも感じられた気がする。

  • 銃剣柵

 また、他にもガイダンスセンター内に面白い展示品があったが、それがこの「銃剣柵」と呼ばれるものだった。

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ロシアの銃でできた柵

 明治41年に二度目の反射炉の補修が行われた際、敷地を守るため周囲に設置された柵。これは日露戦争の際に得た戦利品・ロシア製の小銃から銃床を取り出して、柵のように連結し造られたのだという。国威発揚の意図が込められていたと解説にあったが、確かに敵国の兵士が使っていた武器をこのように転用することで、相手への屈辱を与えつつ、優越感も抱くことができそう。何となくゴールデンカムイを思い出したし、興味深かった。

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 韮山反射炉はJR伊豆長岡駅から徒歩30分、もしくは1日300円の循環バスに乗れば10分ほどで着く。近くには江川太郎左衛門英龍の旧邸宅もあるので、反射炉の建設に貢献した彼の暮らした場所も併せて見学すると楽しい。旧江川邸も反射炉からバスで10分程度と足を運びやすくなっている。

 近代日本の産業革命遺産では、他に旧グラバー邸を訪れているので、それについても長崎市旅行の記事で書こうと思う。そのうち。