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塩田千春展:魂がふるえる | 森美術館 - MORI ART MUSEUM
森美術館「塩田千春展:魂がふるえる」のここに注目|MAGAZINE | 美術手帖
第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館 塩田千春《掌の鍵》
塩田千春展:魂がふるえる
先日、六本木ヒルズの森美術館で開催されていた《塩田千春展:魂がふるえる》へと足を運んだ。これは氏の初となる大規模な個展らしく、平日にもかかわらず、会場には人が集まり賑わっていた。
今回の会期中には並行して、銀座の商業施設 GINZA SIX の吹き抜け空間でも塩田千春のインスタレーションを見ることができる。タイトルは《6つの船》。それは無数に垂れ下がる白い糸を記憶の海に見立て、そこに6隻の黒い船を浮かべた作品だ。形式的に、森美術館の入り口に設置されていた《どこへ向かって》と呼応しているような印象を受けたが、後者は船の色が白色、周囲の糸の色が黒色と逆になっていた。全体の素材の使われ方も少し異なる。
この下をくぐり館内に足を踏み入れると、針の集積のようなブロンズ彫刻と幾つかのドローイングに迎えられた。いずれにも「手」のモチーフが用いられており、それらの外観からは何か壊れやすいものにそっと触れるような、あるいはそれによって鋭く皮膚を突き指されるような、柔らかさと鋭さが薄膜を隔てて存在しているといった印象を受ける。
他にも自己の身体を用いたパフォーマンス映像や写真作品からは、かつて師事していたマリーナ・アブラモヴィッチからの影響がどことなく感じられる気がした。
塩田千春は生や死、存在、または感情など、曖昧でつかみどころのないものを形にしようと長く試みてきた作家だ。個人的な経験が制作の発端となることが多いが、作品を昇華する過程で、そのアイデアは誰もが心に抱いている普遍的な概念へと接続される。彼女は今回の展覧会のオファーを受けた頃に、過去に患っていたがんの再発が発覚しており、準備や製作は常に死の存在と背中合わせの状態で行われていたことがその言葉の端々から伺えた。
2015年の第56回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、日本館にて《掌の鍵》というインスタレーションを展開。そこで登場した船のモチーフは、塩田千春の全作品を通して繰り返し用いられており、今回の個展の序盤でも何度か目にすることになる。
上のインタビューによれば、ヴェネツィア・ビエンナーレの作品における2隻の船の存在・役割は「両の掌(てのひら)」であったのだという。無数に集められた、使い古された鍵に染み込んだ個々の記憶を赤い糸がむすび、船がそれを掬い上げて未来を目指す。また、会場がヴェネチアであることを活かした要素が取り入れられており、船は同都市で伝統的に用いられているものを採用し設置していた。
それを踏まえたうえで森美術館の《不確かな旅》の方に目を向けると、糸の上にたわわに実っていた鍵は姿を消し、木造だった船は黒い針金製のものへと変わっており個数も増えている。初めに展示室に足を踏み入れたとき、私が真っ先に連想したのは毛細血管だった。赤い糸のみの集積が部屋全体を包み込んでいるので、毛糸という素材の持つ質感がいっそう強調されていたように感じられる。一本の糸の表面に、さらに細かく突出している毛羽立ちからはある種の生々しさを感じて、皮膚がぞわぞわした。
周囲を歩き回る人々は赤い霧か、もやのようにも見える糸の集積を隔てて立つと、ぼんやりと姿が霞んで見える。
ビエンナーレでの作品に比べて、より抽象的な形態になった《不確かな旅》。タイトルに表れているように、この船が向かう先にある無数の分岐や、四方を這う糸から連想するものなど、鑑賞者の多様な解釈を促す要素が増えていた気がする。
なかには前述した癌の闘病生活で培われたと思われる、人間の身体や細胞組織への関心が特に伺える作品も複数あった。《再生と消滅》と題された作品群では、ぷくりとして艶やかな赤いガラスの立体や、髪の毛のような黒い繊維で形成された泡のような物体、そしてばらばらの人形の手足がテーブルの上に置かれている。個人的に、異なる要素を持つ小さな物体が集まっているのが好きなので、目に楽しく感じた。今回の展示の見どころである大型インスタレーションとは雰囲気がまた違っており面白い。
付近にあった《外在化された身体》でも、人間の肉体を思わせるブロンズが床に散らばっていた。それらは実際に、塩田千春が自身の手足から型をとり鋳造したのだという。静かに転がる身体のパーツとそれを繋ぐ糸を眺めていると、会場全体を通して繰り返される「魂の在りか」への問いが、否応なしに鑑賞者の脳裏に浮かんでくる。魂というものは何処に宿るのか。人の身体を割りひらき、解体し、ルーペで拡大して覗き見た先にも、その一端が見えるのだろうか。
続く部屋では再び、記憶や不可視のものに焦点を当てたインスタレーションを目にした。一台のピアノと観客席のように配置された椅子。縦横無尽に張り巡らされた黒い糸に包まれた作品は、《静けさの中で》というタイトルを与えられている。
塩田千春が幼い頃に、隣家で起きた火事を目撃した経験から着想を得た――との説明を読んでから目を凝らすと、ピアノのあちらこちらに焼け焦げた跡があるのに気付いた。
はじめは全体に立ち込める糸が「沈黙と音」の表現に見えていたのだが、解説を踏まえると、それは火災によって生まれた「煙」のようにも感じられる。部屋の白色とモチーフの黒色の影響で、古い映画か、色あせた過去の一場面へと迷い込んだ気分にさせられた。
私達の脳の記憶をつかさどる部分に、もしも数匹の蜘蛛が棲みついていたとしたら、彼らはこんな風に糸をかけて様々な事象を塗りつぶしていくのだろう。手で払えばすぐに取り除ける現実の蜘蛛の巣と比べて、心象の糸はより強く硬くて厄介だ。
観客席の向こう側には檻のような四角い立体がひとつ設置されており、白いドレスが内部に囚われていた。この作品《時空の反射》の中で二体のドレスは実在しているものの、一枚の鏡によって檻の対角線で隔てられているので、どちらか一方の側から見るともう一つは必ず虚像になる。そのことに気付いた観客は、否応なしに「見えているはずなのにそこには無い存在」について考えさせられるだろう。
誰も着ていない服が虚空にすうっと立ち上がっている様子からも、人間の不在によって却って浮き彫りになる、ある種の存在感が醸し出されているようだ。深夜に水を飲むため起きて台所へと向かったら、窓を閉め切った部屋でカーテンが大きく揺れていた時のような、少し奇妙な感覚を味わえる。
さて、最後の部屋で展開されていたのは一番大きなインスタレーション作品で、《集積―目的地を求めて》と題されていた。太く赤い紐で上から吊るされた、無数の古いトランクが一直線に並び、奥の方へ行くに従って位置がどんどん高くなっていく。その総数、おおよそ430個。
最も特筆すべきなのは、そのうちの幾つかがゴトゴトと音を立てて振動しているという部分だと思う。誰かがトランクに手を触れているわけではなく、内部に施された何らかの仕掛けによってひとりでに震えているのだ。
こう書くと不気味なようにも思えるが、実際には新しい可能性に期待するような、もしくは前へと一歩踏み出す際のむず痒さのような、一種のときめきを感じられた。
現在ドイツに在住し活動している作者は、ある日ベルリンの蚤の市でスーツケースを見つけ、そこに古い新聞が入っていることに気付いたのだという。蓋を開けた瞬間に遠い過去と現在が錯綜することや、鞄という持ち物から連想させられる旅立ちのイメージに心惹かれたのだろうか。
下の方から見上げたスーツケースは雲や鳥の落とす影か、もしくは身体から抜け出た魂が長い旅路につく際に、地に生きる私達に示す風景のようにも思える。今後の塩田千春の活動を語るうえで欠かせないものになる――と予想される本展は、締めくくりを飾るのにふさわしい作品でその幕が閉じられた。
今回の展示以外にも、彼女の作品が見られる場所が日本に複数ある。そのうちの一つが金沢21世紀美術館だ。収蔵品の中に《記憶の部屋》という、古い窓枠を集めて形成した塔のような立体が含まれている。コレクション展が開催されるときには表に出てくる可能性があるので、興味がある場合は事前に調べておくと良いかもしれない。
以下の記事は同美術館で、屋外(中庭)の恒久展示を鑑賞したときの記録だ。
とても興味深い作品なので、併せておすすめできる。
塩田千春展の会場を抜けた先にはMAMスクリーンという場所で、高田冬彦による映像作品が公開されていた。性やジェンダーに関連するアイデアや表現が多く、そのどれもがユーモアと妙な真面目さに溢れている。普段美術館で映像は鑑賞しない、という方も、試しに数分ほど画面の前に座ってみてほしい。もちろん嗜好に合わないものもあると思うが......。個人的には、とても面白かった。
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六本木ヒルズのスタバ限定メニュー
この森美術館のある六本木エリアのスターバックス、その一部の店舗限定で提供されているメニューがあるのをご存じだろうか?
名前は《ミンティー チョコレート ティー フラペチーノ》で、昨年の春頃からの販売となっている。チョコレートと爽やかなミントが組み合わされた、それらが好きな人には垂涎ものの商品だ。
見た目は殆どチョコレートだが、飲んでみるとしっかりとミントの味がする。また、チョコチップも生クリームも甘さが控えめとなっており、舌触りのいい氷とあわせて夏の暑い時期には特にぴったりな感じ。近くに立ち寄った際には、ついでに手に取ってみるのも良いと思う。
冷たい飲み物を片手に夏のお散歩や美術館巡りを楽しみたい。