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彷徨する自由帖

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喫茶店 サザンクロス - 南十字星の山盛りクリームソーダ|香川県・坂出市

 

 

 

「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」

 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。

 

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」青空文庫より

 

 この北半球にいて、南十字星(Southern Cross)を拝める場所というのはさほど多くない。

 首都圏から南西の方角に下った四国も例外ではなく、けれどそこには、実際見えるはずのないサザンクロスが存在して人間を招いているのだった。道路際で、きちんと光を放つ。暗くなると赤く発行する看板の文字に、ガラスケースの中の食品サンプル、レンガ風の細めの階段……ダートコーヒーのマーク。屋根付きの商店街にあってその店舗部分は2階になる。

 通りに面した壁は透明なガラス張り。丈夫だったり脆かったりするその性質は非晶質と呼ばれて、たとえば鉱石に見られる結晶のような構造を持たない。だから、ガラスは固体でも、なんとなく液体に似て感じられる。

 夏に扉を開けると、冷房の効いた店内に満ちた空気がひんやり、流れてきて背後に去った。かすかに煙草の匂いがする。ランチタイムを少し過ぎたのか、ぽつぽつと食事をしていた人々が会計を済ませて去っていった。昼間でも軒の影になって、店内の照明が明るく点っている空間は、猛暑から隔絶されていてまるでシェルターみたい。

 奥行きがあり、広い。

 

 

 何とも言えない可愛いフォルムの椅子には印象に残る趣がある。海や畑や宇宙から疲れて帰って来た人を、そっと受け入れてくれるような形。ほとんど黒に近い深緑色も目を癒してくれる。優しく。椅子は硬そうな感じもあるけれど、座ってみると硬くない。

 机に運ばれてきたクリームソーダは山盛りだった。

 控えめな装いですました顔の店外の食品サンプルとは異なり、少しでも動かす前にストローで液体を吸ってしまわないと、溢れる。グラスが大きく、ソーダ水がなみなみと注がれ、さらに惜しみない分量のアイスが上に浮かべられていて壮観だ。炭酸の泡の細かさは中程度、かつ風味は爽やか寄り。

 コースターも透明なガラスでとても綺麗なのだが、なめらかに湾曲しているのでうっかり倒してしまわないように触る。それにしてもグラスは持って帰りたくなる形をしていること……。最後に撫でまわした。

 食事がおいしそうなので次回は何か食べに来たいもの。

 

 ……岡山から、あるいは高松から、マリンライナーを下車して南十字星を見に行こう。

 コーヒーラウンジサザンクロスは夕方4時まで輝いている。

 

 

 

 

 

四谷シモン人形館 淡翁荘 - 昭和初期の洋館、旧鎌田勝太郎邸が内包する幻想世界|香川県・坂出市

 

 

 

公式サイト:

四谷シモン人形館 淡翁荘 | 鎌田ミュージアム KAMADA MUSEUM

 

 現在「四谷シモン人形館」として門戸を開いている建物は、かつて鎌田醤油の4代目、勝太郎が坂出に建設した居宅。彼の号にちなんで「淡翁荘」と呼ばれていた。

 戦前の昭和11年に竣工した洋館で、現在は広い駐車場となっている横の土地から見ると実に四角く簡素な趣、道路の側に面した窓の数も少ないからまるで箱……のようにも思え、果たして本当にこれは家だったのだろうかとはじめは訝しむ。人形館として開館するにあたり、管理に必要な棟として増築された部分も一部ある。

 アーケード商店街から入場するときは、讃岐醤油画資料館の建物を通って、ようやく玄関へと至れた。

 なるほど実際、玄関の前に立ってみるとそこは確かに洋風の邸宅だった。入口がある。扉の前、訪問者の頭上に張り出したポーチの屋根はまた四角い。上を仰ぎ見ると、やはりこちら側の2階にも窓はなく、北側の正面や庭の方に回らないとない。そのまっさらな壁の、適度に閉ざされた感じは不思議と安心を誘う。

 

 

 靴を脱いで上がり込んだら、すぐそこに〈ルネ・マグリットの男〉がいた。彼は人形で玄関ホールと和室の境に立つ、大きな1体。上背があるのと、真っ直ぐに前を見据えているのもあって、訪問客とは基本的に目が合わないようだ。これは1970年大阪万博、繊維館で展示されたものが今ここに移されている。

 彼のようなものには独特の存在感があって、異質な印象を受けるはずが、ここでは雰囲気に溶け込んでいる。靴を履いたフロックコートの大男が玄関前にいても不自然ではないのが淡翁荘で、私はもう誰も人間が住んでいないのに管理されている家の魅力をまた、目の当たりにする。

 きらきらした透明のガラスが魅力的なシャンデリア、その円形の照明がある、脇の小さな洋室にもまた人形が2体。〈クウァジ・ウルティマ〉が右手に、それから〈機械仕掛の少年1〉は奥の隅でケースに入れられていた。箱のような邸宅、の中に設置されている箱、の中に収められた人形。

 

 

 家が箱なら部屋も箱で、だんだん京極夏彦「魍魎の匣」に登場した『美馬坂近代醫學研究所』のことで頭が占められてくる頃に、館内の扉を自分の手で開けてみればこういった人形たちが姿を現す。〈男〉は開ける前からそこにいるはずなのに、開けたその瞬間、出現した存在のように思えてならない。

 では開ける前はどこにいるのか。多分、懐かしの「ローゼンメイデン」におけるnのフィールドのようなところを彷徨っているのではないだろうか。ちなみに私の部屋では旧版(バーズ)のコミックスが最終巻の8巻まで本棚に眠っている……。

 登録有形文化財に指定された「黒門」へ至る方の玄関では、スリッパを履くところで頭上の欄間が見られ、透かしの部分に家紋があるのが分かった。背後を振り返って中和室を通り抜けると縁側、それから日本庭園の方へと出られる。和室の領域には人形はいないようだ。

 そのかわりに階段の下、引き戸の裏側に〈機械仕掛の人形1〉がいた。ガラッと開けると明かりが点く。機械仕掛と名にあるとおり、皮膚やところどころうすい肉付きの下には機械的な機構が覗いて、ひげや毛髪は栗色に光っていた。何を考えているのだろう。

 

 

〈天使―澁澤龍彦に捧ぐ〉の脇を通って階段を上る。細い階段。その先は、大広間に繋がっている。実業家・議員の邸宅なので応接間として使われることもあっただろう。時が経ち、見学者や管理者以外はうろつかなくなった館内に、人形が佇む。殊更に特殊ではない場所に、人形がただ(でも確かに)いる。ここはそういう場所らしい。

 白い天井に施された文様は漆喰の繰型(くりがた)で、床が寄木細工で彩られていたり、暖炉のマントルピース上部は鏡を擁した棚のように立派なつくりになっていたりと、決して広大ではない面積にこだわりが凝縮されていた。むしろこぢんまりとした居宅だからこそ密度が高くなり、より「詰まった」感じが演出されるのかもしれないと思う。

 ところで、人形というのは本当に年を取らないものだろうか。

 彼らは不老長寿の者と似ている部分が確かにあり、私達が変化するのと同じようには変化しないものだが、例えば何億年もかけ徐々に姿を変えるなどして持続する岩石や元素自体などとはまた違う。発生する過程も、朽ち方も。人形と人間、異質ではあっても隣人のような、また半ば同類のような、近くて遠い不思議な在り方……。

 

 

 

 

 

 この暖炉、色合いや質感もさることながらとても好きだったのが、想像上の生き物がモチーフになっているところ。ワシを思わせる鳥のようなもの、またヤギとドラゴンの羽を組み合わせたようなもの、それらが長方形のタイルのフレームに収まっているのはまるでカードみたいだった。魔獣が封じ込められている。その封じ込められて四角い板になった魔獣たちが積まれ、火が入れられるたびに暖炉の熱を感じている。

 暖炉の横、壁に掛けられた〈目前の愛2〉も美しく、透明な箱に封印されていた。背中には翼。箱の内側に色々なものが貼られていて、そこに人形の視線が注がれている。ゆるく握られた両手の形には何らかの、人ではないものの余裕を感じさせられる。

 1階に設置されていた〈男〉と並んで、2階の旧お手洗いに展示されていた〈機械仕掛の人形2〉からも稀有な良さが滲み出ていて気になった。つややかな薄桃色のタイルの細長い小部屋、その一番奥にそっと佇むひとがたの機械。やはりところどころから内部の機構が露出している。

 しばらく黙って見ていると、思わずこちらから「あのう」と話しかけてしまいたくなるのは何の効果によるものか。

 

 

 まるで押し入れから「こぼれてきた」ような姿で〈少女の人形〉というものが床に横たわっている。床にマットが敷かれているのは幸いなのか。何を見、どのようなことを考えているのかは、こちらから伺い知れない。

 この部屋は廊下の突き当たりにあって、中には机と椅子のセットが置かれていた。大正時代の家具デザイナー、森谷延雄という人物の手による設計で、椅子の方は現物ではなく古写真を元に復元されたものらしかった。台の上の、本などを置けそうな場所の背中側に施された細工がおしゃれ。さりげなく人形の〈頭部〉も鎮座している。

 1階に戻ってから大金庫の扉を開けた。そこにも2体の人形がいて、やっぱり扉を開けたその瞬間に顕現したような佇まいで静かな時を過ごしており、やはりこちらとは微妙な加減で視線が絡まない印象を受けた。異なる世界の層に存在しているものたち。

 

 

 靴だけがポンと地面に置かれているのは楽しい。今まさに誰かが脱いで家の中に入っていったかのような、あるいは靴を脱ぎ捨てて外へと出て行き、もう2度と帰らなかったかのような印象を抱かせる。

 そう、置かれた靴は忽然と消えた者の存在を思い起こさせる。

 訪問者が四谷シモン人形館の入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて背後の玄関を振り返ったとき、一対の靴やサンダルや下駄が点在しているのを見ると、そこに「不在」がある。脱いだ本人がまた戻ってきて、もう一度足をそこに収めるまでは。なんとなく靴に強い思い入れがあった作家アンデルセンを思い出す。

 例えば魂が靴に宿るものならば、それを置いて館内を徘徊する私達はいわば抜け殻で、そこかしこに展示されて息づいている人形よりもはるかに人形らしい存在と言えなくもない。

 

 

引き続き「鎌田ミュージアム」の訪問記録は次回の記事へ

 

 

 

 

ホテルニューグランド「ラ・テラス」の緑色・黄色・酸味が爽やかなサマーアフタヌーンティー|神奈川県・横浜市

 

 

 

 2023年夏は地元のおすすめホテル、そのロビーでサマーアフタヌーンティーを楽しんできた。8月31日㈭まで。

 ちなみに17時以降に予約をすると「スイカのカクテル」が無料で付いてくるため、都合が合うなら断然夕方に行くのがおすすめだった。陽が傾いてからの方が少しだけ涼しいし、それから徐々に薄暗くなっていく中庭を窓から眺めるのもわりと好き。

 今回のサマーアフタヌーンティーで提供されたセイボリーやお菓子はけっこう酸味の強いものが多くて、爽やかさを前面に押し出しているのだと感じた。夏らしく、暑くても食欲をそそる……。

 

 これがスイカのカクテル。

 シャーベット状で、グラスのふちに塩がまぶされたソルティドッグのスタイルは、本物のスイカの果肉に塩をかけて食べているかのような錯覚をおぼえる楽しさがあった。底の方に溜まった残りはストローで吸う。

 ほんのりと淡いピンク色をじっと眺めてしまう。好きな作家のエッセイに「スイカのシェイク」が何度か登場していたのを思い出して、それもこんな色をしているのだろうか、と想像した。スイカの果汁はそこで書かれているように、何ともはかない味がする。けれど確かにスイカだとわかる。

 

 

 また、このサマーアフタヌーンティー期間中は、限定でオリジナルブレンド紅茶の「アイスティー」が提供される。おそらく最初にウェルカムドリンクとして出されるのがそれ。

 席に座って、一息ついたところで机に届く冷たい紅茶は至福の一杯だった。爽快感とスモーキーな感じが合わさった印象のブレンド。氷とともにグラスにたっぷり注がれており、これを最もおいしく味わえるのは夏という季節の特権な気がした。夏が苦手でもそう思う。

 通常の紅茶類もスタンダードからフレーバード、ハーブ系に至るまですべておかわり自由なので、冷房の効いた室内にいてだんだん涼しくなってきたら、今度は温かい紅茶で身体を温められる。良い時間。

 

 

 私達はどうせならスタンダード&フレーバーを制覇しよう、ということで

・ダージリン
・アッサム
・ディンブラ
・ウバ
・アップルクイーン
・アールグレイ
・オリジナルブレンド

 ……をどんどんおかわりしていった。〈強欲〉とはまさにこのこと。

 特にウバ紅茶のおいしさは新たな発見で、これが噂のメントール風味かぁ、と感銘を受けていた。ミルクを入れても損なわれない不思議な爽快感。淹れたてをお店で飲むのがおいしいものの筆頭だと思う。アップルクイーンも香りが強くておすすめ。すごく……林檎。すごく林檎の香り。

 スコーンはパイナップルスコーンで、濃厚なクロテッドクリームの横に付随するのもパイナップルジャム。これがクリームと何とも言えない相性の良さで、新感覚だった。

 

 

 最下段のお皿、セイボリーのラインナップはグリーンガスパチョ、焼きとうもろこしのキッシュ、そしてパン・バーニャ。パン・バーニャはプチサンドイッチのような感じでバンズ部分は柔らかめ。

 私はしょっぱいものが大好きな人間なので、正直なところこの部分がもっともっと沢山あってもいい!! と毎回考えている気がする。それでも紅茶とスコーンと一緒にお菓子が食べられるアフタヌーンティーが好きなんだよなぁ。

 焼きとうもろこしのキッシュは甘みと香ばしさのバランスが絶妙で、スイーツ類の甘さとはまた異なる味わいがたまらなかった。そしてグリーンガスパチョの酸っぱさとまた合う。かなり酸味が強く、舌にのせると色々なものが洗い流されていく印象があった。これで味をリセットしてお菓子類の方に進める。

 中段は優しい桃味のムース(でも結構甘い)で構成されたアイランドタルト、チョコが刺さったレモンケーキ、そしてミントの貝殻クッキー。

 

 

 最上段のメロンソーダゼリーはその名の通りメロンソーダ仕様で可愛らしく、素朴な味をしていた。昨今のクリームソーダブームをさりげなく反映した見た目なのかな。そうかもしれない。

 そしてメロンショートケーキ、レモンマカロン、マリングラスの中で、最も驚いたのがマリングラスの酸っぱさとわずかな苦み。柔らかめのゼリーっぽいもの。これは中段のお皿から移ってきた際の箸休めに口に運ぶと多分、なお良い。ここに至るまでかなり甘味成分を摂取してきたので助かった。

 すべての品を味わったあと、再びおかわりした紅茶をゆっくり楽しんでお開きに。ディンブラにレモンを投入して胃を落ち着かせた。また違う季節のアフタヌーンティー期間中も行くつもり。

 楽しい時間だった。

 

◇期間    2023年7月1日(土)~8月31日(木)

◇時間    12:00~20:00(L.O.19:30)

◇金額    ¥6,072

◇場所    本館1階 ロビーラウンジ ラ・テラス

 

 

シングルルーム宿泊記はこちら:

 

 

 

 

なだらかな眉山の曲線や、旧百十四銀行徳島支店が持つ直線|四国・徳島県ひとり旅(6)

 

 

 

 

前回:

 

 美馬市脇町から、ふたたび徳島市内へ。

 

 

眉山公園

 

 まゆのやま……。

 その「形状」から眉山と名付けられた山だと聞き、新町橋の側に立って、泰然とした姿を見上げた。手前にあるビルの「探偵社」や「カメラ高価買取」などという文字列につい気を取られてしまうが、違う違うそっちじゃないよと自分に言い聞かせる。道路はほとんど真っ直ぐに、麓の阿波おどり会館まで伸びている。

 四国は瀬戸内海に面したひとつの陸地で、名前を挙げられれば真っ先に浮かぶのは海原なのに、実際に地図で地形を表示してみると「山地」の印象がより強くなる。日本列島のほとんどの地域と同じだ。ここも山地の面積がかなり大きくて、わずかに、比較的平らかな部分を中心に街ができている。海の香りと山の香りが同時にしてくる贅沢なところ。

 徳島県には吉野川があるから、それがまるで東西を貫く杭のように、谷を切り開いているのも目に留まった。杭の先端は三好市方面で、頭部分は徳島市方面。頭の方からは道路が伸びて鳴門、淡路に繋がっており、さらに港から出る船は和歌山、北九州、さらに東京の有明までを結んでいる。

 ロープウェイに乗って眉山公園の方まで上がれば街を一望できるらしい。標高、約290メートル。

 

 

 名前が「あわぎん眉山ロープウェイ」で、阿波銀行のキャラクター・ロダン君(白い犬……?)が車体にプリントされていた。阿波踊りに興じている場面のイラストらしい。

 それにしてもロープウェイのゴンドラ、普通に存在するからごく普通に乗ることができる「普通の乗り物」なのにもかかわらず、改めて考えてみればみるほど興味深いと思う。形も、仕組みも。そもそもロープ状のもので吊るされている丸みを帯びた箱が斜面をゆっくり移動する、この絵面にはかなりどきどきするし、いっそ幻想的ですらあった。

 大きな空気の泡に包まれて移動するようなものだと思う。だから不思議。夢想の中に出てくる乗り物のようだと感じる。しかも四面に透明な窓がついていて、周囲の風景を眺められるなんて、魔法そのもの。そして、ゴンドラ車内ではなにやら眉山ゆかりの歌が流れ始めた。

 降車して公園の方に出てみると「マムシ注意」の看板を発見。蝮、こわいねえ!

 危険なヘビさん退散~。魅力的な生き物だけれども仮に鋭い牙で噛まれてしまったら人間はひとたまりもないのだった。痛みと苦悶で叫びながら街中を走り回ることになってしまう。うるさくて、徳島の街を追い出される。

 

 

 空気の澄んだ日にはここから淡路島や紀伊半島までもを見渡せる程度の高さ、この日は少し遠くが霞んで見えて、それもまた綺麗であった。暮れの春に訪れたので、もしかしたら花粉飛散の影響もあったのかもしれない。恐ろしや花粉。あとは季節柄、元気に虫が飛んでいた。

 崖下を見下ろすとそのあたり一帯に赤みのかった花が咲いている。時期的に4月下旬だったので、きっとサツキではなくて、ツツジ。彼らはとてもよく似ていた。過去、祖母に連れられて行った散歩でよく花の蜜を吸っていた頃のことを思い出す。あとは周辺を見回してみると、おそらくは桜の樹から落ちてきたのであろう「実」が、そこかしこに散らばっていた……小指の爪くらいの大きさの、コロンとした紅い玉。

 ……ここに来たのはちょっとやりたいことがあったからで、早速目的を果たすためにそそくさと公園の隅の方に向かい、長財布からアクリルスタンドを出した。500年以上前の瀬戸内海にゆかりのある人達だよ。

 案内板の上に乗せて記念写真を撮る。

 うん良い表情! もちろん印刷された絵だから、いつもと全く変わらない表情!

 

 

 満足したので麓に下りて、今度は阿波おどり会館にお邪魔した。

 ここでとても面白いと思ったのは、実際に「いつでも楽しめる阿波おどり」が施設の特徴として挙げられているとおり、本当の本当に毎日阿波踊りの実演が行われているところ。毎日。旅行者にとってはたいへんありがたい存在である。

 公式サイトに記載されている基本のタイムテーブルは

 

おどらなそんそん阿波おどり(昼公演)
11:00・14:00・15:00・16:00

毎日おどる阿波おどり(夜公演)
20:00

 

 ……で、徳島滞在中の大体いつ頃に行っても公演を見ることができる。

 実際に解説を聞きながらパフォーマンスに触れる利点は、使われている楽器や基本的な動きについての知識を与えられることで、ぼんやり眺めているよりも数段面白く感じられることだと思う。現地を訪れたらとりあえず覗いておいて損はない。

 

旧百十四銀行徳島支店

 

 阿波おどり会館から少し歩いたところ、商店街の一角にもう使われていない建物がある。

 もともとこの東新町には百十四銀行徳島支店があった。それが現在は阿波富田の「かちどき橋」方面へと移転になったため、使われなくなった建物だけがそのまま残されている。石積み風のかっちりとした佇まいで、入口両脇の照明器具も気になって……何より、剥がされた文字の「影」がいまだ壁に張りついているところなんて相当に魅力的で足が止まる。かつてあったものの不在を感じさせられる痕跡は大抵、好きだ。

 もう移転から10年以上たっているこの銀行の建築は、昭和29(1954)年竣工とのこと。戦後のものとはいえかなり古いものであることには疑いがない。近代建築の仲間として捉えてしまってもよいかな。

 このまま商店街に残しておくのであれば、地域のために活用されないだろうか、と希望するけれどどうだろう。また行く時までに残っているか、近くを通る際には様子を見てみるつもり。

 

 徳島市内には古くて素敵な喫茶店が沢山あるので、そちらもおすすめ。

 

 

徳島ひとり旅の記録を(1)から読む:

 

 

 

 

 

 

【閉店】構築された目眩く世界、カド - 季節の生ジュースとくるみパンの店|東京都・墨田区

 

 

 

 

墨田区を散歩するようになったきっかけ:

 

 言問団子の店舗から桜橋方面に向かって3分くらい歩くと、交差点に面した位置に、文字通り「カド」という飲食店があった。

 季節の生ジュースとくるみパンの店。この、盾のような看板には思わず足を止めてしまう。お店の公式Instagramを参照すると制作者の方々について詳しく書かれている。木枠の意匠を考案したのが志賀直三さん(小説家・志賀直哉の異母弟)で、実際に形作ったのが彫刻家の小畠廣志さんとのこと。

 店主氏の先代(お父様)が創業してから2023年で65年目、当時から外壁を飾る看板は生物ではないけれど時代の証人のようで、口が利けるものならその声に耳を傾けてみたいと思わされた。

 

 

 ここは老朽化した建物の外壁が崩落し、今年7月30日に閉店を余儀なくされてから、今度は茨城県の久慈浜に移転して新しいお店を始めることになったと聞く。

 調理も接客も店主のおじさまがひとりで行っていて、一見の客でも常連でもまったく関係なく、手が空いていれば四方山話を聞かせてくれる。無論忙しそうな時は対応できないので、その場合はあまり話しかけず、内心で応援しながら温かく見守るのが吉。

 着られている服が手作りであったり、天井や机の「薔薇」はご自身でひとつひとつ描かれていたりと、こだわりの数々が伺える絢爛な空間は本当に貴重で面白かった。

 

 

 おそらく生ジュースのうち最も代表的なのは、うす緑をした「活性生ジュース」というもの。

 セロリやらアロエやら、とにかく色々なものが入っていて爽やかで、私はかなり好きだった。毎日飲みたい味がする。季節によって旬や仕入れの状況が変わり、その配合が変化する関係で味もまた移り変わるようで……移転先の店舗でも提供されるのであればぜひとも確かめたい。

 そして、生ジュースはトマトクリームチーズサンドと共に。

 焼かれたパンのパリパリした食感に、くるみの歯ごたえと風味の奥深さが加わる。結構硬めなのがおいしさのポイントかもしれない。まあまあ量があるかと思いきやあっという間に食べられて、しかもふたつ目にも手が伸びてしまいそうになる、魔性のサンドイッチ。

 

 

 

 

かなり緑茶がおいしい向島「言問団子」の都鳥 - お皿に可愛い絵柄|東京都・墨田区

 

 

 

 

墨田区を散歩するようになったきっかけ:

 

 向島の和菓子の店「言問団子」は店内に椅子と机が置かれていて、団子か最中(もなか)を注文したら座ってすぐ食べることができる。

 峠の茶屋みたいな趣、壁の2面が硝子戸で明るく、春先に訪れた際は吹き込む風も心地よかった。でも季節柄なのか相当に強い風で、うっかり伝票が飛んで行ってしまわないようにしっかり皿で押さえておかなければならなかったけれど。

 席に座るとすぐ「お団子?」と聞かれるので、それでよければそのまま。あるいは最中の方が欲しければ、最中、と言えば持ってきてもらえるはず。次に行ったら食べてみましょう。

 

 この団子は串に刺していないのが特徴らしい。

 味は白餡と、小豆餡と、味噌餡。団子がそれらの餡で包まれている。甘く、弾力があり、見た目よりもぎゅっと詰まった感じがしてお腹が膨れた。よく噛む。味噌餡は唯一わずかに塩気があるのがポイントか。長旅で疲労困憊しているときなど、行李の奥から出てきたら嬉しくなること請け合いだと想像する。

 在原業平「伊勢物語」、その『東下り』の箇所に組み込まれている和歌で言及された、都鳥(みやこどり)モチーフの鳥が描かれた小皿に、身を寄せ合うお団子が3つ。

 3つとも目を凝らすと小刻みに震えているようで、もしかしたら人間を怖がっているのかな、と推測する。みんな一緒に食べるから胃袋におさまっても寂しくないよ。

 小さな鳥の絵は、湯呑みやお皿だけではなく、爪楊枝の入った紙にも印刷されていて。その佇まいというか、フォルムが何とも言えず可愛らしいのだった。胸のところの曲線が丸くふっくらしており、さらに筆の先で描画したような、尾羽の先が黒い。

 小さな点のみで表現されたつぶらな瞳。

 

 言問団子の店舗はお菓子自体もさることながら、個人的に最も印象的だったのが、実は「お茶のおいしさ」で……。

 湯呑みを空にするたび延々と注いでくれるのは静岡産の川根茶というものらしく、これが滅茶苦茶にうまい。きちんとこのお団子に合うものをと考えられて提供されているようだが、もはや緑茶を飲むために団子を食べに行ってもいいくらい。濁らず澄んでいて、香り高く、例えるなら山の中腹の空気でも吸っている気分になる。

 隅田川沿いを散策するならふらりと立ち寄りたい場所のひとつになった。

 

 

 

 

 

月の印(しるし)の喫茶店 - café & antiques, 店内での写真撮影禁止|神奈川県・横須賀市

 

 

 

関連:

 

 人に呼ばれて海の方まで行っていた。

 久里浜からバスで砂浜に出て、その帰りに今度は浦賀へ移動し、京急線を横須賀中央で降りる。このあたりには久しぶりに来た。気温30度越えで浜遊びなど無謀なのではないか、と家を出るまでは思っていたけれど、いざ街に足を踏み入れてみると、陽光を遮るものなど何もない海の方が涼しかったのには驚く。

 風があったからかもしれないし、それだけ都市部のアスファルトが熱を溜めこむから街は暑いのかもしれない。日陰を求めるように友達と連れ立ってしばらく歩いた。土曜日なのに、人通りは多くない。

 

 

 つめたいカフェ・アマレットは、炎天下の砂浜に3時間もかがみ込んで、無心でガラスの欠片を拾っていた身体によく沁みた。

 爽やかでほんのりと甘い。表面のクリームを落としてかき混ぜると、よりまろやかになる。その大きなグラスに浮かぶ砕氷が奇しくもシーグラスの形によく似ていた。

 お酒の入ったコーヒーといえば、冬場に飲んだカフェ・コアントローが身体を温めてくれて美味しかったのを思い出す。先日はこうして夏場に摂取するアマレットの良さを知ったので、次は寒い時期にでも、ホットコーヒーへ投入して楽しんでみたいもの。

 

 お酒が入っているからお水も沢山飲んで、と机に置かれた大きな水差しのガラスが、通りに面した窓から注ぐ光にきらめいた。決してうるさすぎない丁寧な接客は心地よい。

 

 横須賀で出会った喫茶店「月印」は店内での写真撮影禁止で、20歳未満の入店もできない。

 そんな、昔のパーマ店(白菊、と店内に看板が残っていた)を改装したアンティークショップ兼カフェ。奥まった路地にある。散歩していて偶然見つけたので入ってみたら、とても居心地が良くて落ち着いた時間を過ごせたのだった。

 年齢制限があるのはメニューのラインナップにアルコールの入った品が多いからなのか、あるいは喫煙ができるからなのか、雰囲気作りのためか。分からないけれどもその制限はお店の感じに合っている。

 

 内装は何ともレトロで、カウンターが昔よく見かけた「たばこ販売コーナー」のガラスケースを改造したみたいな趣だったのも個人的にそそった……土台の方に、赤い正方形の豆タイルが光っている。

 飲み物のおまけ(グラスのコースターに使われている銀のトレーに添えられているのが実に素敵なのだ)のクッキーとは別に、スコーンを注文してみた。下に添えられていたうすい紙を使って、手でじかに持ってかじりつくスタイル。焼き立てなのか温め直しているのか、猫舌には熱く感じられるくらいの温度でほくほくしていて、氷の浮かんだアイスコーヒーにとてもよく合った。

 そんなスコーンが乗っていた皿の模様は、少し前の時期に各所で咲いていた、蓮の花をモチーフにした絵柄。

 

 お昼にはランチメニューも提供してるみたいだったので、また異なる時間帯にも来たい。

 

 

 

 

 

【乗車記録】寝台列車〈サンライズ瀬戸〉で瀬戸大橋を渡った夜のこと|半夏生の四国・香川県散策(1)

 

 

 

 太陽が地平線の向こうに消えてから活動を始める、夜に乗じて蠢くものたち(Night Walker)の多くは、昔から危険であったり、たくらみを胸に秘めていたりするものだと一般に言い表されてきた。

 なぜだろう。でも、確かになんとなく想像は及ぶ。岩壁の洞穴や木を組んで造った住居、その周囲を跋扈する獣たちを警戒しながら眠りについた、古代の人々から受け継いできた感覚だろうか。これは。

 ……夜。

 どこか妖しくても、いや、むしろそれゆえに興味を惹かれて、かつては光と暗闇によってはっきりと隔たれていた時間の境界を越え、双方を行き来してみたいと思う瞬間は人生の中で頻繁に訪れる。現代にいると危険を冒さなくても、祈祷師のように特別な資質を持っていなくても、比較的容易にそれができるのだ。目を開けたままで。

 だからこそ、移動遊園地の電飾が鮮やかな色彩を帯びて公園を照らすような存在——安全を志向するのではなくて、人間を魅了するのに特化した灯り――に近付き、そこで一体何が起こるのかを、じっと息を殺して見届けてみたいと願ってしまう。

 

 

 明治に登場した交通機関のひとつ、鉄道の車両にも、夜と昼の境をまたいで走行するものがある。日付が変わる前に出発し、朝に終点へ辿り着くような種類の。

 地上に張りついたレールを基盤として、暁を待つのではなく、そこへ向かってひたむきに走るのが夜行列車だ。そう、真面目かつ「ひたむき」に、自らに与えられた職務に忠実に、両脇から迫る闇を振り切っていく。それは夜に属し揺蕩うものというよりかは、夜を通過していくものだと感じ、それゆえにサンライズ(Sunrise/日の出)の呼称は尚更ふさわしいもののように思われた。

 2023年7月現在、日本国内で毎日定期運行する寝台特急というものは、サンライズ出雲とサンライズ瀬戸の2種類にまで減少している。

 そんな「最後の寝台列車」に乗るため、早朝の対極に位置する宵の口をだいぶ過ぎて鉄道駅へ向かった関係で、何とも言えず新鮮な気分に……。行動の様式がいつもと全然違うから、果たして出発するのだか帰郷するのだか、判然としなくなる。心身ともにこんがらかる。そう、多分そのせいで、こうして旅行記を最終日の回想から始めているのかもしれない。

 

 

 サンライズ瀬戸に乗車したのは復路。これは旅行最終日の話だ。

 客室の種類は、B寝台のシングルツインだった。希望日の予約がなかなか取れないことで有名なサンライズの切符、夜中にe5489のサイトを適当に弄くり回していたらその便が取れたため、結果的に帰りの利用になったという経緯で。特にその日を希望して選んだわけではない。予約は、運次第。

 シングルツインは狭い2段ベッドの部屋で、これの名目としては「基本1人部屋だが2人でも乗れる」というもの。1段目の寝台はシーツを剥がして折りたたむことで、上の写真のように「座席」の形にすることもできる。濃緑が車両外観の紅色と呼応していて楽しくなった。いい色だ。車掌さんが巡回してくるので、寝台券(改札に通さなかった方の細長い切符)を提示して、あとは自由に過ごすだけ。

 個人的に、初めての寝台列車の利用を復路にするのは結構おすすめかもしれない。

 慣れている人はいいが、音や揺れのパターンに慣れたり、立ったまま素早くシャワーを浴びる必要があるなどしてわりと体力を使うので、それを経て朝から旅行を開始するとなるとまあまあ疲れるのではないだろうか。出張や各種公演のための遠征など、早い時間に合わせた用事がない(どちらかと言うと寝台列車に乗るのが目的)なら、全てを終えた帰りに乗車してみるのも良いと思う。

 

 

 始発駅からの乗車で、さらにA寝台シングルデラックス(シャワーカード付)以外の部屋を利用する場合、きっとシャワーカード購入の「列」に並ぶことになる。あるいは、下車してから現地の銭湯に行く? もちろん、それも選択肢のひとつ。

 2023年7月現在330円のシャワーカードが買えるのは、高松駅始発・東京駅行きの上りだと、10号車。反対に下りならば3号車。プラットフォームでその表示がある場所に並ぶ。両替機も車内にあるけれど、あらかじめ自販機などを利用して小銭を作っておくのが吉だった。特に私は何かに手間取ってしまうとすぐに頭がおかしくなってくるので(!?)

 シャワールームの脱衣所ではカードを機械に挿入し、さらに戻ってきたものを引き抜いて回収すると、無事シャワーが使用可になる。ブース内を覗いてきちんと残り使用時間が「6分」と表示されているか確認してみよう。緑のボタンを押してお湯が出ているあいだ時計は進み、赤いボタンを押せばお湯もカウントダウンも止まる。そんなに難しいことはない。ただ、シャワー使用後は「洗浄ボタン」を押してから去るのを忘れずに。

 しかしドライヤー送風の弱々しさには閉口させられた。本当に「そよ風」を具現化したみたいにお上品な風しか出てこなくて、こんなんで髪の毛を乾かせるはずがあるまい! セミロングヘアをなめているのか? と憤慨しながら、部屋に帰ってタオルを駆使したのが印象的な思い出。ちなみにパジャマ(浴衣)は客室に置いてある。帯付き。

 

 

 シングルツインの部屋、私は上段のベッドをもらった。入口上に荷物置き場があるので、そこにリュックサックやお土産などを収納してしまうと寝台上の空間が広々と使えて快適だった。操作盤にあるボタンを押す、すると窓を覆っていたカーテンがウィンウィンと自動で開いて、たくさんの街の灯りが進行方向とは反対側に流れ去っていった。

 高松駅のホームを発進した車両は結構なスピードで進む。外の暗さに月の光が映えていた。この日のちょうど数日前が満月であり、晴れた夜空の闇を背景に、角度によっては徐々に欠け始めた満足そうな衛星の顔が見える。坂出駅を過ぎれば瀬戸大橋、車両は続く児島へ向かって海上をひた走る。

 月と夜行列車……といえば思い出されるのは、19世紀イギリスで、世界で初めて狭義の旅行代理店を開業したと言われるトマス・クックが企画した「月光旅行(月光の旅)」のこと。これも夜に出発する列車旅の呼称で、昼間は労働に従事している忙しい人々のために考案された旅行プランだった。

 私はその、皓々とした月の光を受けて線路上を走る、列車の姿が連想される名前も好きだ。乗車した日の出(サンライズ)の名称と並べてみれば殊更に。

 

 

 

 

 電灯の光で満たされた廊下はまさしく過去と未来の両方に繋がっている。

 新橋—神戸間に、日本初の夜行列車が東海道線を走行し始めたのが明治22(1889)年のこと。その2年後、今度は日本鉄道が上野—青森間を約26時間半で結んだ。やがて「寝台」そのものが列車に組み込まれるまでにはさらに9年ほどを要し、明治33(1900)年4月に、山陽鉄道が食堂車と寝台車を連結した便の運行を始めた。同年の10月に官設鉄道も英・米から輸入した寝台車の活用を開始したそうだ。

 

参考:【企画展 The Sleeper Train~寝台列車の軌跡~|京都鉄道博物館】

https://www.kyotorailwaymuseum.jp/museum-report/the-sleeper-train/

 

 1等と2等車しかなかった時代の寝台列車は今よりずっと高級路線だったようだけれど、単純な乗り心地でいえば、比較的手軽な値段で乗れる現代のサンライズの方が遥かに勝っただろうと想像する。

 もちろん、19世紀初頭のヨーロッパで「拷問箱」だとか「肋骨折り機」などの禍々しい名前で呼ばれていた悪名高き駅逓馬車(参考:W・レシュブルク「旅行の進化論」 林龍代・林健生訳)と比べてしまえば、明治時代の寝台列車も天国だと表現してしまって差し支えない。

 

 

 前回の四国旅で長距離フェリーを利用した経験からも感じたのは、私はこの手の乗り物に乗るのがわりと好きで、比較的よく眠れる性質らしいということだった。揺れも、音も、客室に鍵をかけられる時点であまり気にならなくなる。毛布にくるまれる、安全な空間が確保されていることの方が睡眠には重要な要素らしい。

 ちなみに部屋の外に出るときは暗証番号をドア横のキーで設定し、戻ってきたらそれを打ち込む、という形で施錠と開錠を行える。

 上りの便は日の出の時刻になるとちょうど富士山が窓の外に姿を現すから、このタイミングでお弁当などを持って、ラウンジのスペースに移動するのもおすすめ。サンライズに乗ってサンライズを見る……もちろん、瀬戸内海に面する土地で手に入れた駅弁を存分に楽しみながら。車内には飲料の自動販売機があるが、食べ物を買える設備は無いことに注意されたし。

 

 

 高速で横に移動している。まるで、地面の上に設けられた普通の宿泊施設のような寝台列車の車両が。

 建築物好きとしてはこれも広義の建物として捉えたい。壁があり、屋根もあり、さらに扉があって、窓もある……そういう構造物のひとつ。それがしかも毎日、決まった時間に線路上を走るとは、想像以上に面白いことだ。しかも客室のひとつひとつに乗客を、その前後の予定と人生ごと積載して動いている。

 それについて考える空隙を与えてくれるという一点だけでも、時間を費やして寝台列車を利用する価値は大いにある。何より、楽しい。

 東京駅のプラットフォームに到着して行先が「回送」に変わるサンライズ瀬戸、その車体の紅色ではない方の部分は、牛乳を多めに投入したミルクティーによく似ていた。帰宅する前に喫茶店に寄って、紅茶が飲みたくなった。

 

香川旅行記は(2)へ続く……

 

 

 

 

【宿泊記録】ビジネスホテルマツカ - JR穴吹駅周辺の宿泊施設、朝食付き|四国・徳島県ひとり旅(5)

 

 

 

前回:

 

 脇町の重伝建保存地区を見学するにあたり、宿泊したのはビジネスホテルマツカ。

 JR穴吹駅から徒歩で約15分、オデオン座までは約20分といった立地で、このあたりは特に路線バスなども通っていないため、散策気分でぶらぶら歩いてみるのが吉。面白いものが沢山ある。歩くのがあまり好きではない人には面倒かもしれないけれど……。個人的に嬉しかったのは、ホテルのすぐ近くにスーパーマーケット「マルナカ」が存在していたこと。

 旅行先ではできるだけ、現地ならではのスーパーに寄りたいもの。マルナカは関東地方にはないので、覗いてみるのが面白かった。晩ご飯として購入したものは後で紹介する。

 ビジネスホテルマツカは2010年頃にリニューアルしたらしく、外観も館内設備もかなり新しい感じ。コインランドリーやコピー機、プリンターもあるみたいだった。到着当日は街を見て回った後で、だいたい夕方4時半くらいにチェックインしたような気がする。かなりお腹が空いていた記憶がある。

 

 

 利用したのはフローリングシングルという部屋。

 写真の左手に見える扉がユニットバス・お手洗いへの入り口。名前に「フローリング」とついている通り、玄関部分で靴を脱ぎ、それから板場の上にあがる形式で、個人的にとても好きだった。この旅行以来、ビジネスホテルで似たスタイルの部屋がある場合はそれを選んでいる。こんなに過ごしやすいとは知らなかった……。

 なんというか、全面カーペットの部屋の場合でも確かにスリッパには履き替えるのだけれど、境界線が曖昧なのが気にかかる。こっちは靴で、こっちは素足の領域、と区分のはっきりしていた方がくつろげるのだった。理由はよく分からない。

 こぢんまりとした部屋、その壁の一部には間接照明を兼ねた装飾が施されていて、そのスペースに物を置くことができたため、スーパーマーケットで購入したものを並べてみた。なんだか、ステージみたい。何の?

 

 

・チェリオの「やまももサイダー」

 

 徳島県産のヤマモモ果汁を使用したジュース。ちなみに日本国内におけるヤマモモは、生産量、全国シェア共に徳島県が第1位となっている。このサイダー自体も甘酸っぱくて独特の深みがあり、桃と各種ベリーの中間のような風味が味わえた。けっこう味は濃いめではっきりとしている。

 実際のヤマモモ果実の見た目はラズベリーに似ていて、表面がぷつぷつしている。おいしく食べられる時期が非常に短いので、見かけたら幸運。旬は6~7月の一時期とのこと。

 

 

・JA全農とくしま「ザ・すだち」

 

 カートカンという紙の容器に入ったジュースで、これは燃えるゴミに捨てられる。旅行先などで歩きながら飲んでいても、潰して袋に入れるなどできるので処理しやすい。

 レモンやオレンジとまた違った独特の酸味と爽やかさが味わえるすだちは、上のヤマモモと同じく、徳島県が生産量全国1位。その割合は95%にも上るというからまさに覇権を握っていると言える。料理に使ってもおいしいし、このザ・すだちはどちらかというとまろやかな感じに作ってあって飲みやすかった。

 

 

 この日は4月下旬なのにまあまあ暑くて、夕飯に何を買って食べようか迷った末に、お蕎麦を選んだ結果。普通においしく食べた。

 ビジネスホテルの部屋でひたすら黙々とご飯を口にする時間がわりと好きで、それは多分プライベートの確保されている、鍵のかかる空間が一番安らげるからだと思うのだけれど、それゆえに部屋に到着するとどうしても再び外に出る気力が減退してしまう。とはいえ友達と遊びに来た際などは元気に出掛けて行けるので、これはひとり旅の味な気がした。

 一応、マツカのウェブサイトに「徒歩で行ける飲食店」という親切なリストが存在しており、お店で食べたい人は覗いてみるのがおすすめ。インド料理・お寿司・居酒屋・ラーメン屋その他が揃っている。

 

 

 

 これは次の日の朝起きて、1階で食べた朝食。提供時間はAM7:00~9:30まで。

 和食と洋食が選べるので洋食にした。

 写真から受ける印象よりもかなりボリュームがあるため(宿泊プランにも「ボリューム満点朝食」と書いてある)これでお昼過ぎまで全然もつ。食べやすい細切れ野菜のサラダが嬉しい。食パンの横に添えられていたのは炒めたじゃが芋と、フライドポテト、ソーセージにほうれん草。チェックイン時に渡される食券を提示して席に着き、待っていると席まで運んできてもらえる形式なので、全部できたてだった。

 ホテルのウェブサイトによれば朝食の内容は日替わりらしく、この写真と同じものが出るとは限らない。量がどのくらいなのかという点は品目と違ってそこまで変わらないと思うので、朝食をつけようか迷っている人は参考にしてみて下さい。

 

 

記録は(6)に続く……

 

(1)から読む:

 

 

 

 

JR徳島線を利用して城下の脇町「うだつの町並み」を訪う - 阿波藍のふるさと吉野川|四国・徳島県ひとり旅(4)

 

 

 

前回:

 

目次:

 

徳島駅から脇町「うだつの町並み」へ

  • 列車に乗ってみる

 

「JR四国初の駅ビル」として、1993年に開業した徳島駅ビル。

 今年で開業30周年を迎えた。

 

 

 JR四国のコーポレートカラー(と、言うらしい)は明るい水色で、私はこれがとても好きだった。駅名の看板に使われているロゴや、車体を彩るラインにもしばしば使用されている、爽やかな色。

 詳細を調べれば「澄んだ空の青」のライトブルー、と出てきて深く納得するとともに、自分が抱いている印象の方はさらにその空を映した海の色や、風、大気の色の複合なのだとも思う。どれかひとつに留まらず……。高校生時代に四国を訪れた時と、これは全然変わらない。

 特定のものではなくその土地の印象自体に何らかの色を見出すのは、ある数字を眺めて、そこから色を連想するのと少しだけ似ている気がする。

 ちなみに日本列島47都道府県のうちで唯一、徳島県内の鉄道駅には「自動改札」が存在しないのだった。また、県内の全駅に占める無人駅の割合も非常に高く、2022年時点で1位の高知県(93.5%)に次ぎ、徳島県(81.6%)が全国2位となっていた。

 

 

 そもそもJR四国は独自のICカードを発行していない。

 先日香川県の高松を訪れた際に「IruCa(イルカ)」なる存在をちらりと見かけたが、これはJRではなく、私鉄の「高松琴平電気鉄道(ことでん)」が発行しているものになる。どちらかというと乗用車が生活の要となる地域では人口の減少に伴い、必然的に鉄道需要も少なくなり、さらにICカード対応の改札機を新規で設置するとなると1台あたりに多額の費用がかかるため実現が難しい。

 長年にわたり続く赤字(JR四国は昭和62年から一度も黒字になっていないらしい)とそれによる経費削減の影響は大きく、これだと老朽化した古い駅舎を眺めて何らかの趣を感じ無邪気に喜んでいられるのは、まったく私のような余所者の旅行客だけかもしれないではないか……といつも以上に思わされてちょっと気落ちした。先日はJR南小松島駅の「汲み取り式お手洗い設備」に関する報道もあり、どこも大変なのである。

 けれど、例えば東みよし町にあるJR徳島線、阿波加茂駅の駅舎(大正3年開業、昭和63年に改築)を取り壊す計画が持ち上がった際には、それに反対する846人分の署名が地元住民の声かけを中心に集められた。駅舎の建築に愛着を持ち、維持したいと思う人の数はわりと多い。2023年5月時点で取り壊しに関する町の方針は変わっていないが、今後の動向が気になっている。

 

 

 さて、意識を徳島駅に戻し、切符を改札口の駅員さんへ。

 ここから「脇町うだつの町並み」がある穴吹駅までは普通列車で約1時間と数分、特急列車の「剣山」を利用すれば43分程度で到着する。運行本数は少ないが、これなら徳島市内からかなり近い、と言えるのではないだろうか。運転免許非所持者でも、きちんと計画さえ立てれば旅行中に無理をせず足を延ばせる距離にある。

 今回は阿波池田行に乗車。

 車内の席には余裕があったけれど、初めて列車に乗る区域なので周辺の風景をめいっぱい楽しむため、フロント部分の片隅に陣取ってみた。あやしい乗り鉄(初心者)の客である……。プラットフォームから車両が離れていく数十秒間、できるだけ奇声を発しないように堪えながら、ときどきスマートフォンを取り出してカメラのシャッターを切った。

 あっ……「剣山」!

 特急列車「剣山」が対向車線からやって来た! 初めまして! ごきげんよう! 本日はお日柄も良く……うららかな空の下、あたたかい風が吹いており……。かわいいね……。

 

 

 ほどよく錯乱していたら目的の駅の看板が見えてきた。特急列車の登場により、変なチップを頭に刺されたみたいな数分間、多分何かしらの存在に意識を操作されていたのだと思う。

 1時間ちょっとの鉄道旅で、それにしてもあっという間に到着する。改めて地図を見返してみると、JR徳島線は徳島県の北部を、吉野川に沿うようにして東西に縦断しているのが分かった。そう、今回訪れる脇町はまさにこの吉野川の恩恵を受け、「阿波藍」の一大生産地として、18世紀頃~20世紀初頭にかけて最盛期を迎えていた場所。

 ちなみに江戸時代の慶応年間、狂乱のムーヴメント「ええじゃないか」が日本を席巻した際も、阿波(徳島)においてはその流行経路が海岸線に沿っていたものと、吉野川流域に沿って伝播したもの、ルートが大きく分けるとふたつある(参考:西垣晴次「ええじゃないか 民衆運動の系譜」講談社学術文庫)。

 川は物資を運び、人も運んで、時には新たな文化を異なる土地へと接続させる血管としての役割も担っていた。道路とも鉄道ともまた異なる、水の路で。

 

 

 降車したら、大正3年に開業した穴吹駅の改札を出る。

 ちなみに帰りの列車は、往路で乗ったものより明るい水色のラインが印象的だった。徳島線の別称「よしの川ブルーライン」を連想させる外観。電車ではないのでパンタグラフなどが付随せず、身ひとつで勇猛果敢に線路上を走る姿には、愛らしさすら覚えた。

 ディーゼルエンジンの仕様なのか、燃料燃焼時に発生する煤の影響で、車両の上部が黒くなっているのにも注目させられる。かわいいね。

 

  • 穴吹駅から

吉野川と穴吹渡し跡の橋

 

 日本三大暴れ川、というのは「板東太郎」の利根川、「筑紫二郎」の筑後川、それからこの旅で目の当たりにした「四国三郎」の吉野川とされている。

 陽の光が幅の広い水面を輝かせていて本当に綺麗だった。晴れた日はこんなにも穏やかに流れているのに、台風など荒天候時の氾濫においては警戒情報が発令され、周辺のダムから放流が行われる際にも注意喚起がなされる。また、上流に位置する早明浦ダムというのは西日本地域でも最大のものと言われていて、通常時であれば川の水位は適切に制御されているとのことだった。

 この穴吹に石碑が残っているものをはじめ、まだ川に橋が架かっていなかった頃は、舟に乗って対岸へと渡る「渡し」が人々の移動手段。

 吉野川にかつて存在していた渡し場の数は最も多い時でなんと117箇所にのぼるとされ、平成中期にはこれを復活させる催しも行われている。昔から地元住民はもちろんのこと、多くの旅行者やお遍路さんも、渡し船を利用して旅を続けていたに違いない。

 ちなみにこの渡し船のひとつを前身として、大正元年設立の阿波電気軌道が運航していた「鉄道連絡船」が、以前は阿波中原駅~富田橋を結んでいたという。大正11年頃までにはその航路が新町橋まで短縮され、昭和10年、ついに吉野川橋梁が完成して連絡船は役割を終えることになる。

 

 

 美馬市の穴吹でも、現在はふれあい橋が渡し舟の代わりとなって北岸と鉄道駅を結び、通勤通学のよすがとなっていた。歩いていると学生服の姿を最も多く見かけた。

 昔は穴吹橋のあった位置にふれあい橋が架けられたのは、平成4年。この橋の形式はどんなものかと調べてみたら「PCラーメン橋+PC桁橋」と書かれていた。PCラーメン橋とは一体……!? どう考えてもパーソナルコンピューター・塩ラーメンブリッジではない。絶対に、ない。

 てっきり食べ物の「拉麺(らーめん)」のことかと思ったけれど、実はドイツ語「Rahmen」が由来であるらしく、意味は「骨組み」なのだとか。橋の主桁と橋脚とが剛接合されているのがその特徴。また、上の場合の「PC」とはプレストコンクリートのこと。なんとなく渡る橋は、自分が普段あまり使うことのない単語と色々な技術の集積でできていた。建築畑で育った友達に今度会ったら詳しく聞いてみよう。

 

 

 上は橋に関して参考になりそうな徳島県のウェブサイト。眺めているだけで結構面白い。

 ここからしばらく川北街道を西の方角へと歩いてみて、やがて右手前方にあらわれる細い水の路、吉野川から大谷川へと続く流れを辿って行くと、見えてくるのがオデオン座。趣ある洋風の建物で、近くに植えられている柳にも風情がある。

 ちょうど建物の正面が、まるで見守るように町並み保存地区の方角を向いていて、ここから散策を始めるのにはうってつけの立地だと感じた。早速。

 

脇町劇場 オデオン座

 

 うす水色をした板張りの外観からしてもう興味をそそられる。

 入口と出口に挟まれる形で券売所のスペース(札場)が存在しており、左右の1階と2階にはそれぞれに上げ下げ窓と、ひし形の装飾が。軒下の半円部分には赤、黄、青などの板が嵌められていて、その色合いがたまに感じる「あの」不思議な懐かしさを演出しているのだった。駄菓子のパッケージみたいな組み合わせの可愛らしい3色だから、尚更そう思えるのかもしれない。

 受付の窓口の上にポツンと灯っている電灯が鬼火だった。そういう魔の一種で、自分の意思とは関係なく魅力に引き寄せられ、絶対に中を見学しなければならないと思う。

 昭和9年に完成したオデオン座は、芝居小屋。建設計画や資金調達に関わったのは地元住民と町内の事業家の方々のよう。戦後も映画館として使われていたが平成7年に一度閉館し、老朽化による取り壊しも視野に入れられていたところ、平成10年に美馬市の指定有形文化財となる。こうして価値が認められたので、今後も長く残るであろうことが予想できるのは嬉しい。

 

 

 脇町のオデオン座が注目を集めたきっかけは、山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」のロケ地として使用されたことだった。一般公開にあたっては、美馬市の有形文化財指定後に大規模な修復が行われ、当時の姿を楽しめるようになっている。このように建物を見るだけではなくて実際に何かの演目が上映されるときもある。

 入館料は大人200円。

 ちなみに愛媛には内子座、香川には金丸座、という施設が残っているらしく、この徳島のオデオン座を含めた3つが四国で現存する貴重な芝居小屋なのだそう。他のふたつも訪れてみたくなる。

 2階建ての内部は花道やうずら桟橋、奈落に回り舞台も備わっている本格的なもので、西洋風の外観との対比がまた趣深い。入って来るときと出て行くときで印象が変わり、自分はさっきと違うところに立っていたのではないかという錯覚を抱かせる。そうして内部を歩き回り、舞台の上を仰げばおなじみのぶどう棚が……あのがっしりと組まれた格子越しに花吹雪が降ってくる、そう思って目のところに手をかざすけれど、誰もいないから別に何も起きない。

 今は無人の劇場だった。足下の板からどんな音がするものか、ごく軽く飛び跳ねてみる。役者が舞台上で立てる音には空気を変容させる力があって、それが建物の空間と呼応して、観客の五感に訴えるのが面白い。

 

 

 館内はほどよく暗くて、提灯を模した明かりが点っている。

 控室と勝手口に続く通路の脇、なんということはないキッチンも可愛らしく感じられてしばらく眺めていた。簡易的な厨房の設備からはいつもお茶や軽食などの「気配」がする。手の込んだものではないけれど、疲れた時などに提供されると、芯から安心させられるものたちの存在。水を出してお湯を沸かしたり、食材に熱を加えたりできる基本に必要な仕組みが揃っている良さ。

 振り返れば最近はお芝居や演奏会から足が遠のいており、もしかしたら自分の生活に足りていないものは、劇や音楽なのかもしれない。かといって猛暑の中積極的に外出する気にもあまりなれず、だいたい家か会社にいる。冷房の効いた空間にいないと命にかかわる予感がするし……。

 オンラインで配信されている演目のチケットを買って視聴するか、涼しくなったら実際の劇場へまた足を運んでみるか。来ていく服を選んだり現地の付近で何か食べたりするのも楽しいんだよねえ、と思い出す。

 この旅行の時期はまだ涼しくて、オデオン座から橋を経由し川を越えて町並み保存地区へ向かう道すがら、風を感じられて快適だった。少し曇っていたのもちょうどよく。

 

 

 

 

  • 美馬市・脇町うだつの町並み

よく知られた「うだつ」に出会う

 

 うだつは「うだつが上がらない」という言い回しによって人口に膾炙している存在。

 その語源が建築物に付随する「梲(卯建や宇立とも、古くはウダチと発音か)」であることも既にわりと広く知られていて、けれど日常的に実物を目にする機会がある人の数……といえば、そこまで多くはないと思われる。桃山時代以降、特に江戸時代頃に建造された商家が立ち並ぶ地域でないとなかなか残っていないもので、現物を間近で観察できる場所があれば貴重かも。

 本来は主に防火や防風の目的で設けられていたものだが、やがて装飾のために設置されることも多くなり、その資金の関係で「家が栄えていなければ取り付けられなかった」背景から「うだつが上がらない」は「出世できない・頭角をあらわさない」ことを意味するようになったのだった。

 徳島県美馬市、脇町の突抜町・町南エリアはいわゆる「重伝建保存地区」に指定されており、これは以前に足を運んだ長野県・南木曽町にある「妻籠宿」との共通点。妻籠宿は中山道の宿場町だったが、この脇町はかつて存在した、脇城という城の城下町だった。

 

 

 ここではうだつの他にも虫籠窓、蔀戸、出格子など、商家の特徴的な建築をたくさん目にすることができる。お店などが開く前の時間帯から足を運ぶのが個人的に好きで、静かに歩いているだけで人間のいない世界に迷い込んだような気分が味わえるのだった。そこは地図のどこにも載っていない、「似ているけれど違う場所」かもしれない。

 2階部分の虫籠窓から何か人ならざるものがこちらを見てはいないか、神経をとがらせてみる。いたとしても気が付けないだろうけれど。足元の地面はごく細かい石が固められたような舗装の仕方で、どんなにそっと歩いていても必ずじゃりじゃり音が鳴る。

 保存地区の区間はわずか数百メートル、しかし立ち止まりながら色々な部分に目を向けたり、少し大通りを外れてみたりすると発見が多くて退屈しない。魅惑の三叉路があったり、松屋小路と呼ばれる、昔は呉服商が暖簾を掲げていた細い通りがあったり。上の写真がその小路を写したもの。

 現地にあった説明文を引用する。

 

吉野川の水はかれても松屋はびくともしないほどの呉服商が小路の東側にあった。
この松屋の名をとって松屋小路とした。

 

 

 植物の鉢を表に出していたり、蔦の這っている壁があったりと、全体的にうす緑色の空気が漂っていてとても良い。大通りに繋がっているのに雰囲気は全然異なっている。

 以前はここに大きな服屋さんがあり、たいそう繁盛していて、人々がその前を行き交っていた。現在、その様子は街の影の方に記録されているみたいだった。光の側には出てきていない。年月が経つとあらゆる出来事が溶けて影になる、地層のように堆積したり、木の梁が煙で燻されるのに近い形で焼き付いたりして、「今」の流れから決して切り離されずに存在し続ける。

 全然関係ないのだけれど、今いちばん読みたいと思っているファンタジー小説はP・A・マキリップの「影のオンブリア (Ombria in Shadow)」。試し読みで、そういう影と隣り合う世界の情景描写に相当な魅力を感じたのと、同著者の「妖女サイベルの呼び声」(原著・英語版)がとても面白かったので。

 

阿波藍が町の繫栄の鍵

 

 この脇町南町が隆盛を誇った大きな要因は、16世紀半ばから阿波藩主の蜂須賀家政と、家老の稲田植元により積極的に「阿波藍」の生産が推し進められたことにある。

 気候に恵まれただけでなく、吉野川の恩恵——本来であれば稲作や農業に害をなす洪水の影響を受けて、肥沃な土地での連作が可能になっていた、原材料のタデアイ(小上粉など、品種はさまざま)。これを多量に収穫できる環境を整え、また品質を向上させるために技術の改良が行われたという。

 江戸から明治にかけて阿波藍の需要が大幅に増加したのには、近隣の大都市、当時の大阪(大坂)における綿の栽培量が増えていた背景もあった。収穫した綿で作られた布製品を染める染料として、ということだ。藍は絹にも綿にもよく色づいた。やがて明治36年には藍栽培の面積が1億5千万ヘクタールにまで広がり、ピークを迎えるが、その後減少する。

 

 

 上の時点ですでに、阿波藍の生産量は国内の需要に追い付かず、安価な輸入藍(沈殿藍、合成藍)によって部分的に賄われていた。

 つまり、それだけの面積で作っても必要な染料の量に間に合わなかったことが示されている。

 

 一口に「藍染料」と言っても色々な種類があって、まず大きく

・天然藍

・合成藍

 のふたつに分類することができ、阿波藍は前者の天然藍に属する技法。

 

 さらに、天然藍は

・生葉染め

・すくも(蒅)

・ウォード

・沈殿藍

 など、藍の加工方法やそれを使った染色方法によっても違いが出る。

 

 阿波藍はこのうち「すくも(蒅)」を用いる染色法に属し、葉藍の塊を砕き発酵させて作る点で希少なやり方(同じ天然藍の中でも、沈殿藍の方は色素を水で抽出するのでまた異なる)が採用されているのだった。

 藍産業振興協会のサイトに概要が載っている。

 

 

 私は付近にあった「道の駅 藍ランドうだつ」でお土産用に藍染めのハンカチを何枚か、それから自分用に「徳島・脇町 うだつがあがるせっけん」をひとつ買った。藍の成分と植物保湿成分(シンビジウムエキス)が配合されているらしい。シンビジウムというのは蘭(ラン)の一種で、藍といい蘭といい、どうやら草花の持つ効能が詰め込まれているみたいだった。

 配ったお土産のハンカチは好評で、せっけんも先日無事に使い切る。きちんと泡立つし、素朴な香りがして良かった。

 せっけんの製造販売元「株式会社河野メリクロン」は脇町に本社を置く企業で、長野県の小諸には試験場がある。シンビジウムをはじめとした洋ラン栽培、品種改良と、それに関連製品を主に取り扱っているよう。

 

 これらのお土産を買った「道の駅 藍ランドうだつ」は、旧吉田家住宅の裏手にかつてあった舟着場跡に繋がっていた。

 

旧吉田家住宅

 

 阿波藍を扱う商家はすなわち藍商で、この脇町にある中でもひときわ隆盛を誇った家が、吉田家であった。屋号を「佐直」という。おそらく、「佐川屋直兵衛」の屋敷であったことに由来するのだろう。寛政4年頃の建築物が今でも残り、内部を見学できるようになっていた。

 大人の入館料は510円。

 この旧吉田家は町でも最大の敷地面積を誇っているだけでなく、その上に建った家屋の構造自体もかなり魅力的で、2階や厨や中庭に至るまで見どころ満載だったのが嬉しい驚き。少ししてそれが、むしろ商家らしい特徴なのだと思い直す。うだつと虫籠窓、出格子など典型的な外観はわりと簡素に見える分、内装の方にこそ力を入れているところは。

 昔は障子戸を引けばすぐ吉野川を望むことができ、大きな門の外、積まれた石垣のすぐ近くにまで水が来ていたとか。それを利用して船を使い物資を運搬していた。荷物を積んだり、降ろしたり、働く人々が行き来していた石畳が私の靴の下にもあるということ。

 

 

 箪笥の中に展示してある「箱膳」は食器のセット。食事ごとに出したりしまったり、毎回水洗いすることはなく、布巾などで拭いてまた使っていたらしい。

 2階にある板の間は倉庫として利用されていたほか、場合によって奉公人たちの寝床になったかもしれない旨の記載がある。同じように寝転がることはできないけれど、あまりに夏が暑いのでつやつやした床にはペタっと張り付いてみたくなる。格好が不審になるのでやらない。

 その横には「阿波の労働事情」なるパネルもあって、藍の生産には多大な労働力を必要としたことと、それにより職にあぶれる心配は少なく、他の地方でしばしば見られた「人身売買」の例も少なかったかもしれない……という説明があった。

 確かに丁稚奉公などと言えば聞こえはいいものの、金や米と引き換えに子供をどこかへやってしまうことは口減らしでもあるし、対価が発生している点で人身売買なのである。身近に仕事があれば、遠くの町で「人質状態」になることは避けられるが、その労働と共にある生活は果たしてどのくらい快適で、どのくらい過酷なものだっただろうか?

 国内の藍のほとんどが阿波で産出されたもので賄われていた時代、令和の世界に暮らす身で想像することは難しいので、こうして町に残された痕跡から推察・空想を膨らませるしかない。歌が聞こえてきたり、戸を開け閉めする音が響いてきたりする。

 

 

 見学していて面白いのは、一応、全体を回りやすいように定められた順路に従って動いてみてはいるものの、ある階段を上って別の階段から下りてくることですぐに感覚が狂うところ。しかも、それが幾度となく繰り返されると本格的に空間把握が難しくなる。

 建物は外から眺めるよりも、内側から探った時の方がずっと広く感じられる。

 もう人の住んでいない家が管理されていると「擬態」を感じるのと同じで、建築物の外観はそれ自体が空間の擬態の結果というか、そこに内包しているすべての時間と事物、人物の痕跡を風呂敷のように包み隠しているのだと思わずにはいられなかった。だとするならば建物が立ち並んでいる地上の一区画というのは、ひとつの陳列棚であり仮面舞踏会の会場でもあるらしい。

 こう考えると「町並み保存地区」という場所が帯びている性質、重層的な在り方がさらに興味深くなり、そこが単に古い景観を保持しているだけの領域ではないことがよく分かるのだった。

 

 

 最後、これより先に進んだら重伝建保存エリアが終わっちゃうんだけど……という地点で自分に内蔵されたある種のセンサーが反応しまくり、首を傾げつつも信じて進んでいったら自働電話をひとつゲットした。この直感は信頼できる……。

 箱が末広がりではない、ストンと垂直に立った六角形タイプで、凛々しくも可愛らしい佇まいだった。小豆の色で。

 今日は脇町の周辺で1泊する。

 

 

記録は(5)へ続く……。

 

(1)から読む:

 

 

 

 

昼、ひっそりと開いては閉まるお蕎麦屋さん|神奈川県・横浜市

 

 

 

 

 

 先月、5月の話。

 

 ギリッ……ギリまで粘った同人誌(主催さんが企画してくださった合同誌、9月文フリ大阪で頒布)の原稿を提出して、締め切り明けの世界に来たら、もう6月になっていた。これを書いている今、時間はさらに経過していて、明日になったら7月だ。

 先月は珍しく、関東圏から一歩も出ない日を過ごしていた。

 でも、居住県内で福井出身の店主(かなり癖が強めだが……まあ、面白い方)が提供していたお蕎麦のおかげで、わずかに近畿地方の風を感じられたのが気晴らしになった。蕎麦という料理を普段あまり食べないので尚更。つくづく奥深い料理だなぁ、と思う。

 

 

 この店は基本、土日も営業しているが不定休で、昼間の1時間半しか開けていない。営業しているかどうかは、のれんの有無が目印。風が強いと激しく風に揺られている。

 入店すると「うちは『おまかせ蕎麦3種』のコースひとつしかメニューがございませんがよろしいですか」と聞かれたので、はい、と答えた。

 また「温かいお蕎麦は鰊と鴨が選べますがどちらになさいますか」とも聞かれるので、次は鴨、と答える。

 季節によって変わる冷蕎麦(5月)は茶蕎麦だった。

 そば茶の提供のあと、最初に出てくる。白っぽい麺と緑色の麺、ふたつがうすい紙を貼り合わせたような形で打たれていて、切ると写真のような感じになっていた。食感は所謂コシがあり、硬め。個人的に冷たくて硬めの蕎麦が好きだと、最近気が付いた。

 

 

 それから次の温蕎麦に入っているのは鴨の肉を切ったものと、肉団子。後者はつくねというのだろうか。汁の味が奥の方まで沁みていて、強い癖もなく食べやすい。

 加えて、一緒に行った人に少し分けてもらった鰊は、30時間ほどかけて煮込まれていた。甘くてしょっぱい美味しさがある。少し七味唐辛子を入れると、さらにお箸が進む気がする。

 最後に登場するのは越前そば(福岡県の嶺北地方で食べられてきたと言われるもの)。

 これは大根おろしやしぼり汁の辛さが特徴の蕎麦らしいのだが、提供されたものに関してはこちらの地方に住む人々の舌に合わせて味を変えてあるのだという。葱の風味、香ばしいかつお節がたっぷり、冷たいつゆも相まって、夏場にはつい頂きたくなるような要素が揃っている。

 

 

 いつまで営業されているか分からないけれど、また足を運ぶつもりなので、それまでは続けられていてほしい。

 ご興味を持たれた方がいましたらぜひ探してみて下さい。

 

 

 

 

 

ローカル鉄道・上信電鉄~上州富岡で降車し製糸場へ|ほぼ500文字の回想

 

 

 

 上信電鉄上信線。

 

 てっきり上州と信州を結ぶが故に上信なのだろう、と思って現地を訪れてみたら、高崎から伸びるその線路は同じ群馬県内の下仁田駅地点でぷっつりと切れ、代わりに国道254号線が荒船山の先の方まで通っていた。

 列車は、信濃国まで行かないのだ。

 私は乗用車を運転しないので、あの山を単身で越える機会は基本的に訪れない。なので上州富岡駅で降りたとき、鋼鉄のレールに沿って自分の「思念」を送っておいた。
これは下仁田の先まで飛んで行き、たぶん長野の羽黒下か、中込の駅まで辿り着く。

 今頃、どちらかの駅の職員さんがくしゃみをしていることだろうと思う。

 

 

「蒟蒻畑」で有名なマンナンライフのラッピングに全身を包まれた車両。

 マンナンライフは本社が群馬県の富岡市内に存在する。

 

 どうやら上信電鉄、かつては実際に下仁田から長野(現在の佐久市あたり)まで延線を行う計画が存在していたようだった。そのため電化へと舵を切った際、明治期には「上野(こうずけ)鉄道」だった社名が、大正10年に「上信電気鉄道」へと変更されている。

 現在の「上信電鉄」は、昭和39年の社名変更時から使われている名前。

 

 それにしても、高崎も上州富岡も暑かった。かなり。

 比較的慣れていそうな現地の方々も同じように暑がっていた。

 私はここから、富岡製糸場に向かう。

 

 

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

太宰治《津軽》をきっかけに津軽半島を縦断した秋の記憶、龍飛崎をめざした - 青森県旅行・回想(1)

 

 

 

 世間に流布している作家像というのは、得てして実態から大きく乖離したものになりがちである。

「彼」もすっかり大衆が持つ先入観の犠牲となっているうちの1人で、けれど、作品を知れば知るほどにその印象は変化していく。暗さと明るさ、いい加減さと誠実さ、痛みを覚えるほどに感じさせられる、ひたむきさ……。根底に流れている、人間存在への愛とでも呼べそうな何か。

 綴られてから年月が経ち、古くなった文字の羅列から、なお新しい何かを読み取るたびに、もう生きてはいない存在に少しだけ心を近付けられるような気がするのだった。

 

 

数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、

汝を愛し、汝を憎む。

(中略)

私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。
なんといっても、私は津軽を愛しているのだから。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.25) 

 

 生まれ、育った土地。いわば「故郷」について誰かが語るのを聞いたり、その様子があれこれと綴られた文章を読んだりするのは、とても面白い。生活しいて事あるごとに触れたくなるもののひとつ。愛着や懐旧、倦厭や嫌悪、いろいろと。

 語られるのはあくまでも特定の人物の立場から感じたこと、見たもの、また印象などであって、仮に住んでいたとしても、土地の客観的な特徴までもをその人が把握しているとは限らないのは興味深いところ。

 このような場合、故郷と聞いて各人が思い浮かべる場所というのは、実のところ私達が立っている地球の上にではなく、誰かの心の中にだけ存在する……ということになる。たとえ地図上の名では同じ土地であったとしても。

 特に、幼少の頃にいくばくかの時間を過ごしてから故郷を離れた人にとっては、かつて暮らした家や近隣の情景、また関わった人々が、なんともいえない温度を持って胸のうちに生き続けているような部分があるのではないだろうか。土壌に染み込んだ雨水みたいだと、ときどき思う。結果どんな草花を育むのかは分からない。

 

 

 昨年の秋、ふと太宰治の「津軽」を手に取ってから、実際の津軽地方に足を運んでみたい気持ちが強まった。それで間を置かず(つまり衝動の熱が変質してしまう前)に行ってみた。羽田から青森へ飛ぶとなんと1時間半程度で着いてしまう。青森空港のガラス壁に、黒石市の名産品、こけし(同市に「津軽こけし館」も存在する)をモチーフにした図柄が装飾として採用されていた。

「津軽」は紀行文のような体裁を取っているが、読んでみると虚実入り交じる内容と、かなり大幅に手を加え再構成されているのであろう、旅行自体や途中の出来事の流れに意識が向く(にもかかわらず、本文の最後「私は虚飾を行わなかった」とわざわざ書かれているのもそれらしい)。

 作家が手掛けるものならむしろそうあってほしいと私は思っている。反対に何か、より現実に即したものを読みたいのならば、情報ができるだけ正確に記された別の資料を当たるべきなのだ。

 まっすぐ知りたいことを追いかける行為とは異なり、わざわざ紀行文風の小説を選んで読むとき、事実、というものへの興味は比較的うすくなる。決してないがしろにされてよいわけではないから、皆無とまではいかずとも……。今は調べ物をしたいわけではない。単純に、お話としても面白いものが読みたい。

 個人的な記憶、抱いた所感、視界に入ったもの、多くの人間に理解されるかどうかが重要ではないもの、おそらく二度とは再現できない瞬間。その作家——この場合は太宰治になるが——の、人生の一端を「覗いてみたい」と欲望する。一定の尺度で測られる物事ではなく、あなたの、あなたにとっての真実にこの指を以て触れたいと、大層な理由もなく願ってしまう。おかしなくらい強く。

 

 朝、青森到着後に空港を出て、脇目も振らずに五所川原市の金木町へ。

 なにしろ時間がないのだ。このあと浅虫温泉に寄って1泊する、そうしたら明日の午後には家に帰らなければならない。

 

 

「津惣(つそう)」の名で津軽一円に知られた、地主の家。屋号はヤマゲン(⋀源)。

 その6男として太宰治、本名・津島修治は生まれた。明治42(1909)年のことだった。

 

私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.6)

 

 

「津軽」執筆のために帰省した太宰。

 現在この屋敷は「斜陽館」と呼ばれ、一般見学客にも門戸が開かれている。

 

金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)

 

訪問記録:

 

 そして上の生家から、疎開時代の家(津島家離れ)へも。

 第二次世界大戦の折、三鷹の家が被害を受けて青森に戻ってきた太宰は、まさにこの場所に座って数々の作品を執筆していた。一度は勘当されたものの、この昭和20年には帰省を許されていたが故に。

 疎開生活は1年と数か月に及んだ。

 

 

「金木も、しかし、活気を呈して来ました」と、私はぽつんと言った。

「そうですか」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.158) 

 

訪問記録:

 

 また、「津軽」の中で紹介されている芦野公園駅の逸話は面白い。そして描かれたある乗客の少女の姿も魅力的である。

 津軽鉄道、芦野公園駅は金木駅の隣に位置し、木造の洋風駅舎は昭和初期の竣工当時から使われている建物そのままなのだった。今は喫茶店として管理・運営されており、誰でも利用することができる。

 座っているとときどき、鮮やかなオレンジ色をした「走れメロス号」がプラットフォームに停車するのが窓から見える。

 

窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.193) 

 

 

訪問記録:

 

 駅舎の喫茶店で食べたりんごカレーはとても味わい深かった。

 

 こんな風にまず、疾風怒涛の勢いで駆け抜けた、太宰ゆかりの3つの地点。でも、各施設では職員さんによる丁寧な解説も聞けた。振り返って思う。はじめに作品「津軽」に感化され、それからかつて作者が息づいていた場所を次々と訪れてみて、自分の方は一体何をどうしたいというのか……。

 具体的には別にどうもしない。行ってみたくて行くだけ。

 気が向いたら今度は読み手の私がぼんやりと周囲の波動を感じ、それを基にまた何かを考えたり、喋ったりする。ゆえに帰宅してから回想する場所はもはや実際には存在していない、私の記憶の中にだけある土地となり、ほとんど保存された状態で記憶の中にだけ残り続ける。誰かの故郷を求め、最終的に、自分にとってはそうでない場所についての話を延々とすることになる。現在、こうして画面に向かっているように。

 金木町を出るとき、美味しい栗のソフトクリームを食べていた。

 こんなになめらかで美味しい栗ソフトなぞ、太宰が金木周辺にいた頃にはまだ無かったはずである。しかし津軽の郷土料理に「栗飯」があるから、きっと秋に、つややかな栗の実自体は彼の口へも運ばれたことだろうと思う。しばらく明治、大正、昭和と過去の時代を彷徨っていた頭の中身が、ソフトクリームをじっくり味わうために現代に戻ってきて、考えた。

 

 

 

 

 

 作品に記された作家の旅程を、単にそのまま辿ることには魅力を感じない。でも、折角ここまで来たならば、津軽半島の突端、あの「龍飛崎(たっぴざき)」から海を視界に収めた後に温泉へ向かいたくなった。表記や呼び方は "竜"飛崎、龍飛"岬"、たっぴみさき、とかいろいろあるが、ここでは龍飛崎を採用させてもらう。

 そもそも、地名の音にあてられた漢字の字面からしてずいぶん魅力的ではないか。目でなぞるとにわかに耳の奥で雷鳴が轟き、瞼の裏には強烈な稲光も反射する。またたくまに足下の地面の色を変える、龍が呼んだ雨の到来だった。

 龍……飛……崎。

 読んだままの印象からすると龍が空を舞う地、らしい。龍!

 そのうち動き疲れ、人目につかないところですやすやと眠っている、その龍の広い背中や長いひげを撫でるか、こっそりと上に乗るかしてみたい。どこまで飛んで行くことができるのだろう。対岸の北海道・函館か、その先か。あるいは反対側である南の方角か。想像すると愛おしくて涙が流れそうになる。寄る辺なく、しかし力強く空を飛んだり、地を駆けたり、航海に臨んだりする存在を思うと、いつもそうなる。乗り物であっても動物であってもみな、勇敢な旅人に見えて。

 金木から龍飛崎への道すがら、東半分が中泊に面した大きな湖、十三湖(十三潟)の姿が望める展望台に上った。道の駅の敷地内だった。十三湖に関しては、「津軽」の本文でも言及されている箇所がある。「浅い真珠貝に水を盛ったような……」って、良いな。

 

やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.195) 

 

 展望台の脇からは使用中止となっている滑り台が伸びていた。

 それから、道の駅の看板部分に黒い牛の像があしらわれていたのがとても気になった。結構大きいので道路や駐車場からでも目立つ。晴れの日も、雨の日も、あの牛は遠くの山を見据え続けているのだろう。

 私は牛さんを眺めるのも、じっくりと味わって食べるのも好きである。

 

 

 全く知らなかったのだけれど、十三湖ではシジミが取れるらしい。しかも、とても美味しいらしい。検索すると「日本有数のヤマトシジミの産地」……と出てくる。普段はまったくと言っていいほど口にする機会がない貝なのだが、気になってきた。黒っぽい貝殻の中で、宝物のように守られている、ぷるぷるのシジミの本体。

 その湖は西端が日本海に繋がっている汽水湖。繋がる河川のうち、岩木川をなぞればやがてあの白神山地に辿り着くのだと思うと感慨深いものだった。地図上に記された川の形というのは、それこそ龍が地面に横たわっているように見える瞬間がある。

 展望台に立って首を伸ばし、視線を向けた遠くの方で水面が太陽の光を反射して、それが自分の網膜にまで届くと、内容は理解できないまでも「呼びかけられている感じ」がしてくるのだった。不思議な信号みたい。招かれているのか、実は拒まれているのか……。近付いてみたい気もする、しかしながら今日は龍飛崎へと向かうことになっているので、ご挨拶だけ。

 

 

 うねうねと蛇行する国道339号線、竜泊ライン。写真下は岬へ行く途中で経由する中間地点の鳥瞰台。

 漂う空気や色彩、風の音が美しいと感じられる天候に感謝しつつ、心のどこかで大嵐や大時化の風景を目の当たりにしたい――と人に渇望させる要素が、海沿いの高台には確かにあった。悪天候時の崖上に取り残されたら本当に肝が冷えるはず、けれども(だからこそ?)奇妙な憧憬とともに、昼の夢に見る情景。それと、波間に揺れる船のように胸を震わせる、何か人間ならざる者の歌声が聞こえてくる錯覚。

 何度かまばたきをしてみると、眼前には再び、さっきと同じように晴れた日の夕方の風景が広がるだけなのだけれど。あるいは、風力発電用の風車のブレードが。

 当時、10月の末。東北地方北部は既にまあまあ肌寒くなっただろう、と思って一応コートを持ち、初秋を意識した服装で行ったのに、昼間は結構暑かった。あの日差しよ。さすがに陽が落ちれば、ある程度は空気も冷たくなったけれども。

 周辺を歩いてみると、場所柄か「密出入国 許すな!」の看板が沢山ある。海はそのまま外国まで広がり続いている。いろいろ考えながらウロウロしているうちに、身体は灯台の下へとやって来た。ここが龍飛岬、本州西側の北のはずれ。

 

 

 対岸に北海道が見える。

 もう少ししたら今度は函館に行く予定のため、それまでどうかいなくならないで、待っていてほしい、と思った。消えないで。あんなに大きな陸地が短期間で消えるわけない、と内心で呟くものの、星の光でさえ地表に届くまでに恐ろしいほど時間がかかるのだから、北海道の大きな島が知らないうちに姿をくらましていても、まったく不思議ではないと怖くなる。

 今視界に入っているものも、霧が姿を変えて見せている幻かもしれない。見えてはいても辿り着いたらなくなっているかもしれない。実際に上陸してみるまで、それが本当にそこに在るのかどうかは分からない。

 ところで、龍飛崎に来たら絶対にやりたかった行為のひとつに、「赤いボタンを押す」があった。

 果たして何のボタンなのか、といえば、それは「津軽海峡・冬景色 歌謡碑」に組み込まれているボタンである――。

 

 

 石川さゆりの歌唱で有名なこの歌、その歌詞が石板に刻まれている歌謡碑。おそらくは波を象っているのだろうが、下部の装飾はロールケーキのように見える。

 青森県内に存在する歌謡碑には2種類あり、ひとつは青森駅近くの八甲田丸前に設置してある人感センサー式のもの、そして、この龍飛崎にあるのは押ボタン式のものになる。どちらも「津軽海峡冬景色」を大音量で再生し、遠くにいても歌が聞こえるため、歌詞に描かれている情景の理解を深めたい人におすすめ。

 灯台近くの丘の上に立っていても、誰かが来るたびに風の向こうからイントロが聞こえてくる。かなり面白い。

 私は念願かなって赤いボタンを押すことができ、大いに満足した。元を辿れば太宰の「津軽」が私をここまで連れて来てくれた。

 

 この旅行のきっかけは彼の作品であったけれど、私自身の青森見聞録(2022)はまだ終わらない。

 翌日の午後に帰るまで、触れられるだけのものに触れてからまた飛行機に乗った。その内容や過程を、未来の地点からできるだけはっきりと思い出そうとする、毎度ながらそういう試みで回想や訪問証拠を記していく。

 

つづきは青森県旅行回想(2) へ

 

 

浅虫温泉での宿泊記録は以下:

 

 

 

 

揚輝荘北園に建つ《伴華楼》の再訪記録 - 設計・鈴木禎次は夏目漱石と相婿の関係にあたる|名古屋の近代建築

 

 

 

 前に来たときと同じく季節は冬。けれど、当時の名古屋は雨だった。

 確か小雨で、歩きながら傘は差していなかったような気がする。そこかしこに小さな屋根はあっても全身が湿るから、広い庭園に長居するのは憚られて、早々に南園の聴松閣内部へ避難してしまっていたのを思い出した。だから、こうして気の済むまで伴華楼の周囲をうろうろしていられたのは新鮮。1月下旬のとある日はよく晴れていた。

 伴華楼(ばんがろう/bungalow)は、揚輝荘の敷地内にある建物のひとつ。大正15年に起工し、昭和4年に完成した。

 現存しているのはこれと「聴松閣」「座敷(聴松閣横)」「白雲橋」また敷地内に最初に建造された茶室である「三賞亭」など、有形文化財に登録された5棟くらい。でも、最も栄えていた頃には驚くことに30棟を超える建物が敷地内に存在していた。多くが失われた理由は戦災や、老朽化や、開発による土地の減少。

 公式サイトには昭和14年時点の地図が載っていて、それを現在のものと比べてみると、特に新しいマンションをはじめとした建造物の有無でどれだけ様子が変化したかが分かりやすい。例えば、姫池通に面している辺りには昔、弓道場があったのだな……とか。

 

 

 変化してきた敷地。その現在「北園」と呼ばれている方に位置する伴華楼は、いわゆる迎賓館だった。

 かつて尾張徳川家(大曽根邸)から移築されてきた平屋に、洋風の遊戯室や応接室などを新築し組み合わせた、和洋折衷の様式。アール・デコを基調としていると説明にあるけれど、個性が強く独自の趣を感じさせるようになっている。石や金属ではなく木を用いた部分が多いのもその要因な気がした。

 こぶ板や節目板など、木材そのものが持つ表情をおもてに出し、無二の微妙な味わいを楽しめるようになっていて、それがどちらかといえば幾何学的な意匠の魅力を際立たせるアール・デコと出会い、他にはない「らしさ」の演出がなされている。

 ガイドを伴うツアー以外だと1階部分を外からこうして眺めるのが見学の方法となるため、首を長く長く長ーく伸ばして内側の方に目を走らせた。とても良い。ちなみに2階も外側に面している部分ならわずかに視認できるところはあって、なかでも欄間に花のステンドグラスが施されている箇所は穴が開くほどに見つめた。

 

 

 表面が平滑ではなくじわじわした加工のガラスは、大正~昭和初期の香り。こういった建物だけでなく茶箪笥や棚の扉にもときどき使われているのを見かける。

 伴華楼を設計した鈴木禎次は明治3年の生まれで、私の好きな夏目漱石とは「相婿」の関係にあたるらしい。つまり妻同士が姉妹である、ということ。漱石の妻・鏡子さん(旧姓は中根)がお姉さんで、妹の時子さんの方が、鈴木禎次の妻。

 漱石はかつて一度だけ建築家を目指そうと思ったことがある(生活に必要な職業に魅力を感じ、かつ「美術的」な建築を手掛けたいと思った)が、落第をめぐる紆余曲折の末に同級となった友人、米山保三郎に諭され、文学の道を改めて志している。建築に関心を持つ者同士で、鈴木禎次とはそれなりに馬が合ったのではないか。

 鈴木はもと静岡出身だが、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)の建築科で教授として勤め、その後名古屋に建築事務所を構えた縁もあってか、伴華楼など揚輝荘での仕事も含めて愛知県内に多くの作品を残している。

 

 

 市松模様の煙突があり、特に外壁が山小屋を思わせる一角。

 この模様は使われ方によって和風とも洋風とも受け取れるところが面白いと感じた。単純だけれど心地よい視覚的な音楽。煙突の根本の小さな扉からきっと炭や灰などを出し入れしていたのであろう、手入れの仕事をされていた人の様子を想像でき、さらにそこでパンやピザなどは焼けないものかとも色々考える。もちろんこれは窯ではないので無理だと思うけれど。

 柱も壁も、地面に近いところだけゴツゴツした石を用いた意匠がおしゃれ。応接間の方の柱には「兎が餅をついている」レリーフが施されているらしくて、内部から細部をじっと観察できないことに歯噛みした。でも、ガイドツアーの開催時にまた来てみればいいのだと頷く、なにせ新横浜から名古屋までは、新幹線を使えば最短ひと駅なのだから。

 兎がいるところからも想像できるように、ここが月見の名所で、昼間はそれが見られないのは残念なこと……と思いつつ、伴華楼から白雲橋の脇を歩いて、三賞亭の方に移動したらなんと丸い月が「あった」。建物の中に。

 

 

 茶室の窓。

 外の方が明るいから、玄関の側から窓に目を向けるとぼんやりと発光して見える。障子紙で半分輪郭がぼやけていて。

 揚輝荘に設けられた最初の建物がこの三賞亭なのは冒頭で述べた。これはもともと、揚輝荘の持ち主である伊藤二郎左衛門祐民(松坂屋の初代社長)が住んでいた、茶屋町(現在の中区丸の内2丁目)の本宅から移築されたものだった。

 池のほとりにあり、ここで煎茶の席に招かれた客人たちが庭園を一望できるような配置になっていた。周囲を見回すと茂みの向こう側、樹々と葉の隙間に背の高いマンションなどが透けて見えるのも、むしろ面白いと思えてくる。時代を経て長くここに存在しているからこそこういう光景になるのだと。

 

 

 

 

鮨喫茶すすす - 薔薇庭園を通って神奈川近代文学館、喫茶室まで|横浜市・中区山手町

 

 

 

 

 みなとみらい線の元町・中華街駅で電車を下り、港の見える丘公園を抜けた。

 今は七十二候で「蚯蚓出(みみずいずる)」の時期。

 薔薇が見頃を迎えた5月中旬、とにかく右を見ても左を見ても、草花の鮮やかな色だらけだった。風が吹くとなんとなく土の匂いも漂ってくるから適当に歩いているだけでも楽しい。それにだんだん夏が本格的に迫ってくれば、こんなに過ごしやすい日にはもう遭遇できないかもしれない、と思うと尚更……。

 ローズガーデン中央にある円形の噴水が今日も綺麗だった。水面が、太陽の光を受けて輝いている。

 

 

 そこから霧笛橋を渡った先にある県立神奈川近代文学館には、特にお目当ての特別展が開催されていない時期にも、たまに足を運ぶ。

 単純に横浜市内在住だから存在が身近というのもあるけれど、何よりここの常設展示室には夏目漱石が暮らした「漱石山房」の書斎を再現した空間があって、いつ来てもそれを鑑賞できる……のが一番の訪問理由かもしれない。ガラスケースの中の火鉢や文箱、文机を眺めてからそっと瞼を閉じると、自分も過去、あの木曜会の一員として歓談に参加していたような気分になれる。

 展示物の撮影は禁止なので、記録は心のアルバムに。

 

 そんな神奈川近代文学館の喫茶室として、2023年4月20日から、新しいお店がオープンしたと聞いた。

 

 

 お知らせを読むと店名は「鮨喫茶すすす」というらしい。

 鮨(すし)喫茶……つまり、文学館内で「おすし」が食べられる、ということ……!?

 かなり気になったので行ってみた。営業開始は9時半だけれどお鮨の提供は11時からとのことだったので、10時過ぎに入館したあとゆっくりのんびり展示(常設展&特別展「生誕120年 没後60年 小津安二郎展」)を鑑賞し、時間になる頃、そーっと喫茶室の扉を開けてみる。

 明るい店内。最初は緊張したので自分以外の人間を連れて行ったけれど、ひとりの客でも全然気軽に入りやすい。空いている好きな席へどうぞ~とのご案内が。

 さっそくメニューの紙に視線を落とすと、まずは「文学作品から着想を得たお鮨」が2品、視界に入った。ここは家から遠くないし、また何度か足を運んで順番に色々食べてみる予定だったので、とりあえず私は一番上にあった「岡本かの子の手毬鮨」をば。

 

 

 これが岡本太郎の母、岡本かの子が著した短編小説「鮨」イメージの手毬鮨。

 

【岡本かの子の手毬鮨(春)】

 

まぐろ(赤身)

小肌 桜ます あなご

本日の白身魚

本日の酢締め魚

卵焼き おしんこ

 

 

 そうして、もう一人は下の「ささめ雪のちらし鮨」を注文することに。

 旧家に生まれた4人姉妹が登場する、谷崎潤一郎の小説「細雪」イメージのちらし鮨。

 

 

【ささめ雪のちらし鮨(春)】

 

まぐろ(中トロ、赤身)

小肌 あなご いくら

金目鯛の炙り

ほっけの酢締め

卵焼き きゅうり

 

 

 いずれもお醤油は、小さな刷毛を使い自分で塗るタイプ。

 お鮨を構成する魚などその細かい内容は季節によって変わるらしい。

 シャリがほんのり色づいている要因は、赤酢。赤シャリと呼ばれるみたいで、調べると江戸前寿司でよく使われているのだそうだ。

 

 テイクアウトも可能だが、店内で食べる場合は温かい汁物がついてくる。汁に入っている貝はしじみ……だろうか。強い磯と海の香りが存在を主張する。また、お鮨と飲み物を一緒に注文すると合計が少しお得になるようだったので、悩んだ末に柚子煎茶(アイス)を合わせた。かなり軽やかで爽やか寄りの風味、苦さや渋さはあまりなし。

 各種お茶の提供元は静岡の「カネ十農園」さんとある。

 個人的に嬉しかったのは、これまで苦手意識のあった魚「あなご」をかなり美味しく食べられたこと。身の食感はふわふわしていて、想像していたような泥っぽい匂いもなく、安心して味わえたのがとても良かった。いずれ別の場所でもあなご、また食べてみようかな……という気持ちになれた。

 

 ◇     ◇     ◇

 

 そんな初来店の後にしばらくして、日ノ出町の中央図書館に寄る用事のついで、ちょっと散歩がてらお昼ご飯を食べて帰ろうと思い2度目の入店。

 お鮨の提供に関しては変わらず11時からだったけれど、ラストオーダーの時間が14時、と少し早まっていた。なんとなく観察していた様子だと、いずれのお鮨も品切れになるのが早そうだったので、お目当てのメニューがある人は留意されたし。公式Instagramに各種情報が掲載されている。

 さて、好奇心のまま、最もお値段の張る「本マグロの箱鮨」を選択。

 ふたを開けたらあらまあ、美味しそうなまぐろが並んで……。すみっこにワサビがちょんと付けられている。

 

 

【本鮪の箱鮨(限定5食)】

 

まぐろ(大トロ、中トロ、赤身)

おしんこ

 

 これに付いてくる汁物は貝ではなく、あおさ(海苔?)の入った赤出汁。

 手毬鮨、ちらし鮨と来て、このまぐろ鮨が一番美味しかった。おすすめ。

 あわせて注文したオリジナルブレンドティー(アイス)はこだわりを感じる風味で個人的にとても好き。かなりスモーキー、まるで焚き火の煙や燻製を思わせるような重厚感を持つお茶で、けれど喉ごしと後味は意外なほどすっきりしている。

 ホットで飲むとまた印象が異なりそう。

 

 

 ごちそうさまでした。

 

 ◇     ◇     ◇

 

 文学館内で「おすし」の喫茶点をやる、というのはなんだか新しい感じの試みだと思うので、今後の発展を興味深く見守ってみたい。

 お鮨のメニュー以外だと基本の営業時間は9時半から17時、もちろん飲み物のみでの利用も可能。ガラス張りの壁から外が見えるので開放的な空間で休憩できる。

 またいつか足を運んだ際には、苺大福などの甘味や別の種類のお茶を試してみる予定。

 

 

 

 

お題「一度は食べていただきたい◯◯」