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彷徨する自由帖

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P・A・マキリップ《茨文字の魔法》時間にも世界にも隔てられず蔓延る、その棘の蔓は……

 

 

 

 崖に建つ壮麗な王宮と、岩盤を削ってその地下に築かれた図書館。

 レイン十二邦の王立図書館に勤める書記レイドリーは、同僚の少女ネペンテスが、謎の古い書物を構成する〈茨文字〉の翻訳に異常なほど熱中している様子を眺めながら、愚痴のように零した。

 それを受けて「空の学院」の生徒、ボーンが答える。

 

「すっかり夢中になってるだろう。亡霊に心を奪われてる。誰だってあくびが出てくるような歴史の断片にだぞ。あれを読んでいるとき、ほかのものが話しかけて、こっちには見えもしなければ聞こえもしないものを伝えてるんだ」

(中略)

「それが魔法の始まりなんだ。想像力を自由に働かせて、あとを追ってみる」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.178 創元推理文庫)

 

 書物に、物語に、一度でも夢中になった経験があるなら思わず微笑んでしまう言葉ではないだろうか。

 ページを開いて眼で文字をひとつひとつ飲みこみ、噛み砕き、頭の中である一幅の画を織り上げているあいだ……実際の身体の周囲にある音も、色も、暑さも寒さすらも消え失せる瞬間が確かに訪れる。

 それを称して「本には魔力が宿る」と比喩されるのだが、図書館のそばで拾われた孤児で、今は書記として働くネペンテスが捕らえられた魔力というのは、実は単なる例えとは種類を異にする、ある特定の魔法らしかった。茨のような形をした、文字。

 

 綴られているのは、かつて世界を征服したとされる伝説上の人物「アクシスとケイン」の物語。

 

(レイドリーがネペンテスに)信じがたいという口調で言う。「そんなに夢中になっているっていうのかい? 何千年も前に塵に還った相手なのに」

「好きになる対象は選べないもの」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.82-83 創元推理文庫)

 

 かつて存在したと囁かれている覇王、アクシス。そしてその右腕であり、決して顔を晒さなかったことから「仮面の君」と呼ばれた謎の魔術師、ケイン。

 多くの神話や叙事詩や伝説がそうであるように、彼らの物語も世界各地、異なる人間によって綴られたり想像を付け加えられたりして、時には都合よく展開や結末を変えられ伝わるなど、木々の枝が分かれていくように多岐に渡っていた。

 伝承というのはすべからくそうなるもの。では彼らが、本当に存在したものなのか。存在したとすれば実際はどのような出来事を引き起こし、そこに居合わせていたのか、その真実は誰にも知ることができない。すでにほとんどが忘却の彼方、過去に葬られたあとでは。

 けれどネペンテスは違った。

 茨の文字の不思議な力に魅了され、アクシスとケインの物語を追っていく。すると現在「史実」とされている文献とは大きく食い違う箇所に遭遇する。でも、なぜか茨文字の本が偽史である、と思うことはできなかった。一体どうしてだろう……。

 読み進めていくうちに物語の中の彼らは戦の規模をどんどん広げ、容易に抑えきれぬ不穏な軍隊が膨れ上がっていくのと同時期に、ネペンテス自身が暮らしている世界の方も複数の問題に揺れつつあった。

 父王が逝去したことで、14歳にして玉座に座ることになった女王、若きテッサラ。

 側近の魔術師ヴィヴェイがときどきうんざりするほどに、その振る舞いも、人に対して控えめな性格も、統治者としてはどこか頼りなく見えた。だが、テッサラにはまだ明かされていない才能がある様子。城の地下深く、海に近い場所まで下り、レインの初代の王からの宣託を受け取った彼女が最後に為したことと選択とはなんだったのか。

 

テッサラは動きを止めると、同じようにひっそりと立って耳をすまし、沈黙の言語を理解しようとした。まわりじゅうに言葉があるのだ、と徐々に悟る。朽ちた落ち葉、枝に巻き付いた蔦のねじれ、藪からのびた小枝、そのひとつひとつが空中に、目の前に形を描き出している。なにを語っているのだろう、と首をかしげ、すっかり夢中になって、森の言語を吸いこもうとした。

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.74 創元推理文庫)

 

 絶版が多いマキリップ作品の翻訳の中でも、過去に復刊されている数少ない一作。

 特に終盤は激情・苦痛・渇望など感情の描き方が本当に美しく、その点で《妖女サイベルの呼び声》にも並ぶ良作だと思う。面白かったし好みだった。

 

 一番良かった部分に詳しく言及しようと思うとネタバレになってしまうのが惜しくて仕方ない。

 ただ、古代の世界でそのようにしか生きられなかったある人物が、これまでに考えられなかった選択をする部分……「陽の当たらぬ場所を歩き、全てを自分以外に捧げてきた者が、初めて己のために願った事柄」が何なのか。

 その選択が浮かんだこと自体、感慨深かった。とだけ。

 

「〝見捨て。ないで。わたしを〟」
(中略)
 ネペンテスは口をひらいた。死に絶えた森のなか、音にならないほどかすかな声だった。
「本当の名前は、なんていうの?」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.339 創元推理文庫)

 

 

※ここから先に内容や結末への言及があります

 

 

 ケインの選択、その描写が感慨深かったのは「これまで何より愛し続けてきた者と共にあること」と「己の顔と名前を隠さずに堂々と暮らすこと」の対比で……作中で後者が選ばれたことの意味が重要だと思うから。何かを基準にした、良いか、悪いか、ということとは一切関係のない場所で。

 彼女が確かにアクシスを愛したことと、長い滅私と献身の末にそれに(あるいは戦のための戦にも)疲れたこと、これは地続きになっていて、ネペンテスの世界に留まることをケインが選んだことを決めたからといっても、決して前者の比重が軽くなったわけではない。ないのだが……。

 テッサラが即位したレイン十二邦の時代、それを目の当たりにした彼女が、仮面を外して本来の自分として生きたい、と「思い」「考え」「望んだ」のが私にとっては尊い事実である。かつてケインにとっての望みとは、アクシスの形だけをしていた。

 

「おまえはなにを望む?」

「あなたの望むものを」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.66 創元推理文庫)

 

 それに変化が訪れた。私はこういう変化が、好き。

 他に良かったのは強力な魔法の力を持つテッサラの、自然の声に素直に耳を傾けられる朴訥なキャラクター造形や、ネペンテスとボーンやヴィヴェイとガーウィン周りの恋愛関係のほのめかし方か。

 無為に前面に押し出すのではなくて、共に時間を過ごし身体的に接触している様子とか、相互に主体的に相手を好きでいるのであろう様子とか。作者や読者の一方的な都合ではなく、物語の中に、自然にそこに発生したものとして書かれている。それに好感が持てたかな。

 普段ならはい、恋愛ですよ、ってわざわざ提示されるとうんざりするものを、こうやって織り上げられるのはマキリップの感覚と手腕だなと。

 

 

 

 

 

黄金色をしたワームスプアーの模造品:P・A・マキリップ《ホアズブレスの龍追い人》

 

 

 

 龍の残留物、になぞらえて呼ばれる強いお酒……苦い金色のワームスプアー。

 短編「ホアズブレスの龍追い人」に登場する。

 

ペカはワームスプアーを作ることもできた。本土で学んだ数少ない役にたつことのひとつだった。彼女が作ると、どういうわけか苦味がなくなった。豊かにけむる黄金のなかで熟成して、鉱夫たちに筋肉の痛みを忘れさせ、果てしなくつづく冬に彼らから不思議な物語をすこしずつ引き出していく。

 

(マキリップ〈ホアズブレスの龍追い人〉(2008) 大友香奈子訳 p.12-13 創元推理文庫)

 

 太陽がふたつ存在する世界の中央にあり、13か月ある1年のうち、12か月間は雪と氷に閉ざされたホアズブレス島。そこには鉱夫たちとその家族が多く住み、金の採掘を生業にしていた。

 島から本土に渡ったはいいが学校教育にうんざりし、5年で再び島へと帰還した娘、ペカ・クラオは、あるとき同じように外に出て島に帰って来た青年、リド・ヤロウに遭遇する。彼は龍を追う者なのだと彼女に告げた。ホアズブレス島は氷の龍の吐息のせいで凍り付いている。だから寒さに凍える皆の厳しい生活を良くするため、これから世界の果てに龍を追いやってしまうつもりだ、と。

 作中でワームスプアーは印象的な装置として働き、時に直接、時には比喩としてその存在や性質、味が描かれ、読んでいると自分も飲みたくてたまらなくなってくるのだ。金色をした苦みのあるお酒、自分に身近なものといえばビールなどがまず思い浮かぶ、でも本文の感じからすると、ワームスプアーはどちらかというと、ブランデーやウイスキーに近い質感であるような気がする。

 喉を焼くような、あの熱い一口。

 

 

 先日クラフトコーラの原液を買ってきて、炭酸水で割ったら、きれいな金色になった。

 少しもアルコールの含まれていない、炭酸と各種香辛料だけがぱちぱちと刺激的な甘い飲み物だけれど、想像力を駆使して杯を傾ければちゃんとワームスプアーの模造品になる。精神を研ぎ澄まして、確かに黄金色のお酒なのだと念じて。勢いよく飲むとむせてしまうところなどは結構似ているのだから。

 100円ショップのグラスに、同じ100円ショップで見つけた、柄の末尾の方に水晶を思わせる飾りがついているスプーンをマドラー代わりに添えても、氷と鉱山の島ホアズブレスを連想させられるようになって楽しかった。

 龍が眠りながら吐き出す吐息の中、凍った宝石の小山を下り、歩き続け、やがてその本体に出会う。道中で寒さを紛らわせたり、傷口に吹きかけたりするものがワームスプアーだ。

 ペカはその熟成に際して、己の心を含めた、あらゆるものを込めるやり方を知っている。

 

「なかになにを入れたんだい?」
「黄金」「火、石、暗闇、たきぎの煙、冷たい木の皮のにおいがする夜の空気」

「すべてよ」

「それと龍の心臓が入ってる」
「それがホアズブレスだとすればね」

 

(マキリップ〈ホアズブレスの龍追い人〉(2008) 大友香奈子訳 創元推理文庫より)

 

 例えばシングルモルトウイスキーをゆっくり、舌で溶かすように味わって、そこに灰色の煙や、木でできた樽の気配や、重なる地層の土、潮騒と海の風までもが溶け込んでいるのを感じる時がある。

 だから、ペカが上の台詞で語ったようなものたちがワームスプアーの中にもある、とはっきり思い浮かべられるし、模造品も美味だったけれど叶うならば本物に触れてみたい。この地球には実在しないお酒に。

 そうしてほんの束の間、身の内に抱くだろう。ホアズブレス島と、その心臓たる巨大な龍が秘めていたものの欠片を。

 

はてなブログ 今週のお題「最近飲んでいるもの」

 

 

 

 

手に入れた瞬間、もうそれに意味はなくなる - ハガード王への哀歌|ピーター・S・ビーグル《最後のユニコーン》そして《旅立ちのスーズ》より

 

 

 

 

 ピーター・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉鏡明訳と、続編〈旅立ちのスーズ〉井辻朱美訳。後者には「二つの心臓」「スーズ」の2編が収録されている。

 いずれもハヤカワ文庫FTから2023年秋に改めて刊行されたものを、読み終わった。

 

 

  • 最後のユニコーン

 

 私は本を開いている間、特に中盤以降ずっと、ハガード王のことを考えていた。

 少し前にマキリップの〈妖女サイベルの呼び声〉を読んで、あのドリード王に延々と思いを馳せていたみたいに。

 あーあ、また「何かを信じられなくなった王様」のこと考えてるよ、この人……って自分に対して呆れていたら、この〈最後のユニコーン〉のあとがきで乾石智子氏が実際に〈サイベル〉の作品名を出したものだから、ちょっと面白かった。

 日本語版は同じハヤカワ文庫FTから出ていて現在絶版なんだけど、復刊しないかな。……閑話休題。

 

『だが、わしにはわかっていたのだ、自分の心を投げ出すほどに価値のあるものはないことを。なぜなら、何物も永遠には続かぬのだから。そしてわしは正しかった。そこで、わしはいつも年老いているのだ』

『それでも、自分のユニコーンたちを見るたびに、いつもあの森の朝のように感じる』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.296-297 ハヤカワ文庫FT)

 

 こんなことを言われたら泣いてしまう。

 その気持ちは……知っている。

 

 嘆きも、諦念も、ある一面では「願望」が反転したもの。そう私は捉える。

 つまり「自分の心を投げ出せるほど価値のあるものがこの世界にはない」と感じることで、かつてのハガード王が自覚の有無にかかわらず、虚しい、と少しでも思った経験があったとすれば、それは「心を投げ出せるほど価値あるものに出会えたらよかったのに」と彼が内心で願っていたことを意味しているはずだ。

 だから王は、ユニコーンを……。

 

 奇しくも、彼が治める街ハグスゲイトの住民たちも、ハガード王と同じく「何物も永遠には続かぬ」を理由として何にも愛着を持てずにいる。

 魔女が城にかけた呪いの予言によって、いかなる事物もどうせ未来に失われることが分かってしまっているから、幸福な状態になることができないのだ。手に入れた喜びが、いつか確実に消えてしまう、と判明している状態で、どうしてそれに心を傾けることができるだろう?

 確実なのは、ハガードがいる限り、現在いるハグスゲイトの民たちは他と違って何不自由なく良い暮らしができ、富むことができるというだけ。予言が成就する前ならば。

 

『自分たちの富の中で――あるいはそれ以外のことの中でも――一瞬たりとも、その喜びを味わったことはないのです。なぜなら、喜びもまた、私たちが失わねばならぬものの一つとなってしまうからです』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.164 ハヤカワ文庫FT)

 

 でも、いつか王の城を滅ぼす者が現れる。

 それは明日かもしれないし、数年後かもしれないし、あるいはもっと先かもしれない。だからそれをどうにかして回避しようとし、皆、暗澹たる気持ちでいるのだった。国の中で、どの都市よりも豊かな暮らしを送っているのにもかかわらず。

 ……ハガード王は夜な夜な街に下りて、コインや割れた皿、スプーン、石、指輪やハンカチなど、色々なものを拾っていくらしい。ある日はその中に1人の赤ん坊がいた。

 王は赤子を育てた経験がなく、ゆえに初めは「心あたたまる気持ち」を胸に宿して彼を腕に抱いていた、とアマルシア姫に述べる。そんな事実を本人から告げられたら泣いてしまう。なのに、その気持ちはあっという間に死に、また空虚な圧倒的現実に意識は立ち返ってしまったという。

 

『わしが拾い上げると、どんなものでも、死んでしまう。どうしてそうなるのか、わしにはわからん。だが、いつだって、そうなのだ。わしが守っている、冷たくも、退屈なものにもならん、ただ一つのものを除いてはな』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.290 ハヤカワ文庫FT)

 

 

 

 

 何かが欲しくて、必死に手を伸ばして、けれど実際それに触れた瞬間、なんだかどうでもよくなってしまった経験はないだろうか。私にはある。

 そしてそこまで大げさではないまでも、普段の暮らしの中で、あるものをいざ所有した瞬間に欲しかった頃の強い気持ちをフワッと忘れてしまうことも、多々ある。ものや人自体は変わらないのに、そこに宿る価値や意味の方が変質してしまうのだ。

 遠くにあるものを見つめている時、それが珍しく、貴重で、美しいものであればあるほど、手に入れることができたらなあと渇望する思い。けれどそれが胸に飛び込んできて実感する。それは、手が届かないほど遠くにあったから、素晴らしいものだったのだと。手が届かないという要素にこそ価値が生じていた、のだと。

 

『だが、それもまた、わしには何の意味もないことだ』ハガード王は続けた。

『昔、おまえは、わしが望むいかなる奇跡もやりとげてみせてくれた。そしてそのすべては、奇跡に対するわしの感覚を損なっていたのだ。おまえの力にあっては、どのような無理難題も手に余ることはない。だがそれでも、驚異が成しとげられたときにも、何も変わりはしないのだ。(中略)魔術の名人も、わしを幸福にはしなかったのだ』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.222 ハヤカワ文庫FT)

 

 色々なものを手に入れて、これは違った、あれも違うな、そしてあぁまたこれも違う気がする、次、と判断し取捨選択することを繰り返していると、だんだん世界が色褪せていくような感覚をおぼえる。

 でも、物と情報に溢れた今の世を生きる私にとっては、それは本当に身近なものだった。ほとんど毎日感じている。同じことを。

 そして、ハガード王に育てられたリーアは彼がいなくなってからこう言った。

 

『呪いは、城を崩壊させるのはぼくだと言っていた。けれども、ぼくがそんなことをすわけはなかった。あの人は、ぼくに、良くはしてくれなかった。でも、それはただ、ぼくがあの人の望む者ではなかったという理由からだ』

 

(P・S・ビーグル〈最後のユニコーン〉(2023) 鏡明訳 p.363 ハヤカワ文庫FT)

 

 もう駄目だった。滂沱の涙に暮れながら、何も言うまい、と思う。ただ、この物語の続編という位置づけで存在している〈二つの心臓〉と〈スーズ〉に手を伸ばす……。続きがあるのなら読まなければならない。

 ユニコーンの貝殻色をした角が、今も視界の端にある。

 

 

  • 旅立ちのスーズ

 

『最悪のこととは、心が砕けないことだ。喪失も過ぎ去り、痛みも過ぎ去り――絶望でさえ過ぎ去る。この世で最悪のことは、自分を気遣ってくれる心を傷つけることだ。それが今わかった』

 

(P・S・ビーグル〈旅立ちのスーズ〉(2023) 井辻朱美訳 p.169 ハヤカワ文庫FT)

 

〈最後のユニコーン〉の続編にあたる〈二つの心臓〉と〈スーズ〉が収録されている1冊。

 

 前作で「何かをどうしても信じられなくなった王様」としてのハガードに思いを馳せていたから、〈二つの心臓〉では一方「何かを忘れつつある王様」……かつて王子だったリーアに目を向け、それから「時間」というものが人間(つまり、永遠に生きられるわけではない存在)にどう影響するのかを見た。

 私は〈スーズ〉を読んでいてどこかの地点で一度泣いてしまったのだけれど、振り返ってみると、それがどこだったのか覚えていない。

 17歳になった少女スーズは、妖精に連れて行かれたという自分の姉、ジーニアを探して生まれ育った土地を離れる。けれど……。

 

『スーズ、スーズ。死にたくないわ。永遠に生きられるって言われた……あたしは昔からみんなの女王になるはずだったって』

 

(P・S・ビーグル〈旅立ちのスーズ〉(2023) 井辻朱美訳 p.169 ハヤカワ文庫FT)

 

……「何物も永遠には続かず、故に心を投げ出すほど価値のあるものはない」と述べたハガードが作中で「いつも年老いている」ことと、森の奥に住むドリーミーたちの王が「ほとんどのものより年を取ってる」と説明される意味を思う。妖精郷は子供がいない国で、それは実のところ、あのハグスゲイトの街と同じだ。

 年齢や性別や種族を超越して存在できる。そうジーニアが言うドリーミー達の世界は素晴らしそうなのに、ここでの彼らがそのように描かれていないのはなぜか……。本当に、なぜなんだろう。読んでいると分かるような気がするけれどやっぱり分からなかった。

 取りこぼしているものが沢山ある気がするので、もう少し寝かせてから、この〈スーズ〉をもう一度読む。

 

 人間から生まれた「肉ではなく石でできた」存在、スーズの友達だったラードリアクのダクハウンのことを考えている。

 

 

 

 

 

黒い獣・魔法の系譜・姿を変える者たちの変奏 - パトリシア・A・マキリップの小説から

 

 

 

 

 先日読み終わった3部作「イルスの竪琴 (The Riddle-Master trilogy)」の余韻に浸りながら、さらにこれまで読んだ作品との関連も含めて、パトリシア・マキリップの描く物語に繰り返し登場するいくつかの要素を考えていた。

 特に「妖女サイベルの呼び声」と「オドの魔法学校」を並べてみながら……。

 

 

 なかでも「妖女サイベル~」に登場した魔術師ミスランが、自分は過去に多くの異なる名前をその都度名乗り、色々な世界で強力な支配者たちに仕えてきた、と述べる場面がある。

 原著の "in many worlds" という表現は単なる比喩かもしれないし、もしかしたら本当に境界線を越えて、文字通りに数々の並行世界(パラレルワールド)を渡り歩いてきたのかもしれない。それから他に、竪琴弾きのように叙事詩を歌うことのできる白い猪・サイリンが言及する "The Riddle-Master(謎解き博士)" という言葉も、「イルスの竪琴」3部作で重要な肩書きとしてよく登場する。これはどちらも同じ性質の存在を指してそう呼んでいるのかどうか。

 エルドウォルドの外に出て先へ進み続けたら、もしかしたらケイスナルドのある大陸に行き当たるかもしれないし、あるいは両者は同じ世界に存在せず、決して交わることはない関係にあるのかもしれない。

 私はマキリップの作品を読んでいて(もちろん、彼女の作品に限った話ではないのだけれど)複数の共通点を持つモチーフや登場人物、出来事などに出会うたび、それは「とあるひとつの物語が枝分かれした結果として生まれたもの」であるように感じる瞬間がよくあった。もしくは、同じ世界を舞台にした異なる時代の話が語られているのであったり、特定の場所で起こったはずのことや起らなかったはずのことが、別の作品として描かれていたりするのではないか……というような。

 なかでも印象的だったところや、同じテーマの変奏として対比できそうな要素について。

 

※以下では物語の内容や結末にも言及しています。重大なネタバレの数々に注意してね。

 

 

  • 黒い獣

 

「昔、ヘルンの山の中に、ひとりの女が住んでいた。名前をアルヤといい、さまざまな獣たちを集めていっしょに暮らしていた。ある日彼女は、名前のわからない小さくて黒い獣を見つけた。彼女はそれを家へ連れて帰り、餌をやり、よく世話をした。獣は大きくなった。どんどん大きくなった。」

 

(創元推理文庫『風の竪琴弾き』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.86)

 

 なんだかどこかで聞いたことのある話。

 エルド山に住んで獣たちと暮らしていたサイベルと、あるとき忽然とやって来たロマルブ(ブラモア)の関係を思い出す。それは初め、光る眼を持つ黒い影だった。召喚していないと戸惑うサイベルに対し、ブラモアは確かに呼ばれて姿を現したのだと言い、さらには「ただおまえの恐れを知らぬ心、勇敢さ(your fearlessness)のみ必要とする」……と告げた。

 サイベルは最後に己を知ることでブラモアの真の名をも掌握し、美しきライラレンの背に乗って飛翔することができたけれど、この「イルス」の物語世界におけるアルヤはそうではなかったようだ。

 

「あの結末は、聞かせてもらってないわ」

(中略)

「アルヤは恐怖のあまり死んでしまったんだ」

 

(創元推理文庫『風の竪琴弾き』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.234)

 

 こちらの逸話だと、ヘルンのアルヤが四六時中つきまとわれて自由を失い、恐怖に飲み込まれて死んだ後、その名を持たぬ黒い獣は非常に嘆き悲しんだとされる。獣の泣き叫ぶ声は7日7晩のあいだ途切れることなく、最後には獣も、亡くなった彼女の跡を追うようにして死んでしまったという。意味深長なこと。

 これをモルゴンがレーデルルに対して語った場面がまた示唆的というか、己の身に流れる変身術者の血と能力を恐れ、向き合うことを拒絶していた者に対してこの謎がかけられたのだとすれば、そのひとつの答えは自分の内にある何かを見据え、対峙することになるだろう。

 けれどやはり尻込みさせられるのは、同じくサイベルの物語の中で語られた別の逸話が存在するから。「巨人グロフは礫を片眼に喰らったが、その眼は裏返り、彼の心の中を見た。グロフはそこに見たものが原因で絶命したのだ」……きっと過去、ブラモアにより命を落とした者たちも。

 外敵はともかく、己が身の内にあるものからは逃げることができない。

 

 

 

 

  • 魔法の系譜

 

「イルスの竪琴」のレーデルルと「オドの魔法学校」のスーリズは共通点を多く持つキャラクター。

 2人とも一国の姫で、兄がおり、過去に母を亡くしている。そして王である父は妻に先立たれた悲しみが長く尾を引き、また生来の気難しさもあってかあまり子供たちの話を聞いてくれない。境遇はこんなに似ているのに、彼女たちが経験するものは随分と異なる。加えて重要になってくるのは、どちらも魔法の素養を持っているということ……。

 レーデルルは王家の血に混じった魔女マディルの力と、変身術者イロンの能力。スーリズの場合は曾祖母のディッタニーが故郷で習得した魔法と、物語後半でミストラルから教えられたもの、など。

 彼女たちは2人とも自分の力をどう扱うべきか考えあぐねていて、師を求めたり、図らずも結果的に誰かを(ある意味での)師として持つことになるなどしながら行動を起こしていた。そして、魔法は受け継がれていく。

 

‘No, I don’t,’ Sulys said hollowly. ‘I need a friend. But you can’t make friends with someone who doesn’t even see you when you’re under his nose talking to him. You’d think a wizard would be more observant.’

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.143 Orion Kindle版)

 

 スーリズは、ヌミス王国では警戒される類の魔法の力について分かってくれる者(間違ってもヴァローレンではない)を求め、本物の魔法を使うと噂の旅の大道芸人・ティラミンの噂に惹かれた。そうして歓楽街〈黄昏区〉までわざわざ出ていくことになったのだった。

 一方レーデルルは母と友人だったアン国の豚飼い、自分と同じく魔女マディルの血を引くとされるナンに度々会いに行っては会話をしたり、草の編み方を教えてもらったりしていたが、実のところ「能力」の面ではとある変身術者とのやり取りがあまりに印象的だったので忘れられない。

 エリエル・イムリスを殺してその立場を乗っ取った者。ダナン・アイシグの館の一室で、レーデルルの前に姿を現した。

 

「どうしてあなたは私にこんなことを教えたがるの? どうして私のことを気にかけるの?」

(中略)

「理由はありませぬ。興味を持っただけのことです」

 

(創元推理文庫『海と炎の娘』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.175)

 

 偽エリエルは、彼女の能力を「相当な力」だと告げて講釈をし、実際にその扱い方の一端を示してみせもする。炎から白い蜘蛛の糸を引き出し、象牙に、星々に、また貝殻に変え……意のままに操って見せた。

 それを眺めていたレーデルルの胸に湧く、その火についての知識を自分もまた得たいという、明確な欲求。力を志向する意識。私は何者なのか、に近付きたい気持ちと、世界に対する純粋な好奇心。

 彼女の姿を見ていると、その在り方の変奏が、別作品に登場するスーリズ姫として描かれているように感じてならない。別の過程を辿って婚約者の元に辿り着いた者。「イルスの竪琴」の世界はどちらかというと神話寄りの趣だが、「オドの魔法学校」ではより近現代の文化や人間の生活に則した形の領域で、似た境遇のキャラクターが動き回る。

 果たしてこの条件下ではどんなことが起こるのか、と作者が実験するように。

 

  • 姿を変える者たち

 

 モルゴンによって北の山に封じ込められた大地のあるじたち……すなわち、かつて偉大なる者に反旗を翻した変身術者たち。

 彼らは滅ぼされはしないまでも、北方荒野の手前にあるエーレンスター山に縛り付けられ、すっかり死に絶えるまでそのままの状態にとどまると示唆されている。おそらくは数千年先であっても。「イルスの竪琴」における作中の大陸は、変身術者たちにおびやかされず人間たちの暮らす場所になった。

 ここで「オドの魔法学校」の終盤を思い返す。

 北のスクリガルド山で静かに生息することを望んでいる、はるか昔からヌミスが建国される前の土地にいた、古き存在。好奇心旺盛で言葉を介した理解を必要とせず、興味を抱いたものにならどんな風にも「姿を変えることができた」という……。

 

Long ago, when they lived freely in the land before it became Numis, they took any shape that caught their curiosity, that kindled their wonder. They never knew the words for what they shaped; their magic is that old.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.304 Orion Kindle版)

 

 北の山に封じ込められた変身術者たちと、迫害を避けるためにこれまた北の山に隠れていた古い存在。いずれも人間がこの土地に居住する前から息づいていた……相似な図形のように重なり合う造形。

 では最も大きな違いは何か、と考えたところで、最終的に勃発した戦の有無に意識を向けることになった。「イルスの竪琴」では第3部でいわば『2度目の戦争』が起こってしまったが、「オドの魔法学校」ではそれが事前に阻止された。ケリオールの王宮で対話と相互理解の場が設けられ、おおむね成功した。

 かつてモルゴンが人間たちのために、危害を加えてこないよう力で縛り、封じるしかなかった「姿を変える者たち」が、後年に発表された物語の中では北方の山から出てきて被迫害の時代に終止符を打った。ここはとても興味深い対比だと思う。

 世界の成り立ちや基盤は異なるけれど、その点では、イルスの世界・時代で出来なかったことがオドの世界に至ってようやく実現できた、と捉えることもできるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「最近読んでるもの」

マキリップの《イルスの竪琴》3部作で描かれる、時に過酷な旅と美しい情景

 

 

 

 

「そなたが、私がこれほどまでに愛した者でなければよかったのに……」


(創元推理文庫『風の竪琴弾き』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.363)

 

『イルスの竪琴』3部作

・星を帯びし者
・海と炎の娘
・風の竪琴弾き

パトリシア・A・マキリップ著
脇明子訳(創元推理文庫版)

 

 

目次:

 

《イルスの竪琴》3部作の感想

 

 人間が抱きうる欲望のうち、知を求める気持ちは私がとりわけ愛おしいと感じるもので、けれど同時に「知りたい」というのはとても危険な願いの発露でもあると分かっている。ある問いにうっかり手を伸ばした瞬間、その勇気ある頼りない腕は恐ろしいほどの力で何かに引っ張られてしまい、身体ごと容易にはこちらの世界に戻ってこられなくなる。

 おそらくはモルゴンがそうだったように、彼を見ていた私もそうなってしまった。

 しかも、目の前で何が起こっているのかは描写されているとしても、ではなぜ、このとき、彼がそれほど過酷な目に遭わなければならないのかという「問い」からは物語の終盤まで逃れられず、寸分たりとも安心させてはくれない。あまりにも容赦がない。

 第2部まで読んだら休憩して少し感想を書いて……とはじめは考えていたのに、食事も睡眠も投げ打って読了。

 他のどんなものも目に入らず、耳に届かず、ひとつの世界とその変容だけを目に写して浅く静かに呼吸をしていた。良い意味で『いったい私は何を目撃したのだろう』と途方に暮れたり、ひとつの台詞を思い出して涙したり。こんなに体力を削られる読書体験は本当に貴重。

 たった3巻の小説を読み終わるまでに何千年も何百年も経ったような気がしていた。

 

  • あらすじ

 

 小さな島であるヘドの領主・モルゴンは好奇心旺盛な若者で、例外的に〈大学〉と呼ばれる施設への入学を許され、交易都市ケイスナルドで数年間「謎解き」を学んだ。彼はあるとき、かつて大国アンに征服されたアウムの塔に今も幽閉されている500歳の幽霊、ペヴンが挑戦者に仕掛ける「謎解き」の勝負に見事勝利する。

 それによりアン国の王の娘、レーデルルと結婚する権利を得たモルゴンは、大陸の秩序を司るとされている〈偉大なる者〉の従者、竪琴弾きのデスと共に船で海を渡っていた。しかし航海中に異常が起きて、彼は何者かに自分の命が狙われていることを知る……。

 その真相を求めて〈偉大なる者〉の御座所、エーレンスター山へ赴くための長い旅が始まった。しかし、最後に待ち受けていたのは?

 

 一方レーデルルはといえば、かつて親交を深め、いまや許嫁となったモルゴンから旅の途中に送られてくる手紙を読みながら、古の魔女マディルから受け継いだ力や、自らに流れる邪悪な変身術者の血に対する苦悩を抱えていた。

 だがあるとき、モルゴンがエーレンスター山で行方をくらました報せを耳にし、さらに1年間も行方不明になっている現状に業を煮やして、彼女は真相を探る旅に出る。各地の領国支配者たちと出会い、また徐々に発現する魔法の能力に戸惑いつつも、レーデルルは彼の足跡を追う。

 次々とモルゴンに降りかかる試練が、一体何のためのものなのか。

 誰が、なぜ彼の命を狙っているのか。

 

 ……日本語版シリーズ名「イルスの竪琴」は、元の"the Riddle-Master trilogy"に代わってつけられたタイトルだけれど。

 最終巻まで読むと、その文字列を目にするだけでちょっと涙が出てきてしまうから、もうずるい。

 

  • 美しい情景と時に過酷な旅

 

「イルスの竪琴」でモルゴンやレーデルル達が経験する旅は、行楽の気軽さや安心とはとても縁遠いものである。寒ければ凍え、手はかじかみ、食糧がなければ著しい空腹に苛まれる。

 でも、生のまま触れる自然の厳しさも、読者の胸に刻まれる情景も美しい。

 

秋の雨がまた降りはじめ、いつまでも単調に降り続いた。二人はフードのついたゆったりしたマントの中で身をかがめ、なめし皮にしっかりと包んだ竪琴をその中にくるみこんで、二つの国のあいだの荒野に黙って馬を走らせ続けた。夜には岩のあいだの浅い洞穴やびっしりと繁った木立ちの下など、乾いたところが見つかればそこで眠った。焚火は風と雨にさらされて、しぶしぶとしか燃えてくれなかった。

 

(創元推理文庫『星を帯びし者』(2008) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.146)

 

 とはいえ小説への没入のしすぎは体調に影響する。

 私は相当熱中して読んでいたからなのか、作中の登場人物と同じくらい身体を動かし、精神を張り詰めさせていたような錯覚をおぼえて、そのうち頭痛が止まらなくなった。優れた文章のおかげでそのくらい同化できるのだと思うとありがたいような、怖いような。

 使命を背負って道なき道をゆく旅は、命の危険も伴う。だからこそこうして、本に記された旅の物語をとりわけ好んで読むのかもしれない。

 

身体の節々が痛み、筋肉はひと動作するごとに抗議の声をあげた。しかし再び歩きはじめると、次第にそれも忘れていられるようになった。

(中略)

茨の藪があれば迂回し、岸が険しい崖になっていれば岩によじ上り、いよいよ通れなくなると、今度は裂けたスカートをからげ、水の中をじゃぶじゃぶと渡っていった。ひっかき傷だらけの手が川の水でちくちく痛み、熱い太陽が顔をかっと焼いた。

 

(創元推理文庫『海と炎の娘』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.179-180)

 

 また、頑固と言えるほどの意思の強さはモルゴンにもレーデルルにも共通する性格。

 つらい道筋でも諦めず、困難に直面しながらどんどん山や平原や湿地を越えていく姿は、どちらも各巻で物語の進行役となってくれる。

 

  • 著者の持ち味、各種の描写

 

彼女は盾や腕輪や宝石で飾られた王冠や敷石などから光を剥ぎ取り、床の上にオエンを囲んで光の輪を燃え上がらせた。
(中略)
それから、海そのものが聞こえてきた。
海の音は、彼女が作った幻影に自らを織り込んでいった。

 

(創元推理文庫『海と炎の娘』(2011) P・A・マキリップ 脇明子訳 p.287)

 

 こうした魔法の描写も、また人物の状態や周囲の情景を語るだけでその心すら描いてしまうようなやり方も、自分の好みに合っていて至福の時間だった。

 そう、マキリップ作品は描写が良い。

 かなり独特ではあるし、冗長でまどろっこしいと感じる人もいるはずだが、私は彼女の筆致が大好きなので、むしろ何ページでも描写をし続けてほしいと思ってしまうくらい。唯一困るのは、じっくり描写を堪能したいのと物語の先に早く進みたいのとでは相反する気持ちになってしまうため、常にふたつのあいだで引き裂かれなければならないこと。贅沢な悩みかもしれない。

 印象的だったのが、作中世界北方のオスターランドを治める領国支配者、狼王ハールの妻アイアが夫を指して口にした言葉で、彼女は彼の性格の一端を「夜中に銀を土に埋めるひとのように、自分の悲しみを埋めようとする」と表現する。

 夜中に銀を土に埋めるひとのように……悲しみを……。

 この部分を目にしてしばらくページから顔を上げ、静かな真夜中の庭を想像する羽目になった。よくこういう比喩が出てくるものだと感心する。続きを読みたい、と一心不乱に駆ける足が止まって、脇にある城壁の石の亀裂から内側を覗く。

 

◇     ◇     ◇

 

 領国支配者たちも、魔法使いたちも、みな魅力的なキャラクターだった。

 先に述べた狼王ハールは、ヴェスト(という白いトナカイのような動物)に姿を変えることができる。鉱山を自分の心のように知るアイシグのダナンは若い頃、樹に変化してひと冬を過ごした。そしてヘルンのエルリアローダンは特別な「眼」を持っていて、物事の裏側を見通す……など。

 当然ながらこことは違う世界の物語なので、出てくる「人間」の方も、私達が知る人間とはちょっと違っていそうなのが興味深い。あくまでも作中の世界でそう呼ばれている存在、というか。

 

 あと、かつて都市ランゴルドに集っていた魔法使いたちの詳細に関しては真相に関わってくるため、本編を読んで実際に味わっていただきたい。

 魅力的な人物造形や関係の数々がそこにある。

 

 

 

 

 

仮面の幻惑に隠された本物の魔法。そして古き力の根源に出会う北の果て《オドの魔法学校》P・A・マキリップの小説

 

 

 

 作中に登場するいくつかの食べ物だけ、過去の記事で紹介していた小説。

 原文「Od Magic」から、日本語版「オドの魔法学校」原島文世訳の方に切り替えて再読した。

 

 両親を流行病で失い、弟や恋人にも去られてしまって、孤独を背負う青年ブレンダン。

 故郷であるヌミス王国北方の辺境で、植物や動物などの声を聴き暮らしていた彼は、ある日〈オド〉と名乗る女巨人に魔法の才を見出され都のケリオールへと赴く。庭師の仕事がある、と言われて。なかなか都の暮らしに慣れない彼は、ある日、学校の庭で不思議なものを見つけた……。

 ブレンダンはその見たことのない植物の正体を求めて、珍しいものが集まる歓楽街《黄昏区》へと赴くも、ある奇術師ティラミンを巡る疑念と事件に巻き込まれ追われてしまう。

 そこから、かつて大志を抱いていたが擦り切れてしまっている教師、望まぬ婚約に揺れる姫君、旅の魔術師の娘、そして書類仕事よりも街を歩くのが好きな地区官吏監……と次々に視点が移りかわり、最後に未来を示唆して物語が収束する。

 群像劇というのだろうか、こういう形式。好きな人にはとてもおすすめ。

 

 未知の魔法や知識を恐れて徹底した王の管理下に置き、権力側が決めたことしかできないような教育を学校で生徒に施している、ヌミス王国の現状。新しい可能性にも古き力の根源にも近付けないよう、魔術師たちを支配する硬直した社会規範。

 それがもたらした歪みや学校設立理念とのずれ、また皆の思惑が深刻になりすぎない筆致で軽やかに描かれている。学園にいる子供たち生徒がほとんど富裕層の出で、例えば教師のヤールなど、かつて西の辺鄙な村で貧しい暮らしを送っていた者に対して好奇の目を向けている様子も興味深い。

 そして「妖女サイベルの呼び声」でも見られたような、著者マキリップが織りなす魔法、それ自体の描写が本当に魅力的。ティラミンの娘ミストラルの装いも。

 

「それは泡と炎と愚者の黄金と、夢の中を飛びゆく鳥から舞い落ちたかのような羽毛からなっていた。ティラミンの助手たちが仮装している混雑した部屋で、顔に白磁の色を、くちびるに血の色をのせる。髪をほどき、暗い雲のような広がりになるまでとかして、きらめく金の粒や宝石、紙製の薔薇のつぼみをいっぱいに散らした。」

 

(創元推理文庫「オドの魔法学校」(2008) パトリシア・A・マキリップ 原島文世訳 p.105)

 

 あと私が特に好きだったのは、庭園でのブレンダンとヴァローレンの会話。この2人は交流を続ければそれなりに相性の良いタイプだと思うので本編の先の話が読みたくなる。何らかの絆を結んでほしい。

 色々な人がいる王宮で過ごし、集団生活の上下関係だとか規則などに敏感に反応するのはヴァローレンだけど、ヒトよりも植物と話す方が得意な一方で、家族や恋人を失った孤独などを確かに知っているのはブレンダンなのよね、という部分も味わい深い。どちらも正反対のベクトルで世間知らずなキャラクター……。

 ヴァローレンはあれほど融通の利かない分からず屋な人物造形でありながら、魔法を使って一方的に相手の頭を覗こうとするのは「許しがたいほど不作法」だと理解しているのが正直すごく面白い。そういう感覚はあるんだ、彼。

 

 作中における「靴」というモチーフの使われ方も印象に残る。

 靴屋の靴(看板)の下をくぐったヤール、ブレンダン。そして、歩きにくい宝石付きの靴から、それよりも合うブーツがあるとセタに言われて履き物を変えるスーリズ姫。特に後者は、自分の意思で新たな道へと踏み出す彼女にこそふさわしい描写で好きだった。足を守る靴。より、遠くまで行けるようにと願いが込められる。

 これらの靴も巨大なティラミンの頭も、そこかしこにフランク・ボーム「オズの魔法使い」を彷彿とさせる要素が散らばっていて楽しいもの。本物の魔法か? あるいは、単なる手品か? という王たちの疑念とともに、読者もレンガの道を辿るがごとく読み進める。

 最後にケリオールからスクリガルド山に向けて出立した彼が、どんどん言葉の枠を越えて多種多様なものに姿を変えていくのは圧巻で、あの疾走感が忘れられない。日本語訳が絶版になって久しいけれど、再評価されてまた広まってほしい1冊。

 

 

 

 

西加奈子《通天閣》名も知らぬ他人には取るに足らない自己という物語|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 マストドン上の読書タグの投稿を見て、そういえばこちらのタイトル、確か自分の本棚にも(かなーり前から)放置してあったのでは……と積読していたのを出してきた。

 表紙が真っ赤。西加奈子「通天閣」は、果たしてどこで買ったのか覚えていない。

 

"もう十二年ここに住んでいるが、向かいのそいつの名前を俺は知らない。何の仕事をしているのかも知らないし、話したこともない。ただ知っているのは、俺より前から住んでいたということだけだ。"

 

(西加奈子「通天閣」(2009) ちくま文庫 p.13)

 

 街、社会、というのは奇怪な場所。

 一生関わる機会もなさそうな人間たちが、一人とは言わずわんさかと、恐ろしいほど近くで「私」の周囲に存在している。

 通勤の際に電車で読んでいるといっそう、車内で座ったり立ったりしている乗客それぞれの生活を妄想せずにはいられない。あの、個々の身にその時、どんなことが起こっていようと、いかなる背景を背負っていようと、世界に何の影響も及ぼさない「はっきりとした」感じ。

 ここがそういう場所であると実感する瞬間、その感触。

 

 生活の途方のなさのようなもの。

 他人の人生は、自分にとってはどう足掻いてみてもフィクションになってしまう。通天閣にのぼったことのない私にとって、小説に描かれたその塔が、まったく架空の存在であるように。

 

 読んでいて感じる滑稽さはそのまま誰の生涯にも当てはめられる。

 どれほど名を馳せても、無名のまま日々を過ごしても変わらず、終わりが訪れる。そこに何を見出すかには明確に差異が現れるが、その差異すらも、数百年後数千年後には薄れて消える。

 ほんの数十年のあいだに感じる、幸福や苦痛、また出会っては別れ、生きては死ぬ人間のことを、さも全宇宙を揺るがす一大事であるかのように捉えて右往左往するのが私達。

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

小川洋子《密やかな結晶》失われる、とはどういうことか|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 

 作中で「消失」と称される現象。

 

 これは一部の例外を除いた人々から、特定の物事に対する感慨を取り去る。そして「秘密警察」なる組織はそれを推し進める……。例えば香水が消失を迎えれば皆、香水を前にして何の香りも思い出も喚起できなくなり、さらには香水そのものを持ち続けることも秘密警察によって阻まれる。

 同著者「薬指の標本」も以前手に取っていたから、「密やかな結晶」の作中作(小説)は変奏のよう。最後に閉ざされる扉。でも印象は大きく異なり、記録する者と保存される者との対比が胸に残る。

 消失が訪れても何も失わない、忘れない、その記憶とともに生きる人……。

 

 昔、大切にしていたのに、今はどうでもよくなってしまった事柄や、人間。または自分の一部。誰もがこうした忘却と共に生き、消失はいつでも訪れる。

 描かれるのは集団的消失でも、これは個人の領域でだって頻繁に発生する現象で、それは救いでありながら悲しい出来事なのかもしれないなぁと思っていた。忘却は。仮に、消失を迎えたのが自分の好きでないもので、それにまつわる記憶が嫌なものであっても。

 いっそ秘密警察の手を借りたいほどつらい出来事も、永劫に忘れずにいられたら、その傷も血も痛みもまた結晶になるだろう。

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

レイ・ブラッドベリ《塵よりよみがえり》魔族の館と人間の子供|ほぼ500文字の感想

 

 

 

「おまえは遣わされたんだ、坊や、わたしたちのことを書き記し、わたしたちをリストに載せるために。太陽を嫌って月を愛することを記録するために。でも、ある意味で、屋敷が呼んだんだ。だからおまえの小さなこぶしは、書きたくて書きたくてたまらないんだよ」

 

(河出書房新社「塵よりよみがえり」(2002) レイ・ブラッドベリ 中村融訳 p.39)

 

 先日手に取った、同著者「何かが道をやってくる」でも描かれていた〈秋の民〉。邪悪な存在と推測され、魔力を持ち、死なず永遠に存在し続ける闇の住民たち。ジムとウィルにとっては、彼ら家族と町をおびやかした、恐ろしいものだった。

 どうやら「塵よりよみがえり」の方では、この秋の民の一族から見た情景や、さらにその屋敷に置き去りにされた『普通の人間』……魔族に育てられたティモシーの物語が描かれていると分かる。

 不思議な能力を持った彼らと同じようになりたい、と無邪気に願い、けれどその本質を深く知っていくことによって、やはり人間として生き、死にたいと願うティモシー。

 でも一族の滅びを前にして、彼の心には皆に愛された事実が残っていた。

 

〈秋の民〉一族は通俗的な善と対照的なようだけれど、不思議なことに、一部の幽霊のような存在は『不信心者の数が増えるほど存在を保てなくなる』みたいだ。反対だと思っていた。

 光を信じる者がいなければ影も存在できず、光など虚無だと打ち捨ててしまう世界にはもはや闇の入り込む余地もない。そういう点で、虚無主義に抗おうとする作者の意思も伺える。

 その鍵となるのはやはり『記憶』や『記録』なのだった。

 ティモシーは歴史家。そうやって、命あるかぎり皆の存在を語り継ぐ。

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 引用部分を除いて約500文字

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レイ・ブラッドベリ《何かが道をやってくる》怪しい移動遊園地、幼少期の転機|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 原題にある"Something Wicked"……何か邪悪なもの、というのはシェイクスピアの作品「マクベス」からの引用。では、作中で移動遊園地と共にやってきたそれらは、その邪悪さで一体何をおびやかし、害をなすのか?

 善良な心、人の世の善なるもの、教会での真摯な祈り。

 そういうものを冒涜し腐してしまうのが、邪悪なカーニヴァルだった。

 

 ブラッドベリは幼少期から、遊園地や道化師がもたらすイメージを恐れつつ、心の一部を囚われてきた。

 怪しげな存在に翻弄される2人の少年・ジムとウィルはある意味で著者の分身ともいえる。そして、高齢で結婚して息子をもうけたウィルの父、チャールズも……。

 なんとなく「父の役割」「母の役割」が分割されているふしのある言い回しは古めかしいが、作品にはそれを補って余りある魅力があった(単純に、私が遊園地モチーフを好んでいるからというのも無論、ある)。

 

 ぐっとくるのは、さりげなくだがしっかりと描かれている図書館や書物への信頼。そして、恐ろしい〈塵の魔女〉を前にしながら「きさまは滑稽だ!」と笑い飛ばす強さ。

「人生とはつまるところ途方もない大きさの悪戯」だと彼は思う。

 それは決して投げやりな諦念ではなく、窮地から彼を救う。

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 約500文字

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小川洋子の短編集《薬指の標本》《海》とサイダー的官能|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 

 小川洋子の短編集「薬指の標本」と「海」を読んでいた。

 2冊のどちらもいくつかの話に(「薬指の標本」表題作では特に印象に残る存在として)『サイダー』『ソーダ』など炭酸水が登場し、これがなんともいえず、作者の書くものの色に合っているのではないかと思わずにいられなかった。

 

 炭酸飲料は性質からして官能的な気がする。

 こう表現すると、いたずらに性的な感覚を強調しているかのように響いてしまい煩わしいけれど、複数ある辞書上の意味での「感覚器官の働き」の方を想定している……と思ってほしい。

 サイダー類の液体がたとえば、あの大小の泡で上唇や口内、舌の先や表面、歯茎、喉をぷつぷつ刺激する感覚や、栓を開けた瞬間の独特の香り、さらにしばらく時間が経って半ば気が抜けた後のごく淡い風味も、甘さも味のなさも、すべてが身体的な神経に作用する。

 

「海」に収録されたインタビューでは『官能は私の最も苦手とする分野なので』と著者自身が言及していたのを、実に興味深く咀嚼した。

 読み手や作中の語り手が逃げる余地をさりげなく奪い、じわじわと確実に感覚器官に訴えてくるような部分がある、という意味で、この人の作品のいくつかが官能の極致だなーと思う時が私にはあるので。

 触発されて、サイダーを飲んだ。

 

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

F・ボーム《オズの魔法使い》エメラルド・シティの着想源 - 白の都(White City)と緑のゴーグル(Green Goggles)

 

 

 

参考書籍:

 

 ここでよく言及しているH・C・アンデルセンや夏目漱石など、近代に生まれた作家はその時代の影響下にあって、現代のものとはまったく異なる「黎明期・最盛期の万国博覧会や内国勧業博覧会」を目にする機会がしばしばあった。

 一部の作品を紐解くと、それらの風景、あるいは登場人物達から見た印象などが、形を変えて記されている場面にしばしば遭遇する。

 名作《オズの魔法使い(The Wizard of Oz)》を世に生み出したアメリカ出身のライマン・フランク・ボームも、自分自身の過去の経験や、シカゴで目撃した万博の様相を組み合わせてイメージを膨らませ、物語世界に彩りを与えた作家のひとりだった。

 

 単色に輝く建造物によって構成された壮麗な「白の都(White City)」。

 また、現実を変容させる道具としての「緑色をしたゴーグル(Green Goggles)」。

 ボームがこれらを目撃したことは、世界で長く読み継がれている《オズの魔法使い》の根本に今も息づいている。

 

 ちなみに私は《オズの魔法使い》だとゲイエレット姫が好きな登場人物です。

 

 

一色に輝く壮麗な都

 

 1891年に家族を連れてアバディーンから引っ越し、建築家のフランク・ロイド・ライトが勤務していたのと同時期のシカゴへ移った彼はその2年後、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会(World's Columbian Exposition)を目の当たりにする。

 展示の中でも、人工池の傍らにずらりと白亜のパビリオンが並ぶエリアは白の都「ホワイト・シティ(White City)」と呼ばれ、《オズの魔法使い》における「すばらしいエメラルドの都」——原文では「エメラルド・シティ(Emerald City)」と称された都市の、着想元の一部となっていたようだった。

 白一色に光り輝く都……。

 ちなみに当初「オズ」の挿絵を担当したウィリアム・ウォレス・デンスロウが描いたエメラルドの都の様子、巨大なドームなども、実際にシカゴ万博で展開されていた光景と共通点を持っている。デンスロウが描いた万博会場の姿と、実際の白黒写真、そして挿絵の3つを検索して比べてみると面白い。

 

 

 日本語版、新潮文庫の訳者あとがきにはこうある。

 

また「白の都(ザ・ホワイトシティ)」というものも出現した。

当時の写真を見ると、パリのコンコルド広場に似ている印象だが、そうした壮麗な建物のすべてが白亜で、都の門にはシロクマの彫刻が飾られていた。陽の光が当たるとまぶしくて、見学者はほとんどサングラスをかけたという。

 

(新潮文庫「オズの魔法使い」(2019) L・F・ボーム 河野万里子訳 にしざかひろみ絵 p.249『訳者あとがき』より)

 

 特別なメガネなしでは、まばゆいエメラルドの都の輝きで目をやられてしまう――。

 そんな風に門番から説明を受けて、しっかりと鍵付きのメガネを装着し「エメラルド・シティ」を歩き回ったドロシー達の姿が脳裏に浮かぶ。すべてが宝石のエメラルドや緑の大理石に覆われて光っている広大な街で、売られているのは緑のキャンディ、緑のポップコーン、緑の靴、緑の帽子。

 ……もちろん、レンズの色がそう見せているだけなのだが。

 

 

緑のゴーグル越しに見る世界

 

 この「メガネで異なる事実を現実だと信じさせる」要素に関しては、作者ボームが過去に執筆した一連のコラム(《Our Landlady》と名付けられた)のうち、ある回に登場した「農民によって緑のゴーグルをかけさせられた馬」の存在も無視することができない。

 そのようなゴーグルが本当にあったとは。

 1890年5月3日、サウスダコタの新聞The Aberdeen Pioneerに掲載されたコラム"She Discourses on Many Topics and tells how Alley deals out the Corn"に、こんな一節が見られる。

 

"Got any feed?" says Alley.

"No," says Jake, "I put green goggles on my horses an' feed' em shavin's an' they think it's glass, but they ain't gittin' fat on it."

 

( L. Frank Baum《Our Landlady》(1999) University of Nebraska Press p.61)

 

 干ばつに際して馬にやる飼料がないので、代わりに緑のゴーグルを彼らにかけさせ、食べている何かを草だと思わせる……というエピソード(!)。文中のshavin'sというのはおそらくshavingで、木やその他の素材で薄い欠片になったものを指す言葉。木片を食べさせていたとでも捉えておく。

 こんな風に、真実ではないことを真実だとする作為で成り立つユートピアとして「大魔法使いオズ」が構築したエメラルド・シティもあった。

 フランク・ボームは他にも「カカシ」「マッチ」「陶器」など、自身の思い出や仕事に関連する言葉をさりげなく「オズの魔法使い」に登場させている。形を変えて物語の一部となったものたちは、だからこそ精彩を放って見えるのかもしれない。

 都というものの美しさや華やかさに驚嘆しながらも、そこに長く留まるのではなく故郷に帰りたい、と願ったドロシーの気持ちは、当時の作者自身が抱いていた感情とどこかで繋がっていただろうか。

 

シカゴ万博のホワイト・シティ

 

 一色に輝く都のイメージを膨らませるきっかけとなった、実際のシカゴ万博における《ホワイト・シティ》の様子をもう少し知りたいと思った。まず覗いてみた国立国会図書館のwebサイトには、史上最大の「電気」を活用した万博として概要が紹介されている。

 会場内で「栄誉の中庭」区域にあった真っ白な街のことも。

 

 

 表面に化粧石膏を施されたことによって、すっかり真っ白になった建物群。

 しかも色そのものだけではなく、歴代の万博のなかで初めて大量の電力——第4回パリ万博(1889)に比べて16倍もの光源——が用いられ、約12万本の電灯(一部はアーク灯)が会場を照らしたというから、その文字通りの眩しさは当時の人間にとってかなり衝撃的であったことだろう。

 きらきらした強い電飾の光は、白亜の壁に反射して、それこそ宝石の輝きのように目を灼く。

 また、吉見俊哉「博覧会の政治学―まなざしの近代(中公新書)」では、第5章2節『白亜の都市とミッドウェイ』にこのような記載があった。

 

ホワイト・シティの建築群を支配していたのは、パリのアカデミーの影響を受けた古典主義的様式であった。なかでもその基調をなしたのは、古代ローマのイメージである。人工池の周りにイメージの源泉を求めることは、一九世紀初頭、ジェファソンによるワシントンの建築でも見られたことである。

 

(中公新書「博覧会の政治学―まなざしの近代」(1992) 吉見俊哉 p.188)

 

 作品の本筋から外れるが、このホワイト・シティと対比されるように設置されたエリアにミッドウェイ・プレザンスなる通りがあったのも見逃せない事実。

 そこは世界の諸民族やその文化を出し物的に利用した娯楽街で、当時の思想としてはこの「未開」かつ後進的なエリアから、観客を徐々に進歩と「文明」の象徴、西洋的ユートピアを象徴するホワイト・シティへ導くような構想があったと推測されている。

 これらの展示が人種的な偏見、差別意識と結びついていたことや、催事を通してそれが大衆娯楽とも密接に絡んでいた過去を意識の隅に置き、シカゴ以外の近代の万博(とりわけ物語とゆかりのあるもの)各回にも目を向けていきたい。

 

 

 

 

夏目漱石《夢十夜》第二夜 より:和尚(宗教)と時計(文明・学問)のあわいに座して悟りを求めた意識

 

 

 

 

 昔、預けられていた祖母の家に、壁掛けの振り子時計があった。

 八角形の盤面の下に振り子の入ったケースが下がっている、古くてごく一般的なもの。それは本来1時間ごとに音を出す仕様であったはずが、私が物心ついた時にはもう部分的に壊れていたようで、時間の方はきちんと刻むけれど鳴らなかった。

 それなのに記憶の詰まった箱を開けようとすると、自分はその音を知っている、という気がする。低い音。怖いような落ち着くような、部屋に満ちる空気を震わせる響きを。

 もしかしたら家に出入りする誰かが時計の電池を交換する際、接触の関係か何かでたった一度鳴ったのかもしれないし、あるいは完全なる思い込みが生成した幻なのかもしれない。いずれにせよ音を発する時計は自分にとって少し心に引っかかる、ある意味では特別な存在で、気が付くと頭の隅っこにいる。……ときどき。

 

 ちかごろ、近代に書かれた文学作品で、特に「音の出る時計」が出てくるものを色々と探して読んでいた。私達がふだん見慣れているような類の各種時計が、一般大衆に普及し始めるのがそのあたりの時代だから。

 もう自分のブログに感想を書いたものだと、谷崎潤一郎《少年》、あと夢野久作の《女坑主》などがある。他には室生犀星《音楽時計》や新見南吉《うた時計》がとりあえず脳裏に浮かぶ中で、ふと、夏目漱石の《夢十夜》を構成しているうちの「第二夜」を思い出した。ああ、これも。

 その第二夜(というよりか、夢十夜という作品全体がそう)はなんとなく読んでいるだけでも十分に楽しく面白い物語だけれど、漱石を好きになり、彼の抱いていた関心をさらに深追いしてから改めて向き合うと、モチーフが示唆に富んでいていっそう面白さが増す。

 なぜ、和尚なのか。なぜ、時計なのか。なぜ「何か」がそれらの姿をとって現れなければならなかったのだろうか……これらについて考察させられる。

 

 もう一度書くが、別にそれらについて考えなくたって《夢十夜》は面白い。

 文章そのものから、あいは展開されている光景や登場する人物、事物から、表象を読み取ろうとするだけでわくわくする。

 必要なのではなくて、私が漱石を好きで、考えたいから勝手に考えているだけ。

 

 

《夢十夜》第二夜のイメージ

  • 「宗教」の和尚

 

(宗助は)「私の様なものには到底 は開かれそうに有りません」と思い詰めた様に宣道を捕まえて云った。それは帰るニ三日前の事であった。

 

(夏目漱石「」(1993) 新潮文庫 p.206)

 

 和尚さんは、仏教の世界で修行を積んだ僧侶。

 もしも、とある夢の中で「悟りを開いてみよ」と侍に迫る和尚(しかも『口惜しければ悟った証拠を持って来い』と口にするくらい挑発的な)がいるとするならば、それは漱石にとって、まさに宗教という存在の象徴であっただろうと感じる。加えて、彼の内実が反映された登場人物にもその意識は表れている。

 例えば前期三部作の《三四郎》《それから》に続く《門》では、宗助という人物が己の心理的な罪業に苛まれ、親友であった安井の影を恐れ、救済を求めて禅寺の門を叩いた。

 

 そこでの禅修業の描写を支えているのは、著者である夏目漱石自身が明治27~28年に跨る期間に体験した、鎌倉円覚寺での参禅。彼もまた寺へ、和尚のいる場所で学び、何かを悟ることができればと目的をもって足を運んでいたのだった。

 しかし赴いた先では真に悟りを開くこと叶わず、さらに胸のわだかまりと苦悩は、次の作品へと引き継がれていく。宗教は《門》の宗助の心も、また漱石の心をも完全に救うことはなかった。

 後期三部作のひとつ《行人》においては、今度は一郎という人物が「ああ己はどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうか己を信じられる様にして呉れ」と切実に零している。

 

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」兄さんは果してこう云い出しました。その時兄さんの顔は、寧ろ絶望の谷に赴く人の様に見えました。

 

(夏目漱石「行人」(1952) 夏目漱石 p.427)

 

 宗教は悟りを開くための道のひとつであるが、それを芯から信じることができない者にとっては、非常に難儀な存在となる。宗助のように、一度は救いを求めて寺に向かうも、最終的に「門を通る人ではなく、しかし通らずに済む人でもはなく、門の下に立ち竦んで日暮れを待つ人」となってしまう者もいるだろう。

 禅寺に修業をしに行った漱石もそう感じていたのではないだろうか。

 そんなお寺には、まさしく和尚さんがいる。和尚さんがいる場所はだいたいお寺だ。《夢十夜》の「第二夜」に現れた和尚の姿を見るに、悟れるものなら悟ってみよ、といささか高圧的に迫られている状況というのは、宗教に対して彼が抱いている心情を部分的に反映している箇所だと思われる。

 

 

 

 

  • 「文明・学問」の時計

 

隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。

 

(夏目漱石「文鳥・夢十夜」より『第二夜』新潮文庫 p.34)

 

 この《夢十夜》における「第二夜」の終盤。そこで侍(さむらい)は、全伽(座禅)を組んだ際に彼が頭の中で言及した『無』というものを、確かに掴みかけていた。すべてがそこに有って無いような、無くって有るような、そういう境地に達しようとしていた――ある邪魔さえ入らなければ。

 彼の悟りは阻まれる。何によって阻まれるのかといえば、まさしく時計だった。広い寺の一室、隣座敷にある置時計の存在。それが発した「チーンという音」こそが彼を悟りから遠ざけたのだ。本当に示唆的だと思う。

 この作品が初めて発表された明治41年という時代、また漱石とこの作品にとって、時計とは一体何だったのか。

 私は《虞美人草》から《明暗》に至るまでの夏目漱石作品を順に読んでみて、改めて《夢十夜》に戻って来たときに、時計という道具のイメージには「文明」と「学問」の二要素がちらつくと感じた。どうしてなのか整理する。

 

 日本において「時計」が限られた範囲の人間にとどまらず、一般庶民に広がるきっかけとなったのが、明治5(1872)年の改暦だった。

 それまで国内で生産されていた和時計は権力者や富裕層が所持していたのがほとんどで、今の私達が触れている壁時計や腕時計のようには身近ではなかったのが、改暦をきっかけに変わり始めた。西洋時計の実用化が促進された背景はそこにある。使われるのは不定時法の太陽暦から、定時法の太陰暦へ……明治19(1886)年には本初子午線の勅令も。

 市井に暮らす普通の人間が徐々に目にするようになっていった時計とは、いうなれば近代的な時間秩序そのもので、またそれが支配する「文明社会」の象徴ともなった。《夢十夜》が発表されたのは、読者の多くがすでに時計を身近なところで知るようになった時代。だからこそ、こうして作品の中で効果的に使われている。

 そもそも明治の時代と、前時代の遺物と化した「侍」という身分との対比も無視できない。

 

 あともうひとつは、学問の世界について。

 

友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜わった。浮かび出した藻は水面で白い花をもつ。根のないことには気が付かぬ。

 

(夏目漱石「虞美人草」(2020) 新潮文庫 p.68)

 

 漱石の作品《虞美人草》の中で小野が賜った銀時計。

 これはかつての旧帝国大学における風習で、優等生に下賜されていたものを指す。つまり時計とは成績優秀者に与えられる品でもあった。学問の領域で認められれば手にすることができるものとして、時計は一般に認識されていた。

 これらを合わせて考えたとき、いわゆる近代の文明や学問が人間に何をもたらし、どの程度幸福にできるのかについて頭を悩ませ続けた漱石が描いた、奥深い「夢」の世界と実際の世界はうっすら重なって見える。

 優秀な成績をおさめた人間が手にできる時計は、悟りの助けにはならなかった。

 

  • ふたつの狭間で

 

 彼は文明に対して(時にはそれがもたらす光景に、純粋に感嘆しながらも)批評のまなざしを注ぎ続けていたし、学問の道というのが必ずしも人にとっての善や幸福に繋がっているとは、研究に熱を注いだ自分の実感として思わなかった。

 だからといって宗教の方を信じることもできなかった。

 真理を掴みたいと渇望し、ふたつの要素に心の安寧を引き裂かれている。

 

 別の作品《彼岸過迄》では、須永市蔵がこう言っていた。

 

この不幸を転じて幸とするには(中略)天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美くしいものか、優しいものか、を見出さなければならない。

 

(夏目漱石「彼岸過迄」(2010) 新潮文庫 p.328)

 

 ある人間が天下にたった一つ、そんなものを見出せたとしたら。まさにそこは悟りのような一種の境地に他ならない。漱石が晩年に至るまでに、いわゆる「則天去私」を志すようになっていた事実も考えさせられる。我欲を捨て、天に身を任せる。足掻くのではなくてなるようにさせる……。

 さて、《夢十夜》の「第二夜」では、宗教の象徴である和尚が侍の前に立ちはだかり、さらには近代文明の象徴たる時計が、『無』へ至ろうとする彼の意識を容赦なく妨げる。

 無情にも文明社会の側からチーンという音が鳴り響き、森閑とした寺に座していた侍は刀を手にかけ、意識を呼び戻されてしまってもう悟れない。

 あのまま全ての雑念から解き放たれて「すべてがそこに有って無い様な、無くって有る様な」意識のまま「好加減に坐って」いた状態を続けられたならば、まさにそこが無だったのに。無の極致であったのに。

 

――趙州曰く無と。

無とは何だ。糞坊主めと歯噛をした。

 

(夏目漱石「文鳥・夢十夜」より『第二夜』新潮文庫 p.35)

 

 作中の侍だけではないのだ。悟りたくとも悟れない、どう頑張っても「そこ」まで辿り着くことができない……と漱石自身が抱えていた苦悩の方も、夢という形に変わって作品の表面に滲み出ている。自我、我欲、自意識をすっかり払拭できるくらいの心境に至りたくて、でも至れないもどかしさ。

 それをこれほど妖しく、幻想的な情景の方も楽しめるように書き上げてしまえるとは恐れ入る。

 本当に読んでいるだけで面白い作品で、大好き。

 

 

 

 

 

高田大介《図書館の魔女》は「言葉」に溺れて見る壮大な夢の一幕みたい|ほぼ500文字の感想

 

 

 


 第45回メフィスト賞受賞作。

 

 

 

 耳は聞こえるが声を発することができぬ唖者のため、手話を用いて意思の疎通を行う《図書館の魔女》、名をマツリカ。そして、常人よりはるかに鋭敏な感覚を持っているものの、文字の読み書きができない少年キリヒト。

 ある思惑によって邂逅した2人は、やがて「新しい手話」を編み出そうと模索するようになる。

 

——音声も文字も言葉の最後の拠り所ではない。
そのどちらにも拠らず、なお言葉たりうる表現手段はいくらもあるんだから。
ただね、単なる叫びとは異なる、象徴的な記号や図絵とは異なる、真に言葉といえるものなら必ず持っている性質が少なくとも二つある。

 

(高田大介「図書館の魔女 第一巻 (講談社文庫)」p.105 Kindle版)

 

 ……根っからのファンタジー好きとしては所々に「あああ、そこは惜しいな~」と思える要素が散見されたのが玉に瑕だったけれど、内容が面白いのには疑いがない。

 何が惜しいのかといえば、ハイ・ファンタジーでありながらも、私達が生きる「こちらの世界」に存在しているものが名前を変えてそのまま登場する部分だ。せっかく豊かな想像の領域が広がっているところ、何をモデルに構築した要素なのかがちょっぴりあからさまに分かってしまう。

 そこを除けば、魅力的なキャラクターにページをめくる手が止まらない読みやすさ、そして言葉というものに対する造詣、わくわく感と、久しぶりに夢中になって読んだ個人的ヒット作。

 

 多分、合う人には合うし、合わない人には合わない。

 1の言葉で100を想像させる表現があるとするなら、まさにこれはその対極に位置している……と思った。描写、描写、描写、とにかく描写、描写が延々と続く中に、確かな悦楽がある。まるで、言葉は決して単なる道具などではない、そう「ここでは言葉そのものが世界なのだ」と言わんばかりの圧。

 その圧が、心地よい。

 

 

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 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

アゴタ・クリストフ《悪童日記》面白かったからこそ続きを読みたくない稀有な1冊|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 

 アゴタ・クリストフ、ハンガリー語の姓名表記に従うならクリシュトーフ・アーゴタの「悪童日記 (Le grand cahier)」は、3部作を構成するうちの初めの作品。

 なので続きがあるといえばあるし、気にもなるけれど、正直先の物語に触れるよりもここで終わりにしたいと願ってしまう。完成されている……。

 

 この、ある世界の枠組みの中に自分がいるのではなくて、あくまでも自我と対立するような形で外界が存在している感覚を改めて呼び起こす点は、例えばシャーリイ・ジャクスン「ずっとお城で暮らしてる」などもそうであるように一人称の小説が辿る運命・特徴なのかもしれない。

 ことごとく、また、すべからくそうなる。

 でも「悪童日記」の語り手は、「ぼく」ではなくて「ぼくら」なのだ。2人、いる。

 これが双子の世界を怖いくらい強固にしているし、読者の私は後ずさりしつつ、惹かれる。

 

 そのうち関連して、人間が他人とかかわりを持つ理由など「こういう遊び」をしたいからに尽きるではないか、とすら思えてくる。

 一体どんな「遊び」かというと、互いにだけ通じる言語を発明して、生活の中でそれを使い、周囲の者には感知できないもうひとつの世界を構築する……そういう遊び。

 

 時代や地域を特定させる固有名詞が意図して省かれているにもかかわらず、読んでいれば、舞台が第二次世界大戦中のヨーロッパのどこかであることはすぐ明らかになるだろう。

 

 

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 約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。