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彷徨する自由帖

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イギリス留学と私生活の転機:他人のお金で大学に行くのはやめる

 

  • 概要

 確かに、幼少期からある種の「生きづらさ」はずっと抱えていた。それでも人生の中で、自分が精神疾患と名の付くものの当事者になるとは全く思いもしなかった。

 経済的な自立をしていないことから引き起こされた抑うつと、気分障害の著しい悪化にともない体調も大きく崩したため、私は留学先のイギリスから帰国することを決めました。

 自分の置かれている状況や精神的な状態に関して、これならまだ大丈夫だ、と思っている人ほど危険な傾向にあると思います。私は二年間ほど精神と身体の不調に目を瞑り続け、簡単に甘えてはならないと自分を叱咤し続けた結果、見事にぶっ壊れました。状況は人によって様々ですが、もしも何かがおかしいと少しでも感じているのなら、ためらわずに専門家の意見を聞きに行くようにしてください。

 自分の心は一度壊れてしまったけれど、それでも時間をかけて、前に進むことを決めることができました。それから、知らず知らずのうちに自分に悪影響を与え続けていた要素や人間と縁を切ったことで、生活の質が大幅に向上しました。苦しい状況の中にいる時は気付けないことが多いけれど、周囲の人間のうち、本当に必要な存在だけを見極めることが本当に重要なのだと学べたので、案外良かったのかもしれない。

 それでは以下、記録です。

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留学先のチェルシー・カレッジ・オブ・アーツ

 在籍していた美大についてはこちらの記事をどうぞ。

  • 精神と体調がおしまいになりました

 大学で、次年度への進級に必要な単位をすべて取得し、夏季休暇を過ごす目的でイギリスから日本へと一時帰国をした。

 今年は、底の見えない沼の真ん中で、泥を飲みながら溺れかけていた去年の夏とは違い(今思えば本当にひどい状態だった)晴れやかな気分でいた。あの頃はどこにいても、寝ても覚めても涙が止まらなかった。もうあれほど辛い思いをすることにはならない。いや、そうならないように努力したのだ。

 この1年間で自分は考え、行動し、昨年と比べて見違えるくらいに成長した。過去からの反省があり、未来への展望もある。だから大丈夫だと信じていたし、そう信じたかった。心の底から。その虚勢がやがて真実に変わるまで、たとえその歩みは遅くとも、足を動かすことはやめないと誓った。

 が、現実は真逆だった。自分を応援し支えてくれている人達の前で、これ以上何かをする気力が残っていないし、何もしたくないのだと、私は泣きながら途切れ途切れに訴えることとなった。

 こうして文字にしてしまえば、その表面はあまりに平坦なもの。随分と甘えた台詞だと思う。少なくとも、身勝手な生き方をわざわざ支援してくれている人達の前でおいそれと口にしていい言葉ではない。細かい内容は置いておくとしても、この自分の立場では、弱音を吐くことがまず許されない。そもそもイギリスへと渡ること、そこで暮らし学ぶこと、そして必ず新しい知見を得て帰ってくることは私自身が自分の意思で決めたことだ。誰にも強制などされていない。

 望んでいた環境で望んでいたことに取り組んでいるのに、それを途中でやめたいと口にするなんて、馬鹿げている。

 今の私は世界の中で一番愚かで、一切の力を持たない、人間以下の何かだった。そう感じた。

 本当に情けなく、ただ自分自身を強く恥じた。私に悲しむ資格はないのだ。休む資格もない。なぜならば、他人のお金で教育を受けているからである。それなのに、まるで当然のような顔をして「今まで頑張ってきた人間」を演じている。つねづね傲慢だとは思っていたけれど、自分がここまで厚顔無恥な人間だとは知らなかった。

 そもそも私はこの状態に至るまでに、火を見るよりも明らかだったひとつの事実に蓋をして、存在していないとでも言いたげに、そこから長いあいだ目を反らし続けてきていたことに気が付いてしまった。

 その事実とは、私自身の心はもう、取り返しのつかないほどに壊れてしまっていたのだということである。

 例えば機械が正常に作動しなくなった場合、それは壊れている状態である、ということができる。けれど、私にはそれが「作動しているかのように巧く見せかけること」が必要だった。自分が生きていくうえで最低限の、人の形を保っておくために。ずっと、その気になればいつでも回復できるのだということを示すために、恐ろしい影をどうにかやり過ごした(ふりをした)後はいつでも「もうこの山は乗り越えることができたから、大丈夫」と周囲にいた人間に告げるようにしていた。

 そんなものは全て大嘘だった。

 最後の最後には感情の偽装すらもできなくなっていたけれど、そこに至ってしまった原因はもともと燻っていたものに加えて、立て続けに起こったあらゆる物事のタイミングが悪すぎたからなのかもしれない。けれど、もう分からない。今の私には何も。

 周囲の強い勧めで、夏の終わりまでに心療内科か精神科の扉を叩くことを決めた。

追記:

そこから熟慮を重ねた末に退学という決断をし、現在は日本で仕事をしている。

  • 崩壊の原因と兆候

 自分がこうなってしまった原因は一体何なのか、その理由を考察する必要があった。

 火の無いところに煙は立たないというけど、事の発端と呼べるようなものが存在していたかどうかは分からないし、はっきりと「これだ」と言えるようなことがはない。でもここ数年間に起こった出来事や、それに対する心の動きを冷静に眺めてみると、確かにある種の「段階」が存在していた。

 これは私の実感として言えることだが、人間の心が何らかの一撃のみによってぽきりと折れてしまうような場合は意外と少ない。それが決定的な一打になっていたのだとしても、以前にそれを受け止める心の土台を静かに蝕んでいた、いくつかの要素があるはずなのだ。

 数年前の私は決してこんな感じではなかった。それはきちんと思い出すことができる。好きな美術を学ぶために渡英という選択肢を得て、いつでも好奇心と希望に満ち溢れて街を歩いていた。

 当時、私も書籍やウェブサイトを見たり、先輩に話を聞いたりして先人たちの軌跡や基本的な情報、注意事項や助言をたくさん調べていた。散見されたのは、「留学先で鬱になってしまったら」「鬱っぽい症状の対処法」といった話題、そして、見ず知らずの誰かが吐露していた「留学がつらいです」などの書き込みである。

 強制的に飛ばされたならまだしも、自分の意志で留学しておいて、この人たちは一体どうしてそんなことを言い出すようになったのだろうか?  と、私は心から疑問だった。そんな虚弱な精神で、自分の立てた目標に向かって淡々と歩いていけない人間は国外で学ぶのに向いていないのでは、とすら考えていて、そういった悩みを軽蔑していた。

 私は全く信じていなかったのだ。酷使し続けた人の心にはいつか限界が来るのだということを。

 理想とする人間像があった。何かをするときは常にそれを見据え、基準にして行動していた。生きて「なりたい」と強く思えるものがあったことを喜び、そのために努力すると自分自身に誓い、できなければ死んだ方がましだと思っていたのだ。私にとってそれは幸福だった。理想に一歩一歩近付くことこそが至上の喜びだった。

 現実が自分の理想から遠く離れたものになってしまうたび、私は自分自身の存在を否定した。目標の達成に邁進できないような脆弱な人間はいらない。理想を追い求めたうえで、それを体現できない自分には存在価値がない、という一心でずっと歩き続けてきた。これが、間接的に留学中の鬱を加速させた原因のうちの一つでもあると私は思っている。

 加えて、周囲の人間から受けた支援は常に「罪悪感」の名を借りて心の隅にあった。忘れたことなんて一時たりとも無かった。自分があらゆる人間の助けを借りることができたからこそ、留学という進路を選ぶことができたのだということ。感謝していた。同時に、本当に申し訳ないことをしているとも理解していた。

 私は、資金援助を受けなければ渡航自体が叶わなかったのにその事実を忘れて、全ては自分の努力の結果だ――と息巻く人間がこの世界で一番嫌いだった。

 全面的な資金援助を受けている留学生である私はいうなれば罪人、犯罪者であるといってもあながち間違いではないと常に自分に言い聞かせた。他人の金で好きに生きている罪人。こうして泳がせてもらっているのは仮釈放のようなもので、だからこそ支援者を納得させられるだけの成果を遠くないうちに出さなければならない。どうにかして。

 けれど、どうやって?

 私が目指していたのは、いわゆる世間一般の価値基準で測れる肩書きやお金を手に入れることではなく、人生を通して物語を紡ぐことだった。それに、成果という言葉と美術という科目は非常に相性が悪い。価値とは何かを考える学問のうちの一つだからだ。

 この世界を通して、留学前も留学後も、面白い発見をたくさんした。小さくても、人々を惹きつける魅力を持つものを創った。私はそうして学問を続けたかったのだ。学問をすること自体を愛していた。よくある、就職をしたくないから勉強したい、などの生半可な覚悟でその科目に関わっているわけではなかった。

 そしてそのどれもが、私自身と私の行動、双方の価値を示すには至らず、「それで結局あなたは何ができるの?」と問われ続けた。私は私に価値を感じていたけれど、同じようにその価値を認めてくれるものは何もなかったし、誰もいなかった。心の中で、支援してくれている人たちにずっと謝り続けた。力不足でごめんなさい。やがてそれらが積み重なり、生きていてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、に少しずつ変わっていった。限界だった。

 それに加えて、未来・将来への不安や絶望というものが、自分の心を大きく占めていた。かつては希望や夢で満ちていたそれらの部屋は、今では真っ黒だ。心の底から疲れたと思う。ずっと長い間先を見据え、今よりももっと前へと進もうと努力してきた。

 もちろん誰だって悩んでいると思う。けれどこの場合は、将来への不安が自分自身の存在の否定に繋がっている点で深刻だった。学問への愛だけでは食べていけないし、積もった負債も返すことができない。社会のお荷物で、生きていても仕方がない、消えた方がいいと思った。

 ざっと挙げてみただけだが、これらの要素が、私に発現した症状の直接または間接的な原因となっているのだろうと自分では予想している。ここから医療関係者の見解を聞いて、また改めて考えようと思う。

 

  • 症状いろいろ

 とりあえず自己診断してみたが、本格的にイギリスでの生活を始めてから今まで、自分に発現するようになった症状には躁鬱――すなわち双極性障害のなかでもⅡ型に分類されるものが多かった。常に下降と上昇を繰り返す気分は留まることを知らず、どんどん短くなっていくその周期におびえた。一番ひどい時期は1日を置かずに歓喜と絶望が流れ込んできて、徐々に気が狂いそうになっていった。

 躁と鬱の割合は圧倒的に鬱の方が高く期間も長かったが、根拠のない自信と高揚感に包まれる躁の時期には、ひどく活動的になる。しかしながらその期間中も常に焦燥感に苛まれており、決して幸福というものを感じられることは無かった。

 これは周囲の環境や状況だけではなく、私自身の性格や持ち合わせた罪悪感が相乗的に引き起こしたものなのだということが、時系列順に見ていくと分かる。

 2016年の秋、渡航直前に少しばかりうまくいかないことがあって周りに迷惑をかけた。それに際して確認されたのは単なる気分の落ち込みと無力感だったが、それが普通のものとは違うと気付いたのは、不自然に何日も続く憂鬱と、何もないのに突然泣き出すなどの奇妙な現象が自分の身に現れたから。

 やがてそれは治まり、私は明るく意欲的な人間へと戻った。また何かが起き自分の無力さを実感するたび、時が経つにつれて重くなっていく症状は、精神だけではなく身体にもじわじわと影響を始めた。記憶に障害が現れ始めた。大切な物や行事を忘れるようになり、学生生活に支障が出るようにもなった。大学構内で何故かパスポートを紛失した。次の年の夏季休暇になるころには、何事かを小声でぶつぶつ呟かなければ、買い物をしたりロンドンの街へ出ていったりすることすらできなくなっていた。今思い返しても、相当「キている」状態というほかない。絶対にどこかがおかしかった。自分が怖かった。

 他にも顕著だった症状といえば、覚醒状態にあるのに寝床から動くことのできない時によく幻視する、「歩き回る複数の自分の姿」であったと思う。自分の意識だけが起き上がって活動を始め、その人数はみるみるうちに何十人にも膨れ上がっていく。それらをさんざん見せられた後に、ようやく本当に実体を持った自分自身の身体が動くようになる。

 2017年の夏。成績には何の問題もなく1年目を修了したが、入学時に思い描いていた「1年後の理想の自分の姿」からは程遠いものだった。もっと、数えきれないほどいろいろなことに取り組んで成果を出すことができると思っていたからだ。実際には価値あることをたくさんしていたのに、自分の成した全てのことがつまらないことのように思えた。自己の存在をただ恥じた。寝ている時だけ心が安らいだ。

 そもそも寝ているのだからそれは無意識状態であり、正確には安らいでなどいない。眠りは小さな死であるというが、私は当時それだけを求める機械のようになっていた。一時帰国時に大好きな旅行に出かけても、チェックアウトぎりぎりの時刻までホテルの部屋にこもって眠り、涙を流しながら目覚め、その後もしばらくの間泣き続けた。社会のゴミ。他人の金で生きているのにもかかわらず、目に見える形で成果を出すことのできない最底辺のクズ。そんなことは分かっていた。食べ物を食べるのも何かを飲むのも申し訳ない。私にそんな資格はない。

 その年は、秋にイギリスへ戻る前に両親へと苦しみの一部を打ち明け、死ぬまで無理をしなくてもいいのだという言葉を贈ってもらい、今年はそれを踏まえたうえで活動していた。落ち込んで酷く惨めな思いをすることや相変わらずの躁鬱に苛まれることの方が多かったが、受け入れてくれる人がいるのだから頑張れる、という前向きなプレッシャーとともに大部分の日々を過ごせていたと思うのだ。少なくとも決して悪くはなかった。

 それでも、昔のように「楽しい」といったような感情を抱くことと、心から笑顔になる感覚を思い出すことはできずにいた。この、「あの頃ひどかった精神状態も少しは良くなっているんだから大丈夫だろう」という思い込みが、たぶん、最大の落とし穴だった。

追記:

後から思い出した症状の一部

 2018年の春。知り合いと一緒にロンドンの日本食料理店へと足を運んだ。この日は確かにひどく取り乱していたし、人生において一つのトラウマとなってしまった出来事のせいでひどく苦しい思いをしていた。けれど、それが自分の味覚にまで影響することがあるとは少しも予測していなかったのだ。

 料理を口に運んだ瞬間、反射的に「まずい」と感じた。それはどう考えてもおかしい。今までいつ来てもおいしく食べられていた品物の味が、店側によって急に変えられたとは考えにくいからだ。たまたまその時は調理の際に何かがうまくいかなかったのかもしれないけれど。とにかくまずかった。正確には、私の側が全く「おいしい」という感覚を持つことができなかった。味覚が死滅していたわけではない。塩気があるとか、甘いとか、酸味があるとか、そういったことは確かに認識できていた。うまく言えないが、それらの味が自分の中で、咀嚼の際に組み合わさって何らかの形(料理の味)を形成することが無い。そう感じた。

 しばらくするとその傾向は薄れたが、これも何らかの関係がある事象だと思っている。

  • 大学を辞めて、きちんと働き始めました

 2018年、つまりは大学1年目を無事に修了した今年の夏、全てが崩れた。自分でも何が起こったのか把握するのは難しかった。昨日までは認識できていたことができず、寝床から起き上がれず、説明のしがたい恐ろしいことが自分の身に起こっていることだけが分かる。

 奇妙なことに、やがてすぐに食事をとったり出歩いたりできるようになったが、そこから立て続けに起こった最悪な出来事をきっかけにして、全てのブロックが軽やかな音を立てて崩れていった。そして記事の冒頭に書いたように、今回は今まで感じ、考えていたことの全てを、泣きながら両親の前で打ち明けることになったわけだ。

 私は自分に現れていた症状を自覚していたのにも関わらず、それらが少し快方に向かったことで完全に油断をし、根本的な原因の解決をずっと避けていた。確かに、時間とともに治癒していくものもある。けれどそうではないものも必ずあるのだ。今年に至ってようやく、些細なことだと嘯き、無視していた「留学中の心の動き」のほとんどを両親に話した。私が取るに足らないことだと思い込んでいたことは、取るに足らないことでは決してなかった。

 英国の大学への進学は特に資金面で厳しく、通常簡単に選べるような選択肢ではないため、どうしてもわかりやすい結果を残さなければいけないという思いだけが独り歩きして強くなる。けれど、自分が本来その学問をしたいと思った理由は何なのか、これからどのような自分になりたいのか、そしてその姿に着実に近付いているか――それらを定期的に見つめなおし、原因をはっきりさせることのできる苦痛は取り除くこと。

 また、支援してくれている人がいても自費で留学をしていても、しっかりと目的意識をもって用いていれば、一つでも何か得たものがあるのであれば、そのために払った金額は決して無駄などではないのだということをしっかりと心に留めておくことが本当に大切だった。

 これから私は心療内科か精神科の扉を叩きに行く。放っておいても問題はないと思い込んでいたことに正面から向き合い、本格的に治療を始めたり、新たな活動を始めたりする予定だ。

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 その後、きちんと働くようになって、改めて思う。大学には他人のお金で行くものではないと。

追記:

病院で診断してもらった結果をもとに症状をまとめてみました。

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