私にとっては二度目の訪問となる愛知県・名古屋市。前回の季節は夏のはじめで、今回は冬のさなかだった。
1泊2日の旅で初日は快晴、帰りは小雨と大きな寒波に見舞われることなく過ごすことができたけれど、おそらくは花粉の飛散によるくしゃみと鼻水に苦しめられたのは不覚だった。これから春にかけて、その量が増えていくのかと思うだけで震えが止まらない――。
午前中に人を待っているあいだ暇だったので、名古屋城の敷地内をふらついていると、「名古屋おもてなし武将隊」と「服部半蔵忍者隊」がパフォーマンスをしているのを見かけた。比較的多くの集客があるように見えたが、人気があるのだろうか。
ちなみに、2019年2月時点では以下のような求人広告も出ており、応募資格の中に「忍者なのに目立ちたい人」とあって思わず笑ってしまった。
名古屋城の天守閣は第二次大戦後にいちど焼け落ちてしまったが、1959年に再建され、今もこうして人々や都市を見守っている。
もしも城が人間のような意識を持っていたとしたら、頭上に広がる空の下で一体何を思うのだろうか。
その誕生地点から、一つの街が変わりゆくのを同じ場所でじっと観察するのは、果たしてどんな気分だろう。
この街には「文化のみち」と呼ばれているエリアがある。
パンフレットの説明によると、その起源は江戸時代に名古屋城東の方へと伸びていた、武家屋敷の多い界隈だったのだそうだ。今回主な散策をしたのは、なかでも町並み保存地区と称されている《白壁・主税・橦木町》の周辺。
大正時代に建てられた邸宅や施設が保護、もしくは復元されて静かに立ち並ぶ、どこかハイカラな雰囲気の一角だ。
私たちは文化のみちの起点にある旧裁判所から歩き始め、そのあとは少し離れた覚王山駅付近にある、聴松閣(庭園)敷地内の「揚輝荘(ようきそう)」へと足を運んでみた。
揚輝荘も文化のみち周辺にある多くの建物と同じく、創建が大正時代の建物で、英国の山荘を模倣しつつ、少しのインド・中国のテイストが加わった風変わりな造りを採用している。
この記事を含めて約3回ほどに分け、名古屋という街を楽しんだ記録を掲載していく予定。
急速な近代化を象徴する明治から大正、そして昭和初期。和洋のものが絶妙な感じに混じり合って存在しているこれらの時代の産物を、のんびりと(時には熱のこもった目で)眺めるのは好きですか?
ぜひ、一緒にお散歩に行きましょう。
参考サイト:
なごや歴まちネット(名古屋の歴史的資産紹介サイト)
名古屋市市政資料館案内(市政資料館についてのページ)
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乃木倉庫
思わず素通りしてしまいそうになったが、出発地点の名古屋城敷地内にも素敵な建築物がひっそりと佇んでいる。
これは明治初期に建てられた乃木倉庫。漆喰で形成された石積み風の角の意匠が特に魅力的で、旧陸軍の火薬庫として使われていた。かの乃木希典が名古屋に赴任していた事にちなんで名付けられたという。
どきどきしてきた。いわゆる邸宅や施設ではなくても、近代の片鱗を感じられる存在があちこちにあるなんて。
早速ここから歩いて、次の目的地である市政資料館へと向かった。
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名古屋市市政資料館
国の重要文化財に指定されているこの資料館は、もともと「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」という長い名前の施設(要するに裁判所のこと)であり、レンガ造りのネオ・バロック様式の建築。
その特徴のうちのひとつには左右の対称性があり、日本に現存する控訴院の建築としては、最古のものである。
名古屋城を訪れた直後にその堂々とした佇まいを目にして、一瞬ここがどこであるのかを忘れそうになってしまった。国内に洋風の建物が多く立ち並び見慣れた現代においてもそう感じるのだから、完成した当時(大正11年)の人々は、この異物をある種の緊張とともに眺めていたのではないだろうか。
ましてや、ここは元裁判所。裁く者も裁かれる立場の者も共に、かつてこの屋根の下に存在していたのだということに思いを馳せた。
他に日本国内にあるこの様式の建物には、有名なものだと東京都の迎賓館、そして北の果てには旧北海道庁本庁舎がある。
後者に関しては、札幌を訪れた時の記事に写真や感想を載せているので、もしも時間があれば覗いてみてほしい。内部では北海道開拓使のあゆみ、樺太・千島列島やアイヌ民族、ロシアとの関係や、彼らとの間で紡がれてきた歴史の一部を知ることができた。
建物自体を見るだけでも楽しいのでおすすめ。
では、名古屋市市政資料館に話を戻そう。
館内への入場は無料で、休みの日以外はだれでも気軽に入ることができる。
まずは美しいステンドグラスを望める正面のホールの方へ向かってもいいのだが、玄関のすぐ左から下へと伸びる階段の横には、「留置場の見学は下へ」という簡素な薄い看板が立っていて......。
こういったものが大好きなので、もう、吸い込まれるように歩を進めてしまった。
公開されているのは独房と雑居房の二種類。廊下の奥には厠があるそうだが、そこまでは立ち入ることができなかった。
訪れた見学者は実際に独房の中に足を踏み入れてみることで、格子が嵌まった窓の位置や天井の高さ、部屋の狭さなどを身をもって知ることになる。かなり強い閉塞感があるが、それはまるで通路のように細長い部屋が、自分の身体を両脇から圧迫してくるかのような印象を与えるからなのだろうか。
ともあれ、この中で夜を明かすようなことはしたくないと切実に願う。
扉にはのぞき穴が付いており、四六時中他人に監視されることから来るストレスも相当なものだろうと予想された。
ところで地下の独房といえば、映画《羊たちの沈黙》の序盤でクラリスが歩いた廊下、囚人に投げ付けられた罵声、そしてレクター博士の底知れない眼差しのことが脳裏にふとよぎる。印象深い場面だ。――閑話休題。
留置所を出てから反対側の脇にある階段を上ると、そこには過去にNHKのドラマ「坂の上の雲」の撮影でも使われた、荘厳な雰囲気の空間が私たちを待っている。
独房があった地下の薄暗い階層とはまるで対照的な、光のあふれている場所だ。
この中央階段室の天井には大きなステンドグラスが嵌め込まれているが、図柄に用いられているモチーフは日輪で「公明正大」を表しており、まさに裁判所にふさわしい意匠となっている。
階段に向かって正面の壁に施されているものの方には天秤が描かれ、こちらは罪と罰の釣り合いを意味しているのだそうだ。制作には高度な技術が使われており、それもまた、この施設を重要文化財に登録させた理由のうちの一つである。
復元された陪審法廷の天井にも黄と青の色硝子が使われていて、こちらも上の二つと同じで、美しいというよりもどこか張り詰めたような空気を周囲に醸し出していた。
市政資料館の名が示すとおり、内部の各部屋では司法全般や法廷に関する展示が行われているので、当時の様子を再現した空間で色々なことを学べる。
例えば明治憲法のもとで行われていた裁判の形式や進行の順序、参加者の種類がダミー人形と共に示されていたり、この旧控訴院施工当時の写真が壁に並べてあったりといった具合だ。
他にも名古屋市全体のあゆみの記録や、大正9年につくられた第一回国税調査の絵ハガキ、記念章も保存・公開されている。世界各国にある、名古屋市と提携を結んだ姉妹都市からの贈り物が展示されているところもあった。
最近では「裁判の傍聴」も一種の趣味(か、それに類するアクティビティ)として認識されるようになってきたかと思うが、興味があってもなかなか足を運びにくいと思っている人は意外といる。かくいう私もそのうちの一人だ。意外と一般に知られていないこととして、傍聴をするのに何か特別な手続きは必要ないということが挙げられる。
よく聞く抽選というのは、傍聴を希望する人数が多かった時のみ行われるものなので、通常であれば当日に現地へ赴くだけでいい。
今度、近隣の裁判所の開廷表を調べてみようかな。
ちなみに、建物の中庭に面した部分の壁に使われているレンガの一部は、かつての名古屋監獄に収容されていた囚人が焼いたものだそうだ。
受刑者の仕事も多様なものである。
私は司法に対して強い関心を持っているわけではないが、ここでのひとときを心から楽しめた。
市政資料館について:名古屋市:市政資料館(公文書館)
ここを出て、東の方角へと真っすぐに歩いていくと、小さな教会が見えてくる。
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カトリック主税町教会
あとから知ったことだが、この町の名の「主税」という文字は「ちから」と読む。
京都市にも同じ表記の町があるが、そちらの読みは「しゅぜい」であるそうで、紛らわしく難しい......。この教会の最寄り駅である地下鉄桜通線の「高岳」も、「たかだけ」ではなく「たかおか」と読む。
他にも「栄生(さこ)」など、難読とは言わないまでもひっかけのような地名が名古屋には多かった。
カトリック主税町教会は、もともとは士族の武家屋敷を聖堂に改造したもので、フランス出身のツルペン(テュルパン)神父と日本人医師・井上秀斎によって明治20年に建てられた。
その後ろにあるのはけやきの大木で、横の鐘楼が作られたのはその3年後のこと。この二人は主に名古屋や岐阜の界隈でキリスト教の布教を行っており、この教会も彼らにとって重要な意味をもっていたのだろうことが伺える。
この日は人もおらず、周囲は静寂に包まれていた。
桟瓦葺きの屋根と白く塗られた壁、丸窓が、和洋の入り混じった印象を作り出している。その佇まいからは木の暖かさも感じられた。ちなみに鐘楼の上に設置されている鐘は、1890年にフランスのマルセイユで鋳造され日本にもたらされたものだそうだ。
その後、建物が現在みられるような形へと一歩近づいたのは明治37年で、ツルペン神父の後任により礼拝堂の建設が行われた時のことだった。
加えて伊勢湾台風の影響を受けたことで、聖堂の両側で増築がなされた結果、建物は三廊式となる。入口も新しくつくられ、優美なアーチが生まれた。
鐘楼と司祭館の横を通り抜け、裏へと回るとそこでは「ルルドのマリア像」が私たちを待っていた。
ルルドとは、フランス・ピレネー山脈のふもとに存在する村の名である。かつてその場所にある小さな洞窟で、ベルナデッタという少女が聖母マリアを目撃したことに由来し、各地にそれを模したオブジェが作られるようになったのだ。
名古屋にあるこのルルドは、国内では長崎県五島にあるものに次いで大きなものとなっている。
伝承によれば、ベルナデッタがはじめに洞窟で若い女性を見かけた後、継続してそこに通い続けているとある日「ここを掘るように」と告げられたという。
言われたとおりにすると水が滾々と沸き出てくるので、人々が集まりそれを飲むようになった。そして、水を持ち帰ったとある眼病患者が目を水につけると、瞬く間に視力を取り戻していったそうだ――。
これをきっかけにして修道院の門をくぐったベルナデッタは短い生涯の全てを神へと捧げ、1933年にカトリックの聖人へと列されることになる。
そのような物語を背景に、主税町のルルドは富士山の溶岩を用いて精巧に造られた。この複製された聖なる場所には、遠い異国へと足を運ばずとも祈りが聞きとげられるようにと願い、信仰を守る人々の想いが漂っている。
欧州に留学していたころもその前も、このキリスト教というものに対する私の関心は高かった。それは信仰するという方向の関心ではなく、信仰を持つ人々の想いと、それを取り巻く環境について抱いていたある種の感情だ。
この背景には遠藤周作とその著作が常にある。彼は日本の潜伏キリシタンの歴史を調べる中で「迫害に耐え信仰を貫き通した殉教者」と「拷問や死の恐怖に屈した弱者」を対比し、弱者の側へと自分を投影していた。
小説《沈黙》で描かれるキチジローの姿が例として挙げられる。
この後、奇しくも2月の末に長崎へと足を運ぶ機会を得たので、彼の紀行文《切支丹の里》をポケットに突っ込んで出発した。
その時の記録は以下に。
教会について:カトリック主税町教会 | Unseen Japan
ところで、上記とはあまり関係のないことだが、今回の旅行中に大須の商店街でこんなものを買った。
わりと気に入っている。
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名鉄百貨店のキハチカフェ(KIHACHI CAFE)
名古屋には美味しいものが沢山ある。なかでも喫茶店のモーニングや、午後のおやつとして親しまれている「小倉あんトースト」は代表的なメニュー。
その起源は大正時代に遡るという優しい味が、私は大好きだ。珈琲にも紅茶にもよく合う。
今回の旅行中には有名なキハチが経営するカフェの本店、名鉄百貨店の4階にて、手の込んだ至福の小倉あんトーストを味わうことができた。まずはこの写真を見て欲しい。
表面は香ばしく、内側は柔らかくなるよう焼かれたパンの上には、謎の白い布団が敷かれている。これはマスカルポーネチーズだそうで、あんと食べるのは初めての組み合わせだったが風味がよく合っていた。
無限に食べられそう。太る。
さらに、その上から振りかけられている抹茶パウダーが彩りと僅かな苦みを添えていて、最高だった。また名古屋駅に立ち寄った際には絶対に寄りたい場所。
エビのサンドイッチとジャスミンティーもおすすめ。
記事は②につづきます。