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彷徨する自由帖

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ひるまの電飾がたたえた光は不自然で妖しい|イングランド北部・リーズ (Leeds)

 

 

 

 数年前に行ったリーズは陽が翳っていたからか、なんとなく公平な感じがした。

 よそ者の私達を歓迎するともしないとも宣言せず、街を構成するすべてが、ただ普段着をまとって適度に整った髪型でそこにいる。建物も街路樹も少し素っ気ない。かといって、邪険にされているわけでもない。

 ヨークシャーから南へ帰る途中に寄ったので、あまり長くはいられなかったけれど、街のはずれの方に展開していたクリスマスマーケットで短い時間を遊んだ。晴れ間の見えない厚い雲は、さながら地上ではなく、頭上にある天空の方が雪に覆われているみたいだった。

 

 

 曇った空の下では、ものの姿が必要以上に強調されて、やけに「はっきり」と見える。色も形も。単純な光量の点では、雲が太陽を隠していない時よりも劣るはずなのに、ずっと明瞭に。とても不思議なことだった。暗闇とまた、全然違う。

 誤解を招くのを承知で言えば、よく見える、という意味においてのみ、たぶん鮮やかになるのだ。いろいろなものが。曇天それ自体に対して抱く印象とは、ほとんど反対に。

 だから曇りの日に外を出歩くのが苦手なのかもしれない。別段求めていないところまで、事物の表面が見え過ぎる点で。そんなに無粋な演出をしなくても良いではないか、と個人的には思ってしまう。少しは誇張でもしてみた方が、より美しくなったり、楽しくなったりする箇所も存在するのに。

 だって、そういう要素が何もなかったらつまらないもの。

 

 

 どこかシニカルな雰囲気をまとい、修飾を排した曇天の風景には「余地」がほとんどない。私は世界の側から一方的に何かを示されている、あるいは理を語られ、諭されているかのように感じてしまう。まるで、これこそが真実の光景なのだ、とでも言いたげに目の前にあるから。

 実際はそれも、この世のあらゆる事物が持っている、無数の側面のひとつにすぎないのだけれど。現実や本当、真実のたぐいは、決して唯一の状態には収束しない。

 そんな、周囲の物事を必要以上に等身大にし、何かを浮き彫りにする性質の曇天の下に、あえて移動遊園地とクリスマスマーケットを設置したら果たしてどうなるのだろうか。

 自分の身で体験してみて、それに対する個人的な答えを得た。随分と面白かった。案外、夜ではなくて、曇った昼間に訪れるのも一興かもしれないと、改めて真剣に考えるくらいには。

 

 

 ものを、ただそこに有るようにはっきり見せる曇りの日と、この手のアトラクションの相性は基本的によくない。曖昧な部分、その余地がなければ世界は広げにくいものだから。しかし相性がよくないおかげで、むしろ華やかさよりも、独特の妖しさが際立っていたのが意外だった。

 本来ならあるべきではないものがここに出現している、そんな奇妙さ。

 たとえば、暗闇の中にあると電飾の存在はかなり「正当」に見える。ふさわしい場所にあると思える。一方、白昼に灯された電飾はどこか唐突だ。周辺の環境や時刻、それらの文脈からあまりにも切り離された脈絡のなさ。旅の途中で黙々と荒野を歩き、ふと顔を上げたら、きらびやかな屋台が目の前にあった時のような違和感。

 そもそもクリスマスマーケットは特定の期間にしか街の中に出現しないもので、観測時期が限定されているのは生き物みたいだった。風物詩の桜とか、ホタルとか、渡り鳥にも似た。

 

 

 平べったい電子音と焼き菓子、グリューワインの匂いに誘われて、細い路地を抜けたら妖精の市。何の変哲もない建物に囲まれて、真っ昼間から営業している不思議なマーケットと小さな遊園地はまぎれもなく異界だった。繰り返して言うが、これが夜だったら大した違和感もない、ごくありふれた存在になる。

 でも昼間だから。しかも、曇り空の下に出ているから。

 そのあたりを歩いている人々に関しては人間だろうけれど、各店舗の店番はどうだろう。城壁や境界線を越えて、この時期だけこちら側にあらわれる何かなのかもしれない。人間に化けられる魔物も多い。

 ハーフ・パイントの量で売られているものも本当はビールではなく、身体の一部を別の動物に変化させる薬かもしれないし、ハンガーから下がっている沢山のプレッツエルは、単なるおやつではなく儀式に使う紐の結び目かもしれない。

 

 

 屋根に "suitable for all" と記載されている、メリーゴーラウンド。

 ご親切かつ意味深長な感じがする。

 人間でも、別に人間ではなくても、乗っていいよと言われている。

 

 

 

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「行きたい国・行った国」

これまでの【海外旅行・散策】記事まとめ

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「行きたい国・行った国」

 

 イギリス留学期間中(2016~2018)の散策を後に記録したブログも含みます。

 まだここに記録できていないものはパリ、ベルリンとミュンヘン、ニューヨーク訪問時の回想。記録写真がほとんど残っていない時代の話なので、そのうち書く予定。

 

目次:

 

【イギリス】

2023/08/31 追記:

 この度、ブログ内のカテゴリ「留学生時代」に属する記事(以下に紹介するイギリス旅行記を含む)の大半を、codocの購入者限定公開としました。1記事100円、全記事読み放題で500円です。

 現地の訪問から6年程度が経過しており、検索から辿り着く「情報」としてはかなり古くなっているもののため、あくまでも情報面ではなく、思い出としての文章や写真の方に関心を抱いてくださった方向けの公開方法を選んでおります。ご了承ください。

 

  • イングランド北部

湖水地方

 

ヨークシャー

 

  • イングランド南部

ロンドン

 

コッツウォルズ地方

 

オックスフォード州

 

バッキンガム州

 

ウォリック州

 

ケント州

 

ストーンヘンジ

 

【ノルウェー】

  • オスロ

 

【エジプト】

  • カイロ

 

  • サッカラ・ダハシュール

 

  • ギザ

 

【マルタ】

  • マルタ島・ゴゾ島

 

  • イムディーナ

 

  • ヴァレッタ

 

【ウズベキスタン】

  • サマルカンド

 

  • シャフリサーブス

 

  • タシケント

 

 

 

 

渡り鳥みたいに移動する遊園地・ロンドン

 

 

 

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 公園の広場や大通りの脇に、いつのまにかあらわれる謎めいたテント。

 

 その隙間から漏れる光、また音楽と歓声が、めくるめく内側の様子を通りすがりの人間にも伝え、貼られたポスターの図柄や誘い文句がさらなる関心を誘う。数々のお話に出てくるサーカスや芝居小屋は、決まって怪しく魅力的だった。

 

 すべての興行が終われば忽然といなくなる。開催期間のあいだだけ、そこにいる。街の片隅に発生した蜃気楼みたいな性質も、そんな一時的かつ限定的な存在のおもしろさを強調しているように思われた。

 

 ひとところに長く留まらないから、捕まえておけない。旅芸人か行商人のように、幾つかの種類の鳥のように、時期が来たなら移動する。

 

 テントだけではなくて、いわゆる遊園地そのものにも土地から土地へと渡っていくものがあるのだと、何年か前に知った。規模の大小にかかわらず「移動遊園地」と呼ばれている、寝入りばなの遠い回想にも似た一団。

 

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 英国ロンドンのハイド・パークには毎年、11月下旬になるとウィンター・ワンダーランドという移動遊園地が根を張る。これは比喩ではなくて、文字通りに各アトラクションの根本が仮設の黒い地面に固定されて、生えたような状態になる。ほんの少し前までは何の変哲もなく、薄緑の芝に覆われているだけだった場所に。

 

 位置は、公園中央部に細長く水をたたえたサーペンタイン池(「蛇」の名のとおり、そういう形をしている)のちょうど頭の後ろあたり。

 

 当時はそこに寄るために陽が落ちてから改めて出かけ、視線の先に観覧車や垂直落下の巨大なシルエットを捉えては、独特の楽しさを感じていた。アトラクションに興味があるわけではないし、賑やかな催しも特に好きではないが、私は移動遊園地の持つ性質に惹かれている。

 

 興行期間中、多くの人間を誘い込んで敷地内にとどめる。そして、終われば一夜のうちに公園を去る。見聞きし体験したこと、食べたり飲んだりしたもの、みなが写真か記憶の中にしか鮮明に残らない。その存在のしかたが幻のようで。

 

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 彩色されたおびただしい電飾がぼんやりと照らす空間は、私にいろいろな事柄を錯覚させる。ここがどこで自分はなにをしているのか。立ち止まれば、可視化された白い吐息が忘れかけていた寒さを教えてくれる。

 

 周囲は普段まず見かけないもので溢れている。メリーゴーラウンドを模したカルーセル・バーの看板からは馬の上半身が三つ突き出ていて、墓からは襤褸をまとった骸骨が顔をのぞかせ、気付けば鳥を片手に乗せた巨人に見下ろされている世界。

 

 ところどころに星を飾った小屋がある。きっと、ここからずっと離れた場所にある山か、森の中の湖のほとりで拾ったのだ。夜毎に店頭でまたたく星々は、ときおり客によって買われていく。やがて遊園地が移動してもそれは彼らの手元に残り、家の片隅に置かれて部屋や廊下を照らすのだろう。あるいは、そのうち煙突から空に帰るのかもしれない。

 

 敷地内では、マフラーを付けた電気ペンギンのアトラクションやシロクマの置き物が放し飼いになっているから、油断していると暗がりから不意にあらわれて襲われそうになる。そんな形で、身体だけではなく肝までも冷やしたくなる冬の夜、間借りしている「名ばかりの家」に帰る気分になれない時などには、かならずこの移動遊園地を訪れた。

 

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 時期が来ればロンドンの街から出ていくのは私も同じ。やがて、できるだけ後を濁さないようにして別の場所に行き、最後には本当の意味で家と呼ぶ場所に帰る。そこから、またどこかへ。

 

 

 

 

 

 

方丈記、夏目漱石、テムズ川:都に暮らす

 

 

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 都に暮らす(2018年の記録)

 

   *

 

 寝台に横たわったまま耳を澄ました。雨の音も、風の音も聞こえない。それでいて休講日である。

 首だけを動かしてカーテンのわずかな隙間から外をうかがい、どうやらよく晴れているらしいと天候を把握した瞬間、嬉しさでにわかに働き出した心が身体に外出の支度を急がせた。部屋に座っていてもできる諸々は後回しにして、なにより先に太陽の光を浴びる必要がある、と有無をいわさず促してくる。

 しばらくイギリスに滞在して曇天に飽いた人間の多くは、快晴の日が訪れるたび、条件反射的にこうなってしまうらしい。周囲に尋ねれば、みんな口々にそう言う。

 

 当時はロンドンに渡ってから約1年と数ヵ月、そのフラットの一室を借りてから半年以上が経過していた。住民は私のほかに2人だ。とうにリタイアしたご年配の大家と、英国の政府機関に勤めている、30代前半の男性。

 自分の小さな部屋は、壁際に置かれたクローゼットの扉を開くと、わずかな空間が分断されて身動きが取れなくなるくらいに狭い。床面積に比例して採光窓も小さく、常に全体がうす暗い感じがする。だから夏場などは涼しくていい。そのわりにはセントラルヒーティング設備のおかげで冬もそれなりに温かく、不便や不快を感じる場面は少なかった。肝心な暖房のシステムに致命的な不具合が発生しない限りは。これに関しての話は、また別所ですることにしよう。

 水道光熱費、インターネット使用料含め、月におおよそ£450で借りている部屋。イギリスにいる間は、ここが書類に登録された住所であり私の家だ。けれど、実際にそうだという感じはほとんどしない。

 そもそも「家」というのは通常、かなり強い安心と安全とか、もっといえば侵されない居場所に等しい領域を提供してくれる存在とか、そういうものを暗に示している言葉ではなかったか。ここは、あくまでも仮の住まいでしかない。玄関から続く廊下、左に逸れて台所、壁を挟んだ洗面所……どこに立っていても、他人の家に上がり込んだ際に苛まれるよそよそしさは一向に抜けない。自分の家では、ないのだ。

 いまだに起床するたび、でこぼこして平滑さに欠ける淡い灰色の天井を視界に入れては驚く。コテか何かで表面を塗りこめて、そのままにしてある風の素朴な雰囲気の壁、あとは梁。全体的に部屋の輪郭が真っすぐではない。また、数日前に切れてしまった電球を替えたときは、その実家では馴染みのない形がなんとなく網膜に貼りついて、夜に消灯してからもしばらく瞼の裏から消えなかった。

 たまにあらわれる小さな黒い蜘蛛は、ここでの数少ないお友達。

 

 ともあれ、いま向かうのは外なのだ。

 玄関で古めかしく重たい鈍金色の鍵を回す。鍵穴か、あるいは扉の方が歪んでいるのか知らないが、開閉には少しばかりの力とコツが要る。ある日、何度試してもうまく回らなかったときなどは、すっかり立ち往生して冷や汗をかいたものだった。諦めず根気よく試していたらようやく開いた。

 その「家ではない家」を後にして、街路樹や手入れの行き届いた住宅街の生垣を横目に、20分程度歩き続けると地下鉄の駅に着く。改札の手前の道、定期的に振動する鉄道の高架下では、ボロの毛布にくるまり寝ている人たちを何人も見かけた。

 

   *

 

 地下鉄から降車後、押し出されるようにして上った細い階段の先から爽やかな青空がのぞき、やがて道路を行き交う車の音が耳に届く。暗がりから這い出て信号待ちをしていると、だいたい数十台に一台程度の割合で、ダブルデッカー(2階建て)の赤いバスが眼前を横切っていった。強く鮮明な色彩に再び目の覚めるような心地がする。

 確かにここはロンドンだ。

 セント・ポール大聖堂のドームを背後に前方へ進んで、しばらくすると巨大な生き物の脊椎じみた、針金細工を思わせる銀色のミレニアム・ブリッジに至る。その終着点の右手にあるのが近現代の作品を収蔵する美術館、テート・モダン。かつて稼働していたバンクサイド発電所の建物を改装し利用しているのが特徴で、四角く長い煙突は、対岸からでもよく目立つ。近代工業施設らしいレンガ積みの壁がまた魅力的なのだ。

 岸と岸を隔てるのはテムズ川の流れ。大きく蛇行しながら街を南北に二分しており、この地点の川幅は250メートルを超える。東京タワーの高さよりは短いが、思い切り小石を投げたとしても届かないくらいには遠い距離。

 私はそこで空と水とのあわいに立ち尽くした。いつも散歩に出たらそうするように。

 

ゆく川の流れは絶えずして、 しかも、 もとの水にあらず。

 橋のたもとから眼下にテムズ川を認め、その一文を何度、広大な水面と脳裏に浮かべてみたかわからない。これが鎌倉時代に成立した鴨長明の作品で、日本三大随筆にも数えられている『方丈記』の書き出しであるということは、わざわざ説明するまでもなく明らかだ。文は、さらにこう続く。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

 なぜこの随筆を、日本からこんなにも遠く離れた西方の島国と結びつけられるのか。

 そう尋ねられれば、西暦1900年の9月、横浜港でプロイセン号に乗り、パリを経由して10月末にロンドンに降り立ったある人物のおかげだ、と答えるだろう。夏目漱石である。本名を夏目金之助といった彼は、1902年の冬までここにいた。

 33歳の折に国費留学を命じられた漱石は、東京帝国大学に在籍していた24歳のころ、英国人のディクソン教授からの依頼で『方丈記』を英訳していたのだった。まだ学生の時分に手掛けられたもので、一般のものとは異なる解釈や、誤訳と思われる箇所もいくつかあるが、いずれにせよ彼の軌跡を辿る貴重な資料のうちのひとつ。

 

 ミレニアム・ブリッジの中程まで進んで、高欄ごしにテムズ川を見てみる。

 水は定期的に橋脚にぶつかって裂けながら、休まずどうどうと、滔々と流れている。もっと遠くから眺めると表面は少しも動いていないようなのに。川は外観が穏やかでも、実際には非常に複雑な渦があちこちで発生しているのだと、過去になにかの本で読んだことがある。

 晴れの日は蒼穹の色を反射して青く仄黒く、雨の日か雨上がりには黄土色に濁った表情へと変わる、ロンドンにおける川の代名詞。漱石も、こんな風にテムズ川を視界いっぱいに収めて、かの『方丈記』の一節を胸に喚起したことがあっただろうか。もちろんあったかもしれないし、なかったかもしれない。想像するのは勝手だ。

 不意に名前の知らない鳥が、ドラム缶に似た浮きの上に止まって何事かを鳴いた。そばに係留されている曳船が波に身を任せて緩慢に揺れている。まるで平和に午睡を貪りながら、すやすやと寝息を立てているかのように。

 

   *

 

 長明は『方丈記』の中で、都市においては火災旋風や地震などの災害で家を失う危険ばかりでなく、巻き込まれて命も落とすおそれが常にあることや、人間同士のしがらみから逃れられない点を挙げて、きらびやかな都に住もうと躍起になり金銭を費やすのは実に無為だと述べている。

 注意しておきたいのは、だからといって田舎に居を構えさえすれば何もかも解決する、とは決して主張していないところ。

 結局どこに暮らしていても環境に応じた苦労の種は絶えないし、あまねく人間はそれに左右されてしまうものだと説いている。それを踏まえた上で長明は、60歳になってから京の郊外の日野山に庵を建設してそこに住んだ。掛け金つきの特別な建材を利用して、組み立てたり解体後に運搬したりするのを容易にした、興味深いプレハブ式の小屋に。

 

 都市災害の話に戻ると、ロンドンでもここに街が築かれて以降、数えきれないほど多くの被害に見舞われている。代表的な1091年に発生した大竜巻しかり、1666年の大火しかり。そのたび人々が苦労して建てた家のほとんどがあっというまに瓦礫の山と化した。建造物の密集する都市部では風により、火の元から周囲へとすぐに炎が燃え移る。

 加えて、それらに限らずとも暮らしにまつわる問題は尽きない。

 現在もそうだし、漱石の渡航した当時ですら東京に比べてロンドンの物価は高く、支給される金額ではとても足りないと文部省に報告書が送られている。近年では異様に上がり続ける家賃が容赦なく住民を苦しめていて、特に一般の留学生や独身者などは、街の中心部から離れた場所にある狭くてできるだけ安い部屋(他人と一緒に暮らすシェアフラットやシェアハウスの一室)を借り、限られた資金をやりくりするしかない。

 しかしながら人々がこぞってロンドンに住みたがるのは、やはりそれを補って余りある恩恵を感じているからなのだろう。まあ、なかには単に見栄を張るためだけにわざわざ都市暮らしをする人もいるが、それはそれで当人の生き方の自由としかいいようがない。

 私はこの街が好きだ。愛する物語の舞台になった場所、無料の美術館、博物館、いつもどこかで優れた展示物に触れられる環境もさることながら、それ以外の生活の面でも魅力があって。たとえままならないことの方が多くても、また英国政府の側が制度上、積極的に外国人留学生を歓迎していなくても、いましばらく首都ロンドンに滞在していたいと考える程度には愛着をもって暮らしている。

 

 それはおそらく、私が終始一貫して「よそ者」であることを許されている特殊な状況に起因するものなのだろう。

 ここは自分の生まれた国ではなく、もとより国籍や戸籍はない。さらに、永住権を得て完全にイギリスへ移り住んだわけでもなく、学校に通うために期限付きのビザを付与されているだけだ。もちろん選挙に参加する権利も持たない。あるのはパスポートに紐づけられた、失効時期が来たらあとを濁さず、さっさと飛んで自国に帰れ、という厳密な条件付きの査証だけで。

 だが、そんな立場であるからこそ感じられるものがある。もちろんその逆も。

 

   *

 

 身軽なのだ、とにかく。

 鴨長明は、方丈の庵に用いた建材の量を「車2台分」だったと表現している。一方、現地で部屋を借りるだけなので、新しく家を建てる必要などない私が、成田空港を発ってヒースロー空港に到着したとき抱えていた荷物はスーツケースひとつだった。それから調理器具など日用品を買い足して、帰国する際にはそれらをチャリティーショップへ譲渡するなどし、きれいに処分するつもりでいた。

 名実ともに異国。このロンドンの地において、真実の意味での「家」も、心の拠り所も自分は持てない。

 けれどそういう、安心できる場所を持たないことと引き換えに得た、かりそめの自由がある。

 

 よそ者にとっては、現地にいれば必ず発生するしがらみでさえも、興味深い経験と観察の対象になる。留学とまではいかずとも、その感覚を求めて国内外で旅行を楽しむ人の数は世界に少なくない。特定の土地に永住すれば向き合わなくてはならなくなる事柄を、旅行者や期限つきの滞在者は都合よく避けられる代わりに、深く根も張れない。いずれにしろ利点と欠点がある。

 どちらの方がより良いのかではなく、その気になればどちらかを己の意思で選べる環境に身を置けるのが、最も幸福なことだと思う。

 

 季節を通してうす暗い現在の仮住まい、古いフラットの小さな部屋を思い出す。

 それから周囲を見渡して、テムズ川の両岸に軒を連ねる建物と、セント・ポール大聖堂のドーム、少し離れた場所に建って天を貫く氷柱のようなビル「シャード」を瞳に映した。穏やかに吹く風は水の匂いを含んでいる。霧の深い日と比べると肌に触れる感触がぜんぜん違った。油断すると快哉を叫びたくなるほどに、真昼の空が晴れている。点々と浮かぶ白い雲はひつじの形をして。

 雑然とした都市部を歩いていて、突然大きな川のある場所に出ると、視界が一気に開けるので毎回うろたえてしまう。ほんの数本通りを挟めばたちまち路地が入り組んで、建物が視界を遮り、すべてを嘘のように隠してしまうから。

 何度も角を曲がって、明るいところから暗いところ、そしてまた頭上から陽の光が射す場所へと。ロンドンを頻繁に歩き回っているのにもかかわらず、一向にその目まぐるしい切り替わりには慣れない。

 常に、迷うようにして地上や地下をさまよっている。よそ者の軽い足取りで。

 

 橋を渡った先ではテート・モダンを見学し、それから大学のアトリエに寄った。用が済んだらまたこの都市の片隅、狭い土地に民家がぎゅうぎゅうと立ち並ぶ住宅街へ、私の借りている「家ではない家」へと帰る。

 そういえばあと何日かすると、フラットの下の階には新しい住民が来るようだった。

 

   *

 

 大都市に住む人々が毎日、毎時間、絶えず入れ替わり続けているように、川の水もけっして同じ場所にはとどまらず流れ続ける。

 ロンドン滞在中に何度か引っ越しをしていた夏目漱石も、きっと暮らしの中でその姿を、ときおりどこかの橋から見下ろしていたことだろう。彼のいた1900年代の頃から変わらない名前を冠し、地理的にも同じ場所に存在しているけれど、当時とはまるっきり違う水の流れているはずのテムズ川を。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 

 

 

 

 

巡礼者の街カンタベリーにある12世紀の宿泊施設 - イーストブリッジ・ホスピタル|英国南東部ケント州

 

 

 

 

今記事は内容がかなり古くなっているため【購入者限定公開】としております。

 

・反映されているのは執筆当時(2016~2018年)の様子であること

・それゆえ、現在公開されている他の記事よりも文章能力に瑕疵があること

・ごく個人的な経験から記載されていること

・ご購入後のいかなるお問い合わせにもお答えできません

 

以上にご了承いただけます方のみ、よろしくお願いいたします。

 

 

繊細かつ鋭い歌詞が魅力的なイギリスのシンガーソングライター、ローレン・アキリーナ (Lauren Aquilina) の楽曲

 

 

 

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 留学生時代、ロンドンで暮らしていた頃にはじめてその存在を知ってから、今に至るまでずっと聴き続けている歌手の楽曲がある。

 

 

 私と同い年のシンガーソングライター、ローレン・アキリーナ(Lauren Aquilina)

 

 両親はマルタ共和国出身で、イギリスの都市ブリストルで生まれ育った彼女は、澄明な歌声と作曲の才だけでなく「言葉」に対するとても鋭い感覚を持っている。

 手がけるのは恋愛や友情をはじめとした人間関係にかかわる楽曲が多く、心情や状況をあらわすために選ぶ表現が繊細で、思わずノートの隅に書いておきたくなるような一節がたくさん。ほれぼれするような韻が踏まれている箇所にもたびたび出会う。

 

 それなのに、どうしてこんなにも知名度が低いのか私には分からない。

 ある特定の曲だけでなく、彼女自身を紹介・推薦する日本語のブログにはまずお目にかかったことがないし、ほかに諸外国のリスナーからのコメントにも "underrated"(過小評価されている)の言葉が散見される。本当にそうだ。

 その魅力をもっと多くの人々に知ってほしいので、はてなブログ今週のお題に沿っておすすめ楽曲プレイリストを作り、各曲の良さを語ってみようと思った。

 

目次:

 

EP《Fools》(2012) より

  • 1. King

 

 おそらく、ローレンの楽曲の中でもっとも有名なものが『King』だろう。 これだけは知っている、という人もそれなりにいるはずだ。

 

You're alone, you're on your own, so what?
Have you gone blind?
Have you forgotten what you have and what is yours?

 

出典:Lauren Aquilina『King』

 

 自分を見失い、嘆きの淵にいる誰かに対して、後ろからそっと言葉をかけているかのような詞が優しい。「持っていないものや欠点を数えるのではなく、既に手のうちにあるはずの、沢山のものを見つめてみて」と歌っている。

 そうすれば冠を取り戻し、ふたたびあなたがあなた自身の王様(King)になれるはずだ、と。

 Geniua.comのサイト上で、彼女がこの曲に対するリスナーの質問に答えている。『King』の歌詞は、学生だった頃の友人で、いつも己の人生に対して不満をこぼしていた女の子への手紙として綴ったが、最終的には自分へのメッセージのようにもなったと感じているそうだ。

 

 

EP《Sinners》(2013) より

  • 2. Sinners

 

 罪人たち、を意味するタイトル(Sinners)にまず惹かれる。

 どうやら周囲あるいは現状の制度から、その関係を「正しくない」と糾弾されている恋人同士のうち、片方の独白として語られている歌詞であるようだ。悪魔や禁じられた果実といったキーワードが特徴的に使われている。

 

And judgement taught us that our hearts were wrong
But they're the ones that we'll look down upon
The rules say our emotions don't comply
But we'll defy the rules until we die

 

出典:Lauren Aquilina『Sinners』

 

 共に罪人になろう、と語り手は恋人に言う。

 たとえ世界の側からこの関係が認められなかったとしても、私にとっての「世界」はあなた以外ではありえないのだから。堕ちるのが地獄のような場所であったとして、一緒にいられさえすれば、そこは天国に感じられると。

 二人が引き裂かれずに歩んでいく未来を願わずにはいられない。また、他の色々な作品に登場する、許されざる恋人たちのイメージソングとしても楽しめる。

 

 

EP《Liars》(2014) より

  • 3. Lovers Or Liars

 

 私達は恋人(lovers)? それとも、嘘つき(liars)?

 サビで投げかけられる印象的な問い。

 

Are we lovers or liars?
Are we burning up to keep this fire alive?
God loves a trier, but there's nothing left to try

 

出典:Lauren Aquilina『Lovers Or Liars』

 

 これからも二人の間に炎を燃やし続ける(=この関係性を継続する)ことが果たして最良の選択なのかどうか、彼らは迷っている。そして、別離という答えが目の前にあることを、切なく思いつつも受け入れようとしている感じだ。

 確かに、長く寄り添った人間同士が簡単に離れてしまうのは寂しい。今まで積み上げてきたものをすべて更地に帰すことに似ているから。けれど、このままでいても、二人の先に新しい道が開けることなどないのも分かってしまっている。

 もはや互いに恋をしていないのに恋人同士だと偽るならば、それはまぎれもない嘘(lie)。そんな曲。

 

アルバム《Isn't It Strange?》(2016) より

  • 4. Suddenly Strangers

 

 タイトルの『Suddenly Strangers』は「私達は突然、他人になった」とでも意訳しようか。これまでにとても深い関係を築いてきたのにもかかわらず、いちど別れた途端、もう友達ですらない赤の他人のようになってしまう苦しさが歌われている。

 曲が収録されているアルバムのタイトル『Isn't It Strange?』は、このナンバーから付けられたものだ。

 

From talking every waking hour
To not knowing where you are now
We're suddenly strangers
Isn't it strange?

 

出典:Lauren Aquilina『Suddenly Strangers』

 

 今までに出会った誰よりも分かり合え、あれほど側にいて心地よかったのに、こんなにも突然他人のようになってしまう。でも、それって変じゃない(Isn't It Strange)? という切実な疑問が胸に突き刺さってくる……やめられない。

 全から無へ。恋人じゃなくなっても友達でいようね、などと人々は言うが、その試みが常にうまくいくとは限らないのだ。

 

  • 5. Thinking About

 

 上の『Suddenly Strangers』と呼応しているような歌詞を持つのがこの『Thinking About』。では一体何について考えているのかといえば、すでに道を違えた「あなた」のことを「もう考えないようにしよう、と考えている」という。この部分の言葉遊びがおもしろい。

 だって、それはもはや相手のことを考えているのにも等しいじゃないか。

 

Now all I'm thinking about, is not thinking about you
All I'm thinking about, is not thinking about you

 

出典:Lauren Aquilina『Thinking About』

 

 別れた後の恋人を見て、自分に比べるとまったく影響を受けていない(ように見える)ことに落ち込み、こちらも平然と振る舞うようにしてみたけれど落ち着かない。空っぽになってしまった胸を抱え、彼女は知らない人間の集まるパーティーに行って、気を紛らわそうとしている。らしくない行動をしながら。

 それでも、考えないようにすればするほどに、結局はあなたのことを考えてしまっていると歌う。本当につらいけれど可愛らしくて私は好き。

 

 

EP《Ghost World》(2020) より

  • 6. Swap Places

 

 隣の芝生は青く見える、ということわざは、実はイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国で古くからよく用いられてきた。

 ローレンもこの『Swap Places』のなかでそれを使っている。

 

Is the grass really greenеr on the other side?
Seems like everybody else doesn't have to try

Can I swap places with someone
Who's kinder to themselves?

 

出典:Lauren Aquilina『Swap Places』

 

 自分自身を見つめ直すために、たった一晩でも良いから他の誰かになってみたい、という願望。

 別人の視界から己を眺めることができたら、思いがけない良さが発見できるかもしれない。また、そこまで他人の目を気にして過ごさなくても問題ないのだと、心から感じられるかもしれない……。その気持ちがとてもよく分かる。

 歌詞中の "someone who's kinder to themselves" も印象的だ。自分に対して厳しすぎる評価を下さない、いわゆる肯定感を少なからず持っている人間を指しているのだろうが、そこに現代の若者らしい悩みが織り込まれている。

 

  • 7. Best Friend

 

 仲良くなった、気まずくなった、そして別れた、というキーワードから一般に連想されるものは、やはり恋愛が圧倒的らしい。けれど当然ながら、人間同士の関係性はそこにすべてが収まるわけではなく、実に多様だ。

 なかでも友情は何より尊い。これは一般論ではなく、自分の実感から言えること。

 大切だった友人と、はっきりした理由も分からず疎遠になってしまうことほど心を抉ることはない、と『Best Friend』は歌っている。

 

Yeah, you taught me to smoke cigarettes
Now you're teaching me how hard it is to forget
Someone you thought you'd know 'till the end 

 

出典:Lauren Aquilina『Best Friend』

 

 いつのまにかあなたは固く扉を閉ざしてしまったけれど、私の方は広く開け放ったままで待っている。親密に過ごしていたあの頃が恋しい。一緒に煙草を吸っていた思い出が、その習慣と共に体に染みついてしまってとても忘れられない、なんて。

 よくある出来事や関係性も、ローレンの手にかかるとこんなに綺麗な楽曲になる。

 

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ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 という感じで、7曲をおすすめプレイリストに選んでみた。これを機に、今までまったく知らなかった方々にも沢山彼女の曲を聴いてもらえますように。

 個人的な意見としては、まず1stアルバム《Isn't It Strange?》を最初から最後まで通して味わってみるのがおすすめです。

 

《Isn't It Strange?》on Spotify:

 

はてなブログ 今週のお題「わたしのプレイリスト」

 

※2021/06/06 追記:

 

 先日発表されたシングル『Empathy』も良かった……!

 誰かの苦しみや悩みをまるで自分のことのように感じてしまう、そんな強すぎる共感性を持て余す難儀さが歌われた、これまた「わかる」と思わず頷いてしまうような一曲で。

 

 

 

 

 

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【訪問したギャラリー・近現代美術中心のまとめ】ロンドンの街で気軽にアート作品に触れられる場所

 

 

 

 

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イギリスの美大を中退しようと決めたときのこと

 

 

 

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 昨年のいまごろ自分が考えていたことを、細部まではっきりと思い出すのは意外と難しい。けれど、私が大学を辞めるという重大な決断をするにあたって、心に生じた多くの「迷い」からひとつずつ答えを引き出そうと試み、奮闘していたことは確かだ。

 人が中途退学をする理由は、経済的なもの・健康上の問題や人間関係によるもの・または専攻する学問への関心の薄れなどと多様で、文字通りに生徒の数だけ事情がある。

 それらを通して浮き彫りになるのは、本人と学校との関係・家庭の状況だけではなく、自分を取り巻いている問題が一体何に起因するもので、どうすれば解決できるのかを考えるための糸口なのかもしれない。

 実際に私は、退学の決断そのものよりも、そこに至るまでに悩んだこととその内容こそが、当時本当に向き合うべき事柄だったのだと感じている。

 現在の自分の生活や考え方は、間違いなくその延長線上にあるからだ。

 

  • 「一人では何もできないお荷物」だった

 イギリスの大学、しかも美術大学に行きたいと言い出した娘に対して、母や義父が将来に期待していたことなど何もなかったと思う。

 学費と現地(ロンドン)での生活費だけで膨大な金額が飛んでいくのに、そのうえ美大、専攻はファインアートとくれば、それは「卒業後まともに食べていける保証が全くない世界」の代名詞だ。

 絵を描くことが好きで専門コースのある高校に入学した後、作品づくりに限らず、美術という学問そのものを深く愛するようになった私は、この勉強を続ける場所に、自分の最も興味ある芸術家たちの出身国・イギリスを選んだ。そこにまず行き、彼らに強く興味を惹かれる理由を探りたいと思ったのだ。とにかく知りたい。多くのことを学びたい。当時は、それ以外の願望が無かった。

 他人に、卒業した後はどうやって生きていくのかと嘲笑される中でも、両親だけは一度もそんなことを言わなかったのが印象的だ。うちは富裕層の家庭ではないし大した余裕もない家なのに、二つ返事で進学を支援してくれたのは、本当にありがたいという他ない。

 出してもらったお金をこれから返すことができるか全く分からないのに、彼らはただ静かに、惜しみなくこの背中を押してくれたのだ。

 だからこそ、ずっとそれを負い目に感じていた。

 私の存在を保障していたのは、いつだって自分以外の何か――この場合は家族の寛容さと財力――であって、私の力ではない。雑事に煩わされず全力で勉学に励めたのは彼らのおかげだ。こうして沢山の苦労をかけている両親が、突然倒れるようなことがあれば終わる生活。ただ、誰かに庇護されているだけの存在。

 それなのに、日々学んだことをさも「自分が一人で成し遂げたこと」のように思えてしまう瞬間があるのが恥ずかしく、情けなかった。

 他人の稼いだお金で毎日ご飯を食べて、学ぶことに没頭している私は、一体何なのだろう? この私の行いによって支えられている人や、救われている人は誰もいない。結果的に、自分勝手に好きなことをしている状態の自分に、何の価値があるのだろう。

 この問いが、はじめに心の中に生まれた迷いだった。

 

  • ここに存在するだけの価値を示せない

 そのまま大学生活を続ければ、誰かから与えられたものと、自分が誰かに与えられるものの総量の差はどんどん開いていく。私は学習を通して、両親や周囲の環境から享受するものに値するだけの何かを、きちんと示さなければならなかった。

 けれど、初めの方でも述べたように、ファインアートといえば「まともに食べていける保証がないもの」の代名詞。どういうことかというと、一般的な人間の、毎日の生活に関わる要素を見出すのが本当に難しいのだ。それが無くても困る人があまりいない。だから「これが成果物です。あなた方が私に投資した多額の金銭は、こんな風に形になりました」と示せるようなものが非常に少ない(仮にあったとしても、大衆を納得させられるような分かりやすさがない)。

 そもそも当時の私が心から望んでいたのは「学ぶこと」それ自体だったので、学問を何か他のもののために役立てることには全く興味がなかった。だから、どんなに真面目に取り組んでいても、単なる道楽だと罵られるのは仕方のないことだったのだ。 

 私にとって大きな意味を持つものが、社会の中でもそうであるとは限らない。それは、至極当たり前のことだ。

 もしも自分が必要なお金をきちんと稼ぎ、衣食住を自身で保障して、その上で好きな研究をしていたのなら何も問題ない。誰にも迷惑をかけていないし、咎められる理由など何処にもないはずだ。だが、当時の私は違った。

 他者から多大な援助を受けているのにもかかわらず、それに値するだけの成果物を示すことも、恩義を返すこともできないのなら、この身は社会に存在する一種の汚点にすぎない。どうすればいい? 何をすれば、私は自分の行為を正当な理由を持つものにし、存在を認められることができるのだろうか?

 学業の合間や週末にアルバイトを探して働いてみても、両親から借りている学費や、ロンドンの高い物価で圧迫される生活費を賄うには遠く及ばないので、あまり意味がなかった。むしろ、せっかく与えられた時間を無為に費やすことになってしまう。

 そのことをより深刻に考え始めた頃、私の心身には、やがていろいろな不調が現れるようになってくる。

 

 

 

 

  • 抑うつ状態と、浮き彫りになった自分の問題

 渡航してから2年目の夏、私は普段の食事の量や回数を減らした。そして極端に安い食材以外のものを買わなくなった。

 理由は単純で、他人の金銭で飲食をすることに、強い嫌悪感をおぼえるようになったからだ。これは食事だけではなく、他の物を買う際にも同じことがいえた。洋服がどうしても必要になったときなどは店へと行ったが、品物を選んで会計するときだけ異様に楽しく、部屋に帰ってから妙な吐き気に襲われた。

 どこにいても、何をしていても、私の脳裏にあったのは「人に頼りきって生活をしている」という事実。そして、その現状をひたすらに嘆き責め続ける声だった。このとき自分は倦怠感と虚無感の中でひたすらに息をしていて、突然身体が動かなくなったり、ある日は記憶が一部飛んだりするようなことも経験するハメになる。

 もともと双極ぎみ(気分循環症)の性質ではあったのだが、人生を通してこの頃の抑うつ症状が最もひどかった。あんなに大好きだった勉強にも、何の役にも立っていない以上続けても仕方がないじゃないか、と投げやりな態度で臨むことが増えていた。

 親しい友人達にこのことを話すと、そこまで気負ったり思い詰めたりする必要は無かったのではないか、と言われることがある。両親は納得したうえで資金の援助をしているのだし、たとえ社会の中で分かりやすく大きな役に立っていなくても、彼らにとって私が重要で、応援するに足る存在だからこそ、黙って背中を押してくれているのでは......と。

 確かにそうかもしれない。だが、私はその実感を全く得られなかった。

 恵まれた環境でどんなに努力しても、結果的に何もできていない自分が本当に情けなくて、家族に限らず多くの人から疎まれることも仕方がないと覚悟した。そして、ある日気付いたのだ。私の根底には、「人間はありのままでは存在を許されず、愛されることもない」という、強い認識があるのだということに。全く自覚していなかったが、これが、私自身を構成する軸のひとつになっていた価値観だった。

 ――社会の中で生きている以上、何か役に立つことをしなければいけない。自然に息をして、心が望むように行動するだけではいけない。何かをしなければ存在を認められない。許されないし、愛されもしない。分かりやすい「何か」がなければ。全ての人を納得させられるだけの、何かが――。

 無意識からくる脅迫的なその考えが、自分の自己肯定感の値を大幅に下げ、心身に不調をもたらしていたのだ。だからこの状況を変えるためには、それときちんと向かい合わなければならなかった。

 それに気付くことができたのは、遠い留学先の地で悩み、迷い続けたことで得られた、ある種の収穫のようなものかもしれない。

 

  • 決断と実行

 ではそんな自分の現状を改善するために、何ができるだろうか? 答えはすぐには出なかった。しばらくしてから私は、まずは大学を辞めて、働いてみるのがよさそうだという決断を下すことになる。

 他人からの支援を受けることに負い目を感じるのならば、必要なだけのお金を自分で稼ぐほかない。もちろん多額の学費は払えなくなるので、今の大学は辞めることになる。けれど、本当はそれが身の丈に合った処遇なのだということを、心のどこかで感じていた。現状に違和感を抱いたまま、それを見て見ぬ振りして過ごすことは、私にはできない。

 それに、その頃の体調不良は主に精神状態からくるものだったので、根本的な原因を取り除けば症状は徐々に良くなっていくはずだった。

 頑張って勉強し入学した大学だが、このまま変わらず「大学生」を続けていたら、また同じことのために立ち止まってしまうだろうと強く感じる。それに、中退するとしても、現地で学んだことの全ては自分の中にしっかりと残っている。

 もともと高校卒業後に浪人していたこともあり、周りの同級生に比べて少々時間はかかったが、自立への第一歩を踏み出したいと強く思った。経済的・精神的に。そして、両親にも恩返しをしたい。もちろん大学を離れても、好きな勉強はずっと続けていく。そのための環境づくりも自分の力で行うのだ。そうすると決めたから。

 やがて、どうにか仕事を見つけてから半年が経とうとしているが、いま私は私自身の存在をきちんと認められているし、必要以上に激しい自己嫌悪に陥ることもなく、日々を過ごすことができている。当時は辛かったが、ひたすら悩みぬいたことで自分の根底にあった認識に気付けたし、それに対してどう行動するのが最善なのかを考えることができた。

 この一連の迷いと決断は間違いなく、私の人生に必要なものだったのだ。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 

 

 

公園に出現した《ロンドン・マスタバ》クリスト&ジャンヌ=クロードのアートプロジェクト:街の中の現代美術

 

 

 

 

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ロンドン芸術大学のようす:チェルシー・カレッジのファインアート学部

 

 

 

 

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謎多き世界遺産《ストーンヘンジ》を訪れる - 当時のイギリスに思いを馳せて

 

 

 

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曇天の下のストーンヘンジ

 はるか昔に人為的に造られたらしい、ということは判っているが、その目的が未だに不明な遺跡はこの地球上に無数に存在している。

 例えばイースター島のモアイ像、古代エジプトのピラミッド、ジャームのミナレット等――そして、英国の平野にのこるストーンヘンジ(Stonehenge)もそれらのうちの一つだ。

 謎に包まれたその円環の巨石群を一目見るために、昨年の春にイングランドの片隅へと足を運んだ。

 

 当時はイースター休暇を利用して南部コッツウォルズの村に宿泊しており、ストーンヘンジに立ち寄ったのは以下の旅の帰り道。

 村での滞在中はおおむね天候に恵まれていたのに対して、宿を出発した際は空に雲が立ち込め、灰色の空気と緑の芝生が呼応して寒々しい雰囲気を感じていたことを思い出せる。

 春といえど、まるで初秋のような風の冷たさだった。

 

 

 ストーンヘンジは1986年に一度ユネスコ世界文化遺産に登録されており、その後2008年には範囲を変更してもう一度登録しなおされた(正式な登録名称は《ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群》という)。

 現地ではアイコニックな巨石の円環だけでなく、ヒール・ストーンと呼ばれる単体の石や、新石器時代周辺の英国で人々が暮らしていたとされる家のレプリカを見ることができる。

 ビジターセンターに併設されている博物館を併せて覗いてみれば、よりこの遺跡に対する理解が深まるだろう。

 

参考サイト:

English Heritage Home Page(イングリッシュ・ヘリテージのサイト)

National Trust(ナショナル・トラストのサイト)

UNESCO World Heritage Centre(UNESCOのサイト)

 

 

 ストーンヘンジを訪れる手段にはいろいろなものがあるが、ロンドンからのアクセスで最も手軽なのは、おそらくバスツアーを利用して直接現地まで赴く方法。

 もしくは電車を利用して近郊の街ソールズベリーまで出て、そこからバスに乗って行く――というものもある。

 時間がある人におすすめなのは、街のマーケットや大聖堂をついでに観光することができる後者の方法。

 もしくはソールズベリー以外にも、ローマ時代の「風呂」の遺跡がのこる街バースへと足を運んだ後、そこからバスでストーンヘンジへ向かうこともできる。車で行く場合は駐車の際に£5の料金を払う必要があるが、これは入場チケット購入の際に返金してもらえるようになっているので安心してほしい。

 そしてここが、この遺跡を訪れる人々がまず目にするビジターセンターになる。

 

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ここで入場券を買う

 ガラスと木でできた壁や、細く四角い柱がずらりと並んだ近代的な佇まいが印象的。設計はデントン・コーカー・マーシャル建築事務所。

 ショップではマグカップやTシャツなどの各種お土産が取り扱われているので、何か記念に買っていきたいという方は覗いてみるといい。

 

 博物館のコーナーでは、ストーンヘンジの形成に関係する年代周辺のイギリスやそこで暮らしていた人々が、果たしてどのような姿であったのか――という展示を見ることができる。

 例えば所蔵品のうちのひとつには、紀元前4000年ほど前に造られたとされる石斧があった。これはかつて、森林を切り開いて農地を得るために使用されたものであると考えられており、製造(研磨など)の工程にはおよそ40時間以上が費やされたと推定される。

 特にカンブリア州のラングデールで産出される石はとても質の良いもので、当時のイギリス中で取引の対象となっていた。

 

 また、紀元前3000~2200年代のころ、人々は装飾の施された "Grooved Ware" と呼ばれる土器の壺で料理や食事をしていたらしい。

 尖底のものと平底のものがあり、日本の縄文土器を連想させられた。他の国や地域で見られるものと同じように、無くなった人間を埋葬する際には武器や宝飾品とともに穴に入れられていたそうだ。

 この土器はスコットランドのオークニー諸島で現存する最古のものが発掘されており、当時はその地域からブリテン島全体へと広まっていったのではないかと考えられている。

 

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展示パネル

 

 

 

 

 ちなみに、オークニーにあるウイスキー蒸留所のうちの一つである《ハイランドパーク》は、世界でも最も北に位置する蒸留所としてひろく知られている。

 日本ではドラマ「マッサン」のモデルとなった竹鶴政孝が北海道の町・余市にニッカウヰスキーの蒸留所を建設しており、その製造には、寒冷な気候と豊かな水のある地が適しているのだと改めて気付かされる。

 興味を持ってくださった方は以下もぜひどうぞ。

 

 

 展示品を見た後は、ビジターセンター裏から出ている無料のシャトルバスに乗って巨石の円環がある場所へと赴くことになる。

 所要時間は片道およそ10分ほどと、思ったよりも離れた場所にあった。

 

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円環の巨石群

 ストーンヘンジの調査によって明らかになっているのは、巨石群が建てられる以前にここに存在していた穴には遺体が埋められていた、ということだ。

 遺跡自体の起源や用途はいまだ不明だが、一時期は墓地として利用されていたということがわかる。新石器時代のイギリスの島々の中では最も規模の大きい埋葬地であった。

 形成にあたって様々な段階を経てきたストーンヘンジが、現在みられるような姿になったのは紀元前2500年ごろのこと。

 円環を造るのに使用された石には大きく分けて二種類あり、ひとつはサルセン石と呼ばれる大きな砂岩の塊。もうひとつはブルーストーンと呼ばれる火山岩で、ここから遠く250キロ以上離れたウェールズの方からはるばる運ばれてきたと信じられている。

 

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石の原寸大レプリカ

 石の運搬はコロのようなものを利用して行われたのではないかと言われており、ビジターセンター付近に原寸大のレプリカが展示されていた。間近で見るとその大きさがよくわかる。

 また一説によると、ブルーストーンは筏(いかだ)か簡易的な船に乗せられ、海や川などの水路を経由してこの平原にもたらされた可能性もあるそうだ。

 基本的に、通常の入場券で足を踏み入れることができるのは円環の手前にある柵までで、それより内側に行ってみたければ事前に予約をするか夏至・冬至祭りに参加するなどの方法を取る必要がある。当日は晴れていれば、太陽の位置にうまく対応するように配置された石のあいだから、真っすぐに差し込む光を見ることができる。

 そのような天文学的な計算を感じさせる要素も、この遺跡の解釈をより深淵で謎めいたものにしているのだ。

 

 ひっきりなしに訪れるたくさんの観光客とともに通路を歩きながら、気の遠くなるほどの昔から変わらず、この場所に佇んでいる塊たちを眺める。少し遠くの方へ目を凝らすと、たくさんのたちが小雨にかすんで芝に寝転がっているのがわかった。

 豆粒のように小さな彼らはまるで、ごはんの上に散らされたしらすのようにも見える。

 

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ヒール・ストーン

 羊たちよりも手前に視線を戻すと、円環から少し離れた位置にも大きなサルセン石の塊が立っているということに気付いた。

 他の石とは少し様子が違うように思えるが、それは研磨などの加工がされておらず、掘削されたままの状態であるからだ。

 これはヒール・ストーンと呼ばれている。

 アーサー王に仕えた魔術師マーリンの伝説や他の神話に関連付けて語られることが多いが、詳しいことは殆どわかっていない。――これを読んでいる方の中に、T・A・バロンの《マーリン》シリーズを手に取ったことがある、という方はいるだろうか? 幼少期の私の心を彼方の島へと連れ出してくれた、この物語の主人公は若き日の魔術師だった。

 そのことを思い出す。

 

 遺跡が高台に残っていることから、かつての人々は遠くからでも見渡せる位置にストーンヘンジを建てることで、何らかの目印や祭祀のシンボルとしてそれを用いていたのではないかと言われることがある。

 実際にその傍らに立ってみると、どこまでも続く緑の平原を前にして、昔も現在も同じように存在していたのだろう景色に思いを馳せずにはいられない。

 

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新石器時代の住居

 私たちは当時を想像することしかできないが、数ある展示物の中のひとつ、新石器時代の家のレプリカはその手助けをしてくれる。野外にあるこれらは訪問客が自由に出入りすることによって、実際にそのスケール感や、入口からの光がどのように内部へ差し込むのかなどを目で見て体験することができるものだ。

 白い外壁の家はおおよそ5メートル四方で、中央で火を焚いたときの光が十分に全体へと行きわたる程度の広さとなっている。内部で発生した煙は、ハシバミの木枠を覆う草の層を通り、まるでろ過されるようにして外へと抜けるのだという。

 ちなみに特定の日と時間帯には、ここで何人かのボランティアが石臼を使った穀物引きのデモンストレーションを披露してくれる場合もある。

 一通りのものを見て回るのにさほど時間はかからないので、週末などの1日を使って気軽に訪れることができるストーンヘンジは気分転換にもおすすめ。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

追記:最近ではこんな研究結果も出ているそうです。

 

 

 

 

 

 

ロンドンミュージカル《ウィキッド(Wicked)》とウエスト・エンド周辺のお手頃なレストラン

 

 

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劇場の外観

 名作児童文学《オズの魔法使い》に登場する、「南の善い魔女」グリンダと「西の悪い魔女」エルファバ。――正反対の二人。

 彼らの物語《ウィキッド (Wicked)》では《オズの魔法使い》の冒頭で、少女ドロシーがカンザス州からオズ王国にやってくる以前の出来事が語られる。大衆から邪悪な存在だという烙印を押されることになってしまった、エルファバの出生の秘密から始まる「もう一つの物語」なのである。

 同名の小説を原作としたミュージカルを、2018年の春に念願のロンドンで観賞することができた。場所はヴィクトリア駅のすぐそばにあるアポロ・ヴィクトリア劇場。今こうして思い出そうとするだけでも、当時の胸の高鳴りが鮮明に蘇ってくる。本当にいい経験をした。

 ここには観劇時のようすの一端と印象的だった部分に加えて、劇場がひしめき合うウエスト・エンド周辺にあるレストランのうち、実際に立ち寄って良かったと感じた場所を紹介しようと思う。なかにはプレ・シアターメニューを提供しているところもあり、利用するとお得な値段で食事ができる場合がある。メニューはお店のウェブサイトに載っていることが多いので、ミュージカルへと出かける際には事前に調べておくといいかもしれない。

 また、記事中では物語の詳細や歌詞の内容に触れているので、ミュージカルを事前知識なしで楽しみたい方はここでブラウザバックすることを推奨します。もしくは後ろの方に掲載している、レストランとお料理の写真だけでも見ていって下さると嬉しいです。

 

参考サイト:

Wicked The Musical(イギリスのWICKED)

『ウィキッド』作品紹介(日本、劇団四季のウィキッド)

 

  • 劇場の概要

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エントランス

 アポロ・ヴィクトリア劇場は、はじめ映画館として1930年に建造された。改装が繰り返されてはいるものの当時から位置は変わらず、80年以上もの間ずっとここに佇み、人々を飲み込んでは吐き出してきた。

 イギリスの歴史的建造物 "Listed Building" については過去の記事でも言及したことがあるが、この劇場はその中でグレードII*というものに分類されている貴重なもの。

 特に大人数を収容する建物の場合、日本では耐震設備と安全の関係で古いものから取り壊されてしまう場合が多いものの、地震の少ない国ではその恩恵を受けて残っているものがよく見られる。

 劇場の内装はアール・デコの様式を採用しており、開いた花のような形の照明が特徴的だ。床のカーペットと座席に張られた布の模様は魚の鱗や波を彷彿とさせる。ここでは2003年から2018年現在まで《ウィキッド》のロングラン公演が行われているのに合わせて、全体の雰囲気を支配する色はに統一されており、入口へと足を踏み入れた瞬間からその世界観を感じることができた。

 

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開演前のにぎわい

 割高な値段ではあるが、一応飲むものや軽食を場内の売店で買える。周辺は人でいっぱいだ。ちなみに上演の合間、休憩時間にはお手洗いの前に長蛇の列ができるが、回転はそこまで遅くなかった。設備は古いが清潔な印象(2018年当時)。

 《ウィキッド》以外にも、過去にここで上演されていた有名なミュージカルには《サウンド・オブ・ミュージック》《屋根の上のバイオリン弾き》などがある。なかでもアンドリュー・ロイド・ウェバーが楽曲を手掛けた《スターライトエクスプレス》は、1984年から2002年までの18年間という長いあいだ公演が続いていた。

 アポロ・ヴィクトリア劇場内の席の総数は2328シートで、舞台やミュージカルの会場としては標準的な規模だと思う。今回私は一番上の段にある、後ろから3列目の席からステージを見下ろす形で観劇をしたが、視界が大きく遮られることはなく快適だった。音楽や歌声も明瞭に聴こえるので、もしも後方の席のチケットを買うのが不安だと思う人がいれば参考にしてほしい。

 また、観劇はおひとり様でも大丈夫?  場違いじゃない?  とよく聞かれるが、全く問題ないし、むしろ集中できて良いと思う。一応は小綺麗な服装が推奨されるという以外は、映画館で映画を観る感覚とほとんど変わらない。ひとりミュージカルは全力でおすすめできます。ぜひ。

 

劇場サイト: The Apollo Victoria Theatre | The Home of Wicked in London

 

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同じウエスト・エンドのAldwych Theatre
  • 物語のあらすじ

 ミュージカル《ウィキッド》は、オズ王国の住民たちが「西の悪い魔女」の死を喜んでいるシーンから始まる。

 竜巻により突如この国を訪れた少女ドロシーと愛犬トト、そして彼女らと一緒に大魔法使いのいる王宮へと向かう一行(案山子、ブリキの木こり、ライオン)の活躍により、邪悪な魔女――エルファバによる恐ろしい独裁は終わりを告げた。ここで歌われるのが、"No One Mourns The Wicked(誰もあいつの死を嘆かない)" だ。

 やがて「南の善い魔女」グリンダが彼らの前に降り立ち、どういうわけか悲しげに祝いの言葉を述べる。西の悪い魔女は確かに死んだ。善は悪に打ち勝つ――そのことに感謝しましょう、と。そして彼女は「人は初めから邪悪さを持って生まれてくるのだろうか?」と問いながら、エルファバの出生の秘密と、彼女と自分自身がシズ大学の同級生だった事実を語り始める。

 頭脳明晰で妹思い、魔法の才能にも恵まれているが、不自然な緑色をした肌のせいで皆に忌避されているエルファバ

 実力には乏しいがカリスマ性があり、大学で大人気のグリンダ(当時はガリンダと名乗っていた)。

 はじめは対立していた二人だが、さまざまな出来事を通して互いに惹かれたり、ときには妬んだりもして、少し奇妙だが強固な関係性を築いていく。やがて訪れる別れと、オズ王国に渦巻くとある陰謀、そして二人の魔女がそれぞれ「善」と「悪」の名で呼ばれることになった理由とは――?

 物語は非常にわかりやすく進んでいくので、ロンドンでミュージカルを観たいけれど、全編を英語で楽しめるかどうか心配だという人も安心してほしい。難解な単語はあまり使われていないうえキャッチーな楽曲が多く、疲れを感じずに聴き続けることができる。そして何よりも、歌声の美しさそのものは、言葉の壁に遮られることがない。

 

  • 印象的な曲や場面など

※物語の詳細や核心、歌詞の内容に言及しています。

 

第一幕より

Track 4: "The Wizard and I"

 シズ大学に入学したエルファバは今日も周囲から疎まれ、避けられていた。だがあることがきっかけで、彼女の内に秘められた強力な魔力とそれを扱う才能を、大学に勤めるマダム・モリブルが見抜く。彼女はエルファバの能力がこの国の役に立つはずだといい、「あなたをオズの大魔法使いへと紹介する」と告げるのだ。

 生まれてこの方、誰かに認められることや称賛されることが一切なかった、不遇なエルファバ。これを機に、そんな私の運命は変わるのだ――と高らかに歌うのが "The Wizard and I" である。

 〈大魔法使いに会って私の価値を示すことができれば、もう誰も私のことを「奇妙だ」なんて思わない〉

 〈そしてきっと、オズ王国中の全ての存在が私を愛するようになる〉

 〈大魔法使いと私、きっと最高のコンビになるわ〉

 舞い上がり喜ぶ彼女の姿が印象的だが、物語の展開と結末を知ってからだと、とても切ない気持ちになる。エルファバの正義と善を求める行いはいつも裏目に出て、大衆はその結果にもたらされた災厄から判断し、やがて彼女を《Wicked(邪悪)》と呼ぶようになるのだから。

 

"But I swear, someday there'll be
A celebration throughout Oz
That's all to do with me!"

From "The Wizard and I" By Stephen Schwartz

 

 

 

Track 5: "What is This Feeling?"

 彼女らの意思に反して、大学の寮が同室のルームメイトになってしまったエルファバとグリンダ。何もかもが正反対な互いのことが妙に心の隅に引っかかり、得体のしれない感情が湧き上がってくるのが不快だという心の内を、それぞれの父親へ手紙を書きながら吐露する。

 〈彼女を見ていると鼓動は早まって、くらくらするし、頬も赤くなる。とにかく純粋で強力なこの感情は何?〉

 〈あなたの顔も声もその服も、何もかもが嫌い!〉

 〈きっとこの嫌悪は、人生を通して変わることなく永遠に続くの〉

 この楽曲に登場する語句たちには、通常ラブソングに使われる種類のものが多くみられる。それらが皮肉にも、「どれほど相手を愛しているか」ではなく「どれほど相手を嫌っているか」という文脈で使われているのが面白い部分だ、と作曲者のステファン・シュヴァルツ自身が語っている。

 

"Let's just say — I loathe it all!
Every little trait however small
Makes my very flesh begin to crawl
With simple utter loathing!"

From "What is This Feeling?" By Stephen Schwartz

 

 その後いくつかの出来事を通して、彼女たちの互いを見る視点は少しずつ変わってゆき、エルファバとグリンダとの間にはある種の友情とも呼べるようなが生まれる。

 やがて二人は共に、シズ大学にある日やってきたウィンキー国の王子「フィエロ」に恋をする事になるのだ。

 自分は彼と釣り合わないし、グリンダのために身を引こう――と当初は思っていたエルファバだが、フィエロは彼女の人柄と行動に惹かれ始めていた。

 

Track 17: "Defying Gravity"

 さて、オズ王国には不可解な暗雲が立ち込めている。今まで人間と同じように言語を扱うことのできた動物たちから、何らかの理由でその能力が徐々に消えつつあったのだ。ヤギであり、シズ大学で教鞭をとっていたディラモンド教授もその例外ではなく、言葉を話すことも理解することもできなくなってしまった彼は大学から追い出されてしまう。

 彼によくお世話になっていたエルファバは憤るが、念願の大魔法使いに謁見することが叶った折、動物たちから言葉を奪って支配する計画の首謀者が彼とマダム・モリブルたちの一味であることを知る。エルファバに秘密を知られてしまった彼らは、彼女にもこの運動に加担するよう持ちかけるが逃げられてしまった。

 エルファバは、今まで自分が「素晴らしい存在だ」と信じていた大魔法使いの所業に落胆すると同時に、追っ手に捕らえられないよう逃げることを決める。そして、もう周囲からの評価に一喜一憂することなく「自分を信じてその力を開放する」と歌うのだ。

 ここでは自分の正義のため権力に背を向けるエルファバと、世間の自分に対するイメージを利用して器用に生きるグリンダの姿が対比される。それでも二人は、互いをかけがえのない友人として認め、相手のこれからの幸せを願って一度別れを告げた。

 

"I'm flying high defying gravity!
And soon I'll match them in renown
And nobody in all of Oz
No wizard that there is or was
Is ever gonna bring me down!"

From "Defying Gravity" By Stephen Schwartz

 

 〈努力しても変えられないことはある。それでも、一度試してみなければ分からない!〉

 〈一人ぼっちで空を飛ぶのは、私が自由であるということの証〉

 箒を手に高く飛び立ってゆくエルファバとそれを囲む兵士たちの怒号、心配げなグリンダの眼差しで第一の幕が下ろされる――。二人の魔女の選択と行く末は、20分間の休憩を挟んだのちに第二幕で語られ、最後には《オズの魔法使い》の物語へと続いていくのだ。

 2018年現在、ロンドンでは未だに《ウィキッド》のロングラン公演が続いている。現地に滞在している人も、これから訪れる予定の人も、ぜひアポロ・ヴィクトリア劇場でこの舞台を楽しんでほしい。

 

歌詞参照:Wicked (Original Broadway Cast Recording) Lyrics and Tracklist | Genius

 

  • ウエスト・エンド界隈のレストラン

 ロンドンミュージカルの代名詞ともいえるエリア、ウエスト・エンドの周辺で訪れた飲食店からいくつかを記載してみる。どこも観劇前後の雰囲気に合っているのではないかと個人的に感じたところ。

 高額なものは全く食べていないが、ロンドンという場所を考えると満足のいく味のものが出てきたと思う――だが日本で食べられる低価格・高クオリティの料理やお菓子のレベルを期待してはいけない。

 

The Delaunay

 

 ここではアフタヌーンティーを楽しむことができた。

 説明に〈ウィーン風の〉とあるように、オーストリアの焼き菓子クグロフがスコーンと一緒にお皿に載って出てくる。これはマーマレードと生クリームを付けるもののようで、初めて食べる風味がした。生地はパサッとしていて、かすかに酸っぱいような。

 ケーキ類は全体的に激甘なので、最後の方はほぼ紅茶で流し込むようにして飲み込んだ記憶がある。オリジナルブレンドティーがおいしいです。

 

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 下段のセイボリーは小さなオープンサンドイッチの数々。アフタヌーンティーを楽しみに行くと、どこのお店でも苦しくなるほどお腹がいっぱいになるのは何故だろう。ぱっと見ただけだと、こんなに量が少なく感じるのに。

 訪れた当時、このアフタヌーンティーの価格は一人£19.75だった。もっと軽い方が良いという人にはクリームティー£9.5がおすすめ。

 レストランの場所は、ミュージカル《Tina》が上演されていたAldwych Theatreのすぐそば。

 

Cafe Monico

 

 ある日曜日にローストビーフを頂いたのが、二つの劇場に挟まれる形で建っているこのレストラン。お皿の左に乗っているのは巨大なヨークシャープディングの欠片だ。

 お肉はじゃがいも蒸した野菜、グラタンと一緒に伝統的な形式で提供される。グレイビーソースは少し水っぽかったので好みが分かれるところかもしれない。蒸し野菜は柔らかく、バターの味が染みていていくらでも食べられてしまった。

 私はワインのことが全くわからないのですが、店員さんに言えば適当なものを持ってきてくれます。

 

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とても量が多い

 私が訪れた当時ローストビーフは£21で、ローストチキンは£19だった。

 サンデーローストはその名の通りに、日曜日にのみ取り扱われている。

 

Brasserie Zedel

 

 ここは地下鉄ピカデリーサーカスの駅を出てすぐの場所にあるが、レストランは地下の階にあるので少し分かりにくいかもしれない。地上のカフェの奥に階段があるので、そこを下りていく必要がある。

 内装はアポロ・ヴィクトリア劇場と同じのアール・デコ様式風で、建物はもともとリージェント・パレス・ホテルの一部であったらしい。

 この時は2コースで£10.5のセットメニューを頼んだ。

 

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前菜のサラダ

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 最初に出てきたのは、フレンチドレッシングのかかった細切れのニンジン。意外と量がある。

 そしてメインはハンバーグステーキ。胡椒のきいたソースが好きな味だった。フライドポテトが一緒に出てくるのだが、これを余ったソースにつけて食べるのが美味しい。広くて内装も綺麗なレストランなので、ミュージカルを観に行く際に立ち寄ったらきっとわくわくするだろうなと思う。

 中華街など他の近隣エリアにも好きな飲食店があるので、またそのうち写真を載せたい。これからロンドンに滞在する方々が、楽しい思い出をたくさん作ることができるよう祈っている。

 

 

 

 

オックスフォードの街で:数々の博物館や植物園、スロバキア料理を楽しむ

 

 

 

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空中の廊下

 

 英語圏の世界では最古の大学といわれている、オックスフォード大学。

 その卒業生には学者や政治家だけではなく、著名な芸術家も多い。

 なかでも後期ラファエル前派と縁の深いイギリスの画家、エドワード・バーン=ジョーンズが描いた「眠りの森の美女」の連作は、私の最も気に入っている絵画作品のひとつだ。ずっと眺めていても飽きることがない。

 これはオックスフォードの中心部から離れているが、同じシャー(州)の中にあるバスコット・パーク(Buscot Park)というお屋敷の一室に収められている。

 

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"The Rose Bower" by Edward Burne-Jones

 

 バスコット・パークの建物と庭園はナショナル・トラストに指定されており、内部にある調度品の評判も高い。南部コッツウォルズのバイブリーからも近いので、周辺に立ち寄った際にはぜひ足を運びたいもの。

 バーン=ジョーンズはバーミンガムで美術学校に通った後、オックスフォード大学エクセター・カレッジで神学を学び、そこでウィリアム・モリスとの親交を深めた。

 この二人がかつて滞在していたコッツウォルズの観光地、ブロードウェイ・タワーやそれに関連したアーツ・アンド・クラフツ運動について以下の記事でも言及しているので、興味のある方は読んでみて欲しい。

 

 

 他にもエクセター・カレッジで学んだ人物として、トールキン――生涯で「指輪物語」「ホビットの冒険」などを著した、偉大な作家が挙げられる。

 それらを映画化した「ロード・オブ・ザ・リング」も「ホビット」も繰り返し観た大好きな作品だ。私が留学で英国へと渡る直前に、《白のサルマン》を演じたクリストファー・リーの訃報を聞き、驚いたのを今でも覚えている。閑話休題。

 そんな彼らが青年期を過ごした、権威ある大学が位置する場所として名高く、"夢見る尖塔の街" の優美な愛称で呼ばれるオックスフォードの街。ロンドンからは電車で1時間ほどと気軽に散策をしに訪れることができる。

 ここでは一度気ままに歩き回った時の記録に加えて、数か月後に訪れた、街を流れる川近くのスロバキア料理レストランを紹介しようと思う。

 

参考サイト:

Visit Oxford(オックスフォード観光のサイト)

Historic UK(イギリスの史跡紹介サイト)

SlovakiaSite(スロバキア料理について)

 

 

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ラドクリフ・カメラ

 

 ロンドンからオックスフォード方面へ向かう電車は、ベイカー・ストリートのお隣に位置するマリルボン駅から出発する。外の景色をぼんやり眺めていると目的地まではあっという間だ。

 到着した後は駅の東側へまっすぐ歩いていくと、15分ほどでラドクリフ・カメラの象徴的な建物が見えてくる。この街のランドマークといっても過言ではない存在。

 これはジョン・ラドクリフという医者によって建てられたもので、いまではボドリアン図書館の一部となっている。1737年に工事が開始され、完成したのは1748年。イギリス風パラディオ様式の建築物で、古代ギリシャ・ローマの寺院を彷彿とさせる特徴がところどころに見られた。

 ちなみに「カメラ(Camera)」は元来ラテン語で「部屋」を意味する言葉。現代では写真を撮る道具として使われているカメラは、暗室を指す「カメラ・オブスクラ」から名付けられたものだ。中学時代に受けた美術史の授業で、初期の頃にそれを教わったことを思い出した。写真がとても苦手だったことも。

 ここから、まずは博物館巡りを始めた。

 

博物館各種

  • アシュモレアン博物館(Ashmolean Museum)

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ギリシア・ローマの空間

 

 この博物館は日本語で紹介されていることが少ないように思うが、個人的にはロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館や大英博物館に並んで好きな場所。

 1682年にエリアス・アシュモールという古美術商が、オックスフォード大学へと自身のコレクションを寄贈し、世界で初めての大学博物館として公開されたのがその始まりだ。当時の所在地は、後述する科学史博物館のある場所だった。

 エリアス氏は庭師であり植物学者でもあったジョン・トラデスキャント父子から多数のコレクションを手に入れていたが、これは彼らが裕福なソールズベリー伯爵に仕えていたことから、イギリス国外の各地を旅して様々な珍しい品を持ち帰ることができたためだ。

 その中にはポカホンタスの父・パウハタン族の酋長が着ていた外套や、最後に生き残ったドードー鳥のはく製なども含まれていたという。

 1634年頃に、このトラデスキャント父子は南ロンドンのランベスに個人博物館を開いた。

 地下1階のアシュモレアン・ストーリー・ギャラリーでは、彼の抱いていた理想や展望とともに、この博物館の歴史を垣間見ることができる。そのねらい通りに、今でも特に自然科学の分野で、収蔵品の調査と研究が活発に行われているとのこと。

 

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The Ashmolean Story Gallery. © Ashmolean Museum, University of Oxford

 

 所蔵品は古今東西の遺物を網羅しており、とても幅広い。

 なかでも世界各国の通貨を集めた《ヘバーデン・コイン・ルーム》の棚は、昔の硬貨やメダルに興味がある人にとってはきっと堪らないものであると思う。日本の有名な硬貨、あの真ん中に穴の開いた「和同開珎」も収蔵されている。

 コイン以外の通貨では紙幣もコレクションされており、旧英国植民地で使われていたもののほかにも、15世紀頃の中国――明(みん)の時代に発行された、世界でも最も古い紙のお金のうちのひとつがあるそうだ。

 また、古代エジプトの展示品の中に小便小僧のようなポーズをしている変わった彫像が複数あり、それがとても印象に残っている。他の場所では見たことのないタイプのものだった。

 訪れた際は、ぜひ正面玄関から入ってすぐ左の部屋を見てみてほしい。別のフロアでは近現代アートの企画展が開催されている時もあるので要チェック。

 

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内部のようす

 

 ここは通常休日であってもとても空いているので、ゆっくり静かに展示品を見られておすすめ。

 つい長居してしまう。

 

アシュモレアン博物館:Ashmolean Museum

 

  • ピット・リバース博物館(Pitt Rivers Museum)

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外観

 

 続いて、考古学や民俗学に関する物品を多く集めているのがピット・リバース博物館

 最初に足を踏み入れたとき、その美しい天井にまず目を奪われた。この建物だけでも見に行く価値があると思う。また、ロンドンの自然史博物館が好きという人もぜひここを訪れてほしい。

 アシュモレアン博物館と同じく、過去に個人(ピット・リバース将軍)が持っていたコレクションをオックスフォード大学へと寄贈したことで、1884年に創設されたものだ。

 彼はヨークシャーに生まれ、陸軍士官学校に入学し、卒業後も軍人として複数の国で勤務し引退。その2年前には裕福だった叔父から突然の財産(田舎の豪邸)を受け取っており、悠々自適な余生を満喫していたようだ。

 当時の収蔵品の数は全部で2万6千点ほどとのことだが、学者や探検家からの寄付などが徐々に加えられていき、今では50万点を超える物品が博物館内に保管されている。

 古今東西から収集された品々の中には各種の遺物のほか、写真や写本なども含まれていた。

 

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Cartouche case (1906.40.7) © Pitt Rivers Museum, University of Oxford

 

 ピット・リバース博物館の持つ大きな特徴は、その展示形態(タイポロジカル・ディスプレイ)にある。

 ここでは他の多くの民俗学系の博物館とは異なり、地理と文化圏に応じた物品のグループ分けがされていない。

 そのかわり、例えば楽器や武器、仮面、狩りの道具――といった具合に、展示品の種類ごとに棚が分かれているのだ。その理由は、異なる時代・地域で同じ役割を持っていたものを並べてみることで、人間たちがどのように問題を解決してきたのかを比べるためなのだという。

 展示物が棚の中に密集していたり、保存の観点から照明が薄暗かったりするので、受付では拡大鏡と懐中電灯の貸し出しが行われている。

 

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外光を取り込む館内

 

 1階には恐竜の骨をはじめ、動物や虫、魚の標本も充実していた。

 一般に、大英博物館で鑑賞者の目に触れる展示物は、所蔵品全体のわずか2パーセントにも満たないと言われている。このピット・リバース博物館はその逆で、所蔵されている物品のうち、実際に展示されているものの割合が非常に多い。

 一見すると雑多な印象を受けるが、目を凝らしてそれぞれのディスクリプションを探すのも面白い。

 なかには初代キュレーターが実際にその手で書き写したものもあるそうで、それを聞いただけでわくわくしてくる。

 

ピット・リバース博物館:Pitt Rivers Museum

 

 

 

 

 

  • 科学史博物館(Science Museum)

 ここで見ることができるのは、主に古代から20世紀前半までの科学の発展を通して発明・使用されてきた、多種多様な器具の数々だ。所蔵品の数は2万を超えるという。

 科学、と一言で表すと幅が広すぎるが、特に充実しているのは天文学・工学・数学の分野と、それらに共通して使われる測量や計算の用具といった収蔵品とのこと。

 それらに加えて、研究に役立つ写真資料や当時の原稿もライブラリに保存されている。

 

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器具いろいろ

 

 現在の科学史博物館は、1924年にロバート・ギュンタールイス・エヴェンスの二人の大きな尽力によって、貴重な資料の劣化や破壊を防ぐ目的のもと設立された。

 ちなみに、この建物自体は Old Ashmolean Building と呼ばれており、アシュモレアン博物館が現在の場所に移るまではエリアス氏のコレクションが収められていた。最初から「博物館」という名目で造られた現存する建物のなかでは、世界で最古のものとなっている。

 石造りの外観に加えて、個人的なお気に入りは地下の部屋だ。正面の入り口からそこに至るまでの階段や廊下、シャンデリアなどの持つ雰囲気は、刺さる人にはとても深く刺さると思う。化学や薬学にまつわる品々が棚の中にお行儀よく並んでいるさまも単純に美しく面白い。

 最近気づいたことだが、自分は近代化産業遺産のような、文化や科学が進歩する過程で発明された工具や建造物に強く心惹かれているらしい。理由は分からないけれど。

 過去の2009年と2010年には、ここでスチームパンクをテーマにした特別展が行われていたそうだ。個人的にこういったものも大好きなので行きたかった。

 

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地下の展示室

 

 ピンク色の棚がかわいらしい。

 また、1931年に「相対性理論」でよく知られているアルベルト・アインシュタインが、講義のためオックスフォード大学を訪れている。その際に使われた黒板書かれた文字は、当時のまま消されずに保存されており、この博物館に収蔵されているのだ。

 科学史博物館の開館時間はお昼の12時から午後5時までと短めで、閉館日は月曜日。規模は小さいがとても充実している。

 

科学史博物館:Museum of the History of Science

 

 ところで、オックスフォード大学と双璧をなす存在として、おおよそ66マイル(約106km)離れた場所にはケンブリッジ大学がある。

 このケンブリッジ大学は13世紀初頭に起きた論争の結果、オックスフォードから逃亡した複数の司祭と修道士たちによって設立されたそうだ。

 二つの大学を指して、よく「オックスブリッジ」ともいう。

 

街の東側

  • 大学植物園

 オックスフォードの中心部から、緑の多いチャーウェル川の方へと歩いていく。すると徐々に見えてくる、マグダレン橋の手前にあるのが大学の管理する植物園だ。

 入場料は大人が£5.45で、学生なら£4。

 イギリス国内で最初の植物園といわれており、その設立は1621年と、今に至るまで400年近い歴史を積み重ねてきた場所だ。園内は温室、二つのガーデン、そして展示室といった四つの区画に分かれている。

 特に温室はとても広く、サボテンやユリ、高山植物などの種類ごとに独立した部屋があるため、一度にたくさんの草花を楽しめるのが嬉しい。

 

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 まず、ここは雲霧林(うんむりん)――英語で "The Cloud Forest" と名付けられた部屋のようす。熱帯・亜熱帯の地域でも高度と湿度が高い場所にある林をそう呼ぶそうだが、私は今回はじめてそれを知った。

 温室の内部を覆っているシダ系の植物をはじめ、渦を描いて伸びるぜんまい、そしてウツボカズラの一種も上から垂れている。その姿は非常にかわいらしい。

 ウツボカズラは消化液で虫や小動物を溶かし養分とするが、昆虫などの外殻は消化されないので壺の中に蓄積されていく。

 たくさんの死骸が貯まったウツボカズラを切り開き、その内部を露わにした動画を見たことがあるが、そこにはまさに「虫たちの墓場」とでも言えるような神秘的な光景が広がっていた。

 

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温室の廊下

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 この植物園の温室は、それぞれの部屋を繋ぐ廊下のスペースにもびっしりと蔦などが這っており見どころが多い。そこにいるだけでときめきを感じる。

 中央に設えられた大きな沼が特徴の "リリー・ハウス" では、睡蓮を中心とした水生植物をたくさん見ることができる。

 これはもともと1851年に、アマゾンの巨大睡蓮を栽培するため建造されたそうだが、今ではそれに類似したパラグアイオニバス(童話「おやゆびひめ」で姫が乗っていたような大きな葉を持つ)を主に栽培している。

 オニバスの葉は表面に水が溜まらないようにするをいくつか持っているほか、芯が空洞になった茎によって葉や花を水面に浮かせているのだ。通常、開花をせずに自家受粉をする「閉鎖花」を主につけるという。

 その生育環境によっては一般の花と同じように開くものも見られるそうだ。

 

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 あまり目立たないが、沼の端にはお米の一種が生えている。室内には他にも、池の側で育つ種類のバナナが青い実をつけていた。

 魅力いっぱいのこんな植物園がオックスフォードにはある。

 

オックスフォード大学植物園:Oxford Botanic Garden and Arboretum

 

  • スロバキア料理店

 植物園からほど近く、橋を渡った対岸にこのレストランは佇んでいる。

 今まではほとんど馴染みのなかったスロバキア料理だが、過去にこの投稿で言及したグルジア料理のように、日本人の口にとても合うのではないかと思われる味付けが多かった。

 街の中心部からは離れているが、機会があればぜひ。

 

Moya

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カプストニツァ

 

 前菜のスープは、ザウアークラウトのような酸味のあるキャベツとニンジン、じゃがいもと豚肉が入ったもの。おそらくこれは「カプストニツァ」と呼ばれているものだ。

 羊のチーズ等と一緒に提供されることもあるそうだが、ここではパンとバターとともにいただいた。

 調べたところ、他にも「グラーシュ」というパプリカを使ったスープが南部の地域ではよく食されるようで、とても気になる。

 身体がぽかぽかしてくるので、肌寒い日の朝や夕にゆっくりと食べたい。スロバキアに限らず、中欧の国々ではスープの種類が豊富にある。キャベツを使った料理のバリエーションも多い。

 

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ハルシュキ

 

 パスタのような小さなダンプリング達は、じゃがいもと小麦粉を混ぜて茹でたものだそう。「ハルシュキ」という名の料理の一種であるらしく、原材料はイタリアの「ニョッキ」に似ている。

 ダンプリングとマッシュルーム、各種の野菜が混ざったその上にふりかかっているのは魅惑のチーズ。通常はベーコンなども入っているらしいが、これはベジタリアンメニューの中から提供されたものなので、肉はなし。

 ひとつ気付いたのは、どの料理も塩気やコショウの味が強めであるということだ。和食にもその傾向があるが、おいしいからといって食べすぎ、高血圧になってしまうようなことは全力で防ぎたい。

 そして、不思議な外観のデザートがこちら。

 

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ブフティ

 

「パレネー・ブフティ(Parené Buchty)」というのがこの蒸しパンの名前。

 もちもちとした生地の中にプラム系のジャムが入っていて、ナイフを入れるととろみのある果肉が出てくるのだ。甘さは控えめでとてもおいしい。周囲に撒かれたバターに本体を絡めて食べると、生地がより軽やかに溶けていく感じがする。

 上にかかっている灰色の粉のようなものは、ポピーシード――ケシの種だ。その見た目に最初は驚いたが、風味はゴマにそっくり。考えてみればゴマも植物の種なので似ていてもおかしくはない。

 どこか中華料理店で提供されるゴマ団子も彷彿とさせられ、親しみやすかった。

 スロバキア料理を専門に提供しているレストランは、日本にはほとんどない。だがチェコや東欧の料理を扱うお店ではいくつかの品を味わうことができるので、今度足を運んでみたいなと強く思った。

 

スロバキア料理について:Slovakia Cuisine

 

 

 

 

 

 

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