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彷徨する自由帖

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旭川遊歩の回想、とめがき【1】出来秋の紅輪蒲公英

 

 

 

 

 

 晩夏も過ぎた頃の旭川に4日間、いた。

 合計で3度の夜を越したと書こうとして、辞書を引いたら「夜越(し)」なる言葉が存在していたのを知る。その意味のひとつには「夜中に山河を越すこと」があったので、ぼんやり光景を想像し、仮に可能ならぜひともそうしたかったものだと短い滞在を振り返った。

 北海道にある雄大な川や山を、陽が沈み切った後、ただ黙々と越えていく。夜闇に鞄ひとつだけを携えて。

 それは魅力的な行為であり、瞼に浮かぶのは憧憬を誘う一幅の画であった。

 しかし想像できるということは、おそらく現地で私が寝ていた間、半宵にふと身体を離れた心の一部は「実際に」そうしていたのだろうとも思う。本当はもう知っているはずなのだ、夜中に山河を越して往く感覚を。夜に見る山の影は、頭上に広がる空の闇よりずっと暗い色をしていることも、滔々と流れる川の水が、月下では不思議なほど粘性を増したように見えることも……。

 だからこそ辞典のページに挟まっていた言葉を引き当てることになったと考えれば、強引な辻褄合わせになる。

 

 回想をする頭の中で、あの日快晴の羽田空港を出発した航空機は、また雲に覆われた旭川空港に滑り込んだ。自分は上からそれをじっと見る。おもちゃみたいなスケールの翼は力を入れたら折れそうだから、つつきたくなる衝動を抑えた。

 4日間で太陽はせわしなく、顔を出したり、隠れたり。

 けれど総じて雨が多く、ゆえにホテルの部屋へ帰るたび浴室の内側でこうもり傘を広げ、濡れた表面を乾かしたのを憶えている。

 

 

 田では稲刈りを目前に控えた季節だった。

 昔、北海道で米は育たないと言われていた時代の様子を語る本から顔を上げて、空港を出たバスの窓越しに道路脇を眺めた。すると豊かに実り、重く頭を垂れる黄色の穂が視界一面に広がる。寒冷地でも逞しく生きられるよう品種改良された彼らは、風にそよぎながら本州の土地や、あるいは日本列島に稲作が渡来する以前の、大陸のどこかをその夢に見ただろうか。

 房をゆらゆらさせる稲を凝視していると、こちらもつられて眠くなってくる。米に意識が食われるみたいに。

 広大な面積の田畑の切れ間、彼らが私達に見せる夢がさめるところには、点々と民家や倉庫があった。私は倉庫類の屋根の中でも形が半円の「まあるい」ものと、腰折れの「かくばっている」ものが特に好き。

 後者にはギャンブレル屋根という呼称がきちんとあるのを少し前に学んだ。正面から対峙したときの姿が、まるで将棋の駒みたいなやつだ。ここ以外にも本州、北関東から東北地方にかけてもわりとよく目撃できる、雪深い地域の農地および牧場のアイコン。ガラスを挟んでそれらを指でタップしたら、牧草が収穫できるかもしれない。

 

 旭川では、鉄道駅のある市街地中心部に近付いても、ときどき同じ形の建物を見ることができた。

 空港からのバスを降りたら今度はしばらく歩く。

 明治時代に植樹が始まった見本林のあるところまで行って、敷地内の三浦綾子文学記念館に寄り、駅まで戻ってきた。詳細は後で彼女の旧宅(移築復元)に立ち寄った際の記録と一緒に、以下の記事に残している。

 

 

 見本林はなんともいえない不気味さ、怖さもありながら、空気や風の音が美しい場所。

 ふつうのカラスと「ちょっと変わった鳴き声のカラス」が行き交って、言葉の応酬をしていた。彼らの意図や鳴き声の意味を解する能力があったらおもしろそうだけれど、そうしたら多分、人は正気ではなくなる。

 

 

 辿り着いた線路のそば。忠別川を流れる水の色と、そこにかかる氷点橋のそばに植えられていた木の葉の色がよく似ていた。近隣を流れる美瑛川は彩度の高い青色をしているが、忠別川にはまた違った特徴がある。

 翡翠を思わせる、きれいな緑とごく淡い青色の中間色。かつてはこの大地の東、昆布が有名な日高で「日高ヒスイ」と呼ばれる岩石が産出され、大きな注目が集まった時期もあったらしい。旭川とは関連の薄い事柄であるものの、翡翠という石の特徴である色彩は不思議とこの街の印象というか、雰囲気か何かによく馴染んでいる。

 そんなことを考えて旭川市博物館に立ち寄ったところ、現存しない旧市役所の模型に出会い、当時の建物が本当に「そういう緑色」をしていた、と判明したから面白い。

 明治43(1910)年に建てられ、町役場、区役所、市役所と3つの異なる役割を引き受けた木造の建物。下見板張りの外壁と上げ下げ窓、半分に切ったのり巻きを連想させるドーマー窓が特徴で、入口上の塔屋にはおなじみの「五稜星」が輝く。

 

 星の意匠。

 これは漠然とした星の概念ではなくて、かつて和人がこの地に設置した開拓使が使っていた旗の、北辰(即ち北極星)を表す図案から採用されたものである。

 

 

 星は目印になり得るが、この散策は別に、星を指針に据えた旅行の一環なわけではない。

 

 指針といえば。出発前の背嚢にものをどんどん詰めているとき、何を考えていたのか思い出した。

 私にとって荷造りはかなり煩わしい、苦手な作業だけれども、そこには「数日間の遠出に必要なものだけを厳選してまとめる」という明確な目的がある。加えて鞄の容積や、自分が持って歩ける重さの限界など、質量面での制限もあるため、迷うことがあったとしても比較的すぐに諦めがつく。持参できないものは持参できない……と。

 旅先で費やす時間や金銭にも似たような基準が適用できる。私は会社員なので、予算も休日も無尽蔵に湧いてくるわけではない。

 結果、自宅を発ってから帰路につくまでの限られた区分の範囲内で、今日は何をして明日はどうするのか、それだけに注力する必要に迫られる。毎日こんな風に過ごしていては到底生きていられないから尚更、目の前に横たわる事柄のみに取り組む旅行中の「特殊な状態」というのは、貴重なものなのだった。

 

 明後日……数週間後……数年後……あとは老後とか。

 気が付けばこういう、いつか本当に訪れるのかも、存在するのかどうかすらも分からない「後」の展望に翻弄されていることがある。他人や社会から不要な行動を促されたり、無用の概念を押し付けられたりすることも。

 そんな諸々を無視して「次の土地へ向かう列車に間に合わないので」と言い、夜中、背負った鞄と共に空想の山河を越えてゆく感触だけが、確かな真実となる一瞬がこの世にはある。

 

 

 旭川の道端に咲いていた、自宅の周囲では見たことがない花。

 調べたらコウリンタンポポ(紅輪蒲公英)といって、元はヨーロッパ原産の外来種なのだそうだ。果てに位置する土地柄からだろう、北海道内でこれをよく見かけるのは。そこから本州に広がって、東北地方にも分布している様子が見られる。

 神奈川の田舎(森に囲まれた町)育ちだから、知らない野草が生えてるとむしろ気になって凝視してしまう。小学校ではセイヨウタンポポとニホンタンポポの見分け方を教わったし、ワレモコウの葉を揉むとスイカに似た香りがすることも、ホトケノザの花の蜜はわりと多めに吸えることも、実体験を通して知っている。

 コウリンタンポポに関しては幼い頃遊んだ記憶が全くないので、やはり関東、私の住んでいた地域にはあまり生息していなかったようだった。

 

 

 とめがき【2】に続く

 

 このとき「蛾」の大量発生に遭遇した記録:

 

 

 

 

COFFEE SHOP FUJI(喫茶富士)- 薄水色をしたクリームソーダ、しなやかな猫の気配があるレトロ喫茶店|千葉県・松戸市

 

 

 

 JR松戸駅の西口を出たら、歩行者デッキの階段を下りて、線路沿いに道路を北へ。

 2分程度歩くと左側、角を曲がってすぐの場所に見えてくる。通りに面した大きな四角い窓に植物の葉が茂り、レンガ風の壁の上には、青と橙の細いしましまで彩られた庇がある店舗が。COFFEE SHOP FUJI (富士) という喫茶店で、サイフォンのイラストが描かれた看板の下には洒落た手書きのロゴもある。よーく見ると文字に影がついているのと、コーヒーカップと豆が存在を主張しているのもポイント。

 ここは1980年代に創業、「喫茶富士」として開店してからすでに40年以上が経過しており、現在も変わらず地域に愛されているようだった。平日の夕方頃に入店してみると、常連さんらしき面々が多い。昔の広告写真(白黒)にはなかった大きなテレビが壁に設置されていて、その前の開いていた席に座った。

 ……なにやら美しい獣が徘徊している気配があり、足元に注意を向けていると、現れたのは2匹の猫だった。あごの下に首輪が光り、毎日きちんと世話されているのが分かる、それはもう綺麗な毛並み。三毛のようなのと、トラ(ヒョウ)っぽい柄のと。利発そうで怜悧な賢い目をしていて、体型も整っている……。

 

 

 赤い布張りの上品な椅子も、実は人間ではなく、猫たちが座るためにこそ用意されているのではないかとすら思えてくる。そんな彼らの美しさに著しく心を惑わされながら、自己をきちんと保つためにクリームソーダを注文した。

 テーブルに届けられたものを見て内心で歓声を上げたのは、その「色」が非常に印象的だったせい。透き通った薄い水色をしている。グラスの下に敷かれたプラスチックのコースターも似た系統の色彩で可愛かった。ソーダ水に配合されているのは何のシロップか分からないけれど、飲んでみると爽やかなほどよい甘さで、炭酸の泡が細かい。

 氷の量はグラスの3分の1くらいだった。訪れたのが7月だったので外は非常に暑く、おかげで命の水にありつけたような気分。

 もうひとつ特筆すべき要素はアイスクリームの部分にあり、単なるバニラ味ではなく、ブラウンのマーブル模様が入っているところを見るとチョコバニラ味なのではないかと思った。チョコの香ばしさがある。うっすら浮かんだ泡も含めて美味しい。

 

 

 アイス自体の食感は硬めでシャリシャリしており、その点でソーダ水部分との相性が良く、少し溶け出しても全体的に味が崩れないと感じられた。夏に全力でおすすめ。

 ふと隣の開いた席に目をやると、机の中央に丸い深皿が設置されていた。

 形からして明らかに人間用のものではない。するとおもむろに猫がやってきて、椅子に後ろ足で立ち、皿に盛られた餌を静かに食べ始めたではないか。やはり、基本的には猫用の席なのだ。人間は彼らの善意により、着席することを許されているだけ。ヒトよりも猫の方が立場が上、ということ。

 喫茶富士にいると、つかず離れずの位置をまるで妖精のように動き回ったり、時には座って周囲を眺めていたりする獣の影の気配が、常に感じられる。

 カウンターの近くでは、ある作成中のパフェをじい……っと見つめる対の瞳があった。

 

 

 

 

椿の絵ろうそく:福島県・会津若松土産

 

 

 

 

 会津でろうそくが盛んに作られるようになったのは、漆器の製造に必要な漆樹(ウルシの木)の実から、ろうそくの原料となる蝋が取れたからだった。

 幹から樹液を採取して用いる漆器とは異なり、蝋の方は、実を絞ることで得られるのだそう。

 もともと室町時代、この植物の有用性に目を付けた会津領主・芦名盛信によって、宝徳年間には漆樹の栽培が積極的に推し進められていた。後に蒲生氏郷などが近江(江州)から技術者を招聘し、製造法の改良が行われるとともに、ろうそくの表面には美しい図柄が描かれるようになったのだという。

 それが現在も土産物として知られる民芸品「会津絵ろうそく」の起源だった。

 

 

 透明な袋に包装されていた状態から本体を取り出し、少し顔を近付けてみると、意外にもはっきりとした匂いが認識できた。香りのつけられていない、素の蝋燭の匂い。独特で、どこか懐かしく、他の何にも似ていないと思う。

 手に持って矯めつ眇めつ、触りながら目と指先でその形を確かめた。

 根本から上に行くに従って胴がわずかに膨らみ、最後はすっぱりと水平面になった天辺の円の中央から、お灸みたいな芯の三角頭が覗くさま。それが、単なる円柱の蝋燭よりも堂々とした姿に見えて、高貴だった。不安になるほど白い、うっすら青みのかった体躯に描かれた鮮やかな椿の柄には、着物というよりも、刺青を連想させられる。布ではなくて、人間の皮膚の細かな凹凸に直接織り込まれた柄を。

 花弁の鮮烈な赤色は視線を捉えて離さない。雪国の会津では花の咲かぬ季節にも、こうして花の描かれた絵ろうそくに火を灯し、仏壇に供えたのだとも説明書に記載されていた。

 片手の上に乗せてみると想像よりもずっと軽かった。長い間お座敷の内側で暮らしていた誰かの、滅多にものを持ち上げない、ごく細い腕のように。あるいは、指。牢屋のつめたい格子の隙間からそっと差し出される、骨ばった青白い指、その先端から突き出た蝋燭の芯が伸ばした爪の先に似ている。硬い石の壁や床に昼夜を問わず擦り続けて、いつしか鋭くなった爪に。

 蝋は熱の伝わりやすい素材だからか、しばらく握っていると簡単に表面がぬるくなった。滑らかで肌になじむような、それでいて決して混ざり合うことはない、人懐こい拒絶。ひと思いに芯に火を灯せば、半ば眠っている今の状態よりも恍惚とした様子で炎の温度に身を任せ、まどろんで、徐々に姿を変えていくのだろう。刻まれた紅い椿の花ごと咲いて、最後には地面に落ちる。

 絵ろうそく本体の底、目立たないところに力を入れてみると、三日月のごとく細い引っ掻き傷がひとつできた。本当に柔らかい素材なのだ。

 面白いのは、手で触って感じる蝋燭の柔らかさと、これが何か他のものに触れた時の感触が、かなり大きく乖離しているところだった。例えば木の机の天板や脚の角などに、手に持った蝋燭をごく軽くぶつけてみる。すると驚いたことに、カンカンと高く硬質な音が鳴る。

 こんなにも柔らかいのだから、もっと鈍い、丸みを帯びた感じの音色を響かせるのではないかと思っていた。単なる先入観だったようで、考えもしなかったその音色の鋭さに、私はたじろぐ。毎日牢に食事を運んでやっていた綺麗な顔の囚人の、意外な過去を聞かされたみたいな気分になる。

 

 物を言わずとも雄弁に語る絵ろうそくを手元に置いておくことは、こういう些細だが心惹かれる要素に忌憚なく触れて、観察する楽しみを得ることでもあった。

 そして、いつか炎を灯してみよう、と考える。もちろん蝋燭なのだから。でも、いつになるかは分からない。つけたくなったらつけるだろう。その時は躊躇うことなく、喜びとともに。

「そのうち、あなたに火を灯します」と思いながら、絵の描かれた美しい蝋燭を見つめる。私に見つめられた蝋燭の方も視線の意図を理解して、目が合うたび「そのうち、こいつに火をつけられるのだ」と思っているような気がする。

 会津から持ち帰り、部屋に飾っている蝋燭と所有者の私との関係はそういうもので、なんとなく他人には言いづらいような、秘密めいたやり取りを連想させる感じが、確かにある。

 

 

 

 

 

妹背牛町をぶらぶら散策 - にわか雨・天然温泉・函館本線|北海道一人旅・妹背牛編(2)

 

 

 

 

 昨年の夏、8月末に旅行した町の様子を思い出した。

 雪に閉ざされた今の時期は厳しいので、そのうち暖かくなったら、まだ行ったことがない人にも足を運んでみてと薦めたい静かな場所。

 北海道内で3番目に小さな町であるのだという。

 

前回:

 

 郷土館の見学を終えたら大通りに出て、北へ向かって歩いてみる。道道(どうどう。他の地域で言う「県道」や「府道」にあたる)94号線が描くゆるやかな曲線を、車とは違う、亀の速度で進む自分の足跡でなぞった。

 道路の幅に沿い、一定の間隔で頭上に矢印が掲げられているのは、市民から時に「矢羽根」とも呼ばれることがある標識。正式名称は「固定式視線誘導柱」になる。北海道や東北の一部地域に設置されているもので、路肩の線が積雪で隠されたり、吹雪で視界が不明瞭になったりした際など、ドライバーが自身の走行位置を見定めるのに役立つ。

 私の居住地域ではまず確認できない存在なので、興味深かった。特別なところにしか生息していない希少な動物を発見できたような気分になる。

 相変わらず雨はいきなり多量に降ったり止んだりしていて、現地で撮った写真を順に見返していても、その気まぐれな百面相は瞭然だった。とても同じ日に散策をした土地とは思えないくらいで、うん、ずいぶん歓迎されているなぁ、と思う。

 

 

 どうやらこの町には源泉掛け流しの天然温泉に入れる場所があるらしいと、来る直前に聞いて知っていた。施設の名前は「妹背牛温泉ペペル」という。

 名前の由来は自治体のHPにこう記載してあった。

 

『アイヌ語の“PE”(ぺ)「水」と“PERU”(ペル)「泉」を表すこの温泉を永く愛していただきたい!
 そうした願いから、明るく和やかなネーミング「ペペル」としました。
 温泉ペペルは豊富で良質な純天然温泉が湧き出しており、平成5年の開業以来多くのみなさまに愛され親しまれています。』

 

(「妹背牛温泉ペペル|観光」妹背牛町ホームページより)

 

 入館料は大人500円、必要なら受付でタオル(別料金)も買える。

 私が木曜日の午後1時半に訪れた時、女風呂の入浴客は他に2名ほどしかおらず、のんびり洗い場を使っていたらいつの間にか自分だけになっていた。空いていたのでかなりゆっくりできた。大浴場には広い通常の浴槽と、ジェットバスがある。また、使わなかったけれど露天風呂もあるようだった。

 温泉の外観は透明な湯にうっすら褐色がかっているような感じで、手触りは滑らか、かつ柔らかい。「ナトリウム塩化物・炭酸水素塩泉」と記載がある。それが苦手でなければ特に強い匂いも質感もないので、お湯の好き嫌いにかかわらず、気軽に入浴できるのではないだろうか。

 

 

 脱衣所から出たところに「レストラン 味処 米里(ベイリー)」がある。

 軽い飲食物から週替わりランチ、定食ほか、テイクアウト用メニューなど色々揃っているようだった。午前11:30から午後8 時まで営業しているが、訪れた時は確かランチ後、午後2時半頃からしばらく準備中になり、夕方に再び開店する方式で営業している様子だったので現地で確認してみてほしい。

 クリームソーダ(各種)があったため、嬉々としてメロン味を注文する。そこで通常サイズのストローが切れていたと店員さんに言われ、謎のゴン太サイズストローと共に提供してもらったのは地味に面白く、むしろこの方がソフトクリームを効率よく吸い込めて便利なのではないかと考えたくらい。

 あとは売店にて「ルバーブ」のジャムが販売されており、かつてロンドンに住んでいた頃の思い出が鮮やかに蘇ってつい買ってしまった。ルバーブという野菜には馴染みのない人も多いかもしれない。一応タデの仲間で、甘酸っぱい味がする。杏と梅の中間のような……。たぶん、英国などと気候が似ているため北海道でも容易に栽培できるのだろう。

 このジャムは家で美味しく食べた。個人的にはソーダ水に混ぜるのが好き。

 

 

 湯上りの散策は本当に楽しい。

 そもそも温泉での入浴である程度の体力を使っているはずなのに、入る前に比べて疲れるどころか、むしろ元気になった気がするのは不思議だった。基礎体力を度外視すれば、結局のところ身体を動かしているのは筋力よりも気力の方である……という証左なのかもしれない。夏の涼風がいっそう心地よく感じた。

 鉄道駅に向かって南下を続けると川を渡ることになる。

 これはメム川。芽生川とも書き、メムはアイヌ語で泉の湧き出ている場所や、古くは小川をも意味していた、と標識にはある。清い流れの水面下に水草が生えているのが見えて、岐阜の大垣で橋から水路を眺めた時にもそうだったように、脳裏には「竜の背中」が浮かんだ。水底の草は竜のたてがみに見えるのだ。

 橋のたもとには味のある、紺色の屋根の小屋が建つ。煙を逃がす銀色の細い煙突が伸びている。

 

 

 しばらく先へと進んだ角では似た色の屋根をした、けれども今度は看板が掲げられている、1件の商店へと行き当たる。堀口商店さんと書いてある。ファンタとコーラの上にある、白い円の中の白鳥らしきロゴは一体何のものだろう?

 かすれていて文字も不明瞭なのだけれど、どうやらアルファベット部分の文字は "Nichiryo" その下部に「日糧(にちりょう)パン」と記載されているようだった。

 検索してみると現在「日糧製パン株式会社」と呼ばれている、札幌市に本社を置く食品製造会社らしく、企業沿革では第2次世界大戦中の昭和18(1943)年が創業となっていた。設立当時の社名は「北海道報国製菓有限会社」であったらしい。なら、この看板は社名が変更された昭和34(1959)年以降に設置されたもののはず。

 白鳥マーク(今はもうない?)の「日糧製パン」は「セイコーマート」や「ソフトカツゲン」などと同じく、見れば北海道を連想できる、その土地ならではの存在みたいだった。

 日糧製パン株式会社はかつて本州にも進出していたものの、平成11(1999)年に撤退したという経緯がある。

 

 

 

 

 ……さーてさて、これこそ町歩きの醍醐味と言ってしまっても決して大げさではない、味のあるサインポールがとうとう出現した。ひとつは手書き風の赤青ペンキ塗りに筆字で「営業中」の看板、もうひとつは単なる3色の線ではなく、ポップなシューティング・スターの図柄と何かのロゴが印刷されているもの。あの柄で回転もするのだろうか。

 どちらも、他の場所ではまったく見かけたことがないものだった。

 決して民家の数が多くない妹背牛でも、適当に徘徊するだけで2件も美容室を見つけられる。散髪という行為がどれほど現代社会で必要とされているのか考えると、それにも頷けた。一般に生活を送るためには、髪型を整えなければならない場面が頻繁にある。いつでも伸ばし放題というわけにはいかない。

 美容室以外の数少ないお店で視界に入ってきたのは、さっきの堀口商店さんと、それから「もせうし旅館」と書かれた宿屋、あとは店舗に見えるけれどもう営業していなさそうな建物。玄関前に緑の草が生い茂っている。

 

 

 そして……

 個人的に今回の散策最大の発見、かなり喜ばしかったのは、土台の部分がひし形のドアノブとの出会いだった。握る部分は何の変哲もない銀色のドアノブなのに、扉の板に接している平たいところがトランプのダイヤを彷彿とさせる形状となっていて、目にした時はかなり高揚したのを憶えている。

 もしかしたら初めて見たかもしれない。とっても珍しい。素晴らしい~。好き。

 こういうものがあるから、町歩きは楽しい。行く前から目的を決めてそこに赴くのも良いけれど、やっぱり最高に気分の盛り上がる瞬間は、予想だにしなかった場所で予想外のよいものに邂逅できること。

 ドアノブの土台を視線で撫でまわすように、粘着質に眺めた。君の存在を絶対に忘れないよ。たとえ千年経っても覚えているから。

 

 

 それから看板集めもした。

 

 妹背牛温泉ペペルからJR妹背牛駅までは、徒歩で約15~20分程度。入浴前と入浴後に適度な散策ができる。

 ちなみにこの施設、2023年5月8日(月)~2024年4月26日(金)まで、ほぼ1年間にわたり休業する予定があるらしかった。どうやら施設内に新しく「サウナ」を設置するための大規模な工事がその目的とのことで、やはり温泉利用者の間でサウナは人気があるのだな、と自分は入らない人間なりに思う。

 サウナに惹かれてやってくる利用客が増えれば、きっと妹背牛町を訪れる人の数も増え、以前ブログに書いた郷土館だけでない町の魅力を感じる訪問者の数も増加するかもしれない。閑静で人も車も少なく、気分転換にぶらぶらしやすい地域だったのでおすすめ。

 駅に停車する列車は、JR函館本線。線路自体は函館駅から旭川駅までを結んでいるが、例えば妹背牛から札幌駅に向かう場合、大抵は岩見沢駅か滝川駅で乗り換えが必要になる。唯一の例外で、朝6時58分に発車する車両のみが、手稲駅まで向かう(2023年1月現在)。

 私は宿泊している旭川方面へ。こちら側はどの列車に乗っても旭川駅に到着する。

 

 

 車体に緑の線が入り、正面に電灯の灯った可愛い顔の車両がホームに進入してきた。3両編成。おでこに「普通」と表示されている。

 そもそも駅に改札がなく、ホームにも車内にも整理券を取る場所がないので利用方法に困惑していたら、巡回している車掌さんが親切に乗り方を教えて下さった。とりあえず乗車してから係員に申し出て、そこで降りる駅の名前を告げ、券を購入すればよいらしい。一刻も早く運賃を支払わないと犯罪者になってしまう、という心配を抱えながら車両の内部を彷徨っていたので、ほっとした。

 くれぐれも下車するまで券を無くさないように……。

 この日の朝は旭川から神居古潭に赴き、さらにそこから深川を経由して妹背牛まで足を延ばしたので、往路はかなり長い道のりに感じられた。けれど復路は経由地なしで、さらに鉄道を利用してみるとあっという間だった。寄り道も楽しいし、まっすぐ向かうのも速くて良い。

 

 

 ああ、この文字の形、大好きだな。

 何とも言えない趣が滲み出ている。

 

  • 旭川から妹背牛温泉ペペルへのアクセス

⑴旭川駅でJR函館本線に乗り、妹背牛駅から行く方法。

下車後、北北西へ向かって徒歩約16分。

 

⑵電車とバスを組み合わせて行く方法。

まず、旭川駅から深川駅まで出る(数種類の電車あり)。

その後、バス停「深川十字街」から空知中央バス「深滝線:雨竜経由(滝川駅前行)」に乗車。

※深川十字街のバス停は離れた2カ所にあるので注意!  空知中央バスが停車する方で待つ。

妹背牛小学校前で下車、そこから徒歩約6分。

 

 

前回:

 

北海道ひとり旅関連:

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「あったかくなったら」

会津名物「ソースカツ丼」とカツを模したお菓子 - 近代から現代に受け継がれてきた味|福島県・会津若松

 

 

 

 明治・大正の頃から日本で食べられるようになった料理といえば、牛鍋、ライスカレー(カレーライスと呼ばれるのはもう少し後の時代)、ライスオムレツ(オムライス)などがまずなんとなく思い浮かぶ。それから「大正三大洋食」に名を連ねているコロッケ、ビフテキ、豚カツも代表例として挙げられるだろうか。

 特に日本における豚カツは、薄い肉を使った洋風のカツレツ(牛や羊を使用)がフランスから流入して以降、紆余曲折を経て変化してきたものとされ、それを丼によそったご飯にのせて提供する「カツ丼」の起源には諸説がある。まあ沢山の説が。

 時代に関しては多くが大正年間とされているが、地域に至っては本州の各地に散らばっており、捉えどころがない。ともかく大体その頃に、各飲食店で一般客向けのカツ丼提供が始まったらしい、くらいに認識しておくのがいいかもしれない。

 

 明治30年代後半の甲府説、も存在する。

 

 さて、福島県は会津。

 先日に初訪問を果たした会津若松では、ソースカツ丼が地元の名物として紹介されていた。ここでは昭和5(1930)年に「若松食堂」が提供を開始したのがその起こりとされ、15年後の昭和20(1945)年には続いて「白孔雀」食堂が、丼の直径よりも大きなカツを白飯にのせる特徴的な盛り方で名前を知られるようになる。

 歴史家の石田明夫氏が以下のページに記載していた。

 

 

 行くまで上の事実を全く知らなかったため、天鏡閣を出て、猪苗代から乗った磐越西線を会津若松駅で降りてから、食堂に入ってみた。

 改札を出てすぐの便利な位置に「会津山塩食堂」が暖簾を掲げている。

 

 

 

 

 注文したのは名物ソースカツ丼と、会津地鶏のゆで卵ひとつ。

 特徴的なのは、衣の全体を覆ってひたひたにしている、潤沢なソースの存在。まるでソースがカツを包んでいるみたいだった。そしてこの、器のフチから少しはみ出すようにカツを配置しているのは、前述した会津ソースカツ丼の歴史にあった「デカ盛り」の存在を意識しているのだろうか。

 白飯とカツの間に、座布団よろしく千切りキャベツが敷かれている。カツ丼におけるキャベツの存在はどこか、カレーにとっての福神漬けと似ている部分がないだろうか。人によって必須であったり不要であったりし、一緒に食べるかどうかは個々の判断に任されている。ちなみに会津では、この千切りキャベツこそが地元のソースカツ丼の特徴らしかった。

 肝心のソースには塩気と甘さがあり、さらに深い部分で色々なものが溶け込んでいるのを感じる。とろみがあって味も濃い。ケチャップや酒、みりん、あるいは果物が配合されているとも耳にしたが、実際に材料の詳細を知りたくなる。もちろん店舗によって使われている材料は異なるのだろうが……。

 柔らかい豚肉が、衣の布団をかぶってソースの夢に微睡んでいた。濃い味のおかげで食欲が増進され、もっともっと白いご飯を食べたくなるような気がした。

 

 

 そんな会津名物ソースカツ丼を再現したお菓子「会津ソースかつ丼風味かつ」が、土産物店の多くで販売されている。外箱のデザインからはどういうものか全く予想できなかったけれど、旅行の記念に買ってしまった。

 箱を開封して現れるのは個包装に守られた「カツ」たちで、ひとつの袋にひと切れが入っており、それぞれが親指1本分程度のサイズ。あれ、あれ、知ってるあれだ……! と脳内を探って思い出したのが、駄菓子屋さんで売っているカツだった。幼少期に食べたことがあるものに似ていた。

 このサイズなので、口に入れると一瞬でなくなる。幻のように。

 なんだか寂しい気もしたが、食べ過ぎを防ぐのにはこれくらいの大きさで小分けにしてくれた方が効果的なのかもしれない。実物のようなソースの潤いや分厚い食感こそないものの、その味は確かにカツであった。

 

 

 

 

 

 

お題「おすすめしたいローカルグルメ・お菓子」

天鏡閣 - 窓が多く塔屋が印象的な白い明治の洋館、湖の傍に建つ旧別邸|福島県・猪苗代

 

 

 

 

 想像していた以上に沢山の鳥がいる。

 カモの仲間、オナガガモに見えた。慣れていて人を怖がらない。きっと、エサか何かを待っているのだろう。

 寒くなればシベリアから白鳥が渡ってくるところだと事前に聞いていたけれど、この時は邂逅できなかったので、時期尚早だったらしい。かと思えば実は白鳥というのが「カモ科」に属する鳥なのだと後で教えられ、では彼らも似たようなもの、鳥だしほとんど同じ……「カモはだいたい白鳥」なのだ、と呟いて一人で勝手に頷いた。

 きちんと写真を見ると、別にあまり似ていない。首の長さとか、羽の質感なども。

 

 

 体長が数十メートル以上にもなる巨大な「はくちょう」と、巨大な「かめ」が猪苗代湖には生息していて、一時期は絶滅が危ぶまれたがどうにか持ち直したらしい。今でも毎日、元気に悠々と湖面を泳ぐ姿が見られる。嘘ではないので調べてみてほしい。

 種族の名前は「遊覧船」といって、私が訪れた時にも大きな体躯を桟橋に横付けしていた。まったく身じろぎもせず。日本国内では4番目に大きいとされる湖の、縁に立てば果ての対岸が霞む広さをもってしても、彼らの存在感はまったく薄れない。表情は硬質で凛としていた。

 そんな猪苗代湖の湖畔に皇族が建てた別荘、天鏡閣が別荘として使われなくなってからのことは、人間よりも彼らがよく知っている。

 明治41年竣工、昭和27年には福島県に下賜されて引き続き使われていた洋館。その数十年後には老朽化により利用が中止され、修復工事の完了後、改めて一般公開されるようになった。

 

 

 令和5年現在、天鏡閣は年末年始であろうと関係なく「無休」で公開されているのがかなり意外だった。本当に年中無休。ここは会津若松に隣接する地域で、寒いとすっかり雪に閉ざされてしまう地域の印象があったため……。それでも、辿り着ける人は辿り着くのだろう。

 ちなみに館内に暖房設備はない(玄関口に石油ストーブがあるだけ)ので、冬季の訪問には上着が欠かせない。

 建物に近寄りながら抱いていたのは、別荘ではなくてむしろ何かの観測施設に見える、という印象だった。天文台みたいな。多分、望遠鏡を設置して星を見るのに良さそうな8角形の塔屋部分が、それらしい雰囲気を醸し出している。

 塔屋に加えて気が付いた。下見板張りの白い外壁は、百葉箱にそっくり。外気温を計る温度計などを納めていた箱。だからなおさら、この建物に観測施設の面影を投影してしまう。靴を脱いで、あの見張り台に上っていきたい。上、空に近い方。

 

 

 緑色のカーペットが敷かれた階段は、人間が横に並ぶと通れなくなるくらい細かった。どこか万人に開かれていない感じが心を躍らせる。玄関ホールに面していない類の階段は場所が分かりにくく、さらに足をかけにくいほど、何らかの「秘密」を抱いているようで人間を楽しい気分にさせる性質を持つ。

 上りきった先が8角形の部屋だった。

 望遠鏡はないけれど、眺望はある。空の下に屋根が、屋根の上には煙突があって、黒に近い灰色のスレート板を見ていたら形の違いに気が付いた。四角いものと角が取れたもの、2種類ある。後者は神戸の、旧ハリヤー邸の壁を飾っていたうろこ状の重なりによく似ていた。どうして天鏡閣の屋根の意匠が部分的に違うのかは分からない。

 それにしても明るい建物だ。確かに、表から見てもずいぶん窓が多いと思ってはいた。一定の狭い間隔を開けて並ぶ、縦長の上げ下げ窓。明治の頃からこれだけガラスを使っていて実に豪華なもの。おかげで、天鏡閣ではどの空間にいても柔らかな光に包まれる。

 

 

 そう、お手洗いだって明るい。

 右手に窓、正面にも窓。フロスト加工されたような白いガラスが光だけを濾過して個室内に通している。全体的に、他の部屋と同じくカーペットや壁が淡い色合いで、そういえばここはいわゆる別荘であったのだなと再度思わされた。余暇の息抜きで来るような場所に不要な緊張感はふさわしくない。柔らかく、穏やかで、清廉な空気、それがいる。だからそういう造りになる。

 あんまりお手洗いが明るくても困るような気がするが……かえって暗すぎるのも良くないという感覚はまあ、ある。お化けが出そうでは困ると。でも休暇の滞在に選ばれるのが幽霊屋敷だったら、物語としては最適なのではないだろうか。ところでこのトイレのハイタンク、自由学園明日館や、台東区の岩田邸で出会ったものに似ている。

 流し台の石鹸を置くのであろう場所が、貝殻のような花のような意匠で嬉しくなった。資生堂の「ホネケーキ」シリーズを置きたくなる。それか、何の変哲もない乳白色のハンドソープ。種類はなんでもいい。

 

 

 天鏡閣の暖炉はどこも人間の心を魅了し、しっかり捕らえて離さないように設計されていて、訪問者の魂を封じるのに重要な役割を果たしているひとつがタイルなのだった。

 これら、絵柄の施されたタイルが「マジョリカタイル」と呼ばれるようになった経緯を知るには、19世紀まで時代を遡ってみる必要がある。イタリアからマヨリカ焼(錫の配合された釉薬を用いた陶器)の技術が伝わり、それを受けてイギリスの各陶磁器メーカーが製造して輸出したヴィクトリアン・マジョリカ陶器のタイルが、現在マジョリカタイルと称されているものの元。

 後に日本でもそれを模して「和製マジョリカタイル」が作られるようになり、明治・大正期に竣工した洋館内の暖炉などに、実際に使われた痕跡を見ることができる。でも、この天鏡閣の装飾タイルは輸入されたイギリス製のものだった。きっと高価だ。

 至近距離で観察すると、表面に線として白く盛り上がった畝の輪郭線があり、その枠に色が流し込まれていると分かる。色数が多く凝ったものの方が目立つかと思いきや、個人的に惹かれたのは単色のものが持つ深み。

 

 

 たった1色、それだけが巧みに作り出す濃淡の味わいは格別だった。地となる白色の部分と、起伏のある表面を最も効果的に活かしているのは、実は単色のマジョリカタイルなのではないだろうか。そこに驚くほど奥行きがあって。

 こんな暖炉のタイル以外にも、凝った意匠の細部を楽しめる場所は天鏡閣に複数ある。

 2階の居間に見られた鏡付きの家具、扉がある棚のようなものの、下のところに施された繊細な寄木細工は最たるものだった。はじめは単純に彩色されているのか、と思ったけれど、やはりよく見ると寄木。花芯の部分が灰白色に光っているのがおそらく貝殻で、そこだけは螺鈿なのかもしれない。表面がつるつるなせいで指先で撫でたくなる。

 また、1階の撞球室にある椅子の背もたれも素通りできない。なんと装飾が「竪琴」の形をしていた。琴の弦の部分だけがきちんと金属製で、手間のかかった椅子だと感心するなどした。私は他で見たことがない。

 

 

 

 

 椅子の近くに置いてあるビリヤードの玉突台を照らすのは、これまた特殊な形状の照明だった。光に角度がつくと球にも斜めの影が落ち、それが遊戯に影響するために、上から垂直に台を照らせるようになっているのだとか。どこか、ラボで植物を栽培したり、卵を孵化させたりする機械の光熱源を連想させられる。あるいは緑色のスカートを。

 ちなみに、玉突台の脚はライオン脚の形。現地に行ったら見てみよう。脚だけが動物を象っているなんて、人間がいない夜中に屋敷の中を駆け廻る風習があるのではないか、と邪推してしまう。軽やか、かつ静かに別邸内を移動するビリヤード台の姿は、相当に恐怖を煽るはず……。

 竪琴の椅子のほか、隣の客間を通り抜けた先にある、食堂の長テーブルを囲んでいる方の椅子の背もたれにも分かりやすい特徴があった。縦に細長く、ごつごつした彫刻が施されている。こういったハイ・バック・チェアは私にとって、身近なお話の中に出てくる家具の筆頭であり、ぼんやりした景色の向こうでそこに座っているのはいつも知らない人だった。

 あなたは誰なのか。確実なのは、もともと天鏡閣に出入りしていた人たちとは、全く関係のない人物であるということだけ。いいや、人間であるかどうかも分からない。

 

 

 客間、球戯室、居室、お手洗いなどの他にも、はっきりとした用途が分からない部屋もあるらしかった。便宜上「付属室」と呼ばれているところ。マジョリカタイルのない簡素な暖炉と、魅力的な楕円形の3面鏡が何かを囁きかけてくるので注意して、なるべく近付かない。惹かれてしまうからこそ。

 本来の使い方は推測できるようだけれど、普通なら目的があって建てられる建築物の中に、無目的な部屋があるのは面白いし好きだった。それゆえ分からないままでいてほしいとも思う、与えられた役割意外に部屋固有の意思を持たせておくみたいに。

 建築物の一部が勝手に増殖して、元の建物とは独立した何かを形成していく話を大昔に書いたことがあり、私にとって家も別荘も等しく本来は「そういう」存在であると判断している時がある。

 この話をするには「人間の住む建物は身体の延長である」とする自分の考えの根幹を述べなくてはいけなくなるので、今記事では別にやらない。

 

 

 天鏡閣の名前の由来となった李白の詩の句。

 これは「巴陵開元寺の西閣に登り、衡岳の僧方外に贈る」という詩の一部分、その最後の2行で展開されている場面で、以下のようなものだった。

 

明湖落天鏡。香閣凌銀關。

登眺餐惠風。新花期啓發。

 

明湖、天鏡に落ち、香閣、銀關を凌ぐ。

登眺、惠風に餐し、新花、啓發を期す。

 

洞庭の一湖は、天の鏡と見まがい、香閣は高く聳えて、天上の銀關を凌ぐかと疑われる。

ここに登って、あたりを眺めると、新しい春の花が追追咲き出でんとして居る。

 

(国民文庫刊行会「国訳漢文大成 続 文学部第10冊」国民文庫刊行会 編 位置No.34 p.270)

 

 方外という僧のもとへ道を問いに赴いた在朝の大臣が、そこ(西閣)で高所から周囲を眺めた際、目に認めた風景が描かれている。

 これ、天鏡閣の公式サイトにも、元になった詩の説明をきちんと掲載しておいて欲しい……。

 調べるのに時間がかかってしまったので。

 

 

 

 

 

 

 

【文学聖地&近代遺産】ごく個人的な物語を往来するための巡礼記録:2022年

 

 高校に入学するまでは電車の切符もひとりでは買えなかったのに、国内外どこでも、それが可能なところになら自分で行けるようになった。

 多くの「会いたい」を胸に、移動しながら過ごした1年。

 

 

 

 

はてなブログ 特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

目次:

 

はしがき

 これまで1度も歩いたことのなかった土地の数々へ、2022年も足を運んだ。「足を運んだ」というよりか「足を使って自分の身体をせっせと遠方へ運んだ」とも表現できる。各種公共交通機関の力を借りながら。

 まぁ別にどちらでも意味は変わらない。いつもの虚無感はそのまま、でも、知的好奇心を満たせるように動けたのは有意義だった。

 たまに自動車に乗せてくれ、運転を担当して下さった方々もいた。その節は大変お世話になりました。

 

 旅行が趣味なのは確かだと認めざるを得ないけれど、単純にそう断言してしまうのも違う、と訴える気持ちが胸の内にはあり、理由はきっと「好きだから旅行をする」と「何らかの感覚を求めて旅行をする」の間に無いようで在る、微妙な違いをきちんと意識しておきたい気持ちがあるからだった。

 私は間違いなく後者。

 旅、の行為自体を心底愛している人達との決定的な差異は、おそらくそこに起因する。私は狭義の「旅好き」ではない。

 

 では、なんなのか。

 

 私はいつも、実際の視界に幻想が重なる、特定の瞬間を探しているだけ。

 会いたい。

 知らないはずなのに、懐かしいと感じる何かに。

 

 具体的にどういった場所を訪れた時にそれを感じるかというと、一応傾向があるようで、

 

○ 好きな小説作品や文豪ゆかりの地

明治・大正・昭和期の近代建築、産業遺産

 

と、ふたつの大きな枠組みが見出せる。

 

 どちらにも共通しているのは、自分自身がまだ生まれていない時代に書かれた小説に登場する場所や、ちょうどその頃作られたものに対して、不思議なほど強烈な懐かしさを覚えるという事実。奇妙だと思う。過去に触れたことがないものに惹かれる感覚は、厳密には、郷愁と全然異なるもののはず。辞書的な意味で。

 けれど、確かに懐かしいと感じるのだ。

 まるで、何らかの理由で忘れてしまった事柄を、土地に宿った物語を辿るように、どうにかしてもう一度思い出そうとするみたいな行為……。

 

 そんな動機で行っている、いわば巡礼の記録。

 広義の推し活みたいなもの。

 

2022年の旅行と散策を振り返る

 すでにブログへ投稿したものも、まだ記事としてまとめられていないものも、一緒に掲載する。記事になっていないものは今後投稿し次第リンクを貼っていく予定。

 都道府県名別に北の方から。全体の85%くらいが一人旅。

 こうしてまとめてみたことで、今年はわりと本州の真ん中よりも北方へ出向いていることが可視化された。それもあり、来年は夢野久作にゆかりある九州・福岡あたりから回ってみよう、と思うなど。

 

1. 文学や文豪の聖地

北海道(三浦綾子、石川啄木)
  • 三浦綾子

《旭川・外国樹種見本林》

 ここが三浦氏のデビュー作「氷点」の舞台になった。

 明治31年に最初の木が植えられた、国有林。

 

 

「すばらしい所ねえ。美しく、静かで、しかも無気味なのね」

(中略)

 その時の印象が、あまりに強烈であったため、わたしは小説の筋が決まると、ためらわずにここを舞台に決めたのである。

 

(新潮文庫「この土の器をも」(1980) 三浦綾子 p.194)

 

《塩狩・塩狩峠記念館》

 小説「塩狩峠」の舞台であり、現在は著者の家がそこに移築され、記念館となっている。

 付近の駅にJR宗谷本線が通る。

 

 

 吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。

 塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。

 

(新潮文庫「塩狩峠」(2009) 三浦綾子 p.440)

 

 

  • 石川啄木

《函館の町

 啄木が愛し愛された土地。

 明治40年5月5日から、わずかな間だが青柳町に暮らした。

 

 

予と函館との關係が予と如何なる土地との關係よりも温かであつた事、今猶ある事は、君も承認してくれるに違ひない。

 

(青空文庫 石川啄木「郁雨に與ふ」※パブリックドメイン より)

 

青森県(太宰治、高浜虚子)
  • 太宰治

《金木・斜陽館》

 明治40年に竣工した、太宰治の生家。

 現在は記念館として見学可能な見どころの多い建築。

 

 

金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)

 

《金木・旧津島家新座敷》

 大正11年10月に竣工し、当初は太宰の兄夫婦が暮らした津島家の離れ。「トカトントン」など多くの作品がここで執筆された。

「太宰治疎開の家」として一般公開。

 

 

昭和二十年の八月から約一年三箇月ほど、本州の北端の津軽の生家で、所謂疎開生活をしていたのであるが、そのあいだ私は、ほとんど家の中にばかりいて、旅行らしい旅行は、いちども、しなかった。

 

(青空文庫 太宰治「」※パブリックドメイン より)

 

  • 高浜虚子

《青森市・浅虫温泉》

 虚子の娘婿が日本銀行青森支店の支店長だった関係で、彼自身もたびたび、青森を訪れていた。

 この浅虫温泉で詠んだ句も残っている。

 

 

百尺の裸岩あり夏の海

高浜虚子

 

 

山形県(松尾芭蕉)
  • 松尾芭蕉

《山寺・宝珠山立石寺》

 尾花沢宿を出発し、河合曾良と共に訪れた松尾芭蕉が句を残した場所。

 参道に句碑がある。

 

 

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉

 

 

群馬県(徳富蘆花、萩原朔太郎ほか)
  • 徳富蘆花

《渋川・伊香保温泉》

 蘆花が生涯を通して強い愛着を抱き、妻とも訪れていた温泉地。

 小説「不如帰」の物語は伊香保温泉の旅館から始まる。

 

 

上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。

 

(青空文庫 徳富蘆花「不如帰」※パブリックドメイン より)

 

 

  • 萩原朔太郎

《渋川・伊香保温泉》

 群馬県、前橋で生まれた朔太郎もたびたび伊香保に通っていた。

 随筆で「感じの落付いたおつとりした所」と記述している。

 

 

伊香保の特色は、だれも感ずる如く、その石段あがりの市街にある。

実際伊香保の町は、全部石垣で出来て居ると言つても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や、かういふ町に適当な小綺麗の小間物屋や、舶来煙草を飾つた店や、中庭に廻廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒とを重ね合せて、ごてごてと不規則に並んで居る。

 

(青空文庫 萩原朔太郎「石段上りの街」※パブリックドメイン より)

 

 

東京都(漱石、鷗外、永井荷風ほか)
  • 永井荷風

《台東区・浅草》

 いくつかの荷風の随筆には、特に浅草の地が鮮やかに描写されている。

 自分の今年を振り返ると、神谷伝兵衛の軌跡を辿る関連で浅草や「神谷バー」付近を歩いていた。

 

 

方角をかえて雷門の辺では神谷バーの曲角。広い道路を越して南千住行の電車停留場の辺り。川沿の公園の真暗な入口あたりから吾妻橋の橋だもと。電車通でありながら早くから店の戸を閉める鼻緒屋の立ちつづく軒下。

 

(青空文庫 永井荷風「吾妻橋」※パブリックドメイン より)

 

  • 漱石、鷗外など

《谷中・根津・千駄木》

 後述する島薗家住宅を見学するついでに歩いてみたエリア。

 夏目漱石や森鴎外が実際に住んでいたり、かつて根津には遊廓や私娼窟があったりと、歴史的に興味深いところだった。

 

 

 なんともいえないレトロ感、味わいもある。

 

神奈川県(大佛次郎)
  • 大佛次郎

《ホテルニューグランド》

 昭和初期に大佛が執筆のため、よく利用していた近代遺産のホテル。

 現在も318号室が「鞍馬天狗の部屋」として親しまれている。

 

 

 

静岡県(尾崎紅葉)
  • 尾崎紅葉

《熱海》

  熱海の浜は小説「金色夜叉」で、貫一とお宮の2人があまりに印象的な会話を繰り広げた場所。

 また、近代遺産の項で後述する起雲閣には多くの文豪が集った。

 

 

熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲乱れて、日に映へる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪へたり。

 

(新潮文庫「金色夜叉」(1992) 尾崎紅葉 p.53)

 

 

岐阜県(島崎藤村)
  • 島崎藤村

《中津川・馬籠宿》

 中山道の宿場、馬籠宿本陣は島崎藤村の生家。そこは現在彼の文学記念館になっている。

 起伏の多い坂道に並ぶ、伝統的建造物で構成された町並みが印象的。

 

 

宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。

 

(新潮文庫「夜明け前 第一部(上)」(2018) 島崎藤村 p.6-7)

 

 

長野県(島崎藤村の母)
  • 島崎藤村の母

《南木曽町・妻籠宿》

 妻籠宿本陣、島崎家は藤村の母の生家だった。

 本陣の制度は明治時代に廃止。現在は、南木曽町博物館の一部として建物の内部が公開されている。

 

 

隣村の妻籠には、お前達の祖母さんの生まれたお家がありました。妻籠の祖父さんといふ人もまだ達者な時分で、父さん達たちをよろこんで迎へて呉れました。

 

(青空文庫 島崎藤村「ふるさと」※パブリックドメイン より)

 

 上の文章では藤村が子どもたちに向けた文章のため、孫から見た自身の母のことを指して「お祖母さん」と言っている。

 

 

 

 

 

2. 近代建築・産業遺産系

北海道(旭川、深川、妹背牛、函館)
  • 旭川

《旧旭川偕行社》

 旧陸軍第七師団の旭川設営に合わせて、明治35(1902)年に竣工した木造の疑洋風建築。

 すぐそばに、同じ明治時代の建造物「竹村病院六角堂」もあり。

 

 

 

《旧神居古潭駅舎》

 神居古潭駅は明治34(1901)年、北海道官設鉄道の簡易停車場(貫井停車場)として始まった。数年後に停車場へ、そして明治44(1911)年には一般駅に昇格して、貨物の取り扱いも開始される。

 平成元(1989)年に復元。

 

 

 

  • 深川

《プラザ深川》

 旧北海道拓殖銀行深川支店の建物。

 昭和12(1937)年ごろの建築で、北海道拓殖銀行は平成9(1997)年11月に経営破綻していた。現在は市民交流センター(プラザ深川)として、集会場やバスの待合室などに活用されている。

 

 

 

  • 妹背牛

《妹背牛郷土館》

 妹背牛村が深川村より分立したのが大正12(1923)年で、少し後の昭和6(1931)年に建てられた村役場。

 そして昭和60(1985)年、新しい庁舎ができたのをきっかけに建築当時の姿に復元され、郷土館となり開館している。

 

 

 

  • 函館

《青函連絡船記念館 摩周丸》

 昭和40(1965)年に建造され、昭和63(1988)年に終航した青函連絡船のうち1隻。この「摩周丸」は2代目だった。

 現在は記念館として公開され、青森にある八甲田丸と対になる存在。

 

 

《旧函館区公会堂》

 明治43(1910)年に竣工した、コロニアル様式の大規模な洋風木造建築。

 住民の集会場や商業会議所として建てられ、その後も講演会場、病院など役割は変遷する。昭和49(1974)年に国の重要文化財に指定され、昭和57(1982)年の復元後、一般に公開されるようになった。

 

 

《旧イギリス領事館》

 安政6(1859)年に領事館が設置されてから幾度かの火災による焼失を経験し、現在の場所に建物が再建された。今見られる建物は大正2(1913)年のもの。

 館内では「ティールーム ヴィクトリアンローズ」が営業中。

 

 

《北方民族博物館》

 日本銀行技師の平松浅一により設計された、日本銀行函館支店の「3代目」の建物を利用した資料館。大正15(1926)年竣工、古典様式のデザインが取り入れられ、昭和29(1954)年に増改築が行われている。

 館内に透明なガラスのドアノブが存在していた。

 

 

《函館市地域交流まちづくりセンター》

 大正12(1923)年に竣工した、旧丸井今井百貨店の建物を利用した施設。

 昭和5(1930)年には増築で5階建ての棟ができ、そこには日本の東北以北に設置された中で現存する最古の手動エレベーターがある。また、階段などの意匠にも見どころが多い。

 

 

《市立函館博物館郷土資料館》

 旧金森洋物店の建物を利用した資料館。

 もとは初代渡邉熊四郎が明治2(1869)年に開業した店で、船にまつわる道具や、輸入雑貨などを販売していた。

 

 

《金森赤レンガ倉庫》

 上の金森洋物店を開業した初代渡邉熊四郎が、明治20年(1887年)に営業倉庫業に着手。当時の海運需要の高まりに応え、多くの預かり荷物を受け入れてきた。

 現在あるのは明治40(1907)年の大火の後、明治42年(1909年)5月に再建されたもの。

 

 

青森県(青森市、五所川原)
  • 青森市

《メモリアルシップ八甲田丸》

 昭和39(1964)年7月31日に神戸で竣工した、青函連絡船の八甲田丸。その内部が博物館として公開されている。

 グリーン船室には乗船椅子の展示があり、寝台室、船長室、事務長室ほか、鉄道車両を搭載する空間も実際に歩きながら見学することができる。

 

 

  • 五所川原

《芦野公園駅舎》

 津軽鉄道線における金木の次の駅。

 昭和5(1930)年に竣工した木造の洋風駅舎が今でも使われており、太宰も小説「津軽」の中で言及した。喫茶店として営業中。

 

 

 

秋田県(秋田市、田沢湖)
  • 秋田市

《赤れんが郷土館》

 旧秋田銀行本店本館、明治45(1912)年に完成した建物で国の重要文化財に指定されている。1階部分は白い磁器タイル張り、2階は赤レンガの外観。円塔部分が良い。

 屋根や階段、壁の一部などには東北地方で産出された石材が多く使われている。

 

 

  • 田沢湖

《思い出の潟分校》

 旧田沢湖町立生保内小学校潟分校。潟分校が巡回授業所として創立したのは明治15(1882)年。現在みられる校舎の竣工は大正12(1923)年、そして、体育館は少し後の昭和2(1927)となっている。

 やがて昭和49(1974)年に廃校となった小学校校舎をそのまま保存・修復し、一般に公開。

 

 

山形県(山寺)
  • 山寺

《旧山寺ホテル》

 旧山寺ホテルはJR仙山線の開通にあわせて大正5(1916)年頃に建てられた旅館。平成19(2007)年の閉館まで、現役で営業していた。見学無料。

 市民ギャラリーや各種会場としても利用されている。

 

 

 

福島県(猪苗代)
  • 猪苗代

《天鏡閣》

 李白の詩句から名前を拝借し「天鏡閣」と名付けられた皇族の別荘。明治41(1908)年8月に竣工した。

 現在国の重要文化財に指定されている。 

 

 

茨城県(牛久)
  • 牛久

《牛久シャトー》

 神谷伝兵衛が東京・浅草で「みかはや銘酒店(現・神谷バー)」を開業し、かねてより計画していた醸造場を完成させたのが明治36(1903)年。

 旧醗酵室は「神谷伝兵衛記念館」として展示が行われており、地上2階から地階を無料で自由に見学することができる。

 

 

 

群馬県(渋川)
  • 渋川

《横手館》

 平成28(2016)年に国の登録有形文化財として認定された、大正時代の佇まいをほとんどそのまま残す木造旅館建築。実際に宿泊することのできる近代遺産でもある。

 明治44(1911)年から旅館営業していた建物が現在の姿になったきっかけは、大正9(1920)年の大火事。その後、東棟と西棟が順に完成した。どちらも総桧造り。

 

 

 

東京都(多数)
  • 葛飾区

《山本亭》

 合資会社山本工場を創立し、カメラの部品を製造していた山本栄之助という人物により建てられた邸宅。基本は大正時代末期の建築で、以前は台東区浅草にあったが関東大震災を期に柴又に移転した。

 大正15(1926)年から昭和8(1933)年頃に至るまで、都度新しい要素を取り入れて増改築を重ねた建物。

 

 

 

  • 港区

《旧公衆衛生院》

 昭和13(1938)年に竣工した鉄筋コンクリート造りの建物。

 設計はかつて東京大学(旧帝国大学)の総長を務めたこともある内田祥三で、東大本郷キャンパスに存在する大講堂、安田講堂も手掛けている。作品のうちいくつかは「内田ゴシック」の通称で呼ばれ、独自の様式の特徴を持っているのだった。

 

 

 

  • 目黒区

《百段階段》

 ホテル雅叙園の「百段階段」は昭和10(1935)年に完成した、敷地内に現存する中では最も古い唯一の木造建築。正式にはホテルの前身である「目黒雅叙園3号館」のことを指す。

 料亭の明朗会計を売りにした雅叙園は、細川力蔵とその相棒、酒井久五郎が築き上げた。

 

 

 

  • 新宿区

《小笠原伯爵邸》

 小笠原伯爵邸が竣工したのは昭和2(1927)年の頃。

 設計を行ったのは曾禰達蔵・中條精一郎の二者が経営していた「曾禰中條建築事務所」であり、大正14(1925)年9月時点の図面にもその名前が刻まれていた。彼らはかねてより長幹伯爵と親交があり、縁あって彼の邸宅を手掛けるに至った。

 

 

 

  • 文京区

《島薗家》

 島薗家住宅は昭和7(1932)年に竣工した個人邸。

 設計は一部が名古屋明治村に移築されている川崎銀行本店や、川崎貯蓄銀行福島出張所を手掛けた矢部又吉によるもので、彼は工手学校(現工学院大学)を卒業してからドイツでも学んだ人物。その影響もあり、島薗家住宅にはドイツ建築風の意匠も見ることができる。

 

 

 

  • 台東区

《岩田邸》

 東京・台東区上野、池之端の三段坂に面する岩田邸は、和館部分が明治末、洋館部分は大正9(1920)年の竣工と推定される個人宅。弁護士事務所、のちに富山から上京してきた学生や、学者の住まいとして使われてきた。

 改修工事後は洋館が持ち主ご家族の主な住まいとなり、和館の方をイベント等で活用していくとのこと。

 

 

 

  • 品川区

《島津家本邸》

 大正4(1915)年に竣工、その2年後の同6(1917)年に内装も含めて落成した、旧島津家本邸。現在の清泉女子大学本館。年に数回のツアーによって内部を見学できる。

 当時のお雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計。

 

 

 

神奈川県(横浜)
  • 横浜

《えの木てい》

 昭和2(1927)年の建物で、設計は建築家の朝香吉蔵。現在は洋菓子店兼カフェ。

 ちなみに彼は隣に立つ山手234番館の設計も手掛けており、ふたつの間に立って煙突側面を比べてみると、形が似ていて共通の雰囲気が感じられる。

 

 

 

千葉県(稲毛)
  • 稲毛

《千葉市ゆかりの家・いなげ》

 大正末期の完成と推測される、旧武見家住宅。

 旧武見家は昭和12(1937)年に、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟・溥傑が伴侶の浩とともに半年程暮らした場所としても有名。

 

 

《旧神谷伝兵衛稲毛別荘》

 シャトーカミヤを建造した神谷伝兵衛の別邸。

 コンクリート造りの建物は大正7(1918)年に竣工、関東大震災を経験しても倒壊しなかったことで、その丈夫さが際立つ。アール・ヌーヴォーやゼツェシオン(セセッション)の影響も受けている。

 

 

 

静岡県(伊東、熱海)
  • 伊東

《ハトヤホテル》

 昭和の前半、ハトヤホテルの起こりはニューアカオと少し似ていて、小さな旅館から始まったらしい。あるときハトヤの創業者がその建物を所有者から譲り受けたとか。

 当時の建物はもう違う場所に移築されているため、現在のハトヤホテルとはまた別になる。

 

 

 

《東海館》

 東海館は昭和3(1928)年、稲葉安太郎という人物によって創業された温泉旅館であった。彼は伊東の材木商。

 それもあってか、館内の各所に使われている木やその加工にはこだわりを感じられ、増築の際にはわざわざ各階の意匠を評判のよい棟梁へ依頼していたようだった。

 

 

 

  • 熱海

《起雲閣 喫茶室》

 過去に訪れていた起雲閣の再訪で、はじめて喫茶室に入った記録。

 内田信也の別邸として大正8(1919)年に竣工、その後、根津嘉一郎の手に渡ってから大幅な増築が行われた和洋折衷の館は昭和22(1947)年に旅館となり、太宰治や谷崎潤一郎など数々の文豪に愛された。

 

 

 

岐阜県(中津川)
  • 中津川

《但馬屋》

 馬籠宿における明治28年の大火のあと、同30年に再建された建物の旅館。

 入ってすぐに迎えられるのが囲炉裏のある場所で、受付の脇には昔の電話、奥の壁の方には振り子のついた時計も掛けられていた。

 

 

 

長野県(南木曽)
  • 南木曽

《桃介橋》

 大正10(1921)~11(1922)年の間に建造された、主塔部分が鉄筋コンクリート造りの木造吊橋。橋長は247.762mと、国内に現存する木橋のなかでもかなり大きなもので、老朽化によって使用取りやめ後の平成5(1993)年に復元された。

 近代化遺産として国の重要文化財に指定。

 

 

 

《福沢桃介記念館》

 大正8(1919)年に竣工した、福沢桃介の別荘。

 洋館の2階部分は、昭和35(1960)年4月に発生した火災により焼失。それゆえ現在は平成9(1997)年の復元後に整備された状態のものが一般公開されているが、基礎部分や1階部分はほとんど竣工当初から現役で使われていた頃のまま。

 

 

 

《山の歴史館》

 もとは明治33(1900)年に妻籠宿で建てられた木造建築で、当時は御料局(ごりょうきょく)妻籠出張所庁舎だった。

 御料局とは明治18(1885)年に宮内庁に設置された、皇室の領地を管轄するための部署のこと。のちに帝室林野管理局、また帝室林野局……と二度の改称を経て、現在では廃止されて存在していない。

 

 

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

 

 上の1と2の枠組みに当てはまらなかった目的地の記録も、そのうちどこかで。

 以上が2022年の旅行と散策の振り返り。

 

 2023年になると、当ブログは開設から5周年を迎える。

 今後も私は飽きるまで「ごく個人的な物語を追うための巡礼」を続けているはず。

 

 

 

 

 

深川駅のウロコダンゴ - 国鉄留萠線(留萌本線)の開通を記念し、大正2(1913)年から売られている和菓子|北海道一人旅・深川編

 

 

 

はてなブログ ユーザーのお題「おすすめしたいローカルグルメ・お菓子」

 

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 夏に北海道、雨竜郡の妹背牛町という場所へ行ったとき、神居古潭から向かうのにはバスの乗り換えが必要だったのでいちど降車した。特に一人旅だと、慣れない地域のバス移動はいつもよりずっと緊張する。常時そわそわしてしまう。

 次の便が来るまで約40分の待ち時間があった。

 そこが、現在JR函館本線と留萌本線の電車が停まる深川駅。

 私のように関東地方在住の人間にとって、地名の「深川」と聞いて思い浮かぶのは江戸の「本所深川」が筆頭だと思う。多分。しかし、もちろん国内の他の地域にも、北海道にもあるのだ。地名の由来には諸説あるが、いずれの説でもアイヌ語との関連性が見出せると考えられる場合が多いよう。

 

 

 しばらく時間をつぶすのに立ち寄った駅構内の物産館にて、出会ったのがこれ。

「深川名物ウロコダンゴ」……とある。

 初めて見たし、初めて聞いた名前だった。橙色と深緑色のグラデーション、そしてごん太で力強い筆致の文字の組み合わせが視覚的にかなり印象深い外箱で、まるで威勢のよい声で呼び込みをされている気分になる。遠くから何か聞こえてくる。

 ウロコダンゴ、ウロコダンゴだよ!

 だからなのか、つい棚の前で立ち止まってしまったし、最終的に買ってしまった。良いお土産になった。

 開封してみると、プラスチックのトレーに並び、真空パックに包まれた三角形のウロコダンゴが顔を出す。会計時に尋ねたところによると、この袋を剥がしたらそのまま食べられるらしい。表に貼られた紙のシールをめくると小さなフォークがついていた。なので、電車旅をする人などは、行き帰りの車内でおやつにすることもできそう。

 

 

 ウロコダンゴ本体はフチがギザギザしていて、とっ……ても肉厚。ボリュームがある。私が購入したものには白あん、抹茶、小豆と、味の異なる3種類が入っていた。

 おそるおそる、つつくと確かな粘性と弾力を感じる。想像していたよりも硬め。端っこからかじってみて、それから、もう一口。

 米粉と小麦粉と砂糖を練ったお団子の味には飾り気がなく、至って真っすぐで、それゆえ長く味わっていられる感じがした。例えるならプレーンのビスケットにも似ていて、とてもお茶に合う。高圧の蒸気で蒸される際に旨味のたぐいもしっかり閉じ込められているのか、甘さの方がごく控えめでも、深みがあるので意外と単純ではない。

 これぞ素朴なお菓子の強み、とでも言うべきだろうか、生活の中に常にあっても違和感がなく、機会を選ばずに楽しめる味と食感だった。

 製造元のサイトを見てみると、防腐剤や添加物は一切使っていないのだとか。私はお菓子におけるそれらに普段あまり頓着していないのだけれど、混ぜ物の少ない生の素材の美味しさというのは、間違いなくある。

 

 

 外箱を裏返し、公式webサイトも参照してこのお菓子の来歴を読んだ。どうやら、明治に開通した留萌(るもい)線がウロコダンゴの誕生する契機となったらしい。

 残念ながら赤字により、今後2023年から2026年にかけての段階的な廃線が決定している留萌本線だが、その始まりは明治43(1910)年の頃。現在の留萌本線と同じく、この深川駅を起点として、北西の果ての留萌まで鉄道が引かれていた。当時の漢字表記は「留萠線」。

 石炭と木材を大漁に積んで深川駅を出発し、港に到着した列車は、今度は留萌港の船から下ろされた鰊(にしん)を貨車に飲み込んで深川まで戻った。思い浮かべるだけで当時の隆盛が偲ばれる。労働者、商人、また市民の活気で賑わっていたのであろう港と鉄道の沿線……。

 

 

 

 

 深川という地でのウロコダンゴの誕生は、まさにそんな留萠線を寿ぐもの。大正2(1913)年から販売され、これまで100年以上の長きにわたり愛されてきた。

 名前の由来なのだが、当初は製造元である高橋商事の初代社長の出身地・新潟で売られていた銘菓「椿餅」にちなみ、この商品も「椿団子」にしようという話が持ち上がっていたのだとか。しかし、そこで懸念を表明したのが当時の深川駅長で、なんと名前を椿さんといった。「椿団子」では、まるで自分の名前を冠している風になってしまう……と心配する。

 名称を再考する際、この菓子の三角形と結びついたのが、貨物列車にこびり付いた大量の鰊の鱗(うろこ)だった。留萌線を象徴する魚の鰊、その鱗と同じ形をしている団子、そこから「ウロコダンゴ」の名が正式に採用された。

 

 現地の近代史に思いを馳せるのにはぴったりのお菓子だと思う。

 

 

 ちなみに近代つながりで、せっかく深川を訪れたのならぜひ見て帰ってほしい近代建築もあった。

 今は市民交流センター(プラザ深川)となっている、旧北海道拓殖銀行深川支店。拓殖銀行の愛称はたくぎん。昭和12年の建築で、駅から徒歩数分のところにある。神殿を思わせる柱が並んだ重厚な佇まいが特徴的。調べてみると、付近を通るバスを待つ場所としても使われているようだった。

 いずれまたこの辺りを通りかかったら、細長い「ウロコダンゴ羊羹」なるものも購入してみたい。

 

 

 

 

 

赤屋根の「駅舎」- かつて太宰治も訪れた鉄道駅の建物は現在レトロな喫茶店|青森県・五所川原市

 

 

 

 

 明治・大正・昭和初期に竣工し、時を経て令和の現在に残る建物をじっと眺めては、新旧で変わった部分と変わらない部分の両方へと意識を飛ばす。いつもの通りに。

 

 はてなブログ 今週のお題は「ビフォーアフター」

 なので、今回は「古い駅舎を使って営業している新しい喫茶店」を訪問した記録を投稿しておく。下の浅虫温泉宿泊記から続く、青森旅行の思い出の一端。

 

 

「世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さいに着いて……(後略)」

 

(太宰治「津軽」(2022) 新潮文庫 p.193) 

 

 津軽五所川原から津軽中里までは、乗用車以外の貴重な移動手段として、津軽鉄道線が走っている。その芦野公園の駅舎に、昭和5(1930)年開業当時から残る貴重な建物が今も使われているのだった。2014(平成26)年12月には、国の有形文化財にも登録されるに至る。

 昭和19年、執筆のために改めて自身の出身地(金木)に近いこの土地を訪れた太宰治も、後の作品「津軽」の中で芦野公園駅に言及していた。「東京・上野の駅員が青森の芦野公園駅を知らず、30分ほど調べさせた末、金木町長がようやく切符を買えた」という逸話の紹介とともに……。

 コンピューターがなかった時代は遠方の駅名を検索するのも一苦労である。

 赤い屋根の小さな建物は、牧場の小屋を思わせる腰折れ破風の屋根が帽子のようで愛らしかった。どこか将棋の駒にも似ていないだろうか。以前の駅舎から喫茶店へと機能を変えたその内部も、黒光りする木の素材と古い看板の手書き文字が温もりを醸し出す、素敵な佇まい。

 


 喫茶店のフードメニューで気になったのは、やはりカレー。当ブログの管理人はカレーがとっても好きなのだ。

 激馬かなぎカレー、ビーフカレー、カレーサンドなどがある中、せっかく津軽に来たので「スリスリりんごカレー」を注文した。文字通りにすりおろしたりんごが入っているもので、果実の風味や甘さがスパイスの海に違和感なく溶け込み、とても美味だった。他の人にも安心しておすすめできる味。

 ちなみにりんごカレーは「辛口」も選べるようす。通常のものはどちらかというと「まろやか」寄りだったので、より温まりたい・強い刺激が欲しい場合はそちらにしてみるといいのかも。辛いりんごカレーなんてもう、絶対美味しいだろうなぁ。お腹が空いてきた。

 それから、ブラックコーヒーによく合うのが「厚焼き卵サンド」。こういう卵部分がフィリングではなく、しっかり卵焼き状になっているサンドイッチは実は成人してから知った存在で、できたてでも冷めても問題なく食べられるのだと悟った。駅舎で提供されているサンドの卵焼きには、ほんのりマヨネーズの風味が添えられている。満足。

 

 

 食べ終わって建物の外に出ると、踏切の遮断機が下りる際の警告音が響いてきた。次に、鮮やかなオレンジと濃緑の車両がプラットフォームへ進入してくるのが見える。あっ、は、走れメロス号……!

 これは津軽鉄道、津軽21形気動車の愛称になる。決して運行本数の多くない列車、狙っていたわけではなく偶然にも目撃できたのが嬉しかったので、運命の邂逅ということにしておいた。別に、運命ではない。

 喫茶店「駅舎」では乗車券、各種切符を記念に購入したり、そのまま持ち帰ったりすることができる。

 帰宅してから切符を家の枕の下に設置し、カーテンを開けて眠れば、もしかしたら昔の駅と鉄道の夢を見られるかもしれない。けれど夢で乗車してしまうと戻れなくなってしまう可能性があるので、プラットフォームからは離れないのがきっと吉。黙って去るのを見送ろう。車窓から太宰の横顔が見えたら、記憶にだけ刻んで目を覚ましたい。

 

 

 

 

【宿泊記録】潮と湯の香る浅虫温泉、辰巳館 - 半宵に星の流れる音を聞く|青森県・青森市

 

 

 

 

 空に星が流れるとき、私には高くか細い金属的な音が聞こえる。

 例えるなら「サーッ」と「シューッ」の、中間のような響きで。

 

 それが単なる錯覚なのか、あるいは本当に自分の鼓膜を震わせている何かが存在するのか、真偽のほどは分からない。調べてみると、他にも「流星には音がある」と言っている人が複数いる。きちんと説明されている現象ではないので、視覚から認識したものに、頭の方が勝手に効果音をつけているのかもしれない、と一応普段は考えておくことにしている。

 けれど、実際に私は音を認識している。一体どういう性質のものであるのか、はともかくとして……。

 青森の陸奥湾に面した浅虫温泉でも、夜中に旅館の客室からベランダに出て、例の音を耳にした。そう、流星群でも何でもないような日に流れ星を見た。浴衣を着たままコートにくるまって、1時間程度外にとどまり、流れたのがふたつ。徐々に目が慣れてくると、幾段階にもなる暗闇の層が分かった。天空は星明かりでうっすらと灰色、海は重たく黒々としており、そこに浮かぶ「湯の島」は影になってもっと暗い。

 流れ星の次はエンジン音とともに、目の前の道路をまばゆく輝くデコトラが走り抜ける。あれも視点を変えれば流星の仲間に入れられるのではないだろうか。地上の星とは、デコトラのことだったのかもしれない。あまり戯言が過ぎると頭に星の破片が落ちてきそう。

 

 

 風景は日の出を迎えると別人のように、まるっきり変化した表情を見せる。空、海、湯ノ島……実際あるものは一緒なのに。光がなければ色も形も捉えられない人間の目は、太陽抜きでは本領を発揮できない。闇がどんなに好きでも思いは一方通行になる、必ず。

 夜でも朝でも変わらないのは蒸気と独特の匂いだった。旅館、客室の窓から首を出していると常に感じる、確かな温泉の存在。

 浅虫温泉は鉄道が開通した明治中期を過ぎてからの発展が顕著で、とりわけ大正時代には「東北の熱海」と呼ばれるまでになり、大いに栄えた。棟方志功、高浜虚子、太宰治など、ゆかりある著名人もこの周辺に生きていた人物が多い。

 令和の今はどうかというと、旅館街と呼ばれるエリアにかつての片鱗をわずか残している他は、静かなもの。宴会場に集う人々の影も、夜通し尽きることのない歓談の声も現在は時間の彼方にあって、どれほど沢山の客がこの場所を通り過ぎていったのだろうと道端で目を細めた。良いところだ。

 勿論ばらつきはあるだろうけれど、私が滞在していた年は、10月の末でも十分に暖かかった。

 

 

 浅虫温泉で泊まっていた旅館が、辰巳館。夕闇に輪郭を溶かす姿は、まるで海の生き物が住んでいるお城みたいだった。字の書かれた看板だけがあやしく魅力的に光って。

 また不思議と、払暁を迎えてから明るい場所で眺めてみても、同じようにそういう印象を抱く。要因は屋根の色だと思った。例えば私にとって赤銅寄りの赤や茶は、海と海辺の町を強く連想させる色彩で、一般に連想される青でも灰でもなかった。きっと水底にお城があるなら屋根はこの色に違いない。ちなみに、水中の深い場所へ行くほど、赤は視認しにくくなる。

 辰巳館新館の客室はすべてが海側に面していて、どの階からもきれいに湯ノ島が見えるようだった。玄関入って右手がロビー、直進すると大浴場、その手前で右に曲がれば各階に通じる階段とエスカレーターがある。

 ここは2階。畳の間の先にはきちんと「あのスペース(広縁)」があって、置かれている洋風の椅子と机も、何とも言えず空間に合致していたから満足度が高い。木製の家具の、飴のように透明感のあるツヤが昔から好きだった。

 

 

 

 

 

 暖房の完備された部屋は温風を控えめにしていても薄着で過ごせるくらい。窓のそばに行くと感じる冷たい微風は、広縁よりも内側に流れて来ないよう、重たいカーテンが遮りその場にとどめている。壁の方を見ると、懐中電灯のホルダーに添えられたレトロな赤い花の絵が可愛らしかった。

 個人的に、旅館に泊まる「らしさ」や「楽しみ」はこういうところに散らばっているものだといつも考えている。温泉地に到着し、荷物を置いたら、本格的なわくわくの時間が始まるのだ。

 客室には現代的な洗面所とお手洗いが備えられていた。歴史ある旅館だと水回りが共用である場合も少なくないが、辰巳館は内部を改装してあるので、そのあたりが気になる人も安心して泊まれる。

 それから畳の上の机。旅館の定番アイテムとして数えられる緑茶のティーバッグ、電気ポットと急須のほか、用意されていたお茶菓子は「めらしっ子」。浅虫銘菓とある。ウエハースの板にクリームが挟まれて層になったごくシンプルなお菓子、なのだが、これが意外なほどに美味しいのだった。硬めの歯ごたえ、控えめの甘さが大きな魅力かもしれない。

 

 

 夕飯は部屋食のプランにしていたので、時間になって仲居さんが膳を運んできてくれるのを大人しく待っていた。とはいえご飯前なのに、欲をかいてさっきのお菓子を食べながら。もちろんお酒も注文すると出してくれる。

  やはり海辺の温泉地、前面に押し出されているのは各種お刺身、焼き鮭、カニの足、ホタテのグラタン等々……。沢山の種類の魚貝類が少しずつ食べられて、それでも十分にお腹が一杯になりそうだが、さらにお肉のしゃぶしゃぶも茶碗蒸しもついてくる(食事内容は季節によって変わる)。普段は陸地でとれたものを個人的に好んで食べているので、久しぶりに味わった海の、しかも鮮度抜群の食材の味は、舌の根まで沁みわたった。

 なかでも印象に残ったのは、デザートのりんごゼリー。

 器で固められたその上にはカットされた果肉も添えられていて、それだけなのに美味しい。振り返れば浅虫温泉に辿り着くまで、場所によっては道路の脇に広大な果樹園が展開し、木に成ったりんごが紅の色彩で強く存在を主張していたのを思い出した。この林檎は果たしてどこのものだろう。青森県から産出されるりんごの種類は多い。旅館に泊まったのが10月の末だったから、収穫と販売の時期がそこに重なる品種であるはずだった。

 

 

 自動販売機ではJAアオレンのりんごソーダ「アップルシャワー」が買える。食事の後でも良いし、お風呂上がりに買って、ロビーや部屋で飲んでもいいんじゃないだろうか。

 大浴場はこぢんまりとしていて面積が広くはないので、団体と時間がかぶると少し混んでしまうかもしれない。その場合は出直した方がゆっくり入れると思う。岩で囲まれた浴槽のお湯にはほとんど色がなく、なめらかで、分類としては硫酸温泉になっているみたいだった。切り傷、冷え性、気鬱などに効果があるとか……。春に宿泊した、鉄の香りがする伊香保温泉のお湯とはまた印象が正反対で、比べてみるのも面白い。露天風呂もある。

 辰巳館は真夜中でも早朝でも、清掃が入るまでは好きな時間に入浴ができ、私は夜と朝で合計2回大浴場に行った。

 朝食会場は1階の大広間だった。ロビーの裏にある。

 

 

 白いご飯、お味噌汁、お豆腐など心安らぐラインナップの中、海沿いの地域ならではの品目が膳の左上……ホタテの貝殻の上で煮られている何かだと思う。実はこの料理の名前を覚えていないので「何か」としか説明しようがなく、ぐつぐつと泡立ってきたら、ここに仲居さんが卵を入れてくれることだけ記憶していた。これは結局、何だったのだろう(本当に料理名を覚えていられない)。

 食後にはコーヒーとチョコクッキーがロビーにて提供される。

 

 ところで浅虫温泉の地名は、もともと織物に用いる麻を温水の蒸気で蒸していたことから「麻蒸」とされ、読みはそのまま漢字を転じて現在のように「浅虫」となった……と各所で説明されていた。温泉自体は平安時代の頃から湧き出ていたようだが、別に当初から湯治場であったというわけではなかったのだな、と思う。

 前述したように、浅虫温泉の発展に貢献したのが鉄道の存在なので、それまでは外部から人間の訪れる機会が少なかっただろうと推測される。

 そういえば1階の朝食会場からも、例の印象的な湯ノ島が見えたのだった。

 なんとなく、旅館の方々がそれを指して単純に「島」と呼んでいたのを聞き、とても良さを感じた。うまく表現できないけれど、長年の友達を呼ぶみたいな言い回しと声音でシマと言うその温度に惹かれた。実際、この地域の人たちにとってはそういう存在だろう。朝でも夜でも嵐でも、いつもそこにあって、季節ごとに表情を変える隣人みたいなもの。

 

 

 

 

 

ひるまの電飾がたたえた光は不自然で妖しい|イングランド北部・リーズ (Leeds)

 

 

 

 数年前に行ったリーズは陽が翳っていたからか、なんとなく公平な感じがした。

 よそ者の私達を歓迎するともしないとも宣言せず、街を構成するすべてが、ただ普段着をまとって適度に整った髪型でそこにいる。建物も街路樹も少し素っ気ない。かといって、邪険にされているわけでもない。

 ヨークシャーから南へ帰る途中に寄ったので、あまり長くはいられなかったけれど、街のはずれの方に展開していたクリスマスマーケットで短い時間を遊んだ。晴れ間の見えない厚い雲は、さながら地上ではなく、頭上にある天空の方が雪に覆われているみたいだった。

 

 

 曇った空の下では、ものの姿が必要以上に強調されて、やけに「はっきり」と見える。色も形も。単純な光量の点では、雲が太陽を隠していない時よりも劣るはずなのに、ずっと明瞭に。とても不思議なことだった。暗闇とまた、全然違う。

 誤解を招くのを承知で言えば、よく見える、という意味においてのみ、たぶん鮮やかになるのだ。いろいろなものが。曇天それ自体に対して抱く印象とは、ほとんど反対に。

 だから曇りの日に外を出歩くのが苦手なのかもしれない。別段求めていないところまで、事物の表面が見え過ぎる点で。そんなに無粋な演出をしなくても良いではないか、と個人的には思ってしまう。少しは誇張でもしてみた方が、より美しくなったり、楽しくなったりする箇所も存在するのに。

 だって、そういう要素が何もなかったらつまらないもの。

 

 

 どこかシニカルな雰囲気をまとい、修飾を排した曇天の風景には「余地」がほとんどない。私は世界の側から一方的に何かを示されている、あるいは理を語られ、諭されているかのように感じてしまう。まるで、これこそが真実の光景なのだ、とでも言いたげに目の前にあるから。

 実際はそれも、この世のあらゆる事物が持っている、無数の側面のひとつにすぎないのだけれど。現実や本当、真実のたぐいは、決して唯一の状態には収束しない。

 そんな、周囲の物事を必要以上に等身大にし、何かを浮き彫りにする性質の曇天の下に、あえて移動遊園地とクリスマスマーケットを設置したら果たしてどうなるのだろうか。

 自分の身で体験してみて、それに対する個人的な答えを得た。随分と面白かった。案外、夜ではなくて、曇った昼間に訪れるのも一興かもしれないと、改めて真剣に考えるくらいには。

 

 

 ものを、ただそこに有るようにはっきり見せる曇りの日と、この手のアトラクションの相性は基本的によくない。曖昧な部分、その余地がなければ世界は広げにくいものだから。しかし相性がよくないおかげで、むしろ華やかさよりも、独特の妖しさが際立っていたのが意外だった。

 本来ならあるべきではないものがここに出現している、そんな奇妙さ。

 たとえば、暗闇の中にあると電飾の存在はかなり「正当」に見える。ふさわしい場所にあると思える。一方、白昼に灯された電飾はどこか唐突だ。周辺の環境や時刻、それらの文脈からあまりにも切り離された脈絡のなさ。旅の途中で黙々と荒野を歩き、ふと顔を上げたら、きらびやかな屋台が目の前にあった時のような違和感。

 そもそもクリスマスマーケットは特定の期間にしか街の中に出現しないもので、観測時期が限定されているのは生き物みたいだった。風物詩の桜とか、ホタルとか、渡り鳥にも似た。

 

 

 平べったい電子音と焼き菓子、グリューワインの匂いに誘われて、細い路地を抜けたら妖精の市。何の変哲もない建物に囲まれて、真っ昼間から営業している不思議なマーケットと小さな遊園地はまぎれもなく異界だった。繰り返して言うが、これが夜だったら大した違和感もない、ごくありふれた存在になる。

 でも昼間だから。しかも、曇り空の下に出ているから。

 そのあたりを歩いている人々に関しては人間だろうけれど、各店舗の店番はどうだろう。城壁や境界線を越えて、この時期だけこちら側にあらわれる何かなのかもしれない。人間に化けられる魔物も多い。

 ハーフ・パイントの量で売られているものも本当はビールではなく、身体の一部を別の動物に変化させる薬かもしれないし、ハンガーから下がっている沢山のプレッツエルは、単なるおやつではなく儀式に使う紐の結び目かもしれない。

 

 

 屋根に "suitable for all" と記載されている、メリーゴーラウンド。

 ご親切かつ意味深長な感じがする。

 人間でも、別に人間ではなくても、乗っていいよと言われている。

 

 

 

 

 

 

 

ぼんやり米粒の骨を思った - 末廣酒造と蔵喫茶「杏」|福島県・会津若松

 

 

 

 

 福島は会津若松。JR只見線の七日町駅から徒歩7分程度のところに、末廣酒造がある。

 その「嘉永蔵」を見学した。

 1850(嘉永3)年に創業したことから当時の年号を蔵の名前に冠し、同社の生産拠点が会津美里町の「博士蔵」に移ってからも、日本酒の種類や製造過程を解説してくれる施設として一般に開かれている。ショップもある。

 見学の際はまず中に入って、あらかじめ名簿に名前を書いておくと、1時間ごとに無料で案内してもらえるのだった。一通り解説を受けた最後には試飲もあるので、興味がある人は電車やバスなど、乗用車の運転を避ける形で訪れるのが良い。

 

 

 土間で靴から見学用のスリッパに履き替えたとき、会津の夕方の、冷たい空気をくるぶしから感じて心が躍った。

 なぜなら日本酒の醸造はだいたい12月頃、早いところだと11月頃など、寒い時期に始まるものだから。原料となる米の収穫が、少し前の秋に集中するのが理由の一端である。

 足を運んだ頃の嘉永蔵では例年よりも遅れていたようで、まだ本格的な仕込みは行われていなかったが、この空気の中で日本酒が醸造されるのだと思うと色々な想像が膨らむ。仕事をする蔵人の法被の背中、杜氏の白装束、扉を開けるとわずかに揺らぐ空気。いま頬を撫でているような、氷じみた風。

 嘉永蔵には仕込み水を採取するための5つの井戸があるという。澄んだ、凍てつくような水が、米と並ぶ醸造の要となる。

 振り返れば、旅行中に味わった会津若松の水は、単なる水道水も含めてとても美味しかった。これは、自分が普段暮らしている地域の平均的な水温と、水道の要となる住居の貯水槽、いずれもなんともいえないものなので尚更そう感じたような気がする。

 

 

 実際の酒蔵で、本醸造酒と吟醸酒、大吟醸酒の違いについてなど、きちんと解説を聞いたのは初めてだった。

 これらは製法の他、精米歩合……という「磨き」の割合で呼称が定められている。特に大吟醸酒ともなると、場合により、それが40%以下になることもあるのだとか。40%以下だと要するに、元の形から6割以上が削られている状態を意味する。

 そんな風に磨かれて、表面がどこまでも平滑になった米粒を見せられたとき、なんとなく何かの骨を連想した。

 円形で蓋がついた、ガラスのシャーレの底を覆うくらいの精白米。示されたサンプルは精米歩合が50%以下で、すっかり5割以上が削られた粒は小さく、最初は米であるというよりも乳白色の乾燥剤みたいに見えた。ほら、例のシリカゲル。お菓子の袋などに時々入っている「たべられません」の袋に包まれた粒。その次に、骨みたいだと思ったのだった。動物ではなく植物の。

 シャーレを持ち上げると反射的に不安を感じるほど軽く、同時に中の米粒は半透明で、とても綺麗だったのを憶えている。

 お米の粒……と聞いて一般的に想像される、わずかに波打った表面や、ほんのり黄みのかった色、一部が欠けた楕円。それらの特徴的な形が全て削り取られた、カボションカットの宝石みたいな精米の遺骨。興味深いものだった。

 考えてみれば過去の工場見学で見学した、ワイン醸造の際に除梗される葡萄の茎も、発想を転換すれば房を構成していた骨みたいだ。そして、ウイスキーの原料になる麦類の穂だって、ときどき魚の骨に似ているとぼんやり考える。外観が。

 

 そのあと試飲させてもらったものだと、梅酒の他は「山廃純米吟醸 末廣」が美味しかった。濃緑の瓶、黒いラベルに金の文字が目印の。これは2019(令和元)年に、G20大阪サミットの会食で提供され話題になった、飲む人を選ばない銘柄だった。

 振り返ると秋田で飲んだ「雪の茅舎 奥伝山廃」もとても良いと思ったので、もしかしたら単純に、山廃仕込みの日本酒は自分の好みなのかもしれない。櫂で蒸し米をつぶす作業工程(山卸)を廃止した、明治以降に考案された手法による清酒。

 つぶさずに、麹で米を溶かす。お米の骨が溶けていく。まどろむように。糖化のために温度が下げられ、より深い眠りにつく。

 元を辿れば、そういう場所からもたらされた液体を飲んでいる。自分たちは。

 

 

 嘉永蔵は、玄関を入って左手が酒蔵カフェ「杏」となっており、そこには酒蔵らしいメニューが色々あった。

 写真に写っているのは大吟醸シフォンケーキと、吟醸酒アイスクリーム、ブレンドコーヒーのセット。あれもこれも少しずつ食べてみたい人におすすめ。

 林檎ひと欠片と2種のクリームが添えられたふわふわのシフォンケーキも、なめらかなのに不思議な舌触りの残るアイスも、第一の感想は「初めて食べる味!」だった。口内をしばらく漂うような風味は確かに日本酒に似ているが、なかなか掴みどころがなくて面白く、日本酒を用いるとスイーツはこういう風にもなるのだなと感心する。

 仮にこれらの味が苦手でも、別の甘味や仕込み水を使ったコーヒーなど、日本酒要素の強すぎない選択肢もあるので、幅広い層の人が楽しめるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

山形日帰り一人旅(3) 夏は蒸し暑く、澄んだ緑色の山寺 - 宝珠山立石寺

 

 

 

 

 以下2記事の続き。

 

 

 喉元を過ぎてしまえば、どんな熱さでも簡単に忘れられる、と一般に言われている。実は本当にその通りで、たとえば12月上旬の時間軸に身を置いたまま、7月下旬の空気を鮮やかに想起しなさいと言われてもまず無理だから、尚更そう思う。

 記憶から呼び出せるのは、暑い、蒸す、息苦しい、などの記号化した感覚だけ。感覚そのものは蘇らない。どれほど本物に似ていたとしても。満腹時に空腹の感覚は分からないし、反対の空腹時にも、全く同じ現象が起こるのと同様に。

 山形県の宝珠山立石寺、通称「山寺」。これは蜃気楼みたいに細部が曖昧な姿をとり、過去の体験の主役ではなく背景として、自分の記憶に残っている。面白いことに、現地で邂逅した山寺の存在自体も、当時の私にとっては蜃気楼によく似たものだったと言える。

 訝しげに理由を問われれば、「見えているのに一向に辿り着けないところ」……だと返すほかない。文字通りに、そうだったから。

 

 

 山寺駅で仙山線の列車から降りると、プラットフォームから山が見える。目を凝らせば緑の下から露出する岩肌に紛れて屋根らしきものも確認でき、なるほどあの場所に行けばいいのかとすぐに判明はするが、辿り着くにはまあまあ骨を折る必要があった。

 山門から頂上までの階段の段数は、1000段を超える。

 ひとつを取り上げればなんということのない高さでも、急勾配に設けられた無数の階段を淡々と上り続けるだけで、驚くほど簡単に息が上がる。比例するように、足も重たくなっていく。加えて夏の暑さだ。

 7月の山寺の緑は美しい。

 大小、高低、多種多様な草木がひしめく参道で人間は葉陰の恩恵にあずかれるけれど、湿気だけは如何ともしがたいようで、人間はその海を泳ぐことになる。そういえば、魚を飼った水槽の中に人工の岩を飾る遊びがあるだろう。そんな風にして、縦長の高級な水槽に入れられた気持ち。違うのは、餌も空気もそれほど潤沢にはないという部分。

 

 

 せわしなく呼吸をする姿はそんな観賞魚というよりも、海から釣り上げられて、死に際まで口をぱくぱくさせる魚の方に似ているのかもしれない。想像するとかわいそうだ。魚は食べるけれど、別に魚のこと切れる瞬間なんて進んで見たくはない。

 実際に死にかけているのは魚ではなくて、石段を上っている自分なのだから、これ以上は考えなくてもいいはず。

 しかし余裕はない中でも色々な想像を巡らせつつ周囲を見回してみると、そこらじゅうに立てられている灯籠のような柱も水槽の飾りに思えてくるから不思議だった。こういうオブジェの置物、売っている。ペットショップにもホームセンターにも。

 そういうものの他には、途中で遭遇した弥陀洞(みだほら)が気になった。

 弥陀洞は風雨に削られた岩を利用して、約4.8mの阿弥陀如来の姿に見立てるものであり、その姿をきちんと認識できる人間には福が訪れるとされている。残念ながら私には岩そのものに見え、半立体に彫刻された小屋のような図とそこに刻まれた梵字、その他をただじっと眺めていた。これは楽しかった。

 

 

 

 

 頂上に至るまであんなに苦しく、しばらくは水も受け付けないくらいだったのに、もうすっかり忘れてしまった。服の袖が腕に張りつく感じも、どれほど日差しが疎ましかったのかも。毛糸の靴下で足を温め、マフラーで首を守っている、現在の季節になったら全部。

 そもそも何故いきなり、それも神奈川の田舎から弾丸の日帰りで、山寺に来ようと思ったのか。

 確か何かの評判を耳にしたからだと記憶している。悪縁を断つのに効果がある縁切り寺なのだと……。でもこれはまことしやかに囁かれているだけの噂であって、実際に寺の側からそのように標榜している事実は、特にない。一体どこから湧いて出た噂なのかは調べてみても分からなかった。

 1段ごとに煩悩が滅却されるという石段、それから悪縁切りに効果がある噂。当時の自分は具体的なものではなくて「なんとなく悪い縁が結ばれているなら祓いたいし、その結果また新しく良い事物や人間に邂逅できたらいい」と考えていたのでは。要するに出掛ける口実が欲しかったらしい。

 ともかく岩の上の開山堂と納経堂、立石寺の境内でも最も古い建物とほとんど同じ位置に立てたことには、骨を折って訪れた価値を大いに感じた。初めて山形県を観光したのも刺激になって、また新しく本を借りてこようと思った。

 

 

 下山する際に通った、松尾芭蕉の「おくのほそ道」にゆかりある「せみ塚」。句碑の近くに紫陽花が咲いていたのを振り返る。

 ここで耳にした会話がちょっと面白かったのだ。

 石段で数人が「松尾芭蕉ってさ、ツレがいたよな」「うん、いた。芭蕉のツレ……」と交わしていた会話。うぅん、それって河合曾良のことじゃない? 名前、本当の彼の名前をどうか思い出してあげてー、と念じたのが、わりと印象的だった。

 

 

 ちなみに、頂上にある郵便ポストからは、手紙が出せる。

 

 

 

 

旅は「いつか静かにまどろむ時のため」だと認識した瞬間

 

 

 

 たった1度でも構わない。

 しっかり目に焼き付けて胸にしまい込んだ風景は、その先、いつになっても好きな折に取り出して、鮮やかに眼前に展開できるようになる。映写機や、幻灯機みたいに。だから実際に存在していたものの鏡像が、想像ではなく確かな「現実」になったものとして、それらは私の所有になるのだった。

 本来は何人にも所有できるはずのないものを、得て、満足する。もう決して奪われず、失われないものが残り続ける。

 すると、安心して世界を閉じられるのだ。瞼を閉じるみたいにして。心をずっと開いたままにしておくことはできない。外にあるものを知るのと同じくらい、己の内側で黙々と思考を編むことが、大切だから。

 

 もしかしたら、それが旅行する動機なのかもしれない。

 と、気が付いた瞬間から明らかに、普段の遠出とそれに伴う意識には変化があった。確かに外に出ているけれど、外に出るために旅をするのではないと。

 変わったのは私自身と、私の意識と、私の視点。それゆえ結果的に「自分の人生に変化がもたらされた」ということはできるが、あまり好きな表現ではなく、また正確でもないと思う。人生、というものを主体から切り離して、全く別のものとして扱っているように聞こえるではないか……?

 あくまでも、変わったのは私だ。私自身の動き方。当然の帰結として、人生も変わった。大きく変わった瞬間があり、今もなお、刻々と変化し続けている。そう言ってみる方が正確だと感じられる。

 

 では、以前はどうだったのか。

 昔は旅行というと、単純に、行ってみたい場所に行って現地を楽しむだけだった。

 いつしかそこに、もっと複雑な心理が働いていると気が付いたのは、わりと最近のこと。その心理の話をしよう。

 

 少しでも「どこかへ行きたい」と考えてしまうと、実際に足を運んでみるまで、自分の魂はその場所に囚われ続ける。……伝わりにくいかもしれないが。対象には本当に存在する場所も、しない場所も、どちらなのだか判然としない場所もある。

 何にせよ「行ってみたい」と思ってしまった時点で意識はその空間に捕まってしまうので、完全に逃れるのは不可能だった。

 そして囚われた状態から抜け出そうと足掻いているとき、最も自由だと感じられる。自由の概念は幻想にすぎなくても。抜け出すというのは、そこに実際に行ってみること。そうして、想像と現実の差異を埋めたり埋めなかったりしながら、飛んでしまった魂の欠片を探すのだ。

 

 地図に載っていて、地球儀にも名が記され、一般に「ある」と認識されているからといって、それが本当に世界に存在している証左にはならないと幼い頃から感じていた。空に浮かぶ星みたいなものだ。星の光が地上に届くまでの距離が遠いほど、自分の目で捉えられるのは過去の像であり、実際にはもうそこに無いかもしれないのと同じ。

 まだ行ったことがない、自分で足を運んだことのない場所は、存在が怪しい。地図上の真っ黒な部分。文字通り、未踏の。たとえニュースを通してどれほど名前を耳にしていても、自分が足を踏み入れたことがないのなら、そこは「ある」と断言できない幻想の土地。

 だからこそ確かめてみたくなる。記され、描かれている事柄が、本当に存在するのかどうか。これが、旅行をする第1の動機のようだった。

 

 それから上に加えて、私は現地での体験を記録し、ずっとあとになってからでも「回想」によって積極的に反復したいのだと実感した。むしろ、そのために動いているといっても過言ではない。

 あとで回想をするために外に出る……というのは、要するにいちど触れたもの・見たこと・聞いたことを、どれほど未来になっても、好きな時にまた脳裏へ呼び出せるようにする行為の基礎部分。記憶(memory)が薄れても、記録(record)が消えない限りは細部を補足して、幻想のように喚起できる。映写機を動かせる。

 ただ、元より知らないものは目の前に顕現できないから、材料がいるのだ。色も、音も、味も、匂いも……1度は知らなければわからない。それが実際の体験により得られるから、体験としての旅行をする第2の動機が、この材料集め。

 

 考えてみれば、慣れ親しんでいない土地を訪れた記憶というのは整合性の代わりに奇妙な鮮烈さを持っていて、しかも、どれほど月日が経ってもそれを失わない。読んだことのない本のタイトルが、頭の中で勝手に物語を紡ぎ出すのと少し似ている。

 そんな風に、あらわれてはほとんど勝手に展開していく景色をどうにか留めておきたくて、記録を始めた。このブログに、最初の記事が投稿された瞬間から。当時は自覚がなかったけれど。

 色々な場所に足を運んで、回想の「材料」をたくさん集めたら、心を閉じて休む。そこには外に匹敵するくらい広大な「現実」の世界が広がっている。単なる夢想、幻想ではない。現実を基にして映し出された、きちんと骨組みのある人、物、風景。

 自分の心を外に開きたくて旅行に出る人も少なくないのだろうが、私はこうして、最後にはそっと小さな鍵をかけるために、旅行をする。

 

 いつか活発に動けなくなって、寝台で静かにまどろむ時のために。

 仮に四肢が動かなくなったとしても、心は好きな時に、胸の中に映し出した風景の、どこにでも行けるようにするために。

 内に引きこもるのにも材料が必要。静かな世界を構築してそこに留まるためには、いちど外に出て、世界はどんなもので溢れているのか知らなければならない。

 

 これを自覚した瞬間、私にとって旅行をする意味と、それによって常に軌跡を変える人生自体が、今までより張り合いと価値のあるものに変わったのではないだろうか?

 振り返るとそう思う。

 私はどうしても、何らかの理由や退屈をしのげる要素がないと生きていられない側の人間なので、実にありがたいことなのだった。

 

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はてなブログ 今週のお題「人生変わった瞬間」

 

 

 

 

 

【宿泊記録】街道を往く旅人の幻影と馬籠宿、但馬屋 - 囲炉裏がある明治30年築の建物|岐阜県・中津川市

 

 

 

 明治の中期頃まで「駅」という言葉は特に「宿場」を指し、鉄道の車両が停まる場所はだいたい「停車場」と表記されていた。所謂お雇い外国人が使っていたstationの語からステーションやステンショ、また、railroadの日本語訳から鉄道館などの呼称が生まれ、後の明治20~30年代を経て「停車場」の名前が最も一般的なものになった。

 つまり鉄道の車両が停車し、人や貨物が乗降する地点・施設は、まだその頃は現在のような感覚で「駅」とは呼ばれていない。

駅=街道の宿場、そして

停車場・鉄道館=鉄道の車両が停まる場所、

という意味になっていた。

 明治37年に発行された尋常小學讀本(通称:イエスシ読本)で「駅の名呼ぶ声。扉のあく音。」と「停車場」の様子が描写されてから、停車場の名称が駅、という呼び方でも使われるのだと徐々に人口に膾炙する。

 

 

 それでは、昔は「駅(宿駅)」と表記されていた街道沿いの「宿場」とは、どんな場所だったのだろう。

 以下の記事に妻籠宿の様子を書いている。

 人間や荷物ほか、郵便物などが目的地に辿り着くまで、現代よりもはるかに日数がかかった時代。途中で休まなければならない者たちに食事と寝床を与え、夜の闇から守り、さらにそれらを生業とする店舗が集まって形成され発展した街だった。

 

 

 上の妻籠宿は、中山道(木曾街道)における42番目の宿駅である。

 今回のブログ記事はその次、43番目の地点である馬籠宿へ向かい1泊した記録。「但馬屋」という宿屋に泊まってみたのだった。

 周囲が暗くなってから宿泊場所に到着する安心感は、口ではなかなか説明しにくいものがある。家から離れた場所でも、食べるものと寝床がきちんと保証されていること。街から街へ、己の脚力や馬たちを頼りに移動を続けた、かつての旅人の姿を思い浮かべた。そうして心を躍らせながら暖簾をくぐる。

 

 

 入ってすぐに迎えられるのが囲炉裏のある場所で、受付の脇には昔の電話、奥の壁の方には振り子のついた時計も掛けられていた。

 ここは明治28年の大火のあと、同30年に再建された建物。床板も柱も、壁も、うすく茶色い飴を刷いたみたいに艶があった。光っているのに、眩しいような感じがしない。不思議な落ち着きがある。日々の煙で燻され、加えて人の手で丁寧に磨かれ、そうして時代を重ねてきた故の深みなのだとこの日の道中で教えてもらったのを思い出す。

 満身創痍で、案内された部屋に荷物を置いて、確か……まずはお風呂に入ったのだった。入浴に関しては他の宿泊客との兼ね合いになり、現地で希望を選ぶ。とても良い木の香りがする浴槽があるのだが、入浴の制限時間が30分と短めのため、存分にゆっくり浸かりたければ急いで全身を泡だらけにする必要がある。でも安らげたし楽しかった。ここは宿で、自分たちは何も準備や片付けをしなくていいのだから。

 それから1階に下りて、晩ご飯を食べた。6時半くらいに。

 

 

 現地で採れたものが使われた料理がたくさん並んでいる。塩をつける山菜やきのこの天ぷら、魚、タケノコにレンコン等など。暑い夏場ではあったものの、ねぎの入った温かい汁も美味しく感じた。

 写真手前の右側にあるお豆腐が特に好きだった。あと、それが載せられている器の感じがかなり素敵で、持って帰りたくなった。ふちの茶色い部分がたまらない。

 建物の古さもあり、部屋から食事会場、お手洗い(館内で共用、とても清潔)、お風呂を行き来する際の階段の上り下りは慎重になる。実際に廊下には、できるだけ静かに歩いてほしいという旨の張り紙もあった。食事中もときどき聞こえてきた、ぎしぎしと軋む床の音が印象的で今でも耳に残っている。金属が軋むのとは違う、木がたわみこすれる音。

 それが部屋にいても結構な大きさで響くので、あるいは睡眠の妨げになるかと少し思ったけれど、そうでもなかった。理由の一つに、ここに来るまで相当な体力を使っていたため、あっという間に深い眠りに落ちたことが多分挙げられる。

 

 

 2階に、面積の小さな部屋がふたつ。荷物を置いたりくつろいだりするスペースと、寝るスペースに分かれていた。片方に鏡と浴衣と小さなちゃぶ台、くずかご、そしてテレビが。テレビは布団の敷かれた側の空間にある。前者でお茶を飲んで、眠るときには後者に移動する感じになるのだった。

 壁から外すと点灯する「常備灯」がたまらない。本体のオレンジ色がレトロ。ホテルではないけれどきちんと各種アメニティもついてくるので、荷物は少なくていい。

 窓からはその向かいにある木立が見えて、風に枝葉が揺れるのを朝にじっと眺めていると、その位置によって揺れ方が違うのに気が付いた。大きな風の流れに準じず、どこか不自然に揺れている枝には、もしかしたら鳥が止まって羽を休めていたのかもしれない。あるいは目に見えない何かが原因であったのかも。

 私は勝手にそういうものを「天狗の通り道」と呼んでいる。森の木をじっと見ていて、特定の1か所だけが、不自然に振動しているのを発見したときに……。

 

 

 次の日、起床してからの朝食。

 安心できる定番のラインナップが嬉しい。私は焼き魚と卵焼きと、あと梅干しがいちばん好きだった。どこに行っても梅干しは美味しい。ちなみに右側の目玉焼きに視線をやると、何か気になる部分がないだろうか。……そう、実はこれ、ハート型をしているのだった。心をこんな風に食べることができたらどんなに楽しいだろう。

 

 宿屋は旅人を泊め、そうしてまた次の旅路へと送り出すところ。

 前日にこの馬籠宿に到着したばかりだった私は、これから町の中をいろいろ見て回る。山間部の宿場町。喫茶店に入ってみたり、島崎藤村の文学館を見学したり。坂道で構成された高台の土地からは遠くに恵那山の稜線が望める。

 丸い編笠にしましまの羽織、諸国を旅して回る商人の装束が、しきりに視界にちらつく気がする。

 

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