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彷徨する自由帖

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よこはま動物園ズーラシア・空想散歩

 

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どこか世界の終末を連想させる光景

 ※この記事に生きている動物は全然出てきません。

歩いた場所:

よこはま動物園ズーラシア(公式サイト)

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 Marily Oppezzo at TEDxStanford

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 じっと椅子に座っているよりも、散歩などで身体を動かしていた方が新しいアイデアが生まれやすい、という説を耳にする機会が以前よりも多くなった。上のTED Talksで語られている例もそのうちの一つだ。人が創造的なアイデア(ここでは「現実的かつ新奇」であるものと定義される)を生み出そうと試みる際の実験で、ただじっと座っていた被験者とトレッドミル上で歩いていた被験者とでは、結果に大きな違いが観測されたのだという。

 それとは少し本質が異なるが、私自身が何かを「考えること」――もっと言えば「空想すること」――に熱中できるのは、確かに外をのんびり歩いている時だという実感はある。歩いていると、何らかの思い付きやどこかの情景、物語の一部が取り留めもなく溢れ出てくる。無限に。それに身を任せるのがこの上なく楽しいのだ。だが、いつどんな場所であっても同じように空想を満喫できる......というわけではない。

 まず、人間や車の往来を常に意識しなければいけないような、市街地はあまり向かない(時にはあえて人混みの中に身を投じることもある)。近所の公園なども悪くはないのだが、生憎ものの3分で一周できてしまうような小さいものだ。それに多くの子供たちがひっきりなしに遊びに来ているから、ただ考え事をするためだけに長い間ブランコを占領するのは忍びないし、たまに一人で笑っているので怪しい大人の烙印を押されてしまう恐れがある。まだ警察に捕まりたくはない。

 理想的なのは、敷地が広大で、無心に長時間ふらついていても危険に遭遇することが少なく、特に誰にも咎められない場所。贅沢を言うならば、適度に五感を楽しませてくれるものがあればなお良い。思いつく場所はいろいろあるが、自分の普段の行動範囲内に存在しているもののうちに、たまたま動物園があった。

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しましまの尻尾

 ズーラシアという愛称で呼ばれている、横浜市の片隅にある動物園。

 休日は多くの人々で賑わい混みあうので、基本的には平日を選んで足を運ぶことにしている。私はここが好きだが、それは自分にとって、思う存分空想に浸るための環境が整えられているから。ただ無目的に歩く場所を提供してくれるだけでなく、何らかの「起爆剤」として空想に作用するモチーフがそこかしこに散らばり、それらが物事を面白く考える手助けになる時があるからだ。

 園内は、動物が生息している地球上の各地域――北極圏、東南アジア、アフリカなど――に応じて区画が分かれており、檻の周辺や建物などでは現地の特色を取り入れた意匠が採用されている。なので、例えば「亜寒帯の森」エリアでは北方の谷川をイメージした地形の中で、木々や草花、干し鮭(アラスカの名産品)のオブジェだとか、先住民が使う武器や網の模型といった物を目にすることができておもしろい。創作に行き詰ったときは何らかのヒントをそこから得られるかもしれない。

 記憶の中にあるものと目の前にあるもの、それらが互いに呼応したり結びついたりすることによって、空想は捗(はかど)る。そして、地に足をつけて歩を進めている自分の身体と思考する脳は、乖離と合体を繰り返していく。まるで心が自由に旅をするような感覚で。すぐそこに存在するものが不意に別の場所へ移ったかと思えば、代わりにどこか遠くのものが、この場所に顕現する。

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積まれた岩

 

 そうなってくると、たまに事情があって展示が休止されている、空っぽの檻すら自分にとっては意味や物語を持つ。そもそも動物の観察が目的でここへ来ているわけではないので、それらを見られなくても全く残念だとは思わない。柵越しに眺めた風景は、自分が立っている場所とは地続きであるのに全く異なり、彼らの本来の生息地の縮図としてそこにあった。まるで空間の標本みたいに。

 檻の中に姿がないのならば、動物たちは一体どこにいるのだろう? もしかしたら透明になっていて、そこにいるのに私の目に映っていないだけなのかもしれない。あるいはその透明な体躯のまま檻を抜け出して、園内を音もなく彷徨っているのだろうか。本当のところは分からない。周辺の地面にあった水をこぼしたような跡は、きっと色を持たない彼らの血液で、何か物体に触れることで初めて可視化されるのだ。血が流れているということは負傷したのだろうが、仲間内での争いだったのか、それとも他の理由だったのか――。

 目の前にあるものが、何故そのような状態に至ったのかを考えることで生まれる物語に興味がある。

 そうして歩き続け、周囲に人間の姿も見あたらなくなったとき、唐突に自分たちの文明が崩壊した後のことをぼんやりと考えた。数十メートル先、視界の端に幾つかの動物の骸が確認できたので。

 明るい昼間だからいいが、これらが暗い路地裏で突然視界に入ってきたとしたら、きっと恐ろしい思いをするだろう。

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園内の置き物

 彼らは見事に真っ黒だ。原形をとどめたまま、全体が炭のように変化している。特殊な熱線で焼かれでもしたのだろう。触れてみたら、表面は冷たかった。周辺に生い茂っている木々の様子からして、おそらくこの状態になってから相当の時間が経過しているだろうことが伺えた。付近にはトリケラトプスの頭部の骨らしき物体も落ちている。ディストピアの感が強い。恐竜が絶滅した原因については多くの仮説が提示され検証されているが、人間という種が滅びるとすれば、それは一体どんな現象によるものだろうか。

 ただ雰囲気づくりのために配置されているものからでも、それをトリガーにしていろいろな妄想ができる。むかしコッツウォルズ北部の記事(ブロードウェイの項)で「フォリー」について言及したが、それらはその最たるものだ。単なる装飾の置き物は、あたかも複雑な背景を持ち、長い時間の経過を見守ってきたような顔をしてそこに佇む。

 偽装された遺物の存在はあまりにも魅力的なので、考え事をする際には、うっかり別の世界線に足を踏み入れてしまわないように気を付けなければならない。

 さて、動物の置き物があった周辺は「アフリカの熱帯雨林・サバンナ」エリアと「わんぱくの森」へ至る道の分岐点。より多くの動物の様子やアフリカの雰囲気を覗きたければ真っすぐに進むと辿り着く。もしも単純に水辺や緑の中を歩きたければ、右折して森へ進むのが良いだろう。ラクダに乗ったり山羊と触れ合ったりできるのはサバンナエリアなので、それが目当ての人は、動物園の端の方まで向かわなければならない。

 展示や施設を一通り見て回るなら、最低でも3時間程度かかることが想定される。敷地は広大だがお手洗いや飲食店、休憩所は十分に用意されていると感じるので、そこまで身構える必要はないと思う。

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遺跡のような建物

 アマゾンの密林を想定した界隈に建っているインフォメーションセンターは、マヤやアステカの文明を彷彿とさせる佇まい。ここは本当に、動物を見なくても楽しく歩ける、空想するのに便利な動物園だ。

 完全なる余談だが、現在一般的に知られているような形式の(多様な生物についての学びを促進する意図がある)動物園という施設が確立したのは、19世紀の英国・ロンドンでのことだそうだ(参考ページ)。今でも市内の公園、リージェンツ・パークの中にLondon Zooは存在しており営業を続けている。王族や貴族がごく個人的な興味で動物をコレクションし、眺めて楽しむのではなく、より科学的な研究のための施設として近代以降の動物園は誕生した。

 一部の人間の収集品が一般に公開され、市井の人々にも身近な施設へと変化する過程は、美術館やギャラリーなどの歴史を通しても多々見られる。私が現地に留学していた間、ロンドン動物園には終ぞ足を運ぶことが無かった。そこまでの興味はないけれど、こうしてその起源を知ったので、いつか行ってみるのも面白いかもしれない。

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トリケラトプスの骨

 敷地が広大で、動物の生息地ごとにエリアが分けられているので、駆け足で巡る世界旅行のような気分も味わえるズーラシア。少々辺鄙なところにありますが、中山駅や鶴ヶ峰駅、三ツ境駅などからバスが出ています。

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 空想散歩をするのには植物園もおすすめです。