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彷徨する自由帖

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ベンの家(旧フェレ邸)- 家、は身近にある最も奇妙な博物館|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

 

 緑色と、橙色と、水色のサンタクロースがいて、そのうち緑のものは後の2体よりも巨大だった。それぞれどういう違いがあるのだろう。種族か、年齢か。また、兄弟や友人同士なのか、あるいはまったく関係がないのか。

 単なる通りすがりにそれらを判断できる材料は与えられていない。近くに掲げてあるアイルランド国旗との関係を考えたが、それでは水色の説明にならないようだった。

 設置された彼らの存在を除いては、ごくありふれた瓦葺きの地味な住宅に見える。

 昔は下見板張りだった外壁は現在モルタル掻き落としで、意匠の点ではかなり簡素なのもそう感じる要因だと思う。ただしよく観察すると、窓の外側の雨戸の模様や、1階玄関横のガラスの十字など、細部に気が配られている古い邸宅なのだと分かる。

 

 

 寒冷な土地に行くほどそこに住む恒温動物の体が大きくなる傾向、ベルクマンの法則と、餌の豊富な熱帯地方でのびのび育った色鮮やかな虫たちのことなど、いまいち方向性の定まらない考え事をしながら眠ったら、あるときとんでもなく奇怪な夢を見てしまった。

 その内容自体は憶えていないのに、妙にはっきりした「奇怪だった」という感想だけが何日か経っても胸に残っている。

 印象だけを取り上げればこの邸宅内部の展示物がまさにそういう雰囲気で、剝製という、もとは生物だったものがずらりと並んでいる異様さの他、脈絡があるようでないような展示の形態が上の夢と似ている気もした。

 明治35(1902)年頃に建てられたとされる旧フェレ邸、通称ベンの家の所在地は、仏蘭西館と呼ばれる洋館長屋(旧ボシー邸)の東隣。そのさらに隣が英国館(旧フデセック邸)だった。こうして並んでいると、3件ともが廊下か何かで繋がっているように思えてくる。実際は別にそんなことはなく、それぞれが独立して建っている。

 

 

 部屋ごとに壁の色と展示物の配置方法が変わっていて、邸内を移動するごとに、さっきとは異なる世界に足を踏み入れたように思われる。しかし考えてみれば「空間を区切る」というのはかなり面白い行為だ。目に見えない、概念上にしか存在しないはずの空間を、区切ること。本来はできそうもないのに、物質の力を使えばそれが間接的に可能になる。

 空間を区切っているというよりは、壁や屋根を使って、ここに空間というものが存在することにしましょうと仮定する試みのようにも思える。要するに、暗黙の了解。

 暗黙の了解といえば関守石もそう。

 柵や看板を設けずに、ここに立ち入ってはならないのだと訪問者に示す、番人代わりの存在。止め石とか関石などとも呼ばれることがある。振り返ると似たようなものを国外でも見たことがあって、それは古い邸宅の中にあった座れない展示物の椅子の、座面にそっと鎮座していた。石ではなくて、ドライフラワーや木の実が使われていた。

 

 

 さっきまでお茶会が開かれていた緑の部屋。順番に色の変わる部屋を巡っていると、トゥルーデおばさんの存在が頭に浮かぶ。いつものように。ここには黒い炭焼き男も、緑の狩人も、獣を殺す赤い男もいないけど、いずれかの窓から魔女の姿が見えたら訪問者は木材に変えられてしまう。そうして暖炉に放り込まれ、熱源と化す。

 壁に並んだ奇妙なものの入った瓶を見ていたら、小説「ハウルの動く城(Howl's Moving Castle)」を思い出した。アニメーション映画ではなくて、ダイアナ・ウィン・ジョーンズが手掛けた原作小説の話だ。あれにも、魔法の薬や材料が入ったガラスの瓶がたくさん登場する。

 

でも、本当のねらいは、棚に並んだ包みや瓶や筒でした。ソフィーは棚を掃除するという口実で、ひとつひとつ下に下ろしました。
そして『皮膚』『目』『髪の毛』などと書かれた物が、実際に娘たちのなれの果てなのか、長い時間をかけて念入りに確かめたのです。

 

(D・W・ジョーンズ「魔法使いハウルと火の悪魔」(2004) 徳間書店 訳:西村醇子 p.69)

 

 そして、この神戸の異人館が冠したのと同じ「ベン」という名の登場人物もいるので勝手に繋がりを感じた。こちらの世界の邸宅に住んでいたベンは狩猟家のベン・アリソンで、小説に登場するベンといえば、扉の向こう〈インガリー〉における王室付き魔法使いのベン・サリヴァン。

 

 

 

 

 ソフィーが憤慨するほど散らかり放題の「動く城」内部は、主人のハウル本人に言わせれば「何がどこにあるのかはきちんと自分で分かっている」状態なのだそうだ、汚くても。文字通りの巣穴である。

 けれどもこの例に限らず、仮にどれほど整理整頓がなされていたところで、家というのは巣穴だ。そして、実際に住んでいる人間たちにしか理解や把握のできない法則で動いていることを思うと、家、住宅、邸宅というものは、ことごとく無二の奇妙な博物館でもあるといえる。ある個人にとっての普通は当然、別の人間にとっては異常であるからして。

 だから邸宅見学の名を借りた合法的な家宅侵入は面白い。

 奇妙な邸宅、があるのではなく、そもそも邸宅自体が奇妙なものなのである。それに、家とそこに住む人間の組み合わせには一つとして同じものがない。ひとたび何かが棲みつくと、ありふれた間取りの部屋ですら簡単に迷宮のごとく、深淵に秘密を隠す、危険な領域へと性質を変える。それをできるだけ沢山覗きたい。

 

 

 あ、魔獣。

 ステンドグラスに封印された魔獣がいる。

 巨大な剥製を置くだけではなく、こういうところにも動物をあしらっているらしい。おそらく、星明りか松明の炎の光をガラスの表面に受けたときだけ、そこから抜け出して自由に神戸の街を歩き回れるようになる仕組み。だから人間は暗くなったらあまり出歩かない方がいい。

 はじめは変わったものが内部に沢山置かれている様子に意識が向くし、綺麗に管理されているからあまり古い感じもしないのだが、この邸宅は明治の建設当初からそのつくりも建材も変わらない。だから何も展示されていなかったとしても、存在自体が建築博物館のようなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

ラインの館(旧ドレウェル邸)- 燐寸の火と硝子の向こうの家|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

 

 

 階段の踊り場にツリーがある。

 金属的な光沢をもつ球形のオーナメントには、周囲の光景が湾曲して映り込んでいて、まるで世界ひとつが小さな飾りの玉に封じ込められているみたいだった。すべてが金色や、赤色でできた世界。はっきり見えるものもぼやけて見えるものもある。

 たまに近くを通りかかる人が映ると、それらの球の中で動いているようにも見えた。

 あるお話に登場する塔の姫君が、長い髪に編み込んでいた真珠のアクセサリー(糸で粒どうしを繋ぎ合わせたものを、髪の毛に絡ませて使う)を知っている。モミの木を飾るオーナメントも、どこかそういうものに似ていた。

 

 

 生活文化的に、クリスマスはだいぶ自分から縁の遠い行事である。

 けれど、それにまつわる音楽会などの催しが、広い街のどこかで行われていると考えるのは楽しいことでもあった。それが旅行先など、自宅から離れた場所であるなら尚更かもしれない。生活から遠いところにあるものは、身近なものに比べて容易に好きになれる。もちろん、その反対もまた然り、なのだが。

 同時にこの時期の往来を歩いていると、道路に面した窓の、ガラスの内側の温かさを連想して寂しく思う。

 透明な板の向こうに広がる情景は完璧な形で保存されている。暖炉に燃える火、食卓のごちそう、ささやかな談笑……実際に中を伺ったわけではないから、単なる幻なのかもしれないけれど。

 

「ああ、あたしも、いっしょに連れていって!

 だって、マッチの火が消えちゃえば、おばあさんは行っちゃうんでしょ。さっきの、あったかいストーブや、おいしそうな焼きガチョウや、それから、あの大きくて、すてきなクリスマスツリーみたいに!」

 そう言って、少女は、たばの中にのこっているマッチを、大いそぎで、みんな、すりました。

 

(青空文庫「マッチ売りの少女」H・C・アンデルセン 訳:矢崎源九郎)

 

 あとはブレーメンを目指した動物達のうち、ロバが覗き込んだ強盗の家も思い出す。外と内の差異を、他の時期よりもずっと強く意識する。冬は、とても寒いので。

 自分がヨーロッパの隅で過ごした幾度かのクリスマスも脳裏に浮かんだ。

 だいたいは家族のいる場所に帰ってその夜を過ごすのが習わしだから、人が出払ってがらんとした寮は実に静かなものだった。自分以外にも残っている何人かの学生と集まって、食べるものを作ったり、談話室で映画を鑑賞したりしたのは面白い時間だった。

 

 

 ラインの館(旧ドレウェル邸)は開館していれば誰でも自由に出入りできる異人館であり、展示内容に関しても、周辺エリアの紹介や歴史について、また1995年の阪神淡路大震災の被害についても詳細がわかる施設となっている。異人館街の所謂エントランスを兼ねてるのだろうと思う。

 以前行われた耐震・防火のための工事を経て公開されていて、ガラスケースの中には当時のレンガや、換気口部分の鋳物も並べられていた。

 大正4(1915)年に竣工した木造2階建ての洋館。ラインという呼称は歴代の居住者のひとり、オバーライン氏の故郷であったドイツに流れるライン川を意識すると同時に、オイルペンキの塗られた、下見板張りの外壁を横に走る直線も相まって選ばれたものらしかった。

 何より気になったのは、照明器具。

 

 

 

 

 天井のものも、壁に取り付けられたものも、どうしてこんなに魅惑的なんだろう。

 そのあたりを漂っていた無害な光る存在を、巧みにガラスの壺で捕まえて、そのまま吊るしているのではないかと思わされる照明。あるいは施されているのが葡萄の葉や実をモチーフにした柄だから、もしかしたら、葡萄畑から直接光を連れてきたのかもしれない。食べ物か何かで誘って。

 果実のひとつひとつに宿っていた光の精霊……クリスマスツリーを飾る、あの赤と黄色の、きらきらしたオーナメントの同類。

 最近は「葡萄の意匠」の魅力を再確認する機会が多い。少し前、果物を盛る盆のような皿の支柱の部分に、金属のツタが絡んでいた食器などを他の洋館で見て、好きになった。ここでないところだと千葉の旧神谷伝兵衛稲毛別荘にも、心惹かれる葡萄の透かし彫りやレリーフがある。

 

 

 それから、この電燈の笠部分は氷砂糖だなと思って眺めていたのを思い出す。

 表面にフロストしたような模様があって、さらさらしている。氷砂糖でなければモナカの表面を連想する。薄くて、軽やかで、指先で端をつまんだらぱきりと割れてしまいそうだった。口に含んだらほのかに甘いかもしれない。こういうものだけを食べて存在する生き物になれたら、さぞかし気分が良いだろう。

 どうして照明器具に惹かれるのか。本当のところは分からないけれど、それは自分が夜を愛好していることと決して無関係ではない気がする。

 穏やかな暗闇に身を浸していると仮定して、ふと目を開けたときに遠くの方で揺れる明かりを見つけたら警戒する。警戒と同時に、好奇心もおぼえるだろう。炎か他の光か判別できないそれはまたかすかに揺れる。この島の鬼火も、遠い西方の島に現れるウィル・オー・ウィスプも変わらず、人間を惑わせるものには違いない。

 

 

 異人館街の半分を見渡せる2階に来た。

 こうして壁の3面が窓になったサンルームは実に素晴らしい空間で、白昼の空を眺めながらお茶を飲むのに適した場所に、これほど適している場所も珍しい。庭や丘の上、屋外に出て行うピクニックでは欲求を確実に満たせない場合がある。ガラスに隔てられていることが、何かを受容する際に必須の条件になっているとき。

 水を濾過するのと似ていて、光も濾過されるとより磨かれるような気がする。

 近代以降に作られた照明器具の多くは光源がむき出しになっておらず、囲いや覆いなどで炎や電球を守られているが、それには部屋など照明の周囲の空間をより効果的に美しく照らすための役割もあるわけだ。直接ではなく、隔てられているから良いのだと。

 

 

 今度は外側に回って2階を見上げてみると、青く晴れ間の見える空が窓に反射していて、静かな水面のようだった。

 あの向こう側にもきっと、今自分のいる場所とはまた別の世界があるのだろう。

 かじかむ手を温めるマッチの火を覗き込めば、その一端が覗けるかもしれない。もうすぐクリスマスがやってくるようだから。とはいえ、この散策記録は昨年のものなのだが。

 

 

 

 

 

新幹線に紐付けられたお弁当とお酒|ほぼ500文字の回想

 

 

 

 1人で新幹線に乗ってどこかへ行ったり、旅先から帰ってきたりするとき。

 

 駅弁と一緒に現地近辺で製造されている日本酒(あれば)を買って、窓の外を見ながら座席で黙々と飲食をする。

 お弁当箱にぎゅっと詰められ、通常よりも圧縮されたご飯の部分を割り箸で端から切り崩し、駅弁らしい濃い目の味のおかずを合わせて一口ずつじっくり味わうのが好きだった。甘かったり、塩気があったり。歯ごたえがあるものも柔らかいものもある。

 ご飯はもちろん炊きたてが美味しいけれど、駅で買うお弁当にも独特の良さがある。

 ……そういう話をしていたら、母から「中年」の2つ名を授けられることになった。
別になんと呼ばれようと構わないのだが、この場合はいくらなんでも年齢の印象を上乗せしすぎだ、と感じたため「私の周りの同じ20代もだいたい似たような感覚を持ってるよ」とかなり適当な返しをしておいた。

 適当とはいえ、決して嘘ではない。単純に私の周囲には、そういう人達が多いだけの話だった。

 

 先日に秋田新幹線の車内で食べたのは、大館の株式会社 花膳が提供している弁当『鶏めし』。

 お酒は由利本荘、齋彌酒造店が製造元の『雪の茅舎 奥伝山廃』だった。

 

 

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

英国館(旧フデセック邸)- 気狂い茶会、言葉遊びと単なる徘徊|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

 前回までの記事:

 

 昨年の12月に訪れた場所のことを今になってようやく記録している。

 

 

 大きなお屋敷の脇や裏を通る細い道では、きちんと黒猫の気持ちになって歩くのが通行の際のルール。背筋を伸ばし、心持ち爪先の方に体重をかけて、できるだけ軽やかに……まがりなりにも黒猫なのだから、決してよろめいたりはしないものだ。たとえ途中で、小さな階段をいくつか上り下りしなければならなかったとしても。道の舗装が甘くても。

 坂の上からラインの館の横を通り抜けると、おそらくこの界隈で最も行き交う人間の数が多い道路に出る。山麓線、北野通り。向かいの集合住宅だった洋館長屋(仏蘭西館)の横に、クリーム色の壁をした英国館(旧フデセック邸)が建っていて、首を伸ばしながら近付くと開け放たれたままにしてある扉が目に入った。入館料を払う。

 建物は明治42(1909)年に竣工し、現在の呼称が示すようにイギリスの人が住んでいた。特に関係はないが、同年は作家の太宰治が生まれ、そしてアンドレ・ジッドが雑誌「新フランス評論」に「狭き門」を連載していた年でもある。

 こうしてまた、現在はもう誰も住んでいない家に入り込む。誰も居住していないのに管理され、調度も美しく整えられて、人を招き少しのあいだ滞在させるように擬態した怪異へ。それは巧みに家のふりをした、けれども家ではない、異様に魅惑的な何か。容易に抗うことはできない。

 

 

 グラスが机の上に置かれる音や、フォークとナイフの先端が皿の表面と触れ合う音、また、人々の話し声やくぐもった乾杯の音頭が頭の中にだけ響いてくる。無人の部屋は無人のまま、眼の前にある。幻の暖炉の火が部屋全体を温めていた。暖炉の燃焼部分の前方が砂利を敷いたような仕様になっているのは、これまであまり見たことがない。

 欄間風にステンドグラスをあしらい、柱に彫刻の飾りを施したパブ・カウンターはマホガニーの木から作られているらしい。これは深みのある赤色が特徴だった。

 イギリスの家具類、調度品類に使われてきた木材は歴史に沿って変遷しており、はじめの頃(チューダー~エリザベス~ジャコビアン様式まで)は、オーク材を用いたものが多かったのだという。後にカロリアン様式に至ってウォルナット材が、さらにジョージアン様式の頃からはここにあるようなマホガニー材が登場し、それから長く家具の素材の主流となる。

 表面を撫でまわしたい気持ちを抑えながら、きらきらした瓶の1本1本を眺めていた。木や、木で作られたものに触れることには意味がある。"Touch wood" も "Knock on wood" も同じく「幸運を招く」の意で使われる言葉で、木に宿った精霊が加護をもたらし、悪運を遠ざけるとされたのだった。ドリアーデの物語を思い出した。

 

 

 ウサギがラッパを吹き鳴らす。

 片手に巻物のようなものを持っているから、王や女王から発されたお触れか何かを読み上げる直前の様子なのかもしれない。1階にも2階にもテーブルにお茶の用意があって、彼らは自分をそれに招待してくれたのだったらいいなと思った。ウサギに連れられて席に着くのは、たぶん楽しいことだろう。

 思えばイギリスにはあの子がいた、と振り返る。記憶の中でページをめくると現れる、ウサギを追って穴に落ちたあの女の子。象徴的な「水色のエプロンドレスを着た姿」は後の挿絵家の手によるもので、もともと(著者の生前、1890年に出版された「子供部屋のアリス」の挿絵)は実のところコーン・イエローであった。補色だ。正反対。リボンだけが水色。

 著者のルイス・キャロル(ドジソン)はスカートの形にこだわりがあったようで、とりわけ、裾のふんわり広がった「クリノリン」は嫌悪していたらしい。その意向を反映した服のスタイルが、前述の「子供部屋~」に収録された彩色絵には見られる(亜紀書房「詳注アリス」p.73 参照)。

 

 

 

 

 別に、正式に招待されていなくても席には着ける——そう、仮に場所がないと言われたとしても、空いている椅子があったら勝手に座ることも可能といえば可能だ。アリスのように。ここには「テーブルの端の大きなアームチェア」は存在しないようだが……。

 帽子屋と三月ウサギと共にティーパーティー会場にいた、ポットの中のヤマネ。彼の姿はヴィクトリア朝時代のイギリスで、実際そのようにヤマネが飼われていた事実に基づき描写されているのだと知った際は驚いた。内部に干し草を敷き、ヤマネを入れ、飼ったり贈り物にしたりしていたそう。見た目は可愛らしいが怖い。ヤマネにとっては窮屈だったに違いない……閑話休題。

 永遠のお茶会に閉じ込められた彼らを思いながら、こうして保存された邸宅を見学していると、その存在を身近に感じることができる。きっとこの部屋もずっと、明日も明後日も変わらずここにあり、食器類も机の上に並べたままになっているはずだから。しかも使われない茶器は汚れることがなく、洗う必要がない、という点で良い。

 時間を殺そうとしている(Murdering the time)とクイーンに宣告され、彼女の言葉を真に受けた当の「時間」(原文中で彼 (him)、とされるため日本語だと「時漢」とも表記する)に背かれたことで、気狂い茶会……「無茶な苦茶会」は終わらなくなってしまった。本来であればそれは、拍子を外しているとか、調子っぱずれに歌っている=歌の間合いを殺している、のような意味になる(PHP新書「謎解き『アリス』物語」も参照)。

 

 

 


 おかしなお茶会の途中では、「眠るときに呼吸をする」「呼吸をするときに眠る」が同じになってしまうヤマネ(眠りネズミ)の言葉遊びが展開された。これは「私は私の意味することを言う」のだと主張したアリスへの反論として提示されていた例なのだが、ヤマネの場合はむしろ彼女の意見を補強する結果になってしまい、本末転倒である。

 通常の感覚では成り立たない論理(だがあまりにも整然としている面白さ!)に触れて意識が朦朧とし、よろめきながら展示されている茶器を片端からひっくり返して回りたくなる。それで定期的に "Tea Time!" と叫んだなら帽子屋とおそろいの完成で、もう日常には戻れない。

 いちど頭を冷やしにベランダやテラスへ出た方が良いのではないか。

 英国館(旧フデセック邸)はコロニアル様式の洋館で、サンルームの他にも大きめに取られた窓や広いベランダなど、開放的なつくりが特徴の一つとなっている。外の世界と内側の世界が明確に区切られていながら、閉塞的な感じを滞在者に与えない点でも、ガラスという素材は便利。魔法の力を感じる。

 

 

 2階の寝室では、ベッドの天蓋の向こうから肖像画の瞳が覗いていて震える。絶えず見られているという、どきどき。家主はここにいないので必然的に私は侵入者として扱われることになるのだが。

 そういえば考え事をしているとき、家の中を歩き回る癖があったと唐突に思い出した。対して広くもない家に住んでいて、何かが頭の中を巡り始めるとひたすら居間から自室、台所、風呂場などを行ったり来たりする。だから本当は大広間や、階段ホールや、信じられないくらい長い廊下なんかがあったら嬉しいのに、現実はそうはいかない。

 そんな「本能」に従った動きができるのは、邸宅見学の楽しい側面かもしれなかった。おあつらえ向きの環境で、好きなだけ考え事をしながら家という空間の中を徘徊できる。

 ふと浴室の展示に移動式便器があるのを目に留めて、ひょっとしたらここの家主は長い旅行にでも出ているのかもしれないと想像した。明治の頃に出発し、令和の現在に至るまでずっと帰らない。こうしている間にも地球上の、あるいは地上ではないどこかの、世界の果てを彷徨っているのかもしれない。

 

 

 時を超えて残ったアンティーク家具が展示されている家は、さながらタイム・マシーンのようでもある。どこか昔の時間に降り立って調度品を買ったのだ。それで現代に持ち帰った。

 また旅の途中で、こんな風にシャーロック・ホームズ氏とその助手が乗り込んできてあれよという間に棲みついたり、今度はそんな彼らを一目見ようと、見物客が押し寄せたりするかもしれない。さっき窓の外に首を出したら青い装束のサンタが屋内へ侵入を試みていた。あれも、きっと拾ってきたようなものだろう。

 軒下に蜂や燕が巣を作るのとか、湿った場所の岩には苔がむすのと同じ。

 長い時間を経由すると、何かがそこにやって来て付着することが必ずあるものだ。まっさらなまま時を通り抜けられるものはない。細かな傷もつく。異なる時間に到着するたび要素が追加されて(ときどき削ぎ落とされもして)家はその場所から動かないままに、実のところ大移動をしている。

 旧フデセック邸内には「221B」の番号を掲げた扉があり、これは本当に作中のベイカー・ストリートに通じているのだと言われれば、驚くよりも深く納得するだろう。山を掘ってその向こう側に抜けるトンネルを実際に作れるのだから、異なる時空に繋がる扉も無論、きちんと存在するはずなのである。

 

 

 

 

 

 

銀のトレーは「特別」の象徴 喫茶チロル - 名鉄インが目の前のレトロ喫茶店|愛知県・名古屋市

 

 

 

 何年も前のストリートビュー写真では「TOBACCO」となっていた右手の看板が、2022年に行ってみると「切手・印紙」に変わっていた。些細なところで確かな時代の流れを感じさせる。そして、明朝体を少し弄ったような字体がレトロで可愛い。赤と朱の中間みたいな色合いもそう思わせられる要因かもしれない。

 ひさしに洋瓦風の飾りと黒い持ち送りが並んでいる下、入り口は左側の扉だった。名古屋のチロルという喫茶店。カウンター席の上部に氷砂糖みたいな照明器具が並んで、洋風の椅子は赤色で統一されていて、明るい印象のこぢんまりとした内装だった。

 早朝は入り口から近い席が賑わっていて、奥側の席が空いている。どこでも適当に荷を下ろそうとしたらその横に心惹かれるものを見つけてしまい、結果的にそちらの方へと収まった。魅力的なものには吸い寄せられる。

 何があったのかといえば、昔の麻雀ゲーム機がそのままテーブルとして利用されていたのである。熱海の喫茶店「パインツリー」でインベーダーゲームのテーブルに出会ったときと、同じときめきが胸を支配する。他は普通の席の方が多いので、ここは特等だ。

 

 

 朝の時間帯にはモーニングサービスが提供されていたチロル。通常のコーヒーあるいは紅茶、カフェラテなどメニューから飲み物が選べて、トーストに関してもプレーンか、上に小倉あんを載せるかどうか等も気分によって変えられる。そこに、ゆで卵がついてくる。

 喫茶店におけるモーニングのセットは何であれ楽しい気持ちを呼び起こすものだが、このとき運ばれてきたものを見た瞬間、俄然、期待を上回るものが現れたのだと知って朝から最高の気分になった。

 銀色のトレー、しかもロープを模した意匠の取手つき。そう。「取手」がついている……!

 トレーは上にかぶさったプラスチックのプレートでさらに区切られていて、ちいさなスプーン、ティーカップ、ゆで卵、紙ナフキンとトーストが整然と配置されていた。この、それぞれが決まった部屋を持っているような様子は、どこか建物の間取り図を連想させられて面白い。私の部屋だよ、僕の部屋だよ、とそれぞれが口にしているように思えて。

 何の変哲もない、だからこそ好ましい淹れたての紅茶が鮮やかに、溶かした宝石みたいに輝いている。卵の殻をさわる前から、その表面が指先に伝える感触を想像してたまらずに微笑む。

 

 

 銀色の取手つきトレーに並べられた食べ物は、昔から「何か特別なもの」の象徴だった。赤い布の張られた木の椅子に腰掛けて、過去に読んだ本の数々を振り返る。色々な物語に出てきた……時にそれが登場するのは、燭台と肖像画のある大きな邸宅だけでなく、教会だったり病院であったりもした……。

 そんな世界の片鱗が目の前にある。朝、喫茶店に入るだけで味わえる。

 紙上に展開された光景ではなくて、今の自分が向き合っている物質世界に、確かに特別な朝食が存在している喜び。こういうひとときに身を置けること、その幸せを享受するのが人生の仕事だとすら思えてくる。

 そっとティーカップを覗き込んだ。水面にぼんやり映っている顔は、不鮮明だけれど確かに自分自身の見慣れた顔。けれど揺らしてみると、銀のトレーを目の前に置くのにふさわしいであろう装いの、古めかしい趣をまとった全く別の人間がここに居るように錯覚できるのだった。

 

 

 

 

 

お題「お得なモーニングが大好きです。モーニングをやってるお店を教えて下さい!」

【宿泊記録】ドーミーイン秋田 - 大浴場の内風呂が天然温泉のビジネスホテル、無料の夜ラーメン付き|秋田駅

 

 

 

公式サイト:

 

 9月末に初めて訪れた秋田県。1泊2日に旅程で、田沢湖周辺散策と秋田市の近代建築見学を目的に、新幹線に乗った。

 そういえば秋田新幹線は今年で開通25周年を迎えるらしい。水面に落ちた紅葉の葉を連想させる、にじむような赤い色をした車体が印象的だった。これはいわゆる2代目なのだそうだ。鮮やかなE6系「こまち」の外観は、奥山清行氏のデザイン監修による。

 秋田では交通の便がある駅から徒歩すぐのホテルに泊まり、ついでに温泉と、現地の郷土料理を簡単に楽しんで帰りたかった。あとはゆっくりする以外、特別何かしたいことはなかったので宿泊してみたドーミーイン。

 選択したプランは朝食付き。

 

 

 部屋に入るのにはカードキーを使う。他に、大浴場を利用する際は別のパスワードが必要になるため、チェックイン時にそれが記載された紙ももらった。併せて150円の入浴税を支払う。

 上がシングルルームの様子。寝台とデスク。

 ベッドは極端に硬くも柔らかくもないマットで、わりと寝やすかったと思う。掛け布団の感じも。暑かったり寒かったりする場合はリモコンで空調調節ができた。たまに全自動になっていて操作できないホテルもあるけれど、ここは大丈夫。

 電気ケトルでお茶を飲む場合、1階のエレベーター前にあるアメニティの棚からお茶の粉を取ることになる。歯ブラシやコームの横にある。あとはロビーのソファの近くに無料のコーヒーメーカーが設置してあるので、それを淹れて部屋まで持って帰ってくることもできた。

 

 

 部屋に備え付けてあるのはシャワーブースとお手洗いのみ。浴槽に浸かりたい場合は大浴場を利用、ということなのだろう。寝室スペースと廊下は引き戸のガラスで区切られて、簡易脱衣所のようになる。

 大浴場は平日だと夜も朝もそこまで混雑しておらず、特に朝9時前後は誰もいなかった。

 他の利用客との兼ね合いなので、常時いつなら比較的空いているかは予想がつかないけれど……個人的には洗い場ではなく部屋のシャワーでもう全身を洗ってしまって、メイクも落とし、それから脱衣所へ向かうのが良いのではと思った。洗い場の順番待ちをしたり、長く占領したりしなくて済む。女性の脱衣所にはクレンジング・化粧水・乳液が洗面台に置いてあって自由に使える。

 内風呂の天然温泉はうすい褐色をしていて、手触りはなめらかな感じ。浴槽がすこしぬめって滑る。情勢の影響か換気で窓を開けているので、室内なのに外気が入り、ほとんど露天風呂のようだった。これはこれで。

 大浴場の外に、1人1本もらえるアイスキャンデーが置いてある。 

 

 

 そして、夜の9時半から11時まで、1階のレストランで提供されている無料のラーメン(夜鳴きそば)。ハーフサイズ。ホテル内では備え付けの館内着を着ての行動が可能なので、下に降りるときも普段着に着替えずに済む。夜に食べるものを買いに行かなくてもいいのは便利だった。

 食堂内で食べるほか、テイクアウトも可能。専用の容器と袋に入れてもらえ、私は部屋に持って帰って食べた。その際、割り箸などをカウンターで回収していくのを忘れないように。

 朝食の時間は6時15分から9時半までで最終入場が9時。形式はバイキングなので、トレーを持って食べたいものを見つけたら載せていく。値段は割高な印象がある(1800円くらいする……)けれど早朝からご飯をがっつり食べたい人はお得かもしれない。食べれば食べるだけ元が取れる。

 個人的には郷土料理の「だまこ鍋」が食べられたので満足だった。

 

 

 汁の中に浮かんでいる白いお団子の材料はお米。だまこもち、というらしい。炊いたうるち米を粒が残るくらいまで叩いて、丸めて煮て作るもの。これを棒状にして表面を炙ったものが「きりたんぽ」になる。

 滋味豊かで、特に涼しい時期には、朝に出されても夜に出されても沢山食べられそうな料理だった。そもそもだまこもちがご飯なので、これ一つで白米と汁とを同時に摂取できるすぐれもの。

 他にはお皿によそった焼き鮭と卵焼きだけで満腹になった。

 

 チェックアウト時間は基本、11時。それ以外のプランもある。

 

 

 

 

魔神と英雄神、アイヌの伝承の地、神居古潭 (Kamuykotan) - 国鉄時代の旧駅舎は明治の疑洋風建築|北海道一人旅・旭川編(2)

 

 

 

 

目次:

 

神居古潭 (Kamuykotan)

  • 神居古潭の風景と伝承

 

 道路側から神居大橋を目指して歩いていくと、手前でパラモイ(Paramoy)——広い湾、と呼ばれたほど川幅のある地点に辿り着く。

 曲がりくねる水の流れ。地図上だとカーブの外側が大きく膨らんでいて、そこからまるで何かをきつく紐で束ねたかのように、形が細く絞られたところへ一本の橋が架かっているのだった。

 実際には相当な急流であるのにもかかわらず、石狩川は流れているのではなく、ほとんど静止しているようにも見えた。水面のぬめりを感じる。前日も今日も降ったり止んだりを繰り返していた軽雨の影響か、普段から緑がかった水には灰色が混じっていて、眺める側に重苦しい印象を与えてくる。濁っているため、目視ではどのくらい底が深いのか伺えない。

 舟で移動する際の交通の難所として知られ、カムイコタンと名付けられたこの地は、神の世に繋がる場所としても「魔界」としても認識されてきた。

 アイヌ語の単語kamuyは良いものを表す場合と、邪悪だったり危険だったりするものを表す場合、両方がある。ここでの地名は後者の方に解釈されるのが通常らしかった。勇ましく櫂を操り、細心の注意を払って舟が転覆しないように努め、彼ら自身や物資を運ぶために神居古潭を通った人間たちの姿を想像する。

 

 

 橋のたもとの南山商店では、きれいな紅い色の飲み物が売られている。これは紫蘇(しそ)のジュースで、ボトル入りのものが取り扱われているほか、紙コップにも1杯100円で注いでもらえるのだった。

 酸味と甘みがあり、水のようにさらさらとしていて喉に引っかからないから飲みやすい。きちんと紫蘇の風味がある。白いご飯を彩る、あの「ゆかり」のふりかけの香りを思い出した。どういうわけか自宅では食べなかったもの。私の家でこれが使われるのは、必ず遠足や運動会に持っていくお弁当においてのみだったから。それゆえ、「ゆかり」は学校行事の味がする。

 ベンチから立ち上がって神居大橋の前に行ってみれば、湧き上がるのは、もしかしたら紫蘇ジュースを飲まなければ、私はここを渡れなかったのかもしれないという思い。

 冥府、黄泉の国へ追放されるときに忽然と現れる橋かと思った。ぱっきりと白く塗られた欄干も含めて、そう言ってもあながち誇張にならないくらいの佇まいで。なにしろこの先にある旧駅舎の復元もまた絶妙な位置に建っており、対岸の木立の中に赤い屋根と、傾いた架線の柱が見えるから、一層その感が増す。

 

 

 ここはアイヌの伝承(ユーカラ、yukar)に登場する土地であり、川。境界を越えたところに足を踏み入れるのなら、人間の側も相応の手順に則らなくては進めない。ひとまず、私は神居古潭で売られているものを飲んだ。確かに。だからコップ1杯の色鮮やかな液体の分だけ、呼吸をずっと止めていなくても、こちらの何かに見咎められることはないはずだと考えた。

 もちろんあまりにも長居すると、帰ってこられなくなるような気がする。対岸へ渡る橋も無くなってしまうかもしれない。ここでは奇妙な形をした川べりの岩陰が、他のどの世界に通じているとも限らない。

 岩といえば、神居古潭には奇岩と呼ばれる変わった形の岩が非常に多い。

 大半が大陸プレートと海洋プレートの動きにより、長い時間をかけて形成された中には、魔神の頭や魔神の胴体、魔神の足跡と呼ばれるようになった岩もある。特に後者は水のある場所ならではだ。岩盤のくぼみに落ちた小石が水流によって周囲を削り、やがて円筒状に穴が残ったものを、甌穴(おうけつ)というのだった。

 神居古潭甌穴群は旭川市の文化財に指定されている。

 

 

 ところで、そんな神居古潭における「魔神」とは何を指すのだろう。この地に足跡を残し、どういうわけか胴体や、頭までもを落としていった存在とは。

 魔神はその名をニッネカムイ(nitnekamuy)といった。色々と悪い事柄に手を染めていた神だとされ、ついには上川地方のアイヌたちを滅ぼそうとした折に、英雄神(国造りの神とも)であるサマイクル(Samayekur)があらわれて彼らを助ける。戦闘になり、魔神ニッネカムイはサマイクルに刀で切り伏せられた。その痕跡とばらばらになった身体こそが、各所に残る岩石の形の由来とされているのであった。

 神居古潭の地は漫画「ゴールデンカムイ」の10巻92話、93話にも登場する。

 変装した土方が白石に手渡した豆菓子(旭豆)の袋、その裏側には「カムイコタン 吊橋」と書かれていた。まだ、神居大橋が現在のものよりも粗末(巻橋)だった時代。検索すると当時の写真の絵葉書が出てくるが、文字通りに木の棒と板が縄で繋がれているばかりで、漫画に描かれているよりも相当恐ろしいものに思えた。あれを渡る勇気は私にはない。

 加えて、92話ではキロランケが「イペタム(人食い刀)」の伝承にも言及した。夜な夜な人を襲う刀があって、箱詰めにしても抜け出していたそれを神居古潭の底なし沼に沈めたところ、もう戻ってこなくなったとか。

 一説には、神居古潭では石狩川の水深が最大、70メートルにも及ぶとされている。

 

 

 この場所に橋がかけられ、人々がそれを渡らなければならなかった理由は、対岸に作られた鉄道駅の存在にあった。

 日本国有鉄道、函館本線の神居古潭駅。

 昔は付近にも集落があり、鉄道に用のあった人々は橋を経由して駅へと向かった。舟で移動するのも困難な地だが、断崖に線路が通っていたため、昭和7(1932)年には岩盤の崩落による蒸気機関車の脱線・転落事故も起こっている。

 害をなす魔神が伝承に語られた時代が遠くなったとしても、自然が持つ魔的な要素、その性質は変わらない。

 

 

 

  • 旧神居古潭駅舎の復元

 

 神居古潭駅は明治34(1901)年、北海道官設鉄道の簡易停車場(貫井停車場)として始まった。

 数年後に停車場へ、そして明治44(1911)年には一般駅に昇格して、貨物の取り扱いも開始される。やがて昭和44(1969)年9月に営業が終了するまで、無数の機関車がそのプラットフォームに停車し、ふたたび旭川方面や滝川方面へと出発する光景が見られた。

 現在、プラットフォームの片方は安全上の理由で立ち入りができないが、案内板のある反対側には実際に立つことができ、延々と来ない機関車を待つこともできる。いいや、本当に来ないのかどうかは、朝から晩までここで待ち続けてみないと分からない。無論、人間には乗車ができない車両かもしれないが。

 現在はサイクリングロードの休憩所となっている旧駅舎。自転車でも虫の羽音でも、木々のざわめきでもない音、汽笛のような何かが鼓膜を震わせたら、もう線路ではなくなった道の向こうに目を向けてみよう。

 平成元(1989)年に復元された駅舎の佇まいは、美しかった。

 

 

 下見板張りの柔らかな緑の外壁に、少し色味の異なる別の緑で塗られた柱を合わせ、そこに落ち着いた赤色の屋根を載せている。木造の疑洋風建築。柱の上の持ち送りみたいな装飾が良い。

 周辺が鬱蒼と樹々で覆われているため、駅舎の建物は周囲に溶け込んで見える。けれど補色の屋根だけが、はっきりと浮かび上がってその位置を示すのだった。これが対岸からでも分かる。神居大橋を渡り切ったらまた振り返ってみると、確かにさっきまでいた場所、緑の向こうにうっすらと駅舎の屋根が見えると気付く。

 明治に建てられた駅舎は大正時代~昭和初期にかけて2回程度の改築を経験しているらしく、当時から元の様式を保持したまま、建材がすっかり入れ替わっても同じ姿で受け継がれているのは興味深いことだった。

 よく思考実験でテセウスの船が引き合いに出されることがあるけれど、現代の都市部に住んでいる人間には船よりも他の建築物の方が例として理解が深まりそうに思える。壁や柱や屋根を少しずつ修復していって、やがて全ての部分に手が入れられ、竣工当時から残っている部分がごくわずかになっても、それを元の建物と同じ名前で呼ぶことはできるだろうか……という仮定。

 

 

 横にはお手洗いがあって、こちらも同じ色、同じ様式で統一されていて可愛らしい印象を抱いた。小型の駅舎みたいで。実際に利用したり中を覗いてみたりはしなかったけれど……。

 格子状に線が交差した屋根の模様にもう一度目を向けて、もしも雪がそこに積もったら、と考えた。白く重たい塊の下、端の方からわずかに屋根の赤い面が覗いて、さぞかしきれいだろう。相当に寒そうで想像するだけで凍える。でも、昔は駅舎の中でも薪ストーブか何かを焚いていたはずだ。

 電車を待つ人たちが襟巻きに顔を埋めながら、機関車が到着する直前にぞろぞろと入口から出てくる。吐く息が白く漂い、駅舎の扉を開けると、外気温との差で曇っていた室内のガラス窓に結露の粒が伝った。みんなここから移動する。ところで私も一緒に行かなければと思う。乗ろう。旭川から来たから、今度は滝川方面に向かって。

 切符を片手に蒸気機関車へ。

 

 

 そうして気が付いたら、神居古潭のバス停にいた。

 機関車はもうどこにも走っていない。紫蘇ジュースの効果は紙コップ1杯分、きちんと発揮されていたようだった。対岸に戻ってくることができた。

 実のところ自分がいつから、何をきっかけにしてこの場所を訪れてみたいと思ったのか、初めにそう思ったときの記憶はないのだった。しかし実際に来たということは何か惹かれるものがあったのだろう。近代建築に興味があるから駅舎を見学できたのは嬉しかったし、単純に景勝地という以上の雰囲気を醸し出す川や、アイヌの伝承の一端に触れられたのも良かった。

 それからバスで深川方面に向かって、乗り換えて妹背牛まで行った。

 

 

 

  • 旭川駅から神居古潭への行き方

⑴旭川駅からバスを利用する方法。

駅前の8番乗り場から「56-留萌線 留萌十字街」行きに乗車する。

約28分で到着。運賃520円。

 

⑵旭川駅周辺から車で行く方法。

約24分で到着。神居古潭に駐車場あり。

 

 

 

 

 

 

珈琲茶論 - クリームソーダとトーストがおいしい駅前のレトロ喫茶店、漫画も読める|山梨県・富士吉田市

 

 

 

 開店は朝8時半。登山やハイキングをする客も利用する場所柄か、午前中まあまあ早めの時間帯に開いている喫茶店の例に漏れず、ここでもモーニングサービスが提供されている。店名は「珈琲茶論」と書いて、「こーひーさろん」と読むらしい。

 外出先で雨が降っていると、他に目的があっても屋内に留まって何か飲んでいたくなる傾向にある。とりわけ、もう少し時間が経てば晴れそうな気配がするときは。ずっと土砂降りなら早く自宅かホテルに帰りたいし、反対に快晴なら、大抵は歩いて回りたい場所の候補をいくつも持っているが故に。

 扉を押し開けると左手側に本棚があり、漫画が並んでいた。自由に手に取って読めそうだ。その向かいがカウンター席。スマートフォンの使い方をおじいちゃんがおじいちゃんに教えている。たまに、お試しで鳴らしているのか着信音が響いた。

 案内された奥のテーブルに腰掛けていると、今度は後ろの席から会話が聞こえる。しばらくして立ち上がった片方のおじいちゃんに「どこ行くの? トイレ?」と聞いたおじいちゃんが、すげなく「もうこんな時間だから帰るんだよ!」と返されて振られていた。まだ朝だが、平日だしきっと用事があったのだろう。

 

 

 モーニングセットにしたクリームソーダが運ばれてきた。

 ゆるやかな曲線を描くグラスのくびれが端正で、結露でぼんやりした表面を指でつつくと、中身の緑色がぱっと鮮やかになる。そこで気が付いた。液体に浸かっている2つの大きな氷が、球形なのだということに。そしてバニラアイスも球形である。アイスの下部はつぶれているが、上から水面に落とされる前は丸かったのだろう……。彼らは相似の関係にあった。硬さが違うだけで。

 溢れそうで溢れないきめの細かな泡が、絶妙なバランスで器のふちに盛り上がり、ぎりぎりで留まっている。洗練された職人の技。そこに頭を埋めている白いアイスの様子はさながら、寒い日に襟巻きをして、顔の半分をそこに隠している散歩者の姿を連想させる。坊主の。

 ストローで一口吸って、ここに配合されているのは明らかに、普通のメロンシロップだけではないと直感した。味が全然違うから。少し考えてみて、クリームソーダに添えられた一片のオレンジに目が行った。あ、これの味だ。おそらく。オレンジ果汁かオレンジ風味のシロップ、それがきっと混ざっているのだと思う。

 爽やかで濃く、美味しかった。炭酸も強めでしっかりしているタイプ。

 

 

 お楽しみの分厚いトーストは表面にバターがたっぷり染み込んでいて、歯ごたえや香ばしさよりも、しっとりした感じと柔らかさを求めている人におすすめ。食パンはほんのり甘い。バターはほんのりしょっぱい。引っ張ると千切れる生地の繊維、感触が心地いい何の変哲もないトーストは、当たり前に安心を誘った。

 そこかしこに置かれている外国の仮面や雑貨、または遠方の写真などは、店主の趣味だろうか。もしかしたら実際に自分で訪れた場所のものをお店に飾っているのかもしれない。

 平日の朝は席に余裕があるみたいで、けれど客足は絶えなかった。誰かが去ったら入れ替わりで誰かが来る。そういうところのようだ。

 ここから電車でひと駅離れた場所にある、ちょっと怪しい雰囲気のレトロな街並みが楽しい、月江寺エリアへ寄る際には電車を使う機会が多いだろう。大月方面から足を運ぶときなど、せっかくなので終点の富士山駅で降車して、珈琲茶論で何か飲んでいくのもきっと良い。

 

 

 

お題「お得なモーニングが大好きです。モーニングをやってるお店を教えて下さい!」

旧旭川偕行社・竹村病院六角堂 - 明治時代の木造擬洋風建築、春光園前|北海道一人旅・旭川編(1)

 

 

 

 

 

 

 正面から見ると左右対称のかっちりした建物で、右側にだけ細い階段がついている。

 昭和中期に撮影された白黒写真を参照するに、その階段は昔からあったようだった。なかほどに小さな踊り場を設けていちど折れ曲がる形と、幅の狭さが眺めているだけで心地よく、実際に上ってみたかったのだが一般の人間はそこから入れない。残念。

 

 

 屋根を柱に支えられたベランダ状の外廊下は、入り口の真上にあたる部分が半円形に突き出ており、そこだけがバルコニーになっていた。雪を避けるものがないので、積もってしまった後に掃除をするのは骨が折れるだろう。

 バルコニーの背後には木の扉。ファンライトで飾られた2階の扉を開け放ち、ゆっくりと姿をあらわす人間の姿を想像する。彼らの立っている場所からは、そばにある春光園の四角形が一望できるはずだった。私もそこを通ってきたのだ。園内に彫刻がいくつか設置されていて、明地信之という人の作品「エゾユキウサギ」の前にしばらく立っていた。

 2階のさらに上に目をやると、弧を描いた破風の下、懸魚のような飾りのある部分の壁に星のレリーフがあるのだと分かる。北辰(北極星)をモチーフにした五稜星は、いわゆる和人による開拓使がこの土地に設置されて以降、北海道の色々な場所で見られるようになった。何かの目印みたいに。

 あの星のレリーフ、昔から今のような風貌で、たとえば札幌の豊平館のように赤く塗られてはいなかったのだろうか。

 

 

 この建物は旧旭川偕行社のもの。現在も偕行社という組織は存在するし、設立当時から地続きのものではあるが、第二次世界大戦以前と以後で性質は少々異なっている。「偕行」の語は、中国の古い詩篇「詩経」に登場する一節が由来とされているようだった。

 旧陸軍第七師団の旭川設営に合わせて、明治35(1902)年に竣工した疑洋風建築。

 同年の印象的な出来事といえば、戦艦 三笠の竣工や、この旭川において、日本の史上最低気温(マイナス41℃)が観測されたことが挙げられる。なんて恐ろしい……。本州産の人間なので、そもそもマイナス20℃を下回る世界の存在には伝聞でしか触れたことがなく、考えるだけでまつ毛まで凍りそうになった。

 道路を挟んだ位置から、建物の屋根から突き出た煉瓦の煙突を仰ぐ。先端が三角屋根のような意匠でかわいらしいが、あれは、けっして飾りで付いているのではない。内部で火を焚くのに切実に必要なものなのだ。

 

 

 

 

 裏側に回ると2階の壁の1面がガラス窓。

 正面のものとは違い、こちらは上げ下げ窓ではなく引き戸だった。下部にひし形の装飾がふたつずつ。基礎部分に近いところにあった通気口や、各ひさしを支えている持ち送りなどを見ても、華美ではないながらに細部まで装飾の意識が向いているとわかった。

 かつては将校たちの社交クラブだった白い洋館は、昭和期に廃墟のような様相で長らく放置されたままでいたが、昭和43(1968)年に復元修理工事が実施され、市立旭川郷土博物館に生まれ変わる。それから博物館が移転し、現在は中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館となった。館内では彼の作品のほか、手すりの黒光りする階段や、資料の閲覧ができる。

 旧旭川偕行社は漫画「ゴールデンカムイ」の単行本第6巻、50話の1コマに外観が背景として登場する。そして、18巻に登場する階段(鶴見中尉がその上に立って振り向いている絵)も、実はここの内部のもの。聖地巡礼の際はぜひお見逃しなく。

 

 

 そんな建物の横には塔の形をした建造物がある。

 昔、旭川の4条12丁目に存在していた竹村病院(博愛堂竹村医院から名前を変えて明治34年に新築した)という医院の敷地内、玄関部分にあったもので、昭和43(1968)年の解体にともなって塔だけ移築復元された。

 旧旭川偕行社とほとんど同時期に建てられているだけでなく、外観にも共通点があって、こうして並んで復元されている光景はとても理に適っているように感じる。まるではじめからこんな風に佇むことを決められていたみたい。

 塔は屋根下の持ち送り、各所のレリーフとか風見鶏を思わせる飾り、細かな部分に見応えがあって周囲をグルグルしていても飽きない。移動遊園地などでたまにある、中に入って園内を眺められる塔にも似ていた。

 

 

 あの、2階部分の観音開きの窓からは、何が出てくるのだろう。想像してみる。

 ……うーん、鳩。

 鳩がいい。なんとなくそう思った。それは大きな鳩で、毎朝決まった時間にポッポと鳴く。そのまま飛び立って、旭川市内を1日かけて上空から俯瞰して回り、夜中の誰も知らない頃にこっそり戻ってくる。塔の屋根の下に入るとすぐに身体が小さくなるようだったが、生態について詳しいことは分からない。明治時代に塔が完成した時からずっとここに住んでいる。

 周辺に住んでいる人達はみんなそのことを知っているのに、大切な存在だから、知らないふりをしているのだった。

 

 

 

 

 

妹背牛町郷土館 - 旧村役場のフランス風近代建築、その内部にある約600点の資料|北海道一人旅・妹背牛編(1)

 

 

 

 

前回:

 

 

 JR深川駅の近くで拾ったバスを、妹背牛の停留所で降りた。その時は晴れていた。

 やがて大粒の雨が降ってきたかと思えば、辛抱強くあたりの軒下に留まっていると、さほど長くかからずに止む。晴れ間が見え、地面にできた大きな水溜まりの数々が太陽の光に照らされて、深い青に輝くのが眩しい。でも、それらがすべて蒸発しきらないうちにふたたび雨が降る。かくいう具合で、とにかく妙な天候だった。

 予報では1日を通して快晴だといわれていたのに。上空を見れば、強風の影響で雲の動きが早まっているらしく、今度は青天のまま雨を降らしてきた。この天気雨ならば、あとで虹が見えるかもしれない。

 虹。この北海道の地では、アイヌ語でラヨチ(rayoci)と呼ばれるもの。神話や伝承において、単純に現象として語られることもあるが、時にはよくないことをもたらす忌まわしい魔物とされている場合もある。逃げても後を追ってくる、とか……。

 それを知ると自然、足早になった。外よりも安全なように思える、どこかの建物の中に避難したい。できればこれから向かうところの。

 

 拠点にしていた旭川駅から妹背牛町まで来たのは、この「郷土館」に寄るためだった。

 

 

 茶色い板張りの壁、なめらかな緑色の屋根、そんな建物の入り口に掲げられているのは校章のような丸いもの。円と星に囲まれた「妹」の字は、妹背牛町をあらわす1文字なのだろう。

 この辺りだけ、違う時代からそのまま切り取って移した空間が広がっているみたい。雨上がりの虹と同じで眼前に忽然と出現する。角を曲がって佇まいを目にした時は、存在を事前に知ってはいても、意外さに胸が高鳴った。郷土館のほかには、近代の洋風建築やそれを連想させるものは、特に周りには見当たらなかったため。

 風が強いから、案内板の周りに絡んだ蔦の葉がしきりに揺れて音を立てていた。黄緑と赤錆色の2色が、早い紅葉の時期を思わせる。美しい自然の装飾。

 

 

 この建物、はじめは学校かと思った。明治期の小学校にぴったりの建物に見える。けれど、実際には村役場だったらしい。

 妹背牛村が深川村より分立したのが大正12(1923)年のことで、それから少し経過した昭和6(1931)年に建てられた。日本国内で官庁舎をはじめ、自治体の建築を洋風に設える流れのあった、明治期に取り入れられたフランス風の様式を受け継いでいる。

 そして昭和60(1985)年、新しい庁舎ができたのをきっかけに建築当時の姿に復元され、こうして郷土館となり開館している。

 

 

 まだ中に入っていないのに、自分がこの建物をどんどん好きになってしまうのが分かった。

 なにしろ濃い茶色と緑色の組み合わせが、チョコミントを連想させるのだから堪らない。この外観だとチョコレート部分はビターチョコのはずだった。ミルクではない。食べた感想が真っ二つに分かれるチョコミント味の、とりわけアイスクリームは、私の好物。そう。ここは氷菓のような愛らしい見た目の洋館がある町なのだ……。

 屋根には格子の入った板が平らに配されているだけでなく、蛙の目のまぶたのように半円のドーマー窓が突き出ていて、さらに愛らしさを添えていた。私はいつもまぶたと言うが、友人に言わせると熊の耳にも見えるらしい。なるほど丸いから。白色に塗られた扉や窓枠も、太陽の光に明るく映えていて良かった。

 正面に立った時、もと村役場だった郷土館の建物は、左右に事務室と議事堂を配したつくりになっているのが見える。これも、最初に学校という施設を連想させられた要因かもしれない。外からでは、生徒が集まる講堂か何かがあるように思えたのだった。

 

 今度は裏側に回ってみると、蔦で覆われた重厚な石造りの蔵。

 蔦の妖怪みたい。他の部分が板張りなので、かなり目立つ。質感の違いが面白かった。

 


 郷土館は入館無料だが、常に解放されているわけではない。月曜日を休館日として、午前10時から午後4時までの間、隣にある町民会館に申し出れば鍵を開けてもらえる。受付に行って「郷土館の見学」と言えば伝わるはず。

 私が足を運んだ時は他に誰もおらず、実質貸し切り状態で内部の見学ができたのが僥倖で、とても稀有な体験だった。そもそも施設の存在を発見したのが偶然だった点でも自分には特別に感じる。こういう予想外の興味深い邂逅が、人生の中にできるだけあってほしい。思いもかけないようなところでばったり会う事の良さが……。

 引き戸を開ける瞬間のときめき。贅沢な静けさ。

 小さな窓口にもこの上ないときめきを感じる、と思いつつ見学を続けていたら、突然意識が過去に飛んだ。思い出したのは、通っていた公立小学校の理科室の椅子。それがまさに写真のような四角い木の椅子で、古くて脚がガタガタするやつは人気がないから、誰も座りたがらなかったのを思い出す。

 放課後掃除の時に、写真のように上にあげた状態にするのだ。

 

 

 

 

 隅に置いてある古い金庫には「東京伊藤製作所 鳳凰金庫」とある。古民家などに昔の金庫が残っていると、やはりどこが作ったのかが気になるもの。ちなみに日本最古のものは竹内金庫だといわれている。

 そして昔の町長室。さっき鍵を開けてもらったばかりだから当然、中には誰もいなかったはずなのに、この町長の席にはつい数分前まで人が座っていたような趣があって震えた。もしくは布の下に人が……いや、それでは江戸川乱歩の「人間椅子」になってしまうのでまずい。

 閑話休題。

 郷土館の展示は明治26(1893)年以降、この土地で人々が本格的に開拓を始めた時期の記録から、当時使われていた農具、住居、また本州とは違った気候や土壌により困難を極めた米作りまで、幅広い物品を通してその軌跡を窺い知ることができるものだった。

 かつて、天明元(1781)年の頃までには、北海道の地で稲作を行うのはほとんど無謀だという結論が出されていたという。しかしながら、民間での地道な研究と農業指導者らの尽力により、新しい品種の開発や栽培方法の工夫で、稲穂を実らせることに成功する。

 

 

 入植当初の人々が暮らしていた粗末な「拝み小屋」も、徐々にふつうの家らしいものへと変化していった。

 展示の目玉はきっとこれ。建物の中に建てられたもうひとつの建物、大正時代の妹背牛の暮らしを想像する助けになる、家の模型。

 明治大正期といえば、文化住宅をはじめとしたモダンな住居を頭に浮かべる人が多いかもしれないが、もちろん全ての人々がそういう場所で暮らしていたわけではない。米櫃や水桶を使い、囲炉裏を囲むのも、近代日本における生活様式のひとつ。茅葺き屋根の家の窓に、ガラスが嵌まっているのも大正時代らしくて興味深かった。

 外には郵便制度に欠かせなかったポストと、四角い……これは消化ポンプ。明治時代に使われていた龍吐水よりも、一段階新しい形。

 

 

 現在、妹背牛町には高校がない。

 かつては妹背牛商業高等学校が存在していたが、過疎化、生徒数の減少により平成21(2009)年に閉校。往時の女子バレーボール部は全国大会での優勝経験があり、北海道内でも強豪として知られていて、卒業生にはJTマーヴェラス女子チームの監督に就任した吉原知子氏などがいる。

 郷土館内にはその校章(稲の穂があしらわれている)のほか、学校関係の資料も保存展示してあった。現在ある小中学校も、歴史の中で形を変えながら存続してきたのが説明から分かる。

 そもそも妹背牛町における教育は、明治31(1898)年に空家を利用して授業を行ったのが、その起源だったとか。

 

 

 後で調べてみると、妹背牛町の人口は私の暮らしている町とほぼ同じだった。

 しかし異なるのがその面積と人口密度で、なんと、100倍もの差がある。妹背牛町の方が広く、人口は少ない。だからか、と私は思った。深川からのバスを降り、付近を散策していた際、車も人もほとんど見かけなかったわけだ。混雑や喧騒とは無縁の、ゆったりとしている地域……。

 郷土館の見学が終わったら入り口脇のインターフォンを使って申し出ると、町民会館の方がまた施錠しに来てくれる。扉を閉めたらそのまま辞去して大丈夫。

 

 

 旭川駅から足を延ばしたところに、こんなに興味深い場所があるなんて予想もしなかった。おかげで、日頃から何となく地図を眺めているだけでもときどき面白いものが見つかると分かったのが大きな収穫。

 今後も目的地と併せて、実際の旅行中に行けるかどうか定かでなくても、少し離れた場所の様子は事前に詳しく探っておこう、と思うなど。

 

次回:

 

  • 旭川から妹背牛町郷土館へのアクセス

⑴旭川駅からJR函館本線に乗り、妹背牛駅へ行く方法。

下車後、北へ向かって徒歩約10分。

 

⑵電車とバスを組み合わせて行く方法。

まず、旭川駅から深川駅まで出る(数種類の電車あり)。

その後、バス停「深川十字街」から空知中央バス「深滝線:雨竜経由(滝川駅前行)」に乗車。

※深川十字街のバス停は2カ所にあるので注意!  空知中央バスが停車する方で待つ。

妹背牛町民会館入口で下車、徒歩約3分。

 

 

北海道ひとり旅関連:

 

 

 

 

「道ありき」を片手に作家ゆかりの地を訪ねて - 見本林の文学館と塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)|北海道一人旅・塩狩&旭川編

 

 

 

 

 

 

 

 4年前……2018年の8月末、札幌。

 豊平館を訪れたその日は頭上を仰げば曇天、たまに晴れ間が見えるが当時の外気温は低く、17℃しかなかったのを今でもはっきり覚えている。とても寒かった。いかに北海道といえど真夏の暑さからは逃れられまい、と上着を持たず、半袖で中島公園を出歩いていたのが完全な油断のあらわれ。そのままではきっと、風邪をひいてしまうと危惧した。

 寒い、と両腕をさすりながら、どこでもいいから暖を取りたくて、逃げるように駆け込んだ建物が奇しくも、北海道立文学館。

 

 そこの常設展で、初めて三浦綾子とその小説作品に出会った。

 彼女は北海道出身の代表的な作家。常設展示では作品の特徴、また著者の人となりが簡単に紹介され、著しく興味を惹かれた私はすぐに「氷点」「続氷点」を購入し、読んだ。陳腐な表現で申し訳ないが、その選択は大正解だった。次に「塩狩峠」、そして「道ありき」から始まる自伝の3部作を通読し、実感する。

 この人のことが、単純にとても好きだと思った。

 

わたしには、生きる目標というものが見つからなかったのである。

何のためにこの自分が生きなければならないか、何を目当てに生きて行かなければならないか、それがわからなければどうしても生きて行けない人間と、そんなこととは一切関わりなく生きて行ける人間があるように思う。
わたしはその前者であった。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.29)

 

 今年、2022年は作家の生誕100周年。

 だから、会いに行こうと決めた。記念文学館のある出身地の旭川へ。そして、「氷点」が賞を受賞する以前、雑貨屋を営んでいた頃の旧宅が復元されている、和寒町の塩狩へと。

 会う……といっても作家は故人。すでにこの世にはいない人。けれど彼女によって紡がれ、記された言葉は、紙上や映像上に残っている。私は時代を超えてそれを辿り、いち読者として、身勝手に何かを感じ、考える。そういうことを指して「会う」と表現させてもらう。

 

 現地での移動中はずっと、文庫版の「道ありき」を手放さずにいた。

 

 

目次:

 

三浦綾子記念文学館  旭川市

 

 三浦綾子記念文学館は旭川、外国樹種見本林のあるところに建っていた。JR旭川駅南口から歩いて10分くらいで、途中で忠別川にかかる「氷点橋」を通り、その通りを突き当りまで歩き続けると到着する。美瑛川の手前にあって、地図で上から見るとまるで訪問者を受け止めるような形になっているのが面白い。

 この見本林は、三浦綾子が夫である光世氏との結婚2年目、6月に、光世氏の上司に薦められて訪れた場所。後に「氷点」の舞台にも採用された。明治時代、日本の寒冷地で外国種の木々がどう育つのか調査するために設けられた国有林であり、一般人の立ち入りも自由にできるため、市民の憩いの場になっている。

 私も今回の訪問時、そこにしばらくいて、作者が「この土の器をも」で述べた見本林の印象が真実であったのだと確かめていた。

 木漏れ日が美しく、しかし、どこか無気味。響いていたのは2匹のカラスの鳴き声だった。片方は少し高く、もう片方は少し低い声を出し、会話をするように交互に鳴いている。周囲があまりに静かなので聞き分けられるが、もしも往来の激しい市街地であったら、きっと気にも留めなかっただろう。

 

 

 歩道を1周して戻ってくるとまた文学館の建物が見える。木々の隙間から。ここでは三浦綾子の生涯……ひとりの人間として、また作家として歩んだ彼女の軌跡を、実際の写真や私物、原稿などを交えた展示物を通して窺い知ることができる。

 三浦綾子(旧姓:堀田)は、一体どのような人だったのか。

 その著書を読んで、またそこに記された、周囲の人々から見た印象を参考にして、頭に浮かべるのは魅力的な人物像だった。考え深く、しかし静的というよりはかなり激しいものを瞳や胸に抱いている、気の強い女性。はっきりとした物言いに、ややもすれば誤解を招きそうだと思うのだが、本人にもきちんとその自覚がある。

 それでも多くを惹きつけるのは、彼女の発する言葉は他人に対してだけでなく、彼女自身にも常に向けられていたからではなかっただろうか。

 

「たいていの人は、人と付き合う時に、なるべく長所を見せようとするものだけれど、綾ちゃんはその反対ですね。こんな自分でもよかったら、つき合ってみたらどう? という態度ですからね。損なタチですよ」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.64)

 

 私はこう考えた。そして、あなたはどう考えるのか。

 私の考えは、きちんと的を射たものであるか、否か。

 常にそう尋ね、尋ねられ、槍の一閃のように透徹した意識は、安易なごまかしや無意味な慰めを突き崩す。だからこそ、と私は見本林の林の中で、ほとんど枝葉に覆われた頭上の空を見上げて思った。それだけ厳しいまなざしをまず自分自身の上に注いでいたからこそ、三浦綾子は苦悩したし、光を、信じられる何かを求め続けていたのだと。

 彼女が感じた初めの大きな虚無は、第二次世界大戦の終結に端を発するものだった。

 状況が変わればあまりにもあっさりと転換する価値観。特にかつての軍国主義的教育に、教師として自分が携わっていた事実に、迷いと罪悪感をおぼえる。何が正しく何が正しくないのかに確信を持てない、無責任な姿勢で教壇に立つなど不可能だと悟った三浦綾子氏は、24歳の頃に教職を辞した。

 その心境は空虚で、酷く荒れてもいた。

 

第一に、すべてがむなしいのであるから、生きることに情熱はさらさら感じない。それどころか、何もかも馬鹿らしくなってしまうのだ。すべての存在が、否定的に思われてくる。自分の存在すら、肯定できないのだ。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.30)

 

 いっそ結婚でもしてしまおう……と、どこか不誠実なものを抱え、同時期に2人の人間と婚約をするほど投げやりになっていた彼女は、結納の当日に体調不良で、そして後に肺結核にも倒れる。本人はこれを示唆的で、何かに罰せられているようだとも感じたそうだ。やがて脊椎カリエスも併発し、長い闘病生活は続いた。

 人生の転機となったのは昭和23年。

 三浦綾子の病床を見舞った人物、幼馴染の前川正は、キリスト教徒だった。

 自暴自棄に生き、多くの人間と適当につき合い、療養中にもかかわらず酒瓶を手にするような姿を目の当たりにした彼は、彼女をたしなめる。それに対する返答は、以下のようなにべもないものだった。

 

(あなたは、わたしの恋人でも何でもないわ。何の関係もないのに、少しうるさいわね)
 そう思いながら、わたしは言った。
「正さん。だからわたし、クリスチャンって大きらいなのよ。何よ君子ぶって……。正さんにお説教される筋合はないわ」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.59)

 

 しかし、かつての婚約者、西中一郎との別れと、彼に止められた自殺まがいの夜の入水を経て、彼女は少しずつ変わっていく。前川正の根気よい説得と、真に他人を思う彼の清澄な心の在り方に触れて。「だまされたと思ってこの人の進む方向について行ってみようか」と。

 キリスト教への懐疑心はいまだ抱きながらも、虚無に陥って終わるのではなく、そのどん底からでも再び何かを求めて生きたいと明確に思うようになった。一度は極限まで追い詰められたからこそ、見える光があるはず……。彼女は酒や煙草を断ち、前川氏の勧めで聖書を読み、短歌も作ることを始めた。

 どこまでも無気力な状態から、何かを受容する精神を持ち、さらに自分から作品を生み出す創作活動にも手を伸ばせるように。そこまで彼女を導いた前川氏の存在の大きさを思うとき、彼の死もまた、とうてい測り知れない悲しみをもたらしたに違いないと思って私は立ち止まった。

 

 そう。前川正は胸郭成形の手術のあと、しばらくして亡くなってしまったのだ。

 

 文学館の2階に展示してあった書簡。前川正氏は三浦綾子のことを「綾ちゃん」と呼んでいて、手紙の文章にもそれがあらわれている。他人が他人に宛てた手紙を読んで涙するなんて、と自分でも思ったが、私は耐えられなくてそこで泣いた。三浦綾子氏の著作を通じて彼の人格や行いの一端を知った今、作者に対して呼びかける愛称に、そこに込められた万感に、心を動かされないはずがなかった。

「道ありき」にも生前に綴られた書簡の一部が掲載されている。

 

「綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。
 万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.274-275)

 

 本物だと思った。

 必死に探してもまず見つけられないような、滅多にない、本物の人間の思いだと。

 

 前川正氏の没後、不思議な出来事が起こる。彼にそっくりで同じキリスト教徒の、三浦光世という人物が現れたのだった。知人のはからいで彼女を見舞った光世氏こそ、後に生涯の伴侶となり、三浦綾子が作家として小説を書き続けるにあたっても、なくてはならない存在であり続けた人物。

 最初はあまりにも前川氏に似ているので、三浦綾子は彼が人ではなく、悲しむ己に神が遣わした、何か別のものではないかと考えたくらいだとか。彼らはささやかな交流を続け、2人とも互いを大切に思うようになった。

 綾子は当然、悩む。

 

わたしの魂は飢えている。知的なもの、高度の情的なものに飢えている。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.317)

 

 自分は、もういない前川正の面影を、三浦光世の姿に投影しているだけではないのか?

 そう葛藤していた三浦綾子だったが、他ならぬ前川氏がもたらした信仰というものが両者を結び付けたことに意味を見出し、幸いにも彼女の病状が快方に向かってから、彼らは結婚式を挙げる。昭和24年、5月のことだった。

 

 記念文学館の分館には、彼らの家にあった三浦綾子の書斎が再現されており、手を痛めてから「口述筆記」で作品の執筆に取り組んでいた時代の雰囲気の一端に触れられる。

 旧宅から書斎の一部屋だけを部分的に移築したものなのに、本当の家がそこにあるようにも感じられ、足が畳の上を擦る音がどこからか聞こえてきそうだった。

 

 

 三浦綾子と三浦光世の2人がかつて暮らした家は、旭川市内から和寒町に移築復元され、記念館として公開されていた。

 私はそこにも行ってみた。

 

 

 

 

塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)へ

 

 今回の旅の拠点としていたのは、上の記念文学館がある旭川市内。

 そこから記念館のある塩狩へ行くのに利用できる公共交通機関は、鉄道かバスになる。私は往路でバス、復路では鉄道を利用した。どちらも1日の運行本数は多くない。事前に時刻表を調べておくのが必須なのと、補助として、乗換案内アプリが手元にあればとても助かる。

 旭川駅前のバス停から「名寄」行きの便に飛び乗って、整理券を取り、適当な席に座る。窓からの景色はみるみるうちに様相を変えていった。都市らしい姿から、ここら一帯が上川盆地と称される所以の地形が明らかになり……どこまでも直線状に伸びる道路の脇には、広がる水田と、家々が点在し、そして遠くの山々しか視界に入らなくなっていく。

 途中、比布(ぴっぷ)を通った。そうして蘭留(らんる)も通過した。私の中でピップといえばディケンズ「大いなる遺産」の登場人物か、ピップエレキバンの商品名だが、どちらも北海道のこの町には関係がない。閑話休題。

 食い入るように外を眺めているうちに、ぱらぱらと雨が降ったり止んだり。やがて塩狩の停留所に立った私は、雲の影響で輪郭線を曖昧にした、遠景の山をしばらく眺めていた。白が緑に映えているのか、反対なのか、あるいはどちらもか。

 

 

 ゆるやかな坂道を上りきると、いた。特徴的な、大きな亀の甲羅を連想させる形の屋根を冠した、小さな家が建っていた。これが現在の塩狩峠記念館であり、かつて三浦綾子と三浦光世が暮らした、旧宅の復元である。

 この塩狩は明治42年に、国鉄職員であり、キリスト教徒でもあった長野政雄という人物が殉職した地。列車の逆走事故による惨劇を、身を挺して防いだと伝えられている場所だった。後に三浦綾子が彼と彼の人生に着想を得て、小説「塩狩峠」を発表した由縁から、記念館も塩狩に建てられた。

 館内の撮影はできない。建物の外壁、窓ガラス以外の部分には琺瑯風看板がいくつもかかっていて、住居兼雑貨屋の「三浦商店」として機能していた家の往時の姿が偲ばれた。こぢんまりとして、ささやかな幸せに満ちていた空間。

 はじめ光世氏は妻が雑貨店を開業するのに反対していて、その点において彼らが相互に納得できる状態を探すのは難しいことだった。他の生活上の懸念も決してゼロではなく、全てがうまく行っていた生活ではなかったと「この土の器をも」でも述べられている。けれど、昼間に部屋で本を読むだけの生活ではなく、どこかで誰かの役に立ちたいと願う三浦綾子の意志は固かった。

 

そんな閉鎖的な生活からは、何も生れるわけはない。二人は結婚する時、少しでも人様の役に立ちたいと願っていたはずだった。
この田んぼの真ん中に店をひらいても、成り立つかどうか、それはわからない。だが、店をすることによって、少なくとも近所の人と馴染みにはなれる。そして、その中の一人にでも、キリスト教の伝道をすることができるなら、というのがわたしの願いだった。

 

(新潮文庫「この土の器をも」(1980) 三浦綾子 p.159)

 

 昭和38年、元旦の頃。

 自宅の近所に越してきていた両親に会いに行った綾子は、賞金一千万円で新聞小説を募集する懸賞の記事を、末の弟から教えられた母によって見せられる。既存の作家であっても応募できる賞で、過去に何度か執筆関係の依頼を受けてはきたものの、素人の自分には縁がない、と放念しようとしたが、やはり気になる。

 彼女は想像した。もしも長編小説を書くとしたら、どのような筋書きにするだろう。何よりも、それを通して最も描きたいことはなんだろう。

 思いを巡らせているうちにいつの間にか略筋ができ、綾子は夫の光世氏にも相談して、実際に執筆をはじめた。舞台は旭川の外国樹種見本林。昼間は雑貨屋の仕事に専念しながら夜にペンを取る生活で、徐々に難しくなっていったし、使命感がなければ書き通せなかっただろう……と彼女は語る。

 心の根幹にあったものは、社会がこれほどまでに人を幸福になりにくくしていることと、その問題の核にある罪の問題を、キリスト教徒として訴えなければならないと信じる思い。

 

 締切日の10日前に熱で倒れるなど、困難を経験しながらも応募にこぎつけた原稿用紙千枚の小説は、最終的に栄えある一位入選の座を手にした。

 それが「氷点」だった。

 私が4年前に札幌で出会い、一気に読んで以来、すっかり生涯の友人のようになった小説。

 

ただひたすら、石にかじりついてもひねくれまい、母のような女になるまいと思って、生きてきた。が、それは常に、自分を母よりも正しいとすることであった。相手より自分が正しいとする時、果して人間はあたたかな思いやりを持てるものだろうか。
自分を正しいと思うことによって、いつしか人を見下げる冷たさが、心の中に育ってきたのではないだろうか。

 

(角川文庫「続氷点」(2018) 三浦綾子 p.375)

 

「氷点」と「続氷点」で扱われている原罪というものの概念は、文学館でも記念館でも非常にわかりやすく解説されている。

 悪事に手を染めることの罪、それ自体を指すのではなく、自らの行いを顧みずに「私はこれまで品行方正に生きていて、悪いことなどしていない」「だから他の悪い人間とは違い、完全に潔白であるはずだ」と思うこと。これが、原罪の意識に繋がる。

 自分の罪深さから目を背けずにいること、その本質が何なのかを「氷点」は問う。

 

 ……考えていて、ふと思った。私は小説が好きだ。とりわけ、物語が好き。

 同時に、物語とはまた違った部分で小説に心を寄せる理由があるとすれば、それは何か。色々考えられるけれど、文章というもの自体への愛着もさることながら、ある主題に対して答えよりも「問い」を提示する機能に魅力を感じているのではないか。

 ある意見を強く主張する小説にも、面白いものはある。しかし根本的な性質として、紙上に記されて世に発表された小説は、否応なしに読者としての大衆へ問いを投げかけるものだ。内容が何であれ。

 読んだ人間の胸には疑問が生まれたり、それに対して自分なりの答えを出したり、時には出さないまま、長い時間を過ごしたりする……。

 だから、小説が好き。

 

 

 窓の外を見ると、雨が降ってきたようだった。

 記念館2階で流れている朗読テープの音声を背に、建物から出て階段を下り、傘を片手に長野政雄顕彰碑のあるところへ向かう。少し前でも述べた、小説「塩狩峠」のモデルとなった人物を追悼する石碑。

「塩狩峠」を執筆していた頃から、三浦綾子は手の痛みを感じるようになった。そこで、夫である光世氏の手を文字通りに借りる「口述筆記」の方法を採用し、彼女が口から発した言葉を彼が聞いて、書き留めるスタイルでその後のすべての作品は執筆された。

 塩狩峠記念館では録音音声を使い、実際に口述筆記がどんなものなのか体験することができる。

 本当に難しいのでぜひ試してみてほしい。相当に馬の合った人間とでないと、長時間こんなことはやっていられない、と実感できるはず。

 

 

 寂寥とした無人のプラットフォームに、宗谷本線の鉄道車両がたった1両でやってきた。

 稚内からはるばるレールの上を駆け、これから旭川方面へ向かうもの。長野氏が殉職した当時は急勾配で起伏が大きく、カーブもある難所だった塩狩峠の周辺(明治時代には駅がなかった)は現在、誰もが昔より安心して通過できる地点になった。

 さっきよりも雨足が強くなる。冷たい雨粒を避けるように、車内へ移るとほっとする。

 あ、これだな、と息を吐いた。

 私は生活の中で、たとえ屋根の下にいても不意の雨に打たれているように思うとき、三浦綾子作品を手に取る。本は全身が濡れるのを防いでくれるわけではないが、自分がその時、求めているのかどうかも分からなかった何かを差し出してくれる場合があって、それがたまに安心に似ている。実際は、まったく違うものなのだけれど。

 

 そういう本を持ち歩く気持ちは、怪しい天候を前にして、折り畳める小さな傘を鞄に忍ばせる際の意識と共通しているものがあった。

 今度は流氷を見に行きたい。

「続氷点」の最終章で陽子が、燃える流氷を眺めて、天から滴る血を連想した場面を頭に浮かべながら、海辺に立ちたかった。

 

この世は虚しさに満ちている。だから、この世に対して虚無を感ずるのはむしろ当然である。虚しいものを虚しいと感ずることに、恐れることはない。

恐るべきは、虚しいものに喜びや生甲斐を感じて、そこに浸ることである。

 

(新潮文庫「光あるうちに」(1982) 三浦綾子 p.105)

 

 私は著者のようにも、その作品の登場人物のようにも、もちろんなることができない。

 だから、と何度でも思う。だからこそ、小説が好き。

 

 

北海道ひとり旅の続き:

 

 

 

 

山形日帰り一人旅(2) 静かな峯の浦・垂水遺跡、山寺千住院の境内には電車が通っている

 

 

 

 

 経緯については前回を参照。それの続き。

 

 

 私の居住区の周囲ではあまり見かけない、赤い、少し古い感じの地上式消火栓があった。半ば地面に埋まった「山火事注意」の看板と並んでひっそり。

 後者は、書かれたスローガンの一部が隠れて見えない。

 消火栓の「消」の字の上に刻まれている、丸と山を組み合わせたようなマークは山形市章である。縦3本の線が自由、平等、友愛。下部の鋭角は固い意志で、さらに外周を囲む円弧が、団結を意味しているらしかった。抽象的な記号はすべからく、装飾的に進化した暗号に似ている。

 昔の一時期、そういう記号と知覚と認識のことを学んでいた。今は、関連する話を表ではあまりしない。

 

 

 振り返ってみると、山形行はほんの2カ月ほど前の出来事なのに、すでに思い出せなくなった要素がいくつもある。

 例えば、このとき山寺の周辺を歩いていて、蝉の声を聞いたかどうか、とか……。蝉は鳴いていたような気がするし、鳴いていなかったような気もする。注意して眺めていたわけでもない花の色とか、鞄のひもが肩に食い込んで少し痛かったこと、道路で何台の車に追い越されたかなどは不思議と記憶しているのに、聴覚にまつわる思い出だけが抜け落ちていた。

 歩道の脇に並ぶ柵から足下を覗き込むと、川があった。そこにも確かに音はあったはず。しかし穏やかなせせらぎだったのか、あるいは轟音と共に水が流れていたのか、今となっては曖昧だ。

 駅から垂水遺跡へ向かう途中、どんなことを考えていただろう。

 

 当時の音の記憶がはっきりと蘇るのは、駅を出て歩き始めてからしばらく後、木立の中に踏み込んだ地点からだった。

 そう、墓地の横を抜けて木々の茂る斜面に足をかけたとき。

 あのとき、一気に音が鼓膜に押し寄せた。羽音だった。多分、小さな虫たちの。 

 

 それを回想した途端、直前にくぐっていた背後の鳥居の手前を、仙山線の列車が勢いよく通過する音が頭の中で聞こえた。踏切はない。それゆえ、遮断機が下りる際の警告音もない。

 車両は走り去る。レールから外れて走行することはできない代わりに、前方にはひとつも遮蔽物の存在しない、自由と不自由が組み合わさった線路の上を、淡々とゴトゴト。

 

 

 本来なら「最上三十三観音 第二番札所(千手院観音)」といい、より簡単に裏山寺、とも呼ばれている千手院の境内と外界を分かつ門は、この鳥居。駅からここまでは歩いてしばらくかかる。とはいっても、せいぜい10分かそこら。

 鳥居は「ついてる鳥居」の愛称でも呼ばれているらしく、最初に名前を聞いたときはあまりに恐ろしくて、震えあがった。ひらがな表記なので意味の方が不明瞭だが、ついてる、というと、まるで「憑いてる」を連想させられるような響きではないか……と。

 実際のところは別段、不吉でも恐ろしくもない由縁から与えられた名前であった。参拝者が鳥居の柱にしがみついて「ついてる」と10回唱えると、正面に向かって右側なら恋愛運、そして左側なら金運、がつくとされている。私はなんとなく、石の柱に触れるのは抵抗があったので試すのはやめた。

 この千手院では珍しく、寺の境内に線路が敷かれ、そこを普通に電車が通っている。鳥居から伸びる階段の先。目の前を横断する鉄のレール。無論、寺の方が先に存在していたのだ。時代ごとに風景は少しずつ変わり、やがてここに、車両を通行させる必要が生じた。

 あ、来る。まばたきしていたら、もう通り過ぎた。

 

 

 湾曲する土手の形に添って、連なる車両は蛇か竜のよう。山の側面に身体をこすりつけるみたいにして走行している。どこか背中の方にかゆいところがあるのか、それであんな風に……と考えると少しかわいい。一瞬が過ぎ去ると、まるでさっきから何もいなかったかのように、辺りはすっかり静かになった。

 ここでも蝉が鳴いていたかどうかを、どうしても思い出せない。

 

 垂水遺跡まで行くにはごく軽い山道を歩く必要がある。

 周辺環境の管理費を募っている箱に小銭を入れて、チャリン、ではなく、カシャンと乾いた響きが鼓膜を叩いたとき、横から人間の発する声が聞こえた。他でもない、私に向けられた言葉だった。出処は麦わら帽子のおじいさん。これから登っていくのか、とか、そういう主旨のことを尋ねられた覚えがある。

 是と答えると「おっかねえのもおる」から気をつけなさいと言われた。おっかねえの、とは一体何なのか。魔のたぐい……? こんな昼間に。

 お礼を言って先へ歩いていくと、何となく言葉の主旨は察せられた。熊、猿、蝮。そういうものが稀に出現するらしい。魔よりも具体的、かつ直接的な被害をもたらす生き物たちだった。

 

 

 

 

 土でできた道を運動靴で踏んで、立ち並ぶ樹木の胴体に太陽光を遮られた空間に身を投じると、しきりに周りで羽音が立ち始める。記憶の中の情景は、ここからにわかに騒がしくなる。

 虫たちは異物のどんな気配に反応しているのだろうか。空気の揺れや、排出される二酸化炭素、足音。色々な要因から人間がそこに侵入してきたのだとすぐに理解して、騒ぎ出す。そうして数分もするとまた大人しくなった。戦々恐々としていた私は、ほっとすると同時に、また別の心細さを味わうことになる。

 山道というほど大層な傾斜ではない。それでも蛇行し、何度も方向転換を必要とさせる道を黙々と進んでふと背後に首を回せば、緑に閉ざされて見通せない視界と、反対にどの地点まで上方に続いているのかはっきりしない前途に挟まれて、広義の迷いを感じる。歩き続ければ垂水遺跡に辿り着くし、返りたければひたすら下へ向かえばいい、それが分かっていても心は迷う。中空に吊るされたみたいな状態になるから。

 今度は耳のあたりに籠って聞こえるのが自分の呼吸音になった。心拍数を抑えるために、ときどき立ち止まる。大昔、小学校で校内マラソン大会の練習をさせられていた頃みたいに、鼻の奥が少し痛くなって、喉が変な風に嗄れる。

 

 

 そうしたら、岩の陰になっているのに不思議と明るく感じる一角を見つけた。

 すぐには理由が分からなかったけど、おそらくは色彩の影響だろう、と考える。緑、灰、黒、が基調となって構成された視界で、その一角に露出している岩だけが暖色系をまとっているものだから、夕陽に照らされているか内側から発光でもしているかのような雰囲気になっているのだった。

 腐食して、蜂の巣状に穴の開いた岩肌は正直、とても気持ち悪い。目でなぞるだけでぞわぞわする。このあたりの岩は凝灰岩だそうだ。やわらかな石が、時間や風や水に食われると、こうなる。

 どうにか気持ちを奮い立たせて、つづら折りの道で幾度目かの方向転換をした。前に回り込むと小さな鳥居が見えた。その大きさの割に、しっかりとしている。よほどのことがなければ、壊れたり倒れたりしそうには思えない。

 

 

 垂水遺跡は、大正時代になっても実際に山伏がここで修行していたとされる、天然の岩場を利用した霊場。上の写真の鳥居がまず印象的な存在としてあるが、目を凝らすと岩の隙間や穴などに木や石でできた像も見つけられ、周辺一帯がひとつの神秘的な雰囲気を醸し出している。

 神仏に対して寄せる念と、自然物を敬う心のありよう。ふたつが結果的に体現された遺跡の中でも、他では見られないものが揃っている稀有な場所であり、初めに発見した人間はたいそう驚いたに違いない。ここに来るまでの途中にこんな岩は存在しなかったし、あとで登った山寺立石寺の方でも、垂水遺跡と同じような岩場に邂逅した記憶はない。

 一説には、西暦860年頃に山寺を開いたとされる慈覚大師円仁もここに留まり、瞑想をしていたとされ、円仁宿跡と呼ばれる洞穴も垂水不動尊の横に残っている。頭を下げ、最終的には座るようにして腰を下ろさなければいられないくらいの、低い天井。

 斜めに入っている線の影響で、まるで、ケーキナイフで土台のあたりを抉り取ったバタークリームの塊にも見える。思えばさっきのあのハチの巣状になった凝灰岩なんてスポンジそのものだ。じっと見ていると、やっぱり気持ち悪くなってしまう。特別、トライポフォビアの自覚がなくてもそう思う。

 

 

 縦の大きな岩の裂け目、前方には呼応するように一本の樹が生えている。

 この部分に祀られているのが不動明王だった。ぽたぽたと水滴が垂れてきているのか、わずかな水音が聴こえ、すると今度は少し離れたところで何か虫のようなものが舞う。すぐ柵の向こう側に消えていった。うろつく人間の気配を察したのか、何とも言えず、鬱陶しそうな緩慢な動きだった。

 ところで、絶え間なく感じるこの息苦しさは一体何だというのだろう。吸っても吐いても呼吸は楽にならず、そもそも空気自体が重苦しくて、手足の動作まで鈍った。普段から修行もしていない存在が丸腰で霊場を訪れると、こうなるのだなとしみじみ考える。

 垂水遺跡というけれど、本当に水がしたたるような重さで四肢を押さえつけられるか、あるいは水の中にいて酸素を求めているような、奇妙な動きにくさをおぼえる。実際に満ちているのは水ではなく、木々の葉の緑であるのだが。

 

 

 それでも遺跡の前を離れると、帰りはよいよい、だった。地上の世界に近付くにつれて、さっきよりも簡単に息ができるようになっていく。再び「ついてる鳥居」をくぐればもう、自分の居るべき世界にきちんと帰ってきたのだと分かる。

 鳥居の正面に向き直って土手の上を眺めていると、また、そこを電車が走り抜けていった。よりにもよって境内の、あの場所を通過するようになっているのは土地の都合もあるのだろうけれど、絵面も結構面白い。

 参道を突っ切る電車。「向こう」の領域と「こちら」の領域を人工の乗り物が横断していく様子に、やっぱり何かの生き物であるような印象を抱く。そのまま伝承に出てきそうな姿だもの。

 世界を区切る蛇だか竜だか、山肌に沿って決まった時間に、決まった場所を移動する、細長い生き物……。

 

 

 

 

山形日帰り一人旅(1) 思い立ったが吉日、まずは時間に燻された旧山寺ホテル(やまがたレトロ館)へ

 

 

 

 

 日帰りで、山形県の山寺、という場所に行ってきた。

 

 

 実は一緒に行こうと話していた友人がいたのだが、急遽、かなり面白い理由で当分先の予定まで隙間なく埋まってしまったとのことなので、いつも一人旅ばかりしている私は今回も変わらず、単独で目的地に足を延ばしたのだった。

 面白い理由……というのは、その子が某3次元アイドルの深い沼に突然(本当に突然)落ちたこと。供給され続ける情報の収集や、ライブチケットを取るのにも難儀する超人気のグループらしく、結果として時間と金銭の双方がすべてそちらへ吸い込まれているらしい。俗にいう推し活を楽しめているようでなにより。

 他人事のような気がするけれど、私の方も何かのボタンが押されると血眼で好きな作家の本を読み漁ったり、感想を書き散らしながらずっとそのことを考えたりしているので、突き詰めてみればやっている行為は大して変わらないと思う。何かに夢中になるってそういうことだ。しかも一点集中型なので、一度に一つのことしかできない。そのうち、ちょっと飽きてくるまで。

 

 普段は不定休、シフト制の会社で勤務しており、友人に上の連絡を貰った次の日の平日が休みだったから、しばらく考えた。明日にでも山形に行けるかどうか。

 もちろん行けることには行けるだろう。しかし周辺にあるものを色々見てみるなどして、さらに夜には帰宅することが、可能なのか。所要時間を調べてみると自分の気力と体力次第で可能に思えた。それで、早々に布団に入って眠った。

 日帰り旅行は荷造りが要らない点がいちばん好き。お財布と携帯電話と、文庫本と水筒。無いと困ってしまうのはこれらだけ。鞄一つで飛び出して、途中でも、無理になったら適当に戻ってくればいい。そこに電車やバスが通っているなら、時間がかかっても必ず帰ってはこられる。

 

 日付が変わって起きたら、身支度をして朝4時頃に家を出る。少々早いがこれには理由があった。

 自宅の最寄り駅から始発の電車に乗りたい。しかし……住所は首都圏だが実際のところ森のような場所に住んでおり、いずれの鉄道駅も家から遠く、始発に間に合う時間帯にバスが運行していることもめったにないので、その場合は1時間程度を費やして駅まで徒歩で行くのが常だった。

 それ自体は構わない。歩くのは良い。車とも、電車とも、飛行機とも違う移動手段。何かが私を運ぶのではなくて、身体を操縦することで、自分が自分をそこへ連れて行く。足を動かしているとたまに意識の方が「いま、ここ」を遠く離れ、まったく別の場所を彷徨っているときがあるのも、不思議だし面白い。散歩は思索を捗らせるのに効果があるとの科学的な研究もあり、私は実感としてそうだろうなと思っている。

 

目次:

 

東京駅から山寺駅へ

 

 始発に乗って、今度は乗り換えて、東京駅に到着してすぐみどりの券売機に張りついた。眼球がすばやく動き、その軌跡を辿るようにパネルの上を指が走る。間違えて変なところを押さないように。

 10分後にホームを出発する便に乗りたい。東北新幹線で仙台まで出て、そこからJR仙山線を使い、山寺の駅まで向かう算段だった。より目的地に近くて便利そうな山形新幹線の方は、本数が少ないので希望の出発時間に合うものがなかったのだ。ところで前の日の夜、仙山線は鹿か何かの動物の影響で夜間に運休していたらしいけれど、もうきちんと動いているみたい。ほっとした。

 そういえば3年前に北海道の札幌へ行ったときも、新千歳空港から市街地へ向かう電車が途中で、鹿の飛び出しに急ブレーキをかけていた……。自然豊かな場所を走行する電車は毎日大変なのだろう。動物だけじゃない。悪天候による山間部の土砂崩れ、倒木、それはもう日々の懸念が多いはず。閑話休題。

 

 思えば、一人で新幹線に乗る際、今までは必ず事前に予約をしていた。他人と一緒にいるときしかこれほど直前に席を確保したことはない。そう、まあまあな心配性なのだった。

 案の定、座席の大半は埋まっていたので、いつもと気分を変えて空いているグリーン車を選択してみることにした。実は初めて利用する車両。よく知らないなりに静かそうでいいな、と以前から感じていて、果たしてその実態は期待通りだった。

 グリーン車は照明が少し落とされているのだろうか、ぼんやり橙色に感じられる周囲の空気には、眠気を誘われる。座席もしっかり、なおかつゆったりとした感触が背中から伝わる。

 なるほど快適さを標榜するのは伊達ではない、と、考えながらグリーン車の特徴を改めて調べてみたところ、「乗車口が階段の位置に近くなっている」と書いてあったのに目を見開いた。なるほど、確かにそうだったはずだ。券売機で切符を買って、急ぎ足でホーム階に上がってから、ほとんど歩かずに目的の車両へ辿り着いた。

 便利だな。グリーン車、こういう感じならまた利用してみよう。

 

 よほど陽射しが強いのでもなければ、私はいつも、首が痛くなっても構わず、新幹線では窓の外をずっと見続ける。

 すると今回は東京駅を出てしばらく、宇都宮駅を越えたあたりから、比較的大きな家の屋根が気になってくる。いわゆる箱棟のような形になった、屋根の上の帯を思わせる装飾の表面に、特徴的なひし形の意匠が施されているものの数が増えてくる。やがて、特定の区画を通り過ぎるとほとんど見られなくなるから、そこに地域性を感じた。

 官庁建築や豪邸ではなく、民家に顕著な特徴というのは本などにまとめられていたりいなかったりするので、それがどういう理由で施されているものなのかを調べるのは結構骨が折れる。旅行先のみならず、自分の暮らしている周辺地域の家々も観察してみたら、意外と変わった特徴がたくさん出てくるかもしれない。

 見慣れていて、当たり前にどこにでもあると思っていた形が、実はそこにしかないものだったら面白い。

 

 ……さあ、仙台に到着した。ここからはJR仙山線に乗る。

 地図を見るからに結構な山のあわいを走る路線で、すごそうだな、と予想していた通りに車窓から見られる風景はすごかった。気分は聖書の出エジプト記で海を割ったといわれるモーセ。両脇から迫りくる緑の葉を揺らし、快速は結構なスピードで、そこにもう線路しかない場所を走行する。特に作並駅を過ぎてからは、この風景のすさまじさが顕著で驚いた。草、木、森、山。おまけみたいな空……もう、それしかないのだから。

 進行方向側の先頭車両に乗るとガラス越しに前方を確かめられるので、気になるならそこに立ってみると興味深い景色が楽しめるかもしれない。

 畳みかけるようにやってきたもう一つの驚きは、とあるトンネルの長さ。

 それこそが昭和12年に開通した仙山トンネル(隧道)で、開通当初は日本国内でも片手の指に入るほどの長さを誇っていた。別名、面白山トンネルとも呼ばれており、そのまま付近にある山の名前に由来する。延々と続く暗闇のほか、トンネル走行中に鳴る相当な大きさの音も特徴的で、何も知らなかった私は本当にびっくりしたのだ。怪獣の鳴き声と錯覚するくらい、鋭い音が鼓膜を圧迫する。

 電車が何者かに襲撃されたのかと勘違いしてしまう。現代における敵襲、恐ろしい。

 

 でも、ここまでくればもう山寺駅は目と鼻の先。

 

 

 さっきまでの暗闇と轟音が幻だったかのようにぽっかりと空間が開け、静かに停車した車両の扉からホームに降りて、太陽の照り付ける地面を踏みしめた。山形県。山寺駅。生まれて始めて訪れた場所、こうして一人で。

 いつもみたいにわくわくしてきた!

 また私の五感は、これまで知らなかった土地を、改めて知る。匂いや音も含めて。

 

 実はこれから見学しようと思う近代建築、旧山寺ホテルも、たったいま降車した仙山線とかなり縁が深い。仙山線があったからこそ誕生した宿泊施設で、それゆえもしここに鉄道を通す話が持ち上がらなければ、こんな風に建てられていなかったかもしれない。

 駅の出口から、徒歩数分で辿り着く。

 

 

 

 

旧山寺ホテル(やまがたレトロ館)

 

 この唐破風の佇まい。いいなぁ。銭湯なんかもたまにこういう外観を採用しているところがあって、それも好き。何が自分の琴線に触れるのか考える。このゆるやかな曲線なのか、装飾の感じなのか。瓦の端っこに施された丸い部分のリズム感とか。もちろん、全部の視覚的要素が、複合的に魅力を放っているのだとは思う。

 旧山寺ホテルの場合は玄関の、四角い箱かお豆腐みたいな看板に記された文字の佇まいがたまらず、上の唐破風屋根との組み合わせでしっかり鑑賞者の心を掴みにきていた。かつては夜間、これを内側からぼんやり、電気で光らせるなどしていたはず。その様子……通りの向かいから、静かに眺めてみたかった。

 白いお豆腐型の看板。これは旅館やスナックの看板などにもたまに見られ、それらに類似のデザインには、個人的に惹かれるものがある。

 こちらの施設の見学は無料なので、とりあえず引き戸を開けて中に入った。名簿に名前を記入して、まずは1階の奥、順路に従って執拗に見ていく。改装というほど内部がいじられた痕跡はなく、それゆえ確かに大分くたびれた感じはあるのだが、おかげでほとんど当時のまま残っている部分を直接味わえるのだとも言えそう。

 

 

 旧山寺ホテルはもともと、JR仙山線の開通にあわせて大正5年頃に建てられた旅館だった。平成19年の閉館までは現役で営業していたそうなので、それなら結構最近だ、と驚く。私が生まれてからもしばらくはやっていたということだ。今は館内の一部が一般公開されており、大きく傷んだ部分の補修のため、玄関に募金箱の設置がされているようだった。

 その現状もあってか、あーっ、ここ、ものすごく気になるから近寄ってじっくり見たい、と思わされる場所には残念ながらほとんど入れない。しかしこれも、建物の修繕資金が集まればいずれ見学できるようになりそうで、こういった近代建築を愛好する人間としては応援したかった。特に2階以上の建物は耐震設備などにも懸念があって、おいそれと公開するわけにはいかないのだろう。たとえば鎌倉文学館もそう。

 味があるし、市民ギャラリーや各種会場としても利用できるようだし、できるだけ長く残ってほしいな。

 部屋を通り抜けて中庭の方面に出ると、立石寺、通称山寺を擁する山の姿がはっきりと見える。夏の盛り、快晴、東北地方といえど山形県の8月、例年と同じく猛暑だった。冬は寒さが厳しく、夏も暑くて大変だろう。ただ風に関しては、関東地方よりも幾分か乾燥しているような気がするのは、錯覚だろうか。蒸し暑いというよりは、どちらかというと陽射しに容赦なく焼かれたのが印象的な感覚だった。

 

 

 階段の付近。こういうのはとても好みの装飾のひとつだから、そのまま持って帰りたくなるのだ。壁が何かの形にくり抜かれていて、そこに透かしのごとく木の格子をはめ込み、少し向こう側が見えるようにしている。完全に区切られるのではなく抜ける空間ができることで、壁として機能しながらも人に閉塞感を与えない。

 ときめきを司る魔が棲みつく場所。私も不可視の妖怪となってここにしばらく滞在したいし、夕刻になったら訪問者をちょっとだけ驚かせて遊びたい。

 ある地点でふと呼ばれた気がして廊下の上を見たら、何かがあった。赤いガラスのボトル。巻かれている紙のラベルはくすんだ色をしていて名前が視認しにくく、目を凝らしてみると、どうやらガラス瓶の消化器みたい。そう、瓶に入った消火液!

 こういうものの類で、ラベルに「消火彈」ではなく「消化器」と書かれたものは初めて見るかもしれない。調べてみるとよく出てくるのは前者なのだが。瓶の消火液は使い方も面白くて、有事の際には火の元に直接投げつけたり、あるいは中身を振りかけたりして使うみたいだった。うーん、面白い。

 その形態は火炎瓶に似ているけれど、用途は逆なのだ。

 

 

 旅館、その広縁に相当する空間に関しては、もはや何が良いのかに言及する必要などほとんどない。そうでしょう。ここが何か、人間を惹きつけるものを宿した聖域であるのだとは、ほとんど誰もが知っている。春夏秋冬いつでも関係なく座っていられる、と思う理由の一つは、窓からの風景も含めて腰掛けの周辺が構成されるようになっているからだろうか。緑なら緑、雪なら雪で、外の状態次第で勝手に「絵」が完成する。

 置いてある椅子の天鵞絨っぽい質感、そして廊下の隅っこにある細い階段そばの火鉢は、今の旧山寺ホテルの展示ならではの見どころだった。雰囲気によく合っていて。

 広縁の反対側の空間は、大広間。結城泰作のペン画作品が並べられ、展示されている。全体を見回したときに欄間の、横線で表現されたたなびく雲のような意匠が目に付いたのと、あとは組子障子のところにも視線が行った。これといって華やかではなく、そこまで重厚でもない。がっしりしたり入り組んだりした、迫力のある装飾とは違い、もっと肩の力を抜いて寝転がれそうな印象を受けた。

 合宿などで雑魚寝利用したら楽しいだろう。でも、枕を投げてはいけない。

 障子から文様が透けて美しい丸窓は、外から見るのもまた風情があって実によいもの。空白に渡された木の枝、その曲がり方が何とも言えず趣深くてずっと眺めてしまう。こういう絶妙な枝を探してくるのも、建物の側に合わせて素材を加工するのも骨が折れそうだ。職人の技の見せ所。

 

 

 ああ、楽しかった。勢いで家を飛び出してきたけれど、こんな素敵な近代建築にこの山寺駅で邂逅できるとは予想していなかった。日頃の行いが良いおかげかもしれない、やはり、善や徳は積み重ねておくに限る……。早朝に出発したのでまだお昼にもならない。他の場所も回ってみて、夕方には余裕を持って帰宅できそうだった。

 ところで、そもそも今回一緒に来れなくなった友人と共に足を運ぶ予定だったのは、この旧山寺ホテルからは少し離れたところにある、「垂水遺跡」という場所。雰囲気と歴史に惹かれて、そのうち行ってみようと話していた。多分、その子もきっと今度日を改めて近いうちに来るだろう。

 旧山寺ホテルの見学を終えたから、さっそく垂水遺跡へ向かってみることにした。太陽がじりじり元気なので、顔を逸らすようにして、頭に帽子をかぶる。

 

 

 続きは次の記事(2)へ。

 

 

 

レストラン ベルテンポ (bel tempo) - 東陽町 南砂2丁目商店会、団地の1階にある小さなお店|東京都・江東区

 

 

 

 

 

 細長いお皿の上に、桃色をした、イチョウ型の「何か」が並べられている。

 一片ずつ、分厚く切られているのに確かな透明感があって、白いすじが大理石の紋様みたいにその表面を走っていた。とても柔らかそう。魚のお刺身にも見えるけれど、魚ではない。ピクルスを枕にするようにして並べられ、ひんやりと静かに横たわっている様子には、なんだか奇妙なほどに食欲を刺激される……まだ、名前も知らないのに。

 そっとつついてみてもいいだろうか?

 どうやらこの何かは、生ハム、であるらしかった。北海道産のしばれ生ハム。時にルイベハム、とも呼ばれるのだとか。

 

 

 うちのひとつを箸でそっとつまみ上げる。

 わさびが添えられた醤油の小皿、その水たまりに浸してから口に運ぶのだそう。従ってみれば、瞬間まぐろの赤身のような風味がして驚き、しばらく咀嚼していると今度は疑うまでもなく生ハムになった。わざわざ醤油をつけていただくだけあってか、そのもの自体の味はしょっぱすぎず、淡くまろやか。

 生ハムといえば薄くスライスされたものしか知らなかったけれど、なるほど、商品によってはこういう食べ方もできるのだなぁ。

 

 この日は友人のご両親が経営されているレストランに集って、昔の級友とご飯を食べていた。

 東京都江東区、南砂2丁目商店会に店舗を構える、ベルテンポ (bel tempo)。地元の方々に愛されている、こぢんまりとした可愛いレストラン。

 

 

 団地や、その1階部分が商店街になっている場所が身近にあまりないため、このあたりを訪れるたび新鮮に面白いと思っている。まるで町の中に、また別の小さな町が設けられているみたい。地下鉄東西線の東陽町駅から徒歩数分で辿り着く。

 ベルテンポでは平日お昼の時間、数種の日替わりランチが提供されている。内容は主にスパゲッティやハンバーグ……メニューによってサラダかライスが付き、飲み物はコーヒーか紅茶から選べて、2022年8月現在それで税込950円。食べに行きたい……。実はまだ、白昼に伺ったことがないのである。

 先日お店にお邪魔したのも夜だったので、この記事には夜のメニューの写真を載せる。イチオシのポテトサラダが提供されるようになるのは11月からのことだそうで、もう、今からそれを楽しみにしているのだった。

 

 手始めに、野菜のグリルをば食はむとす。焼き立てであっつい。

 

 

 続いて、これはホタテのカルパッチョ。

 つややかで柔らかく、中まで十分に香草の香りと味が染みていて、噛んだあとにのどを滞りなく滑り落ちていく際の感じがたまらないのだった。

 そしてホタテ自体もさることながら、特筆すべきなのは細切りの紫玉ねぎ。わずかな辛みと甘さ、シャキシャキした歯ごたえがあって、これがお皿の上に残っていようものならすべて回収せざるをえなくなる。ひとかけらも残したくないので、飲み物のように吸い込む。

 

 メニューの中でもっとも種類が充実しているのは、パスタ類。

 

 

 大変恐縮なのですが、上の赤い方の写真は料理名を失念しました。おい。先日食べたばかりなのに、自分の頭は大丈夫か……?

 辛さのあるトマト味で、確かプッタネスカだった、はず。も、もし間違っていても許してくださいね。

 下の写真はバジルペンネ。申し分のない適度な固さにゆでられたパスタにバジルソースが絡んでいる、仮に迷ったらこれで間違いない安心の一皿。この種類のパスタはあとになってお腹の中で膨らんでくるのだけれど、フォークを動かしている瞬間は、不思議といくらでも食べられそうな気がしてしまう。

 イタリアンといえば定番のピザ、もおすすめ。これは3種のチーズのピザで蜂蜜つき。回しがけすれば、表面に点々と黒く見えるゴルゴンゾーラの渋さと結びついて、やめられないアクセントに。お酒もすすみます。ちなみにこのとき皆で飲んでいたのは、赤ワインのキャンティ。

 

 

 やっぱりお肉も食べたい、と思ったら。肉、肉、肉……と念じて顔を上げると、そこには北海道ベーコンの厚切りステーキがある。歯ごたえがあって、赤い部分から滲み出る汁も、こんがり焼かれた表面の香ばしさも魅力的。

 この記事冒頭で言及したのも北海道のしばれ生ハムだったけど、ベルテンポで提供されている料理には、北海道産の食材が使われていることが多い。実はホタテのカルパッチョもそうだったし、お酒にも「ハスカップサワー」というものがメニューにある(ハスカップ《アイヌ語:haskap》はスイカズラ系の木の実、甘酸っぱい)。私はこれが大好きでおすすめ。

 さらに別系統の肉を求めるなら、ハンバーグステーキ包み焼きもどうだろうか。

 ソースの味はあっさりと濃厚の中間で、例えばデミグラスソースなどの味が少し濃すぎると感じる人でも、おいしく食べられるような気がする。個人的に驚いたのは付け合わせのニンジンの甘さ。柔らかく、バターの風味がして、正直これだけでも大量に欲しい。

 

 

 カットフルーツたっぷり、生クリームの添えられたチョコバニラアイス。

 これで食事はおしまい。私は普段メロンをすすんで食べない(かなり独特な味がすると感じる)人間なのだけれど、この日はとにかく炭水化物を沢山摂取したし、外は蒸し暑いしで、水分を含んだほんのり甘い果物が舌と胃袋に染みた。大満足。

 最後に、営業時間等の詳細を公式サイトから引用しておきます。

 

ランチタイム  11:30~14:00
ディナータイム 17:00~22:00
(土日はディナーのみ営業)

定休日:
水曜日・祝祭日

 

 こんな風に最低でも年に数回、友達とご飯を食べるのが、人生で最も大きな楽しみのうちのひとつ。

 

 

 

旧島津家本邸 - 見学ツアーでのみ内部を歩ける大正時代の洋館|東京都・品川区の重要文化財

 

 

 

 長崎や熱海には坂が多く、住宅地における斜面の割合も高いことはよく知られているが、では東京は……といえば「坂のつく地名」で溢れている。

 旧島津家本邸のある清泉女子大学、そこへ品川駅から向かう際も、高輪口から伸びる柘榴坂をまず通ることになった。グランドプリンスホテル新高輪の脇を抜ける緩やかな傾斜で、二本榎通りと交わる、カトリック高輪教会のところで左折する。しばらく住宅地を歩いていると大学方面へ下りられる階段が現れ、今度はそこが「まぼろし坂」に道が接する場所だった。

 どんな坂なのかは実際に行ってみるとすぐ分かる。付近に立っている標識によれば、どうやら都内でも最大の勾配を持つとされるところらしい。確かに急だった。これでも、人以外に自転車の通行する余地があるのには驚く。

 清泉女子大学正門で見学者用の札を受け取った後、敷地内で旧島津家本邸の建つ地点へ行くにも、階段か坂を上る。今は島津山とも称される高台はかつて「袖ヶ崎」と呼ばれ、海の望める景勝地として知られていたのだった。現在ではここから海は見えない。だから、想像する。この2階のベランダに出ていた、当時の人々の視界を。

 

 

 大正4(1915)年に竣工、その2年後の同6(1917)年に内装も含めて落成した、旧島津家本邸。現在の清泉女子大学本館。年に数回のツアーによって内部を見学でき、この時も現役の学生の方が丁寧に案内して下さった。

 お雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計した建物は、彼がその少し前に手掛けていた三重の旧諸戸清六邸(東諸戸邸)、六華苑の洋館部分にも佇まいが似ているような気がする。ただし東諸戸邸の方はヴィクトリア朝住宅の様式を採用しており、こちらの島津家に関しては、イタリア・ルネサンス様式となっている。

 真四角ではなく、テラスとベランダがわずかに湾曲し、外へ張り出した形が第一に目についた。整然と柱が並んでいて。1階の柱はトスカーナ様式、2階の柱はイオニア様式で、柱頭の装飾が異なる。

 その曲線部分の1階には末広がりの階段が設けられており、芝の地面に下りられるのだった。邸宅の正面玄関は別の場所にあるのに、ここが公式の入り口のように錯覚してしまうのは、左右対称の建物の真ん中から人が出入りする図に何か整ったものを感じるからだろう。もしも全体像を絵に描くならそのあたりがいい。

 

 

 階段といえば、旧島津家本邸の最大の見どころのひとつが、中央ホールの大階段。

 コンドル設計の建物で現存するものの数は意外に少なく、すでにその姿を消してしまった中にはあの鹿鳴館もあった。案内によれば、鹿鳴館と島津家の階段には共通点があると言われており、おそらくそれは手すりの部分に見られる特徴なのではないかと思う。検索してみると、装飾の豪華さでは前者に及ばないが、こぶのような球形の意匠は確かにふたつの繋がりを感じさせた。

 踊り場を照らす窓からの明かりはステンドグラスに濾過されている。もろく繊細な素材であるガラス部分も竣工当時のまま、震災や戦災を経ても大きな損傷がなく、こうして残されているとは驚きだ。

 大正12年に関東大震災が発生した際も、煉瓦造りで地上2階、地下1階の洋館は軽微な被害を受けるだけで済み、当時の島津家の人々は損傷の激しかった永田町の邸宅からこの袖ヶ崎へと移り住んだのだった。白タイル張りの外壁の家へと。

 

 

 館内のステンドグラスが美しいのは、玄関もそう。

 玄関扉の上部にあしらわれた丸に十の字の紋は、他ならぬ島津家の家紋だった。全体的に透明のガラスが占める面積が多く、その要所に色ガラスの嵌め込まれたデザインのため、派手な感じや威圧感とは無縁の雰囲気を醸し出していた。格調高く、地上階は応接や迎賓の空間も兼ねてはいたが、あくまでも全体は家族の生活の間。個人の邸宅。きちんと過ごしやすさを重視されていたという気がした。

 内装を担当したのは著名な日本の洋画家、黒田清輝。残念ながら絨毯や壁紙をはじめとした家具調度は失われて久しいものの、反対にそれ以外はよく保存されている。

 現在では清泉女子大学の本館となっている島津家本邸が、この学院の所有となるまでには紆余曲折があった。そもそも清泉女子はスペイン系の修道会を母体とする組織で、かつて修道女たちと親交の深かった吉田雪子氏(吉田茂元総理大臣の妻)がこの建物をぜひにと希望していたという。昭和18年当時、太平洋戦争の影響で現コクドに売却、後に日本銀行へ権利の移った建物は、長い時を経て昭和36年に清泉女子大学の所有となる。

 

 

 今でも在校生たちは旧島津家本邸の建物を各用途のため使用しており、建物は動態保存されている。1階の応接室はそのまま学校関係者の応接室として使われていた。

 この部屋の面白い部分は窓と、そこから見えるテラスとの関係にある。正面が窓にあたるソファに腰掛けてみると、ちょうど窓枠で視界が遮られる部分に外の柱が重なり、まるで何の隔てもなく庭の風景が広がっているように見えるのだ。これはもちろん、訪問者が外を眺めるとき柱が邪魔にならないようにという、設計者コンドルの仕掛け。

 もうひとつの応接室である現「泉の間」には、たいそう立派な白い大理石のマントルピースがあって、玄関のステンドグラスと同じく丸に十の字の家紋が小さいながらも刻まれている。

 私の頭の中では、つるりと膨らんだ卵みたいな装飾を指の腹で撫でたり、手の甲でそっとさすったりしたら、ひんやりして気分が落ち着くんだろうなという想像が巡っていた。もう見るからにして「ここを触ってみてください」と促されている感じがする。そんな石のご厚意にすかさず甘えたくなる。これ以外にも、2階の暖炉の石の薔薇もよかった。

 

 

 

 

 大広間や応接室ではない部屋に配されたシンプルな暖炉も、それぞれ四角いタイルの色が異なっており、きちんと差がある。大きく目立ちはしないけれど確かなこだわりを感じる部分。淡い色合いは優しさを帯びている。

 他にタイル関係で、竣工当時から現在まで損なわれず残されている箇所といえば、2階のベランダ。その白黒のチェッカー柄になるよう配された床、これが特筆すべきもののひとつだった。経年による損傷の大きくなりがちな部分だが、実は大正4年から全て、1枚も欠けることなく受け継がれてきておりかなり貴重。

 公爵夫妻の旧寝室に面した空間、彼らの暮らしの中にあった模様そのままだということ……。

 これとほとんど同じ様子を島津家の人々は見ていたんだろう。整然と並んだタイル、そして石の欄干と柱の向こうに、庭を。書斎や寝室で息の詰まる雨の日、ここで肘をついて、長く灰色の空と(当時はここから望めたはずの)海に視線をやって過ごしていたい。今日は何もしなくていいと言われたら。

 

 

 前述したように家具調度のたぐいは残っていないのだが、新しく学院によって設置された椅子やソファ類は今の内装にもよく合い、不自然な印象は抱かなかった。

 応接室、2階の大階段の脇、そのまた近くの席、いずれのソファも実に座り心地が良さそうで本当に恐ろしい。何かの間違いで腰掛けてしまったら最後、再び立ち上がることはできないはず。背もたれに背が触れた途端、瞬時に意識を失い、夜が明けても昼になっても目覚められない。やがて体もソファと一体化する、巧妙な罠。

 旧島津家本邸、見学ツアーの日程や抽選の詳細は公式サイトに都度掲載されるので、そちらを参照されたい。

 また、現地へ足を運ぶ以外にもバーチャルツアーにより、1階と2階のかなり広範囲のエリアが画面上で確認できる。遠方の方はそれで館内を覗いてみるのはどうだろうか。建物の雰囲気、その魅力の一端なら、これでも十分に味わえるはず。

 

 

 上のこれは、鍵穴隠し。