古代文明のロマンと中世以降のイスラーム文化が交差する国、エジプト――。
5月末、私は現地の都市カイロとギザを訪れる機会を得て、嬉々として成田空港から飛行機に乗り込み旅立ったのだった。そもそもイギリスから帰ってきて以来、半年以上の間を開けた国外行きということもあり、気分はとても高揚していた。
当時は抑圧された暗い気持ちでヒースロー空港を出発し、帰路についていたけれど、今回は全く違う。そのことも単純にうれしかったのだと思う。
このエジプト旅行はほとんど衝動的に決めたものだった。そして、その発端となった理由の大部分を占めているのが、高橋和希先生の漫画《遊☆戯☆王》の存在だったということは一応書いておかなければならない気がする。
某所に投稿されていた動画《遊戯vs.遊戯with海馬(まるで実写)》のせいでうっかり読み返し、再熱してしまい、気が付いたときにはもうweb上のツアー予約ボタンをポチっと押してしまっていたのだ。罪深い。
遊戯王は架空の古代エジプト時代の遺物から始まる、ゲーム・バトル漫画の枠を超えた非常にアツい物語なので、皆さんもぜひ原作を読んでみてください。
......閑話休題、ここからエジプト観光の記録を始めます。
参考サイト:
Egyptian Tourism Authority(エジプト観光局のサイト)
Ask Araddin(エジプト旅行情報サイト)
Lonely Planet(ロンリープラネット)
世界史の窓(教材工房 Y-history)
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成田からアブダビ、そしてエジプトの地へ
利用したのはUAEの航空会社、エティハド航空。
ヨーロッパへと行く際はよくアブダビ乗り継ぎでお世話になっているが、今回も同じような経路を辿ることになった。今のところ大きな問題に遭遇したことはなく、機内食の味は普通で、サービスも快い方だと個人的には感じている。
成田空港からアブダビまではおおよそ11時間と長い。乗り継ぎの際にはこんな像が出迎えてくれたので、すかさず下の写真を撮った。
トランジット利用客が多いためか、エティハド航空の飛行機内でも「短時間で訪れることのできるアブダビの見どころ」が紹介されている。いつか市内もゆっくり観光してみたいが、体力が持つ気がしない。
そこから乗り換えをし、カイロまでは4時間。
東京からの全フライトを通して体中(とくに首)が痛くなったので、20代前半にして既に衰えを感じる。周囲にちらほらいる高齢者の方々がおとなしく長時間フライトに耐えられる事実に驚きを隠せない。まあ、私が惰弱すぎるだけなのかもしれないが。
航空機の中で寝ているのも苦手なので、いっそフライトの間は睡眠薬でも飲んで気を失ってしまいたい......それがすごく健康に悪そうな選択肢であっても。
到着前には入国カードを忘れずに受け取り記入を済ませておく。各項目にはアラビア語に英語が併記されているので、特に心配をする必要はない。
加えて、入国審査時に必要なビザを購入するための、アメリカドル$25を手元に用意しておく必要がある。一応到着した場所に銀行はあるが、日本の空港であらかじめ両替しておくと便利だ。
2019年5月の時点で、成田空港にあるいずれの銀行でも現地通貨・エジプトポンドは取り扱われていなかった。エジプトでは大抵の場所でアメリカドルが使えるが、観光地でのカメラチケットや一部の店、チップの種類によってはエジプトポンドでの支払いが必須になることがあるため、調達にはドルか円を現地で両替するか外貨ATMを使用することになる。
私は今回宿泊していたホテル、ラムセスヒルトンの1階にある銀行で円をポンドに替えた。
ラムセスヒルトンのビュッフェ朝食は何も特別ではないけれど、品数が多く、味もわりと良かった。トルコ料理店など中東系のレストランでよく出てくる、焼いたハルーミチーズがここでも食べられるのでおすすめ。しょっぱいけどおいしい。
今回の旅行はラマダーン(イスラム教徒が断食する月)の期間中で、この1か月の間は空港でも街中でもお祭りの飾りをたくさん見ることができるほか、普段よりも静かだという日中の街の様子が楽しめる。
面白いが、お店や観光施設が早くに閉まってしまうので、旅行客はスケジュールを組む際に少し注意が必要。公共の場での飲食も周囲の人々に配慮しよう。
ちなみに、キリスト教徒も断食やそれに近いものを行う場合があるが、あまり知られていない。
復活祭(イースター)に向けたイベントや装飾にはいろいろなものがあり、中世に酪農品の飲食を避けていた風習が卵のモチーフの由来にもなっている、ということを以下の記事の冒頭で書いた。
これはイギリスでの旅行記だが、興味を持った方はついでに読んでみてほしい。
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カイロ(Cairo)という街
アフリカ大陸最大の規模を誇る都市・カイロは現在のエジプトの首都だ。旧市街を含む一部のエリアは「カイロ歴史地区」としてユネスコ世界遺産に登録されている。
その基盤となった歴史は非常に古いが、今のような名称で呼ばれるようになったのはおよそ1000年と少し前、ファーティマ朝の兵士たちがチュニジアからこの土地に侵攻し、新しい都市アル・カーヒラ(カーヒラ: Qahirのヨーロッパ訛りがCairoとなる)が設立された時のこと。
アル・カーヒラは英語で"The Victorious"を指し、すなわち「勝利」を意味していた。
12世紀には十字軍がカイロを襲撃したが、サラーフ・アッ=ディーン(サラディン)率いるムスリムの軍勢の前に敗北した。このことは彼がエジプト全土を掌握するきっかけとなる。
そして来たる13世紀、マムルーク朝の時代に首都がカイロに置かれた後も、オスマン帝国による支配や黒死病(ペスト)の猛威、イギリスの植民地化からの独立など長い道程を経験して、現在も街はこうして佇んでいる。
「エジプトはナイルの賜物」とよく言われるように、この土地に豊かな恵みと災害の双方をもたらしてきたその流れは、遥か昔から今に至るまで変わらず人々の目の前に存在し、カイロの街を縦断していた。
ナイル川はアマゾン川に次ぎ、記録上では世界で2番目に長い河川になる。
今回の旅行では記事の表題に掲げたムハンマド・アリー・モスクのほか、タハリール広場前のエジプト考古学博物館やハンハリーリ市場、マニアル宮殿といったカイロ市内の施設・史跡を観光した。
各種ピラミッドやスフィンクスなど、他の場所はその外部(ギザ・サッカラ)に位置しているので順を追って記載していく。
いままでヨーロッパか米国にばかりいた私はアラブ世界の国を実際に歩くのが初めて、そしてアフリカ大陸上陸も初めて、と初めてづくしの訪問になったわけだが、強い日差しを帽子越しに受けて散策しながら独特の活気を終始感じていた。
特に道路では荒すぎる運転と鳴り響くクラクション(人の横断がすごく危ない)の応酬が繰り広げられており笑ってしまったが、これでもラマダーン期間中で、いつもよりだいぶ閑散としているのだと現地ガイドさんが教えてくれた。
陳腐な言葉でしか語れないけれど、物語の中でしかその姿を知らなかった砂漠の街が、実際に土地で暮らす人々と共に目の前に広がる感動は忘れられない。だから自分はきっと、またここに来るだろう。
あとで訪れたモスクでは、次回もよろしくお願いしますと心の中で唱えて、その門を後にした。
ムハンマド・アリー・モスク
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概要
街を一望できるモカッタムの丘――そこからの眺めは圧巻だ。
頂上を守る城塞(シタデル)の壁の向こう側に、いくつかの尖塔とドームが聳え立っているのが見える。
これがムハンマド・アリー・モスク、壮麗な祈りの場所だった。
シタデルは上でも言及したサラーフ・アッ=ディーンが十字軍を迎撃するために建造した中世のもので、その内部にある各種の建物はほとんどがオスマン帝国の時代、19世紀のものとなっている。
敷地内へ入るためには入場料が必要だが、モスク内部での撮影はカメラチケットなしで可能。手荷物検査もある。女性は肌の露出を控えた服装で行くのに加えて、髪を覆い隠せるものを持っておくと便利だ。1ドルほどで借りられるスカーフも有り。
また、中庭から建物の中へと入る際には靴を脱ぐ必要がある(床に置くのもいけない)が、そのあと靴をずっと手に持っているのが難しい場合はビニールに入れるといい。無い場合は、周辺に物売りの人がいれば買える。
ムハンマド・アリーの名を冠したこのモスクは1830~43年にかけて、同名のエジプト総督によって建造が命じられたものだった。だが工事が完全に終了したのはその9年後、つまり彼の4番目の息子、サイード・パシャが総督だった時代になる。
死後はカイロ市内の別の場所に安置されていたムハンマド・アリーの遺体だが、1857年にこちらの中庭へと移され、今でもカラーラ大理石でできた碑の下で静かに眠っている。
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建築様式や特徴
建物を手掛けたのは建築家のユスフ・ブシュナクであると言われているが、諸説ある。イスタンブールから召集された彼はこのモスクをオスマン帝国の様式、特にスルタン・アフメッド・モスク(通称ブルーモスク)に倣って設計した。
それゆえエジプトで見られる他のものとは少し様子が異なっており、遠くからでも目立つ52mの中央ドームや、天を衝く84mのミナレットが特徴的だ。これら2本のミナレットにはそれぞれにバルコニーが設置されている。
主な建材はライムストーン。加えて、建物の下部を飾るのに使われている白いアラバスターに由来して、アラバスター・モスクと呼ばれることもある。
また、ムハンマド・アリーが19世紀初頭にマムルークの粛清を行ったことはよく知られている。シタデルの内部には中世からの各時代の痕跡が残っているが、彼はモスク建造の際に、マムルーク朝の置き土産を一掃してしまうことも試みていた。
トルコ風の建築にこだわったのもそのためなのだろう。
内部で見られる、釣り下がった幾つもの照明が神秘的な雰囲気を醸し出していた。
ドームの天井を飾るのは6つのメダリオンで、それぞれに神(アラー)と預言者ムハンマド、そしてカリフ(アブル・バクー、オマーン、オスマンとアリ)の名前が記されている。
床にはカーペットが敷かれており、靴さえ脱いでいれば歩くも座って休むも自由だ。そのかわり、鳥の落とし物がところどころに落ちているので、あまり衛生的ではないという部分に注意はしておきたい。
モスクは日々の礼拝の場。とはいえ、ここに来る人間の多くは観光客で、地元の住民にとっては足繁く通うスポットというわけではないようだ。現地ガイドさんが説明してくれるイスラム教の概要を聞きながら、私は数ある照明のうちのひとつをじっと眺めていた。
中庭は地面が艶やかな石で覆われており、靴下で歩くとひんやりしていて気持ちがいい。そばに目立つ時計台があるが、これは1845年にフランス政府からムハンマド・アリーへと送られたもので、かつてテーベにあったオベリスクと引き換えにもたらされたものだった。
ちなみに現在は故障しており動いていない。というよりか、そもそも調子の良かった時がないようだ。本当にそれでいいのだろうか?
シタデルの敷地内には他に軍事博物館をはじめとした3つの博物館と、もう2つのモスクがある。晴れていればギザのピラミッドもここから見えるというが、私が目を凝らしたときは砂煙の向こう側にその姿を隠していた。しかし上からの眺めは壮観で美しい。
出入り口のステンドグラスに見送られてドームの建物から外に出ると、エサ待ちの猫たちがたくさんいた。
じっと観察していると、彼らが仲間同士で接触するとき、驚くほど豊かな表情をしていることに気がつく。集団あるところに社会が形成されるのは、どの種族も変わらないようだ。
今回はここまでにして、残りの旅は次の記事に続きます。
エジプト旅行(2)はこちら:
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余談ですが、日本にいながらピラミッドやスフィンクスなどエジプトの雰囲気(パチものでもいい)に触れたい......と考えている方には、那須塩原にあるこちらのスポット《ピラミッド元氣温泉》がおすすめです。
見た目は少々怪しいですが、安くて快適なお宿でした。ぜひ。