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彷徨する自由帖

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ストラトフォード=アポン=エイヴォン周辺で過ごす週末

 

 

 

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シェイクスピアの生家

”内の夫婦は御祭中田舎の妻君の里へ旅行した。田中君は「シェクスピヤ」の旧跡を探るというので「ストラトフォドオンアヴォン」と云う長い名の所へ行かれた。跡は妻君の妹と下女のペンと吾輩と三人である。”

 

「倫敦消息」著:夏目漱石より

 全文はこちら。パブリックドメイン:「倫敦消息」|青空文庫

 

 上の文章にある「御祭」は、キリスト教における復活祭・イースターのことだ。春の行事。

 私がこうしている間にも4月は音もなく近付いているはずなのに、記事を書こうと思い立った日の先週末もその前の週末も、ロンドンでは決して少なくないの雪が降っていた。

 

 3月の上旬に訪れたのは、イングランド中部に位置するストラトフォード=アポン=エイヴォンという街。

 ウォリックシャーに所属しており、コッツウォルズ北端より少し北、バーミンガムから南に40キロほど離れた場所にある。古い建物が多く残り訪問客に風光明媚な印象を与えるところで、エイヴォン川がその中心部を斜に流れていた。

 ロンドンから電車で訪れる場合は、乗り換えのある場合も含めておおよそ2時間ほどを要する。

 私はこの地で一泊した後にその隣村へ行き、コッツウォルズのモートン=イン=マーシュにも立ち寄った他、チッピング・ノートンも含めたいくつかの町や村を横目に見ながら帰路についた。

 

主な参考サイト:

Visit Stratford-upon-Avon.co.uk(観光情報サイト)

Our Warwickshire(ウォリックシャーの歴史と写真のサイト)

British History Online(英国の歴史に関する情報ライブラリー)

 

 

  • 土地の歴史など

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 この街に関する事柄をあれこれと調べていた時、ある記事を見つけた。

 それは、新石器時代のものとみられる斧の刃の部分が、ティディントン(ストラトフォード=アポン=エイヴォンのはずれ)にある耕地で発見されたというものだった。

 

 

 写真を見ると、もしもこれを道端で見つけたのが私だったら、その価値には気付けなかっただろうと思う。何も知らない人間にとっては丸みを帯びた文字通りの石なのだ。

 発見者であるピートさんは歴史や考古学に興味を持っておられる方だそうで、石を見たときには「普段この辺りで見かけるような石とは明らかに違う」と直感したのだという。

 斧の分析を行ったウォリックシャー博物館によると、これは紀元前2500~4000年、今からおおよそ6000年前のものであるらしい。この時代は特に貿易が盛んになり始めた時期であり、それに際して輸入された斧が耕地開拓のための伐採に使われていたと考えられるとの説明があった。

 現在のこの土地の名前(Stratford-Upon-Avon)はサクソン人の入植とともにもたらされたと一般に言われている。

 余談だが、Stratfordにも含まれている "Ford" という語は、歩いて渡れるような深さの水辺・浅瀬のことを指すということを以前に調べたのを思い出した。

 

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 川沿いを歩きながら、過去の文明の多くは常に恵みと災害をもたらす大河のそばで発展してきたことを考えていた。

 写真の右手に見えるのはホーリー・トリニティ・チャーチだ。

 13世紀の初頭から建造が始まり、この街のなかでは最も古く、またイングランドの中で最も多くの訪問客を集めている教会でもある。かつては木造であったという記録があって、18世紀ごろに現在のような状態に整えられたそう。

 

ホーリー・トリニティ・チャーチ:Holy Trinity, Stratford-upon-Avon

 

 ストラトフォード=アポン=エイヴォンは主にシェイクスピアの出生地として人気の観光地だけれど、もちろん16世紀に彼が誕生する前からこの街(貿易の拡張前は小さな村であったが)は存在していた。

 あまり注目されずとも、人々による歴史の糸は細く長く紡がれていたわけである。

 

  • 建築物

 街を歩いていると、チューダー様式の建物が多く目に付く。

 

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 白っぽい壁に木の枠。

 これらの建物は、項の下部に記載したリンク先のページで「壮大ではないほうの(この時代の)建築」として説明がされている。つまり貴族ではなく、主に商人や地主、裕福な農民たちが、経済や生活水準の向上に伴って建造したものであるのだという。

 露出している木材はしばしば石灰水で洗われたり、黒く塗られたりしたほか彫刻などで装飾されることもあった。

 この街でみられるものの中で代表的なのは、例えばこれだ。

 

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 横に長く伸びる外観が興味深いこの建物が、現在見られるような少し珍しい形になっているのは理由がある。

 それは最初期(15世紀初頭)に建てられたギルドホールに付随するような形で、学び舎やチャペル、救貧院などがその都度加えられていったからというものだ。つまりは計画的なものではなく、成り行きに任せて施設は隣接され、繋げられた。

 やがて、キングス・ニュー・スクールという学校がこの場所へと移転し、1571年には当時まだ7歳という年齢であったウィリアム・シェイクスピアがここで学んでいる。今でもここは変わらず実際に学校として使われており、おおよそ600年の時を超えて存続している。

 視覚的にも歴史的にも面白い。

 

チューダー様式について:Tudors: Architecture | English Heritage

 

 下の写真はあのチェーンのホテル、メルキュールのものなのだが、ここにあるものは外観が美しかった。

 2011年に初めて私がフランスを訪れた際、宿泊したのはパリの某所にあるメルキュールであったことをふと思い出す。

 

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きれいな佇まい

 

 

 

 

  • ティールーム

 お昼近くに立ち寄ったのはハサウェイ・ティー・ルームズというところで、それも古く、1610年ごろに建てられた建築物の中にあった。

 このティールームの創業自体は1931年と比較的あたらしいが、記録によれば1728年頃には、この場所は宿屋George Innとして知られていたのだという。

 その十年後には所有権が本屋へと移り、お次は薬屋、靴屋と異なる職種が続いた。そして現在のような状態へと至るそうだ。

 

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右から2番目、ファッジ屋さんのお隣

 

 この建物は英国の "Listed Building" と呼ばれる保護対象の建造物の中で、グレード II*というものに分類されている。

 IIの横に星のような記号がついているのは、単なるIIとは区別されているからであり、最も重要とされているグレード Iから順にII*、そしてIIと三段階の異なる形で建築物は指定される(自治体によってこれとは別の区分を採用している場所もある)。

 私はこんな風に、保護されている建物が現在も何らかの形で実際に使われているのを見るのが好きだ。もちろんあまりに古かったり、もしくは状態が著しく損なわれているような、早急な対策と保存の必要とされる場合にはそれは難しい。

 内装に目をやると、チェックの柄のカーペットや天井付近にみられる木の梁などが確認でき、とても落ち着く。ガラスの窓から差し込む光も柔らかい。全体的に居心地の良いところだった。

 

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 アフタヌーンティーのサンドイッチは複数ある中から3種類を選ぶことができる。

 4つのケーキのラインナップは日や季節によって変わるようで、スコーンはひとつひとつが大きめだ。お昼ご飯には丁度良い量か、それよりも少し多いくらい。

 私が英国にいて楽しいと思うことの一つには、学業や芸術文化に関連することの他にも、それぞれのお店によって出てくるアフタヌーンティーの違いを確かめるというものもちゃっかりと入っている。

 お茶の種類も豊富で、私達が選択したのはダージリン。香りが豊かで美味だった。

 

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 そもそも、このような形式で夕飯前に軽食をとる習慣が「文化」として確立され、知名度を持ったのはごく最近のことだ。

 調べながら、19世紀初頭の英国人にとって、1日のうちにわずか2回の食事――朝食と夕食のみをとるのがごく普通のことであったと知り驚いた記憶がある。自分ならとても耐えられない。

 そんな私のように、空になった午後の胃と感じるだるさを持て余していたベッドフォード公爵夫人は、アフタヌーンティーで問題を解決することを望んだらしい。

 ちなみにサンドイッチとケーキを除いてスコーン、クロテッドクリームとジャムのみを紅茶と組み合わせて楽しむものをクリームティーと呼ぶ。値段も量もアフタヌーンティーに比べるとお手軽なので、一般の英国人はどちらかというとこちらの方を普段の生活に取り入れている割合が高い。

 

 アフタヌーンティーの歴史:History Of Afternoon Tea

 

 

  • 宿泊した場所・食事

 今回は街のはずれで一泊した。

 The New Innという小さなホテルのツインルームに滞在したが、浴室は清潔かつ近代的で、部屋の壁が非常に薄かったものの暖かく快適だった。1階はレストランとパブになっており、朝食や夕食をそこでとることができる。

 その日の夜にはさっそく下へ降り、私は高鳴る胸を抑えながらフィレステーキを頼んだ。ホテルの人の説明によれば、ステーキにはこの地域の近郊で育てられた牛の肉を使用しているとのことだった。

 

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 お皿の手前側に乗ったステーキにかかっているのはソース。その他には少しのサラダとチップス。リブアイと食べ比べてみたけれど、個人的にはやはりフィレステーキの方が柔らかく、風味も豊かで好きだ。

 これひとつとビールでお腹はいっぱいになったうえ、久しぶりにこういった形で調理された肉を口にしたので、とても幸せな気分だった。

 そしてこの旅行からしばらく経たないうちに、スーパーでステーキ肉を購入し家で焼いて食べた(こんな贅沢は普段しない)。

 朝食の代金も部屋代に含まれていたので、この日は午前中からお腹いっぱいになるまで食べた。提供されるのはいわゆるフル・イングリッシュ・ブレックファストと呼ばれる品目が揃えられたバイキング。

 一日の適切な摂取量という言葉が一瞬だけ脳裏に浮かんだが、席を立ってカウンターに向かった後に意識が戻ったときには、私はすでに3枚もの塩気の強いベーコンをお皿の上に乗せてしまっていた。

 

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 アフタヌーンティーとは異なり、朝食という概念は他の国々や地域と同じく英国にも昔から存在していたもの。現在フル・イングリッシュ・ブレックファストと呼ばれている形式も英国の盛衰や階級社会のなかで生まれ、変化し、また進化してきた。

 下部に記載したリンク先によれば(そもそもサイトを運営しているのがEnglish Breakfast Societyなるものであるという時点でかなり興味深いのだが)、この朝食の品目や形式のもとになった概念は「アングロ・サクソンの伝統的な文化と食生活」らしい。

 もちろん現在と当時の朝食はいろいろな点で異なると思うが、紀元400年代からブリテン島に住み始めた彼らも、これに類するものを似た調理法で食べていたと考えるとおもしろい。イングリッシュ・ブレックファストにおけるほとんどの品目は食材に火を通すのみ、という単純な調理法によるものなのも、実はそれが理由なのかもしれない……。

 

イングリッシュ・ブレックファストの歴史:History Of The Traditional English Breakfast

 

 

 

  • 隣の村

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 ストラトフォード=アポン=エイヴォンの中心部から南に少し下ると、ロウワー・クイントンという村がある。

 もうひとつのアッパー・クイントンという地域と合わせて単にクイントンと呼ばれることが多い。

 この時間帯はとても晴れており、昨日とこの日の午後の小雨などまるで嘘のようであった。そしてロンドンを代表としたイングランドの天気はたいていの場合こんなものである。

 数少ない晴れ間の見える日は皆さわやかな気分でそれを話題にするし、陰鬱な天気が続くときは斜に構えながらそれを話題にし、鼻で笑う。彼らのそういう部分は私は嫌いではない。

 

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 これらの茅葺き屋根の家々はなんだか丸みを帯びていてかわいらしい。

 ここは休憩がてらに車を降りて散歩をしたのだが、おそらくはこの週末の中で唯一、太陽の光をしっかりと浴びられた場所だった。

 

  • モートン=イン=マーシュ(コッツウォルズ)

  そこからさらにへ向かう頃には日も徐々に傾いてきており、楽しい週末も少しずつ終わりを迎えようとしていた。

 コッツウォルズ北部を訪れた時のことは以前も書いたが、ふらりと立ち寄ったこの町はそのとき足を運ばなかった場所であり、鉄道の駅に(観光客が多いためか日本語でも)表示があるように「北の玄関口」と呼べるようなところに位置している。

 近辺は相変わらずたくさんの人々で賑わっていた。

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メインの通り

 

 町の名にあるmoretonという語には「開けた土地・荒野」といった意味が内包されているという。

 ここはかつて教会を中心として展開していた小さな規模の村だったのだが、13世紀になるとウェストミンスター修道院の長によってその価値を見出され、いわゆる開発が始まった。

 14世紀ごろから村は北の方へと徐々に拡大していったが、このことが地図や建築物だけではなく、当時の税収の記録やそれにまつわる資料から読み取れるのがおもしろい。商業で栄えたコッツウォルズというエリアでは、毎週行われていたマーケットでそれぞれの村が出した利益を比べることで、村の発展度や規模を測ることができた。

 メインの通りには時計台を屋根の上にいただいた会館があり、ハンドメイドのクラフトマーケットが開催されていた。周囲の駐車場はとても混み合っていて停める場所を見つけるのに一苦労だが、これはコッツウォルズ地域にある中規模の村や町ではお決まりの光景である。

 

町の地理・歴史について:Parishes: Moreton-in-Marsh | British History Online

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 南部コッツウォルズとその周辺についてはこちら: