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今回はギザに行く手前、二つの王家の埋葬地を訪れた記録になります。
多くの謎に包まれた、古代エジプトのピラミッド郡。
なかでも有名なのはクフ王の大ピラミッドだと思うが、それが聳え立つギザの平原を背にして不思議な生き物・スフィンクスがじっと前を見据えている光景は、今も昔も変わらずエジプトを象徴するものとなっている。
この国に対して抱いているイメージを訪ねれば、きっと多くの人が似たものを想像するだろう。
その際に、1863年に日本から派遣された、遣欧使節団の写真を連想する人は意外といるのではないだろうか。中学や高校の歴史の授業でよく取り上げられる一枚だ。
もちろん彼らは旅行に行ったわけではなく、当時開かれたばかりだった日本の港を再び閉ざし、鎖国をするための交渉に遠方はるばる出かけたわけなのだが――巨大な古代の石像を目の前にして、一体どのようなことを考えたのだろう。それがとても気になる。
言うまでもなく、現代に生きる私達と彼らとでは色々な感覚が異なっていたと思う。それでも途方もなく長い時間ずっと、エジプトを砂塵越しに見守ってきた存在から受ける迫力は、この頃から変わらなかったはずだ。
上の写真(パブリックドメインのものです)を見ると、スフィンクス下部の発掘がさほど進んでいない様子。今のような状態になるまでにはまだ時間がかかりそうだ。
一つどうでもいい話をすると、私はこの付近を歩いている際に、地面から露出したつるつるの石で滑って足をひねった......。
ピラミッドが建てられた目的や用途の全貌は未だ明らかになっていないが、葬祭の風習と深く関わりがあることが多くの調査結果から示唆されている。それを裏付けるのが、主要なピラミッドは全てナイル川の左岸(西側)――つまり太陽の沈む方向、「死者」の領域に存在しているという事実。
古代エジプト人の死生観と太陽は、密接に結びついていた。
今回、ナイル右岸のカイロから足をのばして私が訪れたのはサッカラ、そしてダハシュールという地域。それぞれの場所で、異なる形態のピラミッドと王墓にまつわる建造物、出土品を拝むことができる。加えてギザの訪問記録は次回の記事で。
これら全てを個人で回るのはかなり難しいので、可能ならばカイロ市内から出ている各種バスツアー等への参加がおすすめ。そうすると一応観光警察もついてきてくれるのが嬉しい。ツアーの内容によって入ることのできるピラミッドが異なっているので、自分の目的にあったプランのものを選ぶのが良いと思う。
それでは遥か昔に滅びた王国の、その物語の一端を辿る散策を始めよう。
参考サイト・書籍:
古代エジプト 失われた世界の解読(著・笈川 博一 / 講談社学術文庫)
吉村作治のエジプトピア(吉村教授の公式サイト)
Egyptian Tourism Authority(エジプト観光局のサイト)
Ask Araddin(エジプト旅行情報サイト)
サッカラ
ネクロポリス、という言葉を聞いたことがあるだろうか。
ギリシア語の「死者の都市」に由来する言葉で、古代における大規模な埋葬所を指し、このサッカラや後述するダハシュール、ギザ、他に有名なところではアブシールなどが該当する。
古王国の首都だったメンフィスのネクロポリスは、その一帯がユネスコ世界遺産に登録されている。
特にサッカラは「マスタバ」と呼ばれる形態の墳墓をはじめ、今回訪れた王家の埋葬地の中では、最も古い時代の痕跡を見ることができた場所だった。
余談だが、ここの大地を覆う砂は非常にきめが細かくサラサラしており、ガラス瓶などに詰めるととてもよく映える。
帰国後のお土産に悩んでいる人や、自室を旅先の思い出で飾りたい人は袋を鞄に入れておくと砂を持ち帰ることができるので、採集を検討してみても良いと思う。
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マスタバ(Mastaba)
古代エジプト初期に多く造られた墓は日干しレンガや泥製で、背の低い台形の佇まいから、アラビア語で腰掛けを意味する「マスタバ」と呼ばれる。しかしそれは現在の呼称であって、建てられた当時はエジプト語で「永遠の家」と表現されていた。
人々は死者のミイラを生前の所持品とともに地面の下に埋めて穴をふさぎ、その地上部に建てた石と泥の家に、死後の魂が必要とするものを用意していたらしい。
外観はとてもシンプルで、こんな感じだ。
写真には外につながる扉が映っているが、内部の東側にはさらに、どの空間にも開かれていない「偽扉」がある。これは文字通りに見せかけの扉で、表面にはびっしりと呪文が彫りつけられており、それを読むことで死者の魂が通り抜けたり、残された子孫たちが死者に供物を捧げたりするのに使われた。
ちなみに永代供養の概念がすでに存在しており、神官にお金を払って契約を交わすと、遺族がする墓の管理や必要な儀式を肩代わりしてくれたという。
死後の世界でも生前と同じような営みがなされる――と考えていた古代エジプト人にとって、身体を離れた魂(この場合、バーとカー)が困窮し飢えることがないよう準備をするのは重要な行為だったのだ。
偽扉の他に、マスタバの隅には儀式のための小部屋や、死者の彫像を安置するセルダブという地下室が造られることもあった。
周辺の壁に描かれた絵の大部分では、現代か冥界の生活が表現されている。描写が非常に細かくて見応えがあった。それらの様子は動物や魚を捕ったり、作物を育て収穫したりと、この世と殆ど変わらない。
以前の記事で少しだけウシェブティの存在に触れたが、そうした対策をしない限り、人は死後の世界でも労働をしなければならないことになっていた。
このように充実した墓所の遺構や壁画などを除いて、古代エジプト人の現世の生活の痕跡は、実はほとんど残されていない。それゆえ当時のことを調査するうえでは、多くが埋葬品から得られる情報に頼っているという現状がある。
紡がれた歴史の絨毯は未だ砂の奥深くに埋もれたままだ。
ミイラとして保存されている身体が損なわれたり、冥界での営みに必要な品が損なわれると、永遠であるはずの死後の生も終わりを迎える。完全なる消滅と言い換えてもいい。それを防ぐため、埋葬の際には墓泥棒を侵入させないための工夫がいろいろと設けられていた。
まず、取られた対策は埋葬の穴を深くすること。そして穴の上に建設する機構を花崗岩などの硬い素材で作り、さらに巨大で強固なものにすることだった。
だが、規模を大きくすることで王墓の存在は目立ち、かえって格好の盗掘の的となってしまったらしい。
やがて、地に張り付くような平たいマスタバの形態だった墓は天を目指し、上の方角へと伸びていった。
そうして建造されたのが、次項で紹介する《ジェセル王の階段ピラミッド》だと言われている。
早速見てみよう。
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ジェセル王の階段ピラミッドと複合体(Step Pyramid)
古王国時代、第3王朝最初のファラオ、ジェセル。またの名をネチェリケトとも。セルダムに眠っていた彫像は、今エジプト考古学博物館の一室に収められている。
彼が宰相(であり神官)・イムホテプに造らせたこの階段ピラミッドは単体ではなく、周囲の葬祭殿や神殿、倉庫といった他の建造物と共に、ひとつの複合体を形成していた。マスタバのような煉瓦や土ではなく、石を用いた大規模な建築は、これがエジプトで最初のものだと言われている。
医学にも造詣があったイムホテプは功績をあげたことにより、後の民衆に神として崇められた。
約62メートルの高さのピラミッドの下には、さらに四段のピラミッドと、その下部にマスタバが埋まっている。当初の計画から何度か変更が加えられ、徐々に拡張していったためにこのような形状になったのだそうだ。
階段の形が示すものについては諸説あるが、王冠を体現しているとか、魂が天へ昇るためのものであるなどと推測されている。
当時の建築技術の成熟もさることながら、産出地から石を切り出し、長い距離を船で運び、現場の労働者を統率する行為――それらが滞りなく行われるだけの組織力・経済力を政府が持っていたということを、このピラミッド複合体は私達に示してくれる。
ジェセル王の治世は、首都メンフィスへの集権にうまく成功し、後に古代エジプト黄金期と呼ばれる第四王朝へと流れを繋げる重要な期間だった。
サッカラに到着してから少し歩くとすぐ石の壁が見えてきたが、それと空の色との対比がとても美しかったことを覚えている。また、周辺には絨毯売りやポストカード売りの人が多くいて、石の隙間から突然出て来るのにも驚いた。
葬祭殿の前にいたお茶目なお土産売りの人(顔モザイク済)。
階段ピラミッド複合体のエリアは石灰岩の壁で覆われており、合計14個の扉が設置されているが、現世で実際に使用可能なのはそのうちの一つだけだ。残りは全て、来世のファラオの魂のための存在となっている。
外部と接続しているそこをくぐれば12対の柱が立ち並び、間を通る訪問者は階段ピラミッドを望む南の中庭へと導かれていく。
ジェセルの後にはセケムケトというファラオが、サッカラに階段ピラミッドの建設を試みた。しかしながらこれは未完成で、今は原型をほとんど留めずに野ざらしになっており、埋没ピラミッド(Buried Pyramid)の名でも知られている。
建築を手がけたのが先代と同じイムホテプであるかどうかは分かっていない。完成していれば、ジェセルのものより数メートル高くなっていた可能性がある。
やがて王家の主要な埋葬地が別に移ってからは、サッカラでは大規模な墓の建造があまり行われなくなった。
私が次に足を運んだピラミッドは古王国時代、第5王朝最後のファラオ・ウナスの治世に造られたもので、玄室の壁に刻まれた文書が大きな特徴となっている。
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ウナス王のピラミッド文書(テキスト)
階段ピラミッドのあるエリアの南へ歩を進めると、砂山が見えてきた。
下部にかろうじて表面の滑らかな石の痕跡が残っている。これがウナス王のピラミッドで、しばらく調査のため閉ざされていたが、2016年に再度一般公開された。カメラチケットを買うと中で写真が撮れるようになる。
見学をする際は頭をぶつけないよう、大きくかがむ必要のある場所に注意しよう。
玄室や通路の壁には、エジプト最古の宗教文書といわれる《ピラミッド・テキスト》が一面に彫り込まれている。これは呪文を集めたものであるとされ、ウナス王のピラミッドでは三百を超える呪文が確認されているが、その意味や正確な順序、効果については分かっていないことが非常に多い。
古代エジプト 失われた世界の解読(著・笈川 博一 / 講談社学術文庫)によれば、「食人呪文」とでも形容できる類の奇怪な記述も中にはあるそうだ。
筆者の笈川氏は、ピラミッド・テキストの数々が相互の矛盾に満ちているわけをこのように考えている。
王の威光や集権制度が力を失いつつある中で、ファラオや神官たちはなんとか来世での魂の生活を確保しようと、できるだけ多くの呪文をエジプト各地からかき集めた。その結果、彼らにも理解することが難しい古いものや、それぞれの関連性が薄いものが一堂に会し、混迷を極める文書の集合体が形成されたのではないか......と。
一介の歴史好きとして、それらの謎に心地よく浸ると同時に、今後の調査結果が楽しみだ。ウナス王のピラミッドからは、自然にできた砂の谷を利用した参道があり、石で舗装されている。
ここからもう一つの埋葬地、ダハシュールに向かった。
ダハシュール
バスの車窓から、ナツメヤシやパピルスが生えているのを眺める。
古代エジプトのネクロポリスは交通の便をある程度確保するために、農地と砂漠の境に造られることが多かったようだ。サッカラを出て向かったのは、カイロからおよそ40キロ程度の距離にある土地、ダハシュール。
ここにも王や役人の墓、そして幾つかの代表的なピラミッドが残されている。
道中でツアーガイドさんが説明してくれると思うが、軍関係の施設を撮影することは禁止。ダハシュール付近の砂漠や、その境にもいくつかの建物があるので、撮らないようにしよう。
お手洗いは駐車場から少し離れた場所にある。
今回は、二つのピラミッドを間近で観察することができた。残念ながら予定の関係で内部には入っていない。日中の訪問だったので、現地(5月末)はかなりの暑さだったことをよく覚えている。帽子やスカーフは必須。
砂漠を旅する人が夜明けや夕暮れの時間帯を選ぶということ、そして彼らを導く夜空の月や星が周辺国のシンボルとして多く使われていることに、心の底から納得した。
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屈折ピラミッド(Bent Pyramid)
ギザにある大ピラミッドで有名なクフ王。
その父、古王国時代第4王朝のファラオであるスネフェル(スネフル)が建てたのが、この屈折ピラミッドと呼ばれている特異な形状の建造物だった。また、後述する赤ピラミッドも彼の指示で建てられたものになる。
高さは約101メートルで、そのおよそ半分程度の位置で傾斜を緩やかにしている。内部への入り口は二つ。
表面の石灰岩でできた飾り石がかなりの面積にわたって残っており、かなり保存状態が良い。これはエジプトで発見された90以上の他のピラミッドと比べても突出しているらしい。
側面が屈折している理由については諸説あり、ひとつは、直前に完成していた別のピラミッドが崩壊したために、対策として途中で工法を変更したというもの。もう一つはスネフェルが存命の間に工事を終わらせるため、完成を急いだ結果にこうなったというものだ。
直後に作られた赤ピラミッドが43度の滑らかな角度になっていることから、前者の説が支持されることが多い。
スネフェルは歴代のファラオの中でも、最も多くピラミッドを建造した王のうちのひとり。ダハシュールの他に、メイドゥームやセイラといった土地にも彼の建造物が残されている。
また、屈折ピラミッドの側にある高さ18メートルのピラミッドは、スネフェルの妻ヘテプへレス1世のものだとされているが、詳細は未だ調査中。彼女の墓はギザに存在しており、副葬品の数々がそこから出土している。内臓を入れるカノプス壺の中には、灰となり朽ちた内臓がしっかりと残っていた......というのだから驚きだ。
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赤ピラミッド(Red Pyramid)
最後に「赤ピラミッド」の周辺を歩いた。私は入っていないが、内部は2019年現在、一般の観光客に公開されている。
北に1キロほど離れた所にある上記の屈折ピラミッドとは違い、表面の白い飾り石(石灰岩)がすべて剥がれてしまっているため、光の角度によって赤褐色に見えるというのが名前の由来らしい。素材は花崗岩だ。
最初は普通に茶色だなあ、と思いながら眺めていた。底面の1辺が約220メートルとかなり長く、高さは約105メートルで、方錐形のピラミッドとしては最古のものとなっている。
スネフェル王は屈折ピラミッドを建てたすぐ後に赤ピラミッドを建造しているが、それは一体何故なのだろうか。彼自身も、その息子・クフも、その治世に関する情報はまだ殆ど明らかになっておらず、ピラミッドを通してしか生前の様子を呼び起こせない。
古代エジプト人の現世での生活の痕跡はあまり残されていないため、何かを調べる際は葬祭の風習と遺物を通して過去と対話するような、もしくは口のない死人の話を石の壁越しに聞くような、不思議な気分になってくる。
この砂の下にあとどれほどのものが眠っているのかを考えて、少しだけ怖くなったし、それ以上に胸が高鳴った。
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内容がだいぶ膨らんだので、ギザの平原とピラミッド散策の記録は次回に持ち越すことにました。太陽の船や神話についても少し書きたいと思います。どうぞお付き合いくださいませ。
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